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第28話「術者の聖域」
しおりを挟む明け方の光が客舎の窓から差し込み、蒼の顔を優しく照らした。彼は一晩中、断片的な夢に悩まされていた。幼い頃の記憶らしきものが次々と現れては消え、彼の心に落ち着きを与えない。
蒼が起き上がると、隣の部屋から千冬と綾音の声が聞こえた。二人も既に目覚めているようだ。
「おはよう」蒼が声をかけると、千冬が振り返った。
「蒼、よく眠れた?」彼女の声には珍しい優しさが滲んでいた。
「ああ、まあ...」蒼は曖昧に答えた。実際は眠れなかったが、二人を心配させたくなかった。
三人が朝食を終えると、風鳴が迎えに来た。
「長老会が君たちを待っている」彼は静かに告げた。「特に、深宮蒼...多くの質問があるだろう」
蒼は黙って頷いた。確かに、彼の頭の中は疑問で一杯だった。父について、自分自身について、そしてこの里について。
風鳴に導かれて外に出ると、朝の里の景色が広がっていた。昨夜は暗くて詳しく見えなかったが、日中の里はさらに美しかった。伝統的な建物が山の斜面に沿って立ち並び、その間を縫うように小川が流れている。いたるところに魂術の痕跡があり、通りでは人々が日常的に魂術を使っていた。
水を運ぶ少年が手を翳すと、バケツの水が宙に浮かび、勝手に運ばれていく。老人が植物に向かって何かを呟くと、花が一気に咲き誇る。幼い子供たちは光の球を飛ばし合って遊んでいた。
「すごい...」千冬が感嘆の声を上げた。「魂術がこんなに日常的に...」
「ここは魂術使いの聖域」風鳴が説明した。「外の世界とは隔絶された場所。ここでは魂術は特別なものではなく、生活の一部なのだ」
蒼は道行く人々を見つめていた。皆が穏やかな表情で暮らしているように見えるが、彼らが自分たちを見ると、特に蒼を見ると、その表情が変わる。敬意、好奇心、そして...警戒。様々な感情が混ざった視線を感じた。
「なぜ皆、僕をそんな風に見るんだ?」蒼は風鳴に尋ねた。
風鳴は少し考えてから答えた。「深宮零王は...この里ではとても有名だった。彼の息子が帰ってきたというニュースは、既に里中に広まっている」
それだけではないようにも思えたが、蒼はそれ以上は問わなかった。
一行は大きな石段を上り、魂術院へと向かった。昨日と同じ道だったが、日中の光の中で見る里は全く違った印象を与えた。魂術院の巨大な建物は朝日を受けて輝き、まるで生きているかのように見えた。
到着すると、昨日と同じ案内人が彼らを出迎え、長老会議場へと導いた。議場内には七人の長老が既に着席しており、中央には鳳凰院玄示の姿があった。
「おはよう、若き旅人たち」玄示が静かな声で言った。「ゆっくり休めただろうか」
蒼たちが礼を述べると、玄示は手を打ち鳴らした。すると側室から若い術者たちが現れ、議場の中央に円卓と椅子を設置した。
「さあ、座りなさい」玄示が促した。「これから大切な話し合いをする」
蒼たちは案内された席に座った。円卓の周りには、七人の長老と、蒼たち三人、そして風鳴の席があった。
「まずは自己紹介を」玄示が言った。「私は鳳凰院玄示。現在の術者組合の長老会議長を務めている」
続いて他の長老たちが名乗った。柳の若葉のような優しい雰囲気の「碧川楓」、厳しい表情の「剣神一真」、古代の書物のように深い知識を持つ「書門文哉」、医術に長けるという「癒手椿」、そして双子の姉妹「月詠音羽」と「星詠鈴」。
名乗り終えると、玄示は蒼に向かって言った。「さて、深宮蒼。我々は君のことを知りたい。何故君は今、ここにいるのか」
蒼は少し緊張しながらも、これまでの旅の経緯を話し始めた。記憶を失っていたこと、綾音との出会い、老人との最初の魂契約、そして氷室財団や千冬との戦いと和解、二つの魂器の発見と入手について。彼は可能な限り詳細に、しかし要点を外さずに説明した。
長老たちは静かに、時に表情を変えながら彼の話に耳を傾けた。特に七大魂器の話になると、彼らの間で小さなざわめきが起こった。
「そして...僕は父について、自分自身について、そして魂術と魂器について知りたいと思い、ここに来ました」蒼は最後にそう付け加えた。
説明が終わると、議場は一瞬の静寂に包まれた。
「興味深い話だ」玄示がようやく口を開いた。「魂器を二つも手に入れるとは...そしてそれらを正しく使おうとしているとは」
「しかし」剣神一真が厳しい声で割り込んだ。「これらは全て彼の言葉に過ぎない。魂器を持っているという証拠はあるのか?」
蒼は軽く頷くと、持参した鞄から二つの魂器を取り出した。「感情の鏡」と「時の砂時計」——後者は砕けた状態で、砂だけが小さな袋に入っていた。
