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第二話「祖母の遺言」
しおりを挟む黒装束の影が屋敷を包み込む。
月詠は息を殺し、床の間の隠し戸棚に身を潜めていた。祖母の警告は的中した。「闇陰流」が来たのだ。
外からは忍び足の音と、物を探る気配が聞こえる。月詠は胸に「銀鶴」の人形と「魂結び」の書を抱き締めていた。この二つだけは、どんなことがあっても手放せない。祖母の最期の言葉がそうだった。
「ここにはいないようだな」
「逃げたのか。村人の話では、老婆が死んでから一人で暮らしていたはずだが」
「屋敷中を探せ。操霊師の血を持つ娘を見つけ出せ」
低い声が交わされる。月詠は震える手を口に当て、息遣いを最小限に抑えた。隠し戸棚は祖母が用意していたもので、外からは決して見つからない仕掛けになっていた。だが、いつまでここに隠れていられるだろう。
時が永遠に感じられる緊張の中、ついに足音が遠ざかっていく。
「他の場所を探れ。山を下りた可能性もある」
闇陰流の忍びたちが立ち去ったことを確認するまで、月詠はさらに半刻ほど動かなかった。ようやく隠し戸棚から這い出た時、彼女の足は痺れて立つこともままならなかった。
月の光だけが照らす部屋を見回すと、祖母の形見の品々が無造作に散らばっていた。大切な人形道具も床に投げ出されている。月詠は涙をこらえながら、必要最低限の道具を集め始めた。もはやここに留まることはできない。祖母の言葉通り、都へ向かうしかなかった。
「おばあちゃん…どうすればいいの」
弱気な言葉が漏れた瞬間、胸に抱いた銀鶴の人形が、わずかに温かくなったような気がした。月詠は驚いて人形を見つめたが、それは相変わらず無表情のままだった。幻覚だったのだろうか。
---
夜明け前、月詠は最小限の荷物をまとめ、生まれ育った家を後にした。村人たちには何も告げることができなかった。別れの言葉を交わす余裕はなく、また彼らを危険に巻き込みたくもなかった。
山道を下りる途中、振り返ると、朝靄の中に小さく見える自分の家に、最後の別れを告げた。
「きっと戻ってくるから」
その言葉が風に溶けていく。
月詠は都への道程を確認していた。祖母から聞いていた話では、山を下り、川沿いの道を三日ほど進めば城下町に着く。そこからさらに二日ほどで月影国の都に到着するという。道中の危険も考え、月詠は男装して旅をすることにした。髪を短く結い、質素な袴姿に身を包み、誰にも怪しまれないよう気をつけた。
一日目の旅は無事に過ぎた。月詠は川沿いの小さな茶屋で一夜を明かすことにした。旅人で賑わう茶屋の隅で、月詠は「魂結び」の書を少しずつ読み進めていた。
「操霊師の血を持つ者は、自らの魂の糸を人形に結ぶことで、人形に命を吹き込むことができる」
書には、そう記されていた。魂の糸—それは目に見えない、しかし確かに存在する命の繋がり。月詠は自分の作る人形に感じていた不思議な感覚が、この「魂の糸」だったのかもしれないと気づいた。
「しかし、最も強力な術は『血の契約』。操霊師の血が人形に触れることで、封じられた魂を解放し、人形に宿らせることができる」
月詠は息を呑んだ。祖母が言っていた「人形が語りかける時」とは、この血の契約を意味していたのかもしれない。しかし、そのような強い術を自分が使いこなせるとは思えなかった。
夜が更けていく中、月詠は「銀鶴」の人形を袂から取り出した。月光に照らされた人形の顔は、穏やかでありながらも凛とした表情に見えた。
「あなたは本当に伝説の英傑なの?なぜ私なんかに…」
言葉を紡ぎながら、月詠は人形の精巧な作りに改めて感嘆した。通常の雛人形より遥かに複雑な関節を持ち、手足を自由に動かせるように作られている。祖母はかつて「操り人形」と呼んでいた。魂を宿した後、自在に動かすための人形だという。
「私はまだ何もわからない。でも、おばあちゃんの言葉を信じて都に行くわ」
月詠は人形を大切に布で包み、再び袂に仕舞った。明日はさらに長い道のりが待っている。
---
旅の二日目、月詠は川沿いの道を黙々と歩いていた。見知らぬ土地での不安と緊張で身体は疲れていたが、「闇陰流」から逃れるためには休んでいる暇はなかった。
昼過ぎ、小さな漁村に差し掛かった時、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。月詠は咄嗟に道端の茂みに身を隠した。
黒装束の騎馬隊が村へと入っていく。「闇陰流」だ。彼らは村人たちを集め、何かを尋問しているようだった。月詠の姿を描いた手配書のようなものを掲げている。彼女の顔を知っている者はいないはずだが、心臓は早鐘を打った。
しばらくして騎馬隊が去った後も、月詠はなお身を潜めていた。このまま村を避けて通るべきか迷ったが、食料と水を補給する必要があった。注意深く村に入り、最小限の買い物を済ませようとした時だった。
「お嬢ちゃん、あんたを探している人がいるよ」
老婆の声に月詠は凍りつきそうになった。しかし、老婆の優しい表情を見て、彼女は少し安堵した。
