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第2章:日常と違和感 第5話「不思議な能力」
しおりを挟む村長の家は、ローズマリー村の中でも最も古い建物の一つだった。石と木で作られた二階建ての家には、長い歴史を感じさせる重厚な雰囲気が漂っていた。
レインはルーンを抱きかかえ、緊張した面持ちで村長の家の扉をノックした。
「どうぞ」
穏やかな声が中から聞こえ、レインはゆっくりと扉を開けた。
村長マクスウェルは暖炉の傍らの椅子に座り、分厚い本を読んでいた。彼は眼鏡越しにレインとルーンを見上げ、微笑んだ。
「来てくれたか。座りなさい」
村長が指し示した椅子に腰掛けると、ルーンはレインの膝の上で丸くなった。しかし、その目は警戒心を隠さず、部屋の隅々まで観察していた。
「昨夜は唐突な訪問で申し訳なかった」
村長は本を閉じ、テーブルに置いた。
「私も長い間、気になっていたことがあってな。君の子犬…ルーンだったか、彼の特別な点について話したかったのだ」
レインは静かに頷いた。
「ルーンが普通の犬と違うことは、私も感じています。ですが、どう違うのか…その理由はわかりません」
村長は深くため息をついた。
「この世界には、古くから伝わる神獣の伝説がある。特に、『月の紋様を持つ獣』は、神の力を宿すとされておる」
「神の力…」
レインは思わずルーンを見つめた。ルーンもまた、村長の言葉を聞いているかのように耳を傾けていた。
「昔、この地方を守護していた神獣たちがいたという。彼らは月の光を司り、その力で人々を守っていた。だが、大きな戦いの後、彼らは姿を消した」
村長は立ち上がり、棚から古びた巻物を取り出した。それを広げると、そこには銀色の狼のような獣が描かれていた。その額には、ルーンと同じ月の紋様があった。
「これが…」
「うむ。『神狼』と呼ばれる獣だ。ルーンの額の紋様は、神狼の証だと思われる」
レインは驚きの表情を浮かべた。昨夜の夢で見た銀色の狼たち。それが神狼だったのか。
「しかし、神狼は伝説上の存在です。実在するとは…」
「世界には、我々が知らないことが多い」
村長は静かに言った。
「ルーンはまだ幼いが、彼の中には強大な力が眠っている可能性がある。君とルーンの出会いも、偶然ではないかもしれんな」
その言葉を聞いて、レインは考え込んだ。もし村長の言うことが本当なら、ルーンは単なるペットではなく、神話の生き物だということになる。その考えは荒唐無稽でありながらも、レインの心に何か響くものがあった。
「ルーンを見守り、彼の成長を見届けてほしい。それが、君に与えられた役目かもしれん」
村長はレインの肩に手を置いた。
「私にできることがあれば、いつでも相談するといい」
レインは感謝の意を示し、村長の家を後にした。帰り道、彼は村長の言葉を反芻していた。神狼…月の紋様…運命。
家に戻ったレインは、いつもの仕事に戻ることにした。ルーンの正体について悩んでも、答えはすぐには出ないだろう。むしろ、ルーンと過ごす中で、少しずつ真実が明らかになるのを待つべきだと思った。
その夜、レインは家で本を読んでいた。それは村長から借りた、この世界の地理や歴史が書かれた本だった。未知の世界について学ぶことで、少しでも状況を理解したいと思っていた。
本のページをめくりながら、レインはふと思いついたように声に出して読み始めた。
「この大陸の北部には、『銀月山脈』と呼ばれる山々が連なり、そこでは古代から月の神を崇拝する文化があった。月の神の使いとされる銀狼は、月が満ちる夜に姿を現すと言われている」
ルーンが突然、レインの足元から顔を上げた。その目は好奇心で輝いていた。
「聞いているのか?」
レインは試すように、本の内容とは関係のない質問をした。
「ルーン、南の海に行ったことはある?」
もちろん、普通の犬なら反応するはずがない質問だ。しかし、ルーンは首を横に振るような仕草をした。
「北の山には?」
今度はルーンは少し考えるような素振りを見せた後、弱く頷いた。
レインは息を呑んだ。ルーンは明らかに質問の内容を理解し、それに対して意味のある反応を返していた。これは単なる偶然ではない。
「ルーン、本当に私の言っていることが全て分かるんだね?」
ルーンは明確に頷いた。
「じゃあ…テーブルの上にあるペンを持ってきてくれる?」
ルーンは一瞬躊躇したが、すぐに立ち上がり、椅子を使って器用にテーブルに登った。そして、ペンを口にくわえ、レインの元に持ってきた。
「信じられない…」
レインはルーンの頭を撫でながら、その知性に改めて驚いた。普通の犬には決してできない行動だった。
「村長の言っていたことは本当かもしれないね。君は特別な存在なんだ」
その夜、レインはさらに複雑な指示を出し、ルーンの理解力をテストした。「赤いリボンを持ってきて」「窓の外を見て、誰か通りがかっているか教えて」「暖炉の火が弱まっているから、薪を一本運んで」。どの指示も、ルーンは完璧に遂行した。
「こんな知性を持つ動物は、地球には存在しなかった」
レインは感嘆の声を上げた。ルーンの能力は、単なる賢い動物の域を遥かに超えていた。
翌朝、レインはルーンを連れて村の薬師、リディアを訪ねることにした。村長の話によれば、リディアは古い知識に詳しく、ルーンについてもっと知っているかもしれないという。
