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第23話「千冬の決断」
しおりを挟む強烈な光が消え去り、蒼はゆっくりと目を開いた。感情の鏡との接触で気を失っていたようだが、どれくらいの時間が経ったのだろう。彼は自分が儀式場の隅に横たわっていることに気づいた。周囲には崩れ落ちた柱や天井の破片が散らばっていた。厳勝の自爆装置は作動していたが、すぐには爆発せず、施設をゆっくりと崩壊させる仕組みだったようだ。
「無事だったのか、蒼。気絶してから約20分経っている」
振り向くと、風間が安堵の表情で彼を見ていた。風間の傍らには綾音が心配そうに立っている。二人とも埃と傷で汚れていたが、大きな怪我はないようだった。
「みんなは...?感情を取り戻した人たちは?」蒼は弱々しく尋ねた。
「ほとんどの人は避難させた」風間が答える。「厳勝の自爆装置が作動し始めたが、爆発ではなく施設を徐々に崩壊させるタイプのようだ。まだ完全に崩れてはいないが、時間の問題だろう」
蒼は体を起こし、周囲を見回した。崩れかけた天井から細い光が差し込み、埃が舞っている。儀式場の中央に目をやると、感情の鏡が僅かに光を放ちながら、そこに置かれていた。
「厳勝は?」蒼が尋ねる。
風間は沈痛な表情で顔を曇らせた。「鏡に触れた瞬間の光の爆発で...彼は消え去った。鏡の力を直接浴びてしまったようだ」
その言葉で蒼は理解した。彼自身も同じ光を浴びたが、轉魂の力が彼を守ったのかもしれない。彼は重い足取りで立ち上がり、感情の鏡に近づこうとした。
「まだ近づかない方がいいわ」綾音が警告した。「鏡は安定していないわ」
蒼は立ち止まり、ふと気づいた。「千冬は?さっきまでここにいたはずだが」
風間と綾音の表情が暗くなる。
「儀式が終わった直後、彼女は感情を取り戻した人々の避難を手伝っていた」風間が説明した。「だが、上階から零児と氷室財団の隊員たちが侵入してきた。千冬は私たちに避難者を守るよう言い、自ら零児と対峙した。だが...」
「彼女は零児に捕らえられたのよ」綾音が悲しげに続けた。「私たちが最後の避難者を外に出している間に」
蒼は胸に痛みを感じた。千冬が自分たちを守るために...
「私たちは戻ろうとしたけど、その時には通路が崩れかけていて...」綾音の声が震えた。
「そして私たちはお前を見つけた」風間が言葉を継いだ。「まずはお前を安全な場所に...」
風間が口を開きかけたとき、入口の方から足音が聞こえてきた。
三人が振り向くと、そこには零児が立っていた。彼の背後には数名の氷室財団の隊員たち。零児の姿は疲労と戦いの跡を残していたが、その目はまだ冷徹な光を宿していた。
「深宮蒼...よくやってくれたな」零児は皮肉交じりに言った。「感情を戻すという愚かな行為で、儀式を台無しにした」
「零児、もう終わりだ」蒼は冷静に言った。「感情の鏡を悪用することは許さない」
零児は薄く笑った。「終わり?いいや、これは始まりに過ぎん」
彼が手を上げると、隊員たちが室内に散らばり、感情の鏡を囲むように位置についた。それぞれが小さな装置を取り出し、床に設置し始める。
「何をする気だ?」風間が警戒の声を上げた。
「父の遺志を継ぐだけだ」零児は冷たく答えた。「感情の鏡の力を適切に...保管する」
蒼は零児の狙いを悟った。彼らは鏡を持ち出そうとしているのだ。蒼が阻止しようと一歩踏み出したとき、零児が腕を上げ、その手には小さなリモコンがあった。
「動くな」零児が命令した。「さもなければ...」
彼がリモコンのボタンを押すと、儀式場の奥にある扉が開いた。そこから二人の隊員が誰かを引きずるようにして入ってきた。
蒼の心臓が止まりそうになった。
「千冬!」
千冬は両腕を捕まれ、ひざまずかされていた。彼女の顔には打撲の跡があり、意識はあるものの、弱っているようだった。彼女の首には奇妙な装置が取り付けられていた。
「蒼...」千冬が弱々しく呼びかけた。
「何をした!」蒼は怒りに声を震わせた。
「安心しろ」零児は冷笑した。「まだ何もしていない。だが、この装置は彼女の首の動脈に針を突き立てている。私がボタンを押せば...」
蒼は歯ぎしりした。「卑怯な...」
「これが交渉というものだ」零児は平然と言った。「私たちに鏡の回収を許せば、彼女の命は助ける」
蒼は綾音と風間を見た。二人も怒りを抑えながら、状況を分析しているようだった。
「どうする、蒼?」零児が催促した。「時間がないぞ。この建物はもうすぐ完全に崩壊する」
蒼が決断を迫られているとき、千冬がゆっくりと顔を上げた。その目には、蒼が見たことのない強い意志が宿っていた。
「蒼、鏡を渡してはダメ」千冬の声は弱かったが、確固としていた。
「黙れ」零児が彼女を睨みつけた。
「蒼...私は...」千冬は言葉を続けようとしたが、隊員の一人が彼女の髪を掴み、黙らせようとした。
その瞬間だった。
千冬の体から突如として冷気が爆発的に放出された。彼女を捕まえていた隊員たちが悲鳴を上げて後ろに吹き飛ばされる。千冬の周囲の床は一瞬で凍りつき、彼女の体からは青白い霧が立ち昇っていた。
「何だと!?」零児が驚きの声を上げた。
千冬はゆっくりと立ち上がり、首の装置を手で掴んで引きちぎった。彼女の目は冷たく光り、呼吸のたびに白い息が見えた。
「私は...もう道具ではない」千冬の声は氷のように冷たく、同時に炎のように熱かった。
蒼は驚愕した。これが...千冬の本当の力なのか?
