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第5話「言葉を交わす者たち」
しおりを挟む三日が過ぎた。レインは村での仕事と竜の看病を両立させるため、早朝から夜遅くまで忙しく動き回っていた。幸い、村人たちは「隕石」の一件に興味を失いつつあり、彼の不審な行動にも特に疑問を抱いていないようだった。
朝、レインはいつものように水と食料を持って納屋へと向かった。竜の傷は少しずつ回復しており、特に薬草の軟膏が効いているようだった。鱗も元の輝きを取り戻しつつある。
「おはよう」レインは微笑みながら、大きな肉の塊を竜の前に置いた。彼が村の狩人から「研究用」と称して買ったものだ。「調子はどうだ?」
竜は小さく鳴き、肉に顔を近づけた。最初の日は食欲がなかったが、二日目からは驚くほどの量を食べるようになっていた。
「良くなってるみたいだな」
レインは傷の状態を確認するため、包帯を外し始めた。胸部の深い傷は驚くべき速さで塞がりつつあり、折れていた翼も徐々に形を取り戻していた。
「君たち竜は回復力が高いんだな」
作業を続けながら、レインは竜に話しかけ続けた。もちろん返事は期待していなかったが、この三日間、彼は竜に様々なことを語りかけていた。自分の過去、勇者としての日々、なぜ田舎に引退したのか…。話すことで自分自身の心も整理されるような気がしていた。
「新しい包帯を巻くよ」
レインが傷口に触れたとき、竜が小さく震えた。痛みがあるのだろう。
「すまない、もう少しだけ我慢してくれ」
「…痛い」
静かな、しかし確かな声。レインは凍りついた。
「今…何か言ったか?」
レインは周囲を見回した。誰もいない。幻聴だろうか。
「痛いと言ったのだ」
今度ははっきりと聞こえた。声は竜から出ていた。レインは信じられない思いで竜の顔を見つめた。
「君が…話した?」
竜は黄金の瞳でレインをじっと見返した。
「もちろんだ。ただ、話す気がなかっただけだ」
女性のような、しかし人間離れした響きを持つ声。レインは手にしていた包帯を取り落とし、数歩後ずさった。
「驚かせるつもりはなかった」竜は言った。「もう少し回復してから明かそうと思っていたのだが…」
「竜が話す…」レインは呆然と呟いた。「伝説には語り手の竜がいるという話もあったが、まさか本当だったとは」
「全ての竜が話せるわけではない」竜は少し高慢な口調で言った。「私は高位の種族、魔竜の血を引いている」
レインは徐々に心を落ち着かせ、竜に近づいた。
「名前はあるのか?」
「フィリア」竜は答えた。「お前は勇者レイン。話を聞いていたよ」
「そうか…全て聞いていたのか」レインは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。「なぜ今まで黙っていた?」
フィリアは小さくため息をついた。竜のため息は思ったより人間に似ていた。
「人間を信用していなかったからだ。それに、傷が深すぎて話す余裕もなかった」
フィリアの声には、強さの中に僅かな脆さが混じっていた。レインはそれを聞き逃さなかった。
「それでも、私を助けてくれた。なぜだ?」フィリアが尋ねた。
レインは少し考えてから答えた。
「君の目に、知性と悲しみを見たからだ。そして…もう殺したくなかった」
フィリアは黙ってレインを見つめていた。彼の答えを吟味しているようだった。
「お前は変わった人間だ、勇者レイン」
「今は勇者ではない。ただの農夫だ」
「農夫…」フィリアは不思議そうに言葉を反芻した。「なぜ強き者が、そのような弱き生き方を?」
「強さと弱さは、剣を振るえるかどうかでは測れないんだ」レインは優しく微笑んだ。「さて、フィリア。君はどこから来て、なぜここに墜落したんだ?」
フィリアは少し躊躇ったが、やがて話し始めた。
「私は東の山脈の向こう、〈霧の谷〉で生まれた。そこには少数の竜族が隠れ住んでいる。しかし…」
フィリアの声が沈んだ。
「私たちの隠れ家は竜狩りに発見された。彼らは高位の竜の角や鱗を狙う者たち。私は逃れたが、追われ…激しい戦いの末、力尽きてこの地に落ちた」
「竜狩り…」レインは眉をひそめた。「彼らはまだこの辺りにいるのか?」
「分からない。だが、私の姿を見られれば、必ず追ってくるだろう」
レインは思案に暮れた。竜の存在は村に知られれば大騒ぎになる。かといって、フィリアをこのまま納屋に隠し続けるわけにもいかない。
「人間に化けることはできないのか?」レインはふと思いついて尋ねた。「伝説では、高位の竜は姿を変えられると…」
フィリアは少し驚いたように目を見開いた。
「お前は多くを知っている…」彼女は慎重に言葉を選んだ。「できなくはない。だが、今の状態では…」
「無理をする必要はない」レインは急いで言った。「もっと回復してからでいい」
フィリアは少し考え込んだ様子だった。そして突然、決意したように言った。
「見せよう。私の力が戻りつつある証拠として」
言うなり、フィリアの体が淡い光に包まれ始めた。その光は次第に強くなり、レインは目を細めるほどだった。光の中でフィリアの姿が収縮し、変形していくのがうっすらと見えた。
光が消えたとき、そこには一人の若い女性が立っていた。
長い青紫色の髪、白い肌、そして黄金色の瞳。人間の少女のようでありながら、額には小さな角の痕跡があり、頬や首筋には繊細な鱗の模様が残っていた。彼女は竜だった時と同じ傷を持ち、立っているのもやっとという様子だった。
