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第2章:日常と違和感 第6話「長老の眼差し」
しおりを挟むローズマリー村に来て二週間が経った頃、村に少しの賑わいが訪れていた。村の名物である「収穫祭」が近づき、市場はいつもより活気に満ちていた。レインは早朝から商品の搬入や配置の手伝いに追われていた。
「レイン、こちらのリンゴを並べてくれないか?」
市場管理者のトーマスが声をかけた。レインは汗を拭いながら頷き、りんごの入った木箱を受け取った。ルーンは彼の足元で静かに待機し、時折周囲を見回していた。
「ルーン、少し離れていた方がいいかな。人が多くなるから」
レインが言うと、ルーンは理解したように少し離れた日陰の場所に移動した。その賢さに、近くの店主が感嘆の声を上げた。
「あの子犬は本当に何でも分かるんだな。人間のようだ」
レインは微笑んだ。村での生活が続くうちに、ルーンの特別な能力は徐々に村人たちにも認知されるようになっていた。しかし、その全てを知るのはレインだけだった。
午前の仕事が一段落したとき、不意に市場が静まり返った。レインが顔を上げると、年老いた男性が数人の若者に付き添われて市場に入ってくるところだった。
「あれは…」
「ガリウス長老だ」
隣の店主が小声で教えてくれた。
「村の長老の中でも最古参で、今は村の北の方にある古い館で隠居生活をしておる。滅多に村には降りてこないんだが…」
ガリウス長老は杖をつきながら、ゆっくりと市場を歩いていた。村人たちは敬意を込めて頭を下げ、長老もそれに応えて静かに頷いていた。その姿には威厳があり、長い年月を生きてきた者特有の風格が漂っていた。
長老の視線が突然、レインとルーンの方に向けられた。レインは思わず背筋を伸ばした。長老はしばらく立ち止まり、特にルーンをじっと見つめていた。
「新しい顔だな、若者」
予想外に長老が声をかけてきた。その声は高齢にしては力強く、周囲に広がった。
「は、はい。風間レインと申します。二週間ほど前からこちらに住んでいます」
「そうか…」
長老はルーンに視線を移した。
「その子犬、珍しい目をしているな」
レインは一瞬緊張した。ルーンの金色の瞳は確かに普通ではなかった。
「はい、森で怪我をしていたところを助けました」
「そうか…」
長老は杖でゆっくりとルーンに近づいた。通常、ルーンはレイン以外の人間が近づくと身構えるか距離を置くのだが、長老に対しては奇妙なことに、静かに座ったまま動かなかった。しかし、その目は真剣に長老を観察していた。
ルーンのその様子に、長老の目が鋭く光った。
「ふむ…」
長老はルーンの目をしばらく見つめた後、レインに向き直った。
「若者、時間があれば私の家に来てくれないか。話したいことがある」
その言葉に、周囲の村人たちからどよめきが起こった。ガリウス長老が村の者を家に招くことは稀だったからだ。
「は、はい。喜んで」
レインは驚きながらも答えた。
「よい。今日の仕事が終わったら、北の丘の上の館へ来るがよい。もちろん、その子犬も一緒にな」
長老はそれだけ言うと、付き添いの若者たちとともに市場を後にした。長老が去った後も、村人たちの視線はレインに集まっていた。
「おめでたいな、レイン」
トーマスが彼の肩を叩いた。
「ガリウス長老に招かれるとは、大したものだ。何か特別なものを見込まれたのかもしれないぞ」
レインは頷いたが、内心は不安だった。長老の鋭い眼差しはルーンの秘密を見抜いているようだった。
仕事を終えた後、レインはルーンを抱えて村の北にある丘を登り始めた。道は整備されておらず、所々で獣道のように細くなっていた。
「こんなところに住んでいるなんて、長老は相当の隠遁生活を送っているんだね」
レインがつぶやくと、ルーンは静かに鳴いた。彼も緊張している様子だった。
丘の頂上に近づくと、古びた石造りの館が見えてきた。苔むした壁と時代を感じさせる彫刻が施された扉は、まるで異世界の物語から抜け出したような雰囲気を醸し出していた。
玄関のドアをノックすると、先ほど長老に付き添っていた若者の一人が開けてくれた。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
若者に導かれ、レインは館の中に入った。内部は古い書物や珍しい装飾品で溢れ、壁には見たこともない文字や図形が描かれていた。
中央の広間に案内されると、ガリウス長老が暖炉の前に座っていた。彼は振り返り、レインとルーンを見て微かに微笑んだ。
「来てくれたか。座りなさい」
レインは指示された椅子に座った。ルーンは彼の膝の上に収まり、警戒するように周囲を見回していた。
「お茶を持ってきてくれ」
長老が若者に指示すると、すぐに香り高いハーブティーが運ばれてきた。
「さて…」
若者が部屋を出ると、長老は静かに話し始めた。
「私は若い頃、多くの地を旅し、古い伝承や神話を研究していた。特に、この地方に伝わる神獣の伝説には深い関心を持っていてな」
長老はゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられた古い地図に近づいた。そこには、現在のローズマリー村を含む広大な地域が描かれていた。
「かつてこの地には神獣たちが住み、人間と共存していたという。特に尊ばれていたのが、『月の神狼』だった」
レインは身を乗り出した。村長マクスウェルとリディアからも聞いた話だ。長老はルーンを見つめながら続けた。
「神狼は額に月の紋様を持ち、金色の瞳を持つとされる。彼らは人の言葉を理解し、危険を察知する能力を持っていた。また、満月の夜には特別な力を発揮するという」
レインは思わずルーンを見た。全ての特徴が一致していた。
「あなたの連れている子犬…ルーンという名前だったね。彼は普通の犬ではない」
長老の言葉に、レインは緊張した。
「どういう意味でしょうか?」
「隠す必要はない。私にはわかる。あの子の瞳に宿る知性、そして額の紋様。彼は神狼の血を引いているのだ」
レインは言葉に詰まった。ルーンの正体について、これほど確信を持って語る者に初めて出会ったのだ。
「私も…そう思い始めていました。彼は普通の犬にはできないことを次々とこなし、時に不思議な力を見せるんです」
長老は深く頷いた。
「神狼の存在は長い間、伝説とされてきた。だが私は、彼らが実在することを信じていた。そして今、目の前にその証拠がいる」
長老はルーンに近づき、ゆっくりと手を差し出した。ルーンは一瞬身構えたが、すぐに落ち着き、長老の手に鼻先を寄せた。
「なぜルーンは私の元に現れたのでしょうか?」
レインの問いに、長老は深いため息をついた。
「それが最も重要な問いだ。神狼が人間の前に姿を現すのは、何かの前触れだと古い書物には記されている」
「前触れ…?」
「世界の危機、あるいは大きな変化の前兆かもしれない。あるいは…」
長老は言葉を切り、窓の外を見た。夕暮れが