「馬鹿な...」零児が後ずさった。「お前の感情は完全に凍結されているはずだ!」
「確かに...私の感情は凍っていた」千冬は一歩ずつ零児に近づいた。「だが、氷は溶けるもの」
彼女の周りの冷気がさらに強まり、床を白く凍らせながら広がっていく。
「蒼との契約で...私は気づいた」千冬の目から一筋の涙が流れ、それが頬で凍りついた。「私の感情は失われたのではなく、私自身が封印していたのだと」
零児は焦りの色を隠せず、リモコンを操作しようとしたが、千冬の放つ冷気で腕が凍りつき、動かなくなった。
「千冬...」蒼は彼女の変化に言葉を失っていた。
千冬は立ち止まり、蒼の方を振り向いた。その表情には、これまで見せたことのない柔らかさがあった。
「蒼...あなたが私に教えてくれた」彼女の声が震えた。「感情は弱さではなく、力になることを」
その言葉が蒼の心に響いた。彼は決意を固め、千冬に向かって歩き出した。
「やめろ!」零児が叫んだ。「彼女に近づけば、全員吹き飛ばすぞ!」
彼は残りの手で別のリモコンを取り出した。おそらく爆発装置のトリガーだ。
蒼は一瞬躊躇ったが、千冬の目を見て決断した。彼は右手を伸ばし、轉魂の紋様を輝かせる。
「千冬、もう一度契約しよう」
千冬は微かに微笑み、蒼に手を伸ばした。「今度は...私の意志で」
二人の指先が触れ合った瞬間、金色と青白い光が混ざり合い、部屋中を明るく照らした。轉魂契約が成立する。
「契約条件は...?」蒼が尋ねた。
千冬は静かに答えた。「あなたと共に、この先も歩むこと」
その瞬間、蒼の中に千冬の感情が流れ込んできた。それは氷のように冷たく、同時に炎のように熱い感情の奔流だった。
家族との楽しい日々の記憶——彼らと笑い、彼らに抱きしめられ、愛されていた記憶。
氷室財団の実験で家族が次々と感情を失っていく恐怖と絶望。
自分も感情を失い、ただの道具となって生きる虚無感。
そして、蒼との出会いによって少しずつ芽生えていた希望と、新しい感情。
それらすべてが一気に蒼の中に流れ込み、彼は思わず膝をつきそうになった。感情の強さに圧倒されながらも、蒼は千冬の手をしっかりと握り締めた。
「許さん!」零児が叫び、爆発装置のボタンを押した。
しかし、室内では何も起こらなかった。
「何...?」零児が混乱する。
「これを探しているのか?」風間が零児の背後から声をかけた。彼の手には、隊員たちが設置していた装置が握られていた。「私も昔は工作のプロだったんでね」
零児の表情が怒りと恐怖で歪む。彼は最後の手段として、感情の鏡に飛びかかろうとした。
「させるか!」蒼と千冬が同時に叫んだ。
千冬の「感情凍結」の力と、蒼が轉魂で受け継いだその力が一体となり、零児の体を包み込む。零児の動きが徐々に遅くなり、やがて完全に止まった。彼の表情はショックと恐怖で固まっていた。
「二人の力が...共鳴した」綾音が驚きの声を上げた。
蒼と千冬の能力が結合することで、通常の「感情凍結」よりもはるかに強力な効果を生み出していたのだ。残りの隊員たちは恐れをなして逃げ出した。
「急いで」風間が促した。「建物の崩壊が加速している」
蒼は千冬の手を離さないまま、感情の鏡に近づいた。二人の力で鏡を守るように包み込み、それを持ち上げる。
「行こう」蒼が言った。
四人は急いで儀式場を出て、崩れかけの通路を駆け抜けた。頭上から岩や瓦礫が落ちてくる中、彼らは必死に地上への道を探る。
ようやく外の光が見えたとき、背後で大きな崩落音が響いた。彼らは最後の力を振り絞って駆け出し、建物から脱出した瞬間、財団の施設は完全に崩壊した。
安全な場所まで走り、四人は振り返って崩れた建物を見つめた。埃と煙が立ち上る中、彼らはようやく深呼吸をした。
