黄泉小径 -ヨモツコミチ-

小曽根 委論(おぞね いろん)

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拾 天保七年

訣別

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 私の心が彼への殺意を明確にした次の刹那、地面からおぞましい数の腕が生えてきました。

「うわ、なんだこれ」

 兄は顔色を変えて後ずさりをしています。腕たちはありえない程に長く伸びると、彼の四肢を掴んで動きを封じました。

 別の腕が、彼の首に幾重にも巻き付きます。

「おい、やめさせろ。なんだこれは」

 哀れに裏返った声で兄は言います。私はそんな彼を見て、恍惚の表情を浮かべていました。



 楽しい。
 気持ちいい。
 世の中には、
 こんなにも素晴らしいものがあるのか。



 この時私は、完全におきつねさまの妖術の虜になっていました。

「次郎兄さん」

 私は、おそらくそれまでの人生の中で一度も見せたことのないであろう晴れやかな顔で兄を見ました。

 そして、宣告します。

「さよなら」

 きっと兄には、私自身がおきつねさまに見えたことでしょう。絶望に見開かれた目が私を捉え続けていました。

 しかし、彼の口からはもう言葉は出ませんでした。骨のへし折れる音が響くと、彼は動かなくなりました。

 腕たちは、兄の骸を好き放題に引きちぎると、戦利品と言わんばかりに各々その骨付きの肉片を手に取って地面に引っ込んでいきました。その際に噴き出した血も舐めずるようにして拭き取っていったので、辺りは何事もなかったかのように綺麗になりました。

 この様子を、私と一緒になって見ていた者がいました。

「ゆい」

 いつからそこにいたのかは私もよく分かりません。気が付いたらそこにいたのです。

 それは、四人の中で唯一私に優しくしてくれた、一番下の兄でした。

「お前、なんてことを」

 私はこの時、何も言ってはいませんでしたが、すぐに事情を理解したようでした。彼は血の引いた顔で私を凝視していました。

「せっかくおっ母がくれた命を、何だと思っているんだ」

 かすれた、精いっぱいの声が彼の口から漏れました。彼にとって目の前の光景は、これ以上ない絶望だったのかもしれません。しかし私は気持ちの高揚に身を任せており、彼の気持ちをおもんばかる事が出来ませんでした。

「いいじゃない。どうせ生かしておいても意味の無い男でしょう」

「お前にそれを決める権利があるのか」

 眉間に皺を寄せつつも、彼の瞳には泪が満ちていました。それを見て、ようやく私は少しだけ冷静になりました。

「そりゃあ、次郎兄貴もああいう人だから、お前が怒るのも良く分かる。だがな、そんなお前がやっている事は、その次郎兄貴以下の、下の下だぞ。おきつねさまとどういう契りを結んでそんな力を得たかは知らんが、お前は」

 下の兄は、そこで一度言葉を詰まらせました。右手で目を拭い、下を向いて気持ちを立て直そうとしています。

「なあ。お前は何がしたいんだ、ゆい。このまま、憎い兄たちを殺し尽くすのか。そんな事をして、一体だれが喜ぶんだ」

 持ち直した兄は、今度はまっすぐに私を見据えて言いました。

「俺たちを皆殺しにして、誰が家を継ぐんだよ。お前は女だし、第一そんな体になってしまったら現し世に戻ってこれないだろう。そうしたら、一家は滅んじまうだろうが。おっ母が最も恐れていた事を、おっ母を最も慕っていたお前がやっちまおうとしている、それにお前は気づいているのか、ゆい」

 私はこの時、まだ家を滅ぼすという発想はありませんでした。ただ、やって来た二番目の兄が憎かったから殺した、それだけです。

 しかし、それは私にとって、とても正しい考え方に聞こえてしまいました。

「滅ぼす。それもいいですね」

 良くしてもらった兄に対し、自分でも驚くような冷たい声が出ました。

「ゆい」

「だってそうでしょう。親も大事に出来ない家なんか、滅んでしまった方がいいですよ。どうせろくなもんじゃないんですから」

 下の兄の顔から、さらに血の気が引いていきます。彼のそういう顔を見るのはあまり心地よくはありませんでしたが、私も後には引けません。

「分かったら、お引き取りください。そして、せいぜいこちらには近づかないよう気をつけることですね」

 まだ借り物でしかないおきつねさまの力を完全に過信して、私は言いました。

 彼の顔には、絶望がありありと窺えました。そのまま踵を返します。

 が、それでも一度振り返ると「また来る」と言ってから去っていきました。顔はこちらを見ていませんでした。
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