「さっきの黒装束の連中だろ?あんたみたいな若い娘が一人で旅してると、何かあるんだろうって皆わかってる。でも村の者は誰も密告なんかしないよ」
「ありがとうございます」
月詠は深々と頭を下げた。老婆は月詠に食料と水筒を差し出した。
「これを持っていきな。裏山の小道を通れば、奴らに見つからずに先に進めるよ」
人の優しさに触れ、月詠は感謝の念で胸がいっぱいになった。老婆に礼を言い、教えられた裏道へと急いだ。
その夜、月詠は小さな洞窟で野営した。火を起こせば目立ってしまうため、冷たい夜気の中で身を寄せ合うように過ごした。袂から「銀鶴」を取り出し、傍らに置く。まるで見守ってくれているかのような安心感があった。
「魂結び」の書をさらに読み進めると、操霊師の更なる秘密が明かされていた。操霊師は人形に魂を宿らせるだけでなく、その魂の持つ能力を借りることもできるという。「銀鶴」の場合、かつての剣術の腕前を引き出せる可能性があった。
しかし、そのためには強い「魂の結び目」が必要だと書かれている。操霊師としての修行を積み、精神を鍛え上げなければ、術を使いこなすことはできない。
「私にそんなことができるのかしら…」
疑問と不安が渦巻く中、月詠は疲れた体を休めるために目を閉じた。
---
旅の三日目、月詠は予定通り城下町に到着した。都に比べれば小さいながらも、彼女にとっては見たこともないほど賑やかな場所だった。市場では様々な品物が売られ、旅芸人が芸を披露し、武士や商人、農民たちが行き交っている。
月詠は人混みに紛れながら、しばしその活気に圧倒された。しかし、油断はできない。城下町にも「闇陰流」の手が伸びているかもしれない。
宿を探す途中、月詠は偶然、人形師の店を見つけた。店先には様々な人形が飾られ、中には「操り人形」に似た関節を持つものもあった。店主の老人は、月詠が人形に見入る姿を見て声をかけてきた。
「珍しい若い衆じゃな。人形に興味があるのか?」
月詠は少し躊躇した後、男装の声色で答えた。「はい、少し。これらはどのように作られているのですか?」
老人は嬉しそうに人形の仕組みを説明し始めた。月詠は祖母から学んだ知識をもとに質問を重ね、老人との会話を楽しんだ。しばらくすると、老人は月詠を店の奥へと招き入れた。
「若い衆、お前は人形師の修行をしているな?」
月詠は驚いたが、素直に認めた。「少し修行を積みました。都で仕事を探そうと思っています」
「そうか。腕前はどれほどか見せてもらえんかな」
老人は月詠に小さな人形の頭部を手渡した。完成していない部分があり、表情が未完成だった。月詠は緊張しながらも、持参していた道具を取り出し、作業に取りかかった。
手元に集中する月詠の姿を見て、老人は感心した様子だった。わずか半刻ほどで、人形の顔に穏やかな微笑みが宿った。
「見事だ!こんな若いのに、この技術は驚きじゃ。どこで学んだ?」
「祖母から教わりました。祖母は…もういません」
老人は月詠の表情を見て、それ以上追及しなかった。代わりに都の人形師事情について教えてくれた。
「都では宮廷や貴族の屋敷で人形師が求められておる。腕のいい者なら、仕事に困ることはない。しかし、簡単に仕官できるものでもない」
月詠はその情報に感謝しながらも、心の中で決意を固めた。都に着いたら、まず宮廷に入る方法を探さなければならない。「七英傑」と将軍家の関係を調べるには、それが最短の道だろう。
「宮廷に入るにはどうすればいいのでしょう?」
「難しいな。だが、実はひとつチャンスがある。今月末、宮廷の首席人形師が引退すると聞いた。後任を決める試験が行われるそうだ」
月詠の胸に希望の光が灯った。それは運命的なタイミングだった。
「試験はどこで行われるのですか?」
「都の西、宮廷の人形師工房だ。だが若い衆、気をつけるがいい。宮廷は陰謀渦巻く場所。特に最近は将軍の病で、権力争いが激しくなっていると聞く」
月詠は老人の忠告に頷きながらも、これが祖母の導きなのだと感じていた。「銀鶴」の人形が袂の中で、かすかに温かみを持ったような気がした。
---
城下町で一夜を過ごした後、月詠は都への最後の道のりを進んだ。老人からもらった情報を胸に、彼女の心は期待と不安で揺れていた。
二日目の夕刻、ついに月影国の都が見えてきた。城壁に囲まれた広大な都市は、夕日に照らされて黄金色に輝いていた。その中心に聳える将軍の城は、月の光を受けて神々しく見えた。
「ついに来たわ、都」
月詠は深く息を吸い込んだ。ここから本当の旅が始まる。祖母の遺言を胸に、「銀鶴」の人形と共に、彼女は新たな一歩を踏み出す決意をした。
「おばあちゃん、見ていてね。私、必ず『操霊師』として生きる道を見つけてみせるから」
都の入り口に立ち、月詠は最後に自分の故郷の方角を振り返った。彼女の心に響く祖母の声。
「人形が語りかける時、恐れず耳を傾けよ」
その言葉を胸に、月詠は都の喧騒の中へと歩み出した。
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