レインは言葉を失った。フィリアの人間の姿は、神秘的で、言いようのない美しさを持っていた。
「これで…満足か?」フィリアは弱々しく言うと、膝から崩れ落ちそうになった。
レインは急いで彼女を支えた。
「無理をするな!」
「大丈夫…慣れていないだけだ」
フィリアはレインの腕の中で小さく震えていた。体温は人間より高く、肌に触れると僅かに鱗の感触がした。
「元の姿に戻れ。まだ体力が足りないんだ」
「いや…このままで…」フィリアは固執した。「このように見える方が、お前たち人間には受け入れやすいだろう?」
その言葉には苦々しさと諦めが混じっていた。レインは彼女の顔をじっと見つめた。
「私は竜の姿のままでも受け入れるよ。でも、確かに村の人たちにはこの姿の方が衝撃は少ないかもしれない」
フィリアはやっと顔を上げた。彼女の黄金の瞳には、警戒と好奇心、そして孤独が混在していた。
「お前は…本当に変わった人間だ」
「よく言われるよ」レインは笑った。「さあ、座って。もう一度傷を見せてくれ」
フィリアは素直に応じた。人の姿になっても、胸の傷は深く残っていた。レインは慎重に新しい包帯を巻き始めた。
「痛かったら言ってくれ」
「平気だ…竜は痛みに強い」
その言葉とは裏腹に、フィリアの表情には痛みが浮かんでいた。彼女は強がっているのだ。レインはそっと微笑み、できるだけ優しく包帯を巻いた。
「お前は…なぜそこまで親切にする?」フィリアは突然尋ねた。「人間は竜を恐れ、憎むものだろう?」
レインは包帯を巻きながら答えた。
「確かに伝説では竜は恐ろしい存在だ。だが、私は伝説より目の前の現実を信じたい。君が話し、考え、感じる存在だということが分かった今、君を怖れる理由はない」
フィリアは黙ってレインの作業を見つめていた。彼女の高慢な態度の下には、長い間人間に裏切られ、傷つけられてきた心の傷が隠されているようだった。
「終わったよ」レインは包帯を結び、フィリアに毛布を差し出した。「これで暖かくして」
フィリアは少しぎこちなく毛布を受け取った。竜だった彼女にとって、人間の生活の細々とした動作は慣れないものだったのだろう。
「お腹は空いてる?人間の食べ物は口に合うか分からないけど…」
「…肉があれば」フィリアは少し恥ずかしそうに言った。
レインは笑って、残りの肉の塊を彼女に渡した。フィリアは最初躊躇ったが、すぐに本来の竜の食欲を見せ始めた。その姿は小さな人間の体と不釣り合いで、レインは思わず笑みを漏らした。
「何がおかしい?」フィリアは口に肉を詰めたまま尋ねた。
「いや、何でもない」レインは首を振った。「食べ方が…可愛いと思っただけだ」
「可愛い?」フィリアは眉をひそめた。「魔竜を可愛いと言うとは、お前は本当に無謀だな」
彼女の言葉には怒りではなく、どこか照れたような調子があった。レインはより大きな笑みを浮かべた。
「ところで、フィリア。回復したら、どうするつもりだ?」
フィリアは食べるのを一瞬止め、考え込んだ。
「分からない…」彼女は率直に認めた。「霧の谷に戻るには、まだ力が足りない。そして竜狩りがいる限り…」
「ここにいてもいいんだぞ」レインは素直に言った。「私の小屋は狭いが、納屋ならもう少し広い。人間の姿なら、村人にも説明できる」
「ここに?人間の村に?」フィリアは驚きと警戒の混じった目でレインを見た。
「そう。もちろん、君が望むなら」
フィリアは長い間黙っていた。彼女の心の中で、長年の人間への不信と、このひとりの不思議な元勇者に対する微かな信頼が葛藤しているようだった。
「…考えておく」彼女はついにそう言った。
レインはそれ以上追及しなかった。強いて答えを求めれば、彼女を追い詰めるだけだ。信頼は少しずつ育むものだということを、彼は知っていた。
「そうだな。ゆっくり考えるといい」
二人は夕暮れまで話し続けた。フィリアは竜の世界について、レインは人間の社会について。異なる種族の二人は、互いの世界を少しずつ理解し始めていた。
フィリアの口調は時に高慢で、時に攻撃的だったが、レインはその裏に隠された孤独と警戒心を感じ取っていた。彼女は長い間、人間に追われる生活を送ってきたのだ。そして今、初めて人間と対等に言葉を交わしている。
「もう遅いな」レインは立ち上がりながら言った。「村に戻らないと、怪しまれる」
フィリアは小さく頷いた。
「明日も来るのか?」
その問いには、強がりの下に微かな不安が隠されていた。
「もちろん」レインは微笑んだ。「毎日来るよ。それに…」
「何だ?」
「明日は食事の作り方を教えよう。人間の姿でいるなら、人間のように食べることも必要だろう?」
フィリアは少し驚いたように瞬きをした。そして、初めて小さな笑みを浮かべた。
「分かった…教えてくれ」
「おやすみ、フィリア」
「…おやすみ」
彼女の声は小さかったが、確かにそこにあった。レインは納屋を出る前に振り返り、小さくなったフィリアの姿を見た。彼女は毛布にくるまり、人間の体に慣れようとしている。その姿には、威厳ある竜の面影と、不思議な愛らしさが同居していた。
レインは静かに納屋の扉を閉め、星空の下で深呼吸をした。今日から、彼の生活は大きく変わるだろう。しかし、不思議とそれを恐れる気持ちはなかった。むしろ、新たな冒険の始まりに心が躍るのを感じていた。
異種族との交流。それは勇者時代にも経験したことのない、全く新しい冒険だった。
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