魂器を目の当たりにした長老たちの表情が変わった。特に書門文哉は身を乗り出して魂器を観察した。
「間違いない...」彼は驚きの表情で言った。「本物の魂器だ。しかも砂時計は...」
「時の砂の状態になっている」玄示が補足した。「これは非常に興味深い。砂時計は通常、砕けた状態では力を発揮できないはずだが...」
「砂の状態こそが本来の姿だと聞きました」蒼が説明した。「砂時計としての形は、ただの器に過ぎないと」
長老たちは再び視線を交わした。彼らの表情からは、蒼の知識に対する驚きが読み取れた。
「そして、君はこれらの魂器を使って何をしようとしているのかね?」碧川楓が優しく尋ねた。
「魂災を防ぎたいんです」蒼は真剣な表情で答えた。「氷室財団での出来事で、僕は小規模な魂災を目の当たりにしました。あれが世界規模で起きたら...」
剣神一真が冷笑した。「魂災を防ぐ?まるでお前の父親のようだな」
一真の言葉に、蒼は思わず身を乗り出した。「父について教えてください。彼は何をしようとしていたんですか?」
一真は答えようとしたが、玄示が手を上げて彼を制した。
「深宮零王...」玄示はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。「彼は我々の組合で最も優れた術者の一人だった。特に轉魂の力の研究においては、誰も及ばなかった」
「彼は二十年前、この里に現れた」楓が続けた。「既に高い魂術の才能を持っていたが、更なる力を求めてきたのだ」
「我々は彼に修行の場を与え、彼はめきめきと力をつけていった」玄示が説明を引き継いだ。「数年後には組合の中心的存在となり、特に魂器の研究に熱心だった」
「そして彼は...」一真が再び口を開いた。「魂災の研究も始めた。古来より恐れられてきた魂災を、完全に防ぐ方法があると主張し始めたのだ」
「どんな方法だったんですか?」蒼は食い入るように尋ねた。
「七大魂器の力を一つに集め、特殊な魂術を施すことで、魂災の根源を封じ込める...」文哉が答えた。「理論上は可能かもしれないが、あまりにも危険な方法だった」
「零王はその研究を進めるうち、次第に...」楓が言いかけたが、玄示が再び手を上げた。
「それは後ほど。まずは、蒼に我々の決定を伝えよう」
長老たちは互いに目配せをし、玄示が公式な声で宣言した。
「深宮蒼、そして君の仲間たち。術者組合は君たちの滞在を許可する。里での修行と学習を通じて、魂術と魂器についての知識を深めることを認める」
蒼の顔に喜びの表情が浮かんだ。
「しかし」一真が厳しい声で付け加えた。「君の父親のような道を辿らないことを条件とする。魂器の力を乱用したり、危険な研究に手を出したりしないこと」
「その通りだ」玄示も頷いた。「我々は君を見守り、必要なら導く。だが、君が危険な方向に進むなら、即座に介入する」
蒼は少し戸惑ったが、頷いた。「分かりました。僕は正しい道を見つけたいだけです」
「それでよい」玄示は穏やかに微笑んだ。「さて、今日から君たちの修行が始まる。蒼は轉魂の力を、千冬嬢は感情凍結の能力を、そして綾音嬢は...霊体としての特性を活かした修行をすることになる」
彼は風鳴に向かって頷き、「彼らの世話を頼む」と言った。
会議が終わり、蒼たちが退室しようとしたとき、楓が蒼に近づいてきた。
「少し話さないか?」彼女の声は優しく、目には温かな光があった。「私は...零王とは親しい友人だった。彼のことを知りたければ、いつでも私の所に来るといい」
蒼は感謝の意を表し、楓と別れた。
***
その日の午後から、蒼たちの修行が始まった。
風鳴の案内で、彼らはそれぞれの修行場へと向かった。蒼は「轉魂堂」と呼ばれる、魂術院の東側にある建物に案内された。そこでは数名の若い術者たちが既に修行をしていた。
「ここで君の轉魂の力を鍛えることになる」風鳴が説明した。「今日は基礎からだ」
蒼は基本的な魂術の原理から学び始めた。魂力の流れを感じ、それを自在に操る方法を学ぶ。彼の右手の轉魂の刻印が時折輝きを放ち、周囲の術者たちの注目を集めた。
一方、千冬は「氷結院」という別の建物で修行を始めた。彼女の「感情凍結」の能力は、実は広く知られた魂術の一種だと判明。その力を制御し、より効果的に使う方法を学ぶ。
綾音は「霊廟」と呼ばれる静かな場所で、霊体としての特性を活かした特別な訓練を受けることになった。彼女はほとんど実体を持たない状態で物体を動かしたり、情報を集めたりする方法を学んだ。
夕方になると、三人はそれぞれの修行を終え、客舎に戻った。疲れていたが、充実感もあった。
「どうだった?」千冬が蒼に尋ねた。
