黄泉小径 -ヨモツコミチ-

小曽根 委論(おぞね いろん)

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拾 天保七年

実行

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 母はおぼつかない足取りで私の隣まで近づき、ゆっくりと腰を下ろしました。

「ゆい」

 私の手を優しく握りながら、彼女は言ったのです。

「どうか、安太郎の良いようにさせておくれ。わたしはもう充分に生きた。わたしのことを気にする必要なんか、何もないんだよ」

「でも、このままじゃおっ母が可哀相すぎる」

「分かりなさい、ゆい。どの道、いつかあんたとは別れなければいけない日が来るんだから」

「だからって、こんな」

 こんな冷たい息子たちに棄てられて一生を終えるなんて。

 頭に浮かんだその言葉は、口には出せませんでした。

 母は、笑っていたのです。

「いつか、あんたも母になれば分かる事です。いいですね」

 その時悟りました。母は、とっくに覚悟を決めていたのだと。

 おそらく、相当以前からこの話は母と兄の間で交わされていたのでしょう。

 私はたまらなくなって、母の胸に顔を埋めて泣きました。何も出来ない自分の非力を呪ったものです。

 母は、そんな私を責めるでもなく、ただ黙って受け止めてくれました。

 少し気が落ち着いたところで、私は顔をあげました。

 視線の先で、彼女はやっぱり微笑んでくれています。私の母は、それは優しい母でした。

 それなのに。
 何故なんでしょう。このしらけた空気は。

 誰もはっきりと意思表示をする者はいませんでしたが、そこはやはり兄妹です。察せられない訳がありません。上の兄たちは皆、どこかうんざりしたような素振りであったのです。

「落ち着いたか、ゆい」

 唯一、一番下の兄だけが私を気遣ってくれました。私は、この人が長子だったら良かったのにと思わずにはいられませんでした。

 その夜、私は床に体を倒しながら思いました。

 母と過ごせる時間は残りわずか。

 出来るだけ大事にしたい。

 それは私にとって、とても自然な考えでした。おそらく明日以降は、いつ母を黄泉径に送っていくかを話し合うはずなので、私は少しでもその日が伸びるよう兄たちに働きかけるつもりでいました。

 ところが、翌朝私が目覚めると、すでに母の姿は家のどこにもなかったのです。

 私は驚いて、兄たちを問いただしました。

「ああ。おっ母なら、昨日兄貴が黄泉径に連れて行ったぜ」

 事も無げに答えたのは、二番目の兄でした。

「どうして」

「どうしても何も無いだろう。一日でも早くおっ母には居なくなってもらわないと、それだけ蓄えが減るじゃないか」

 血の繋がった息子の言葉とは思えませんでした。私は怒りに任せ、家を出ようと兄たちに背を向けました。

「待て。どこへ行く」

 すかさず、一番上の兄が聞いてきました。

「連れ戻しに行ってきます」

「駄目だ。おっ母はもう黄泉径に入った。もし後を追えば、お前も戻ってこれなくなる」

「そんなの、ただの決まり事でしょ。無視して連れて帰っちゃえばいいじゃないの」

「ゆい。連れ帰って、どうするんだ」

 私の言葉を横から遮ったのは、一番歳の近い兄でした。この人だけは味方だと思っていたので、私は愕然としながら彼を見ました。

「四郎兄さん」

「戻ってきたところで、おっ母に食わせてやれるものは、もうどこにもないんだ。それが分からないお前じゃないだろう」

 他の兄とは違い、彼は切実に訴えてきました。
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