「無事だったね...」綾音が安堵の声を漏らした。
蒼は千冬を見つめた。彼女の周りの冷気は収まり、普通の姿に戻っていた。しかし、その目は以前とは明らかに違っていた。そこには感情の輝きがあった。
「大丈夫か?」蒼が心配そうに尋ねた。
千冬はゆっくりと頷いた。「ええ...久しぶりに、自分自身を感じる」
彼女の声は震え、目に涙が浮かんでいた。感情の全てを一度に取り戻したショックで、彼女は混乱しているようだった。
「家族が...いたわ」千冬が小さな声で言った。「私には家族がいたの」
蒼は黙って彼女の肩に手を置いた。言葉は必要なかった。契約によって、彼は千冬の感情と記憶を共有していた。彼女の痛みも、喜びも、すべてを理解していた。
「千冬...」風間が真剣な表情で彼女に向き合った。「私の娘ほどの年齢だったな、お前が初めて施設に連れてこられたとき...」
千冬は風間を見つめ、やがて認識が目に浮かんだ。「あなたは...あの時の...」
風間は静かに頷いた。「私はあの頃、氷室財団の技術者だった。多くの悪事に加担してしまった...お前を救えなかったことも、私の罪だ」
千冬は長い間黙っていたが、やがて小さく首を振った。「いいえ...あなたは私たちに水や食べ物を...こっそり...」
風間の目に驚きが浮かんだ。「覚えていたのか...」
「体は覚えていました」千冬は静かに言った。「感情がなくても」
蒼は二人のやりとりを黙って見守っていた。過去の傷は簡単には癒えないだろう。しかし、今この瞬間、新たな一歩が踏み出されたことは確かだった。
「で、これからどうする?」綾音が蒼に尋ねた。「感情の鏡は手に入れたけど...」
蒼は手に持った鏡を見つめた。「次の魂器を探さなければ」
「しかし、鏡自体がまだ不安定だ」風間が指摘した。「完全に安定させるには、専門的な知識が必要だろう」
蒼は考え込んだ。「術者組合...父が所属していた組織なら、何か知っているかもしれない」
「術者組合か...」風間は思案するように言った。「確かにそれが最善だろう。だが、場所を知らんのだが...」
「私なら...知っているわ」千冬が静かに言った。三人が驚いて彼女を見つめる。「魂器回収機関の資料で見た。術者組合の『雲隠れの里』の位置を」
蒼は千冬の意志の強さに感動した。これほどの激変を経験しながらも、すでに次の一歩を考えている。
「千冬...本当に、来てくれるのか?」蒼が確認した。「もう氷室財団とは関係ない。自由なはずだ」
千冬は初めて、蒼に向けて柔らかく微笑んだ。その表情には、これまで見せたことのない温かさがあった。
「契約したでしょう?」彼女は静かに言った。「あなたと共に歩むこと...それが私の選んだ道」
蒼はその言葉に胸が熱くなるのを感じた。彼は千冬の手を取り、優しく握った。
「ありがとう...」
空を見上げると、夕暮れが近づいていた。遠くの街の灯りがぼんやりと見え始める。彼らの旅はまだ始まったばかり。七つの魂器のうち、手に入れたのはまだ二つ。未知の困難と戦いが待っていることは確かだった。
しかし今、蒼の心には確かな希望があった。かつての敵だった千冬が、今は最も信頼できる仲間になった。彼女の中に封印されていた感情が解放され、新たな力となった今、二人の絆はさらに強くなっていた。
「次は『時の砂時計』...」風間が遠くを見つめながら言った。「伝説によれば、時を操る不思議な魂器だという」
蒼は風間の言葉に頷きながら、千冬の手をしっかりと握り締めた。彼らの前には長い道のりが待っているが、もう一人きりではない。
蒼の右手の轉魂の紋様が、夕暮れの中で静かに輝いていた。
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