「面白かった」蒼は少し興奮した様子で答えた。「轉魂の力についてもっと深く理解できた気がする。千冬は?」
「私も...」彼女は少し遠慮がちだったが、目には明らかな喜びが浮かんでいた。「感情凍結の力が、もともとは自分を守るためのものだったって知ったわ」
綾音も訓練の内容を二人に伝えた。三人は互いの経験を分かち合いながら、夕食を楽しんだ。
食事の後、綾音は「もう少し里を見てくる」と言って外出した。彼女の霊体としての特性は夜にさらに強まるため、夜の修行もあるのだという。
客舎に蒼と千冬だけが残された。二人は縁側に座り、夜の里の景色を眺めていた。家々の窓から漏れる光が、まるで星のように山肌に点在している。
「美しいね」千冬が静かに言った。
「ああ」蒼も同意した。「まるで別世界だ」
彼らは暫く無言で夜景を眺めていたが、やがて千冬が口を開いた。
「蒼...今日の長老会での話、どう思った?」
蒼は少し考えてから答えた。「正直、混乱している。父が何をしようとしていたのか、なぜ警戒されているのか...」
「一部の長老は、あなたにかなり厳しかったわね」千冬は心配そうに言った。
「ああ...特に剣神一真は」蒼は苦笑した。「でも、碧川楓は優しかった。彼女なら、もっと父のことを教えてくれるかもしれない」
二人はまた沈黙に戻った。夜風が吹き、千冬が少し身震いした。
「寒い?」蒼が尋ねた。
「大丈夫...」千冬は言ったが、その声は少し震えていた。
蒼は迷わず、自分の着ていた外套を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「あ...」千冬は少し驚いたが、抵抗はしなかった。「ありがとう」
その瞬間、二人の視線が合った。月明かりに照らされた千冬の顔は、いつもの冷たさを失い、柔らかな表情をしていた。
「千冬...」蒼はためらいながらも、尋ねた。「ここに来て、感情が戻りつつあるけど...どう感じてる?」
千冬は少し考えた後、静かに答えた。「怖いわ...でも、同時に...嬉しい」
「怖い?」
「ええ」彼女は息を吐きながら言った。「これまで感情がなければ、傷つかなかった。でも今は...全てが鮮明に感じられる。喜びも、悲しみも、そして...」
彼女は言葉を詰まらせた。
「そして?」蒼は優しく促した。
千冬は蒼の目をまっすぐに見つめた。「他の人への...特別な感情も」
蒼の心臓が高鳴った。彼は千冬の言葉の意味を理解していた。彼自身も、彼女に対して特別な感情を抱き始めていることを自覚していた。
「僕も...」蒼は正直に答えた。「この旅で、君といろんなことを経験して...特別な存在になった」
千冬の頬がわずかに赤くなった。彼女はゆっくりと蒼に近づき、肩がわずかに触れ合う距離で止まった。
「ここにいると...安心する」彼女の声は囁くように小さかった。
蒼は優しく微笑み、彼女の手を取った。千冬の手は冷たかったが、その冷たさが心地よく感じられた。
「何があっても、一緒に乗り越えよう」蒼は真剣な表情で言った。「僕たちは仲間だから」
「仲間...」千冬はその言葉を反芻し、微笑んだ。「ええ、そうね」
二人はそのまま寄り添いながら、夜空を見上げた。満天の星が里を見下ろしている。どこかで、父の姿を探すように。
***
深夜、里の最も奥にある建物で、長老たちの密会が行われていた。
「あの少年を信用していいのか?」剣神一真が険しい表情で言った。「あれは間違いなく零王の血を引いている。その刻印の形を見れば分かるだろう」
「そうだが、彼はまだ何も知らない」碧川楓が反論した。「彼を敵視する必要はない」
「楓、お前はいつも零王に甘かった」一真は苛立ちを隠さなかった。「だからこそ、あの時...」
「やめろ、一真」玄示が静かに言った。「過去を蒸し返しても仕方ない」
「だが、議長」書門文哉が不安そうに言った。「彼が二つの魂器を持っている事実は重い。そして、その使い方を理解している...」
玄示は静かに頷いた。「確かに懸念はある。だが、彼を監視しながら導くことこそが、我々の役目だ」
「もし彼が父親のように...」
「その時は、適切に対処する」玄示は断固として言った。「今は彼に学ぶ機会を与えよう」
長老たちは互いに視線を交わした。彼らの間には深い緊張感があったが、最終的には玄示の決断に従うことを了承した。
「彼の学びを見守ろう」玄示は会議を締めくくった。「そして...時が来れば、真実を告げる時も来るだろう」
会議室の闇の中で、七人の長老たちの表情は複雑に影を落としていた。
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