リディアの家は村はずれにあり、周囲には様々な薬草が植えられていた。レインがノックすると、若い女性が扉を開けた。
「あら、あなたが噂の新しい住人ね。風間レインさん?」
「はい、お会いできて嬉しいです、リディアさん」
「村長から聞いていたわ。さあ、中へどうぞ」
リディアの家の中は、様々な薬草や古い本で溢れていた。壁には不思議な図や記号が描かれ、部屋の中央には大きな作業台があった。
「これが噂の子犬ね」
リディアはルーンを見て、にっこりと微笑んだ。彼女が近づくと、普段は警戒するルーンが不思議なことに身構えなかった。むしろ、リディアの手に鼻先を寄せるようにして挨拶した。
「おや、私に挨拶してくれるなんて珍しいわね」
リディアは驚いたようにレインを見た。
「ルーンは普段、私以外の人には警戒的なんです。特に近づかせないことが多くて…」
「そう、でも私には心を開いてくれたみたい」
リディアはルーンを抱き上げ、その額の紋様に指を当てた。ルーンは目を閉じ、リディアの手に頭を預けた。
「この子は特別な存在よ」
リディアはルーンを優しく撫でながら言った。
「どういう意味でしょう?」
「私の祖母は、古い伝承の守り手だった。彼女から聞いた話では、月の紋様を持つ獣は神の使いとされていたわ」
リディアは棚から古い本を取り出し、開いた。そこには様々な神獣の絵が描かれていた。中でも一際目を引くのは、ルーンの紋様と同じ模様を持つ銀色の狼だった。
「これが神狼…」
レインは絵に見入った。
「神狼は月の力を宿し、危機の時に世界を守るために現れるとされている。彼らは賢く、人間の言葉を理解し、時には人間と深い絆を結ぶこともあるという」
リディアの説明に、レインは思わずルーンを見つめた。昨夜のテストで明らかになったルーンの知性、そして今、リディアに対して示す特別な態度。全てが繋がり始めていた。
「でも、なぜルーンは私のところに?」
「それは神のみぞ知るわ」
リディアは微笑んだ。
「ただ、運命には理由があるものよ。あなたとルーンの出会いも、きっと何かの意味があるはず」
話を終え、レインはリディアの家を後にした。頭の中は、新たな情報で一杯だった。神狼としてのルーン。その可能性は、レインの心に大きな波紋を広げていた。
村に戻る途中、レインとルーンは森の中の小道を通ることにした。新緑が美しく、鳥のさえずりが心地よい午後だった。
静かな森の中で、突然、子供の悲鳴が聞こえた。
「誰か助けて!」
レインは声のする方向に走った。小さな崖の下で、村の子供の一人、トムが足を怪我して座り込んでいた。
「大丈夫か、トム!」
「レインさん!木の実を取ろうとして滑って…足が痛くて動けないんです」
トムは涙目で訴えた。レインが駆け寄ろうとした時、ルーンが突然、前に飛び出した。
彼は鋭く吠え始め、レインの服を引っ張った。
「どうしたんだ、ルーン?」
レインが立ち止まると、ルーンは彼の目をまっすぐ見つめ、再び吠えた。そして少し離れた場所を指し示すように走った。
レインがルーンの後を追うと、別の安全な下り道があることに気がついた。
「わかった、こっちの方が安全だな。ありがとう、ルーン」
二人はその道を通ってトムの元へ辿り着いた。レインがトムを抱き上げようとした時、ルーンが再び異変を察知したように鋭く吠えた。
レインが見上げると、崖の上から小さな岩が落ちてきていた。彼は即座にトムを抱えて横に飛んだ。岩はかろうじて二人の横を通り過ぎた。
「危なかった…ルーン、もう一度命を救ってくれたよ」
レインはルーンを見つめた。ルーンの目に宿る知性と鋭さは、もはや普通の動物のそれではなかった。
村に戻り、トムを医師に診せた後、レインとルーンは自分たちの家に帰った。
「ルーン、今日は本当にすごかったよ」
レインはルーンを抱き上げ、真剣に見つめた。
「君は危険を予知できるんだね。そして、最も安全な道を知っていた」
ルーンは静かに頷いた。その瞳には、単なる動物の本能を超えた理解があった。
夜、満月が再び空に昇った。レインは窓辺に立ち、銀色に輝く月を見上げていた。ルーンも彼の傍らで、月を見つめていた。
「ルーン…君は本当に神狼なのか?」
レインの問いかけに、ルーンは月に向かって小さく遠吠えした。その時、ルーンの全身が微かに光り始めた。額の紋様がくっきりと浮かび上がり、その体から放たれる光は部屋全体を銀色に染めた。
レインは言葉を失った。目の前で起きている光景は、まさに神話の世界から抜け出てきたかのようだった。
光は数秒で消え、ルーンは普段の姿に戻った。しかし、その目に宿る光は以前よりもさらに強く、知性に満ちていた。
「信じられない…」
レインはルーンを抱きしめた。
「君の秘密、少しずつわかってきたよ。でも、まだ謎は多い」
ルーンはレインの手に頬ずりし、安心させるような仕草をした。その温かさに、レインは心が和むのを感じた。
「何があっても、君と一緒にいるよ。それだけは約束する」
レインの言葉に、ルーンは深く頷いた。二人の絆は、この不思議な能力の発見によって、さらに深まったように感じられた。
外の月は静かに輝き続け、レインとルーンの新たな冒険の始まりを見守っているようだった。神狼としてのルーンの力と、彼を守護者として選ばれたレインの運命。それは今、月明かりの下で静かに紡がれ始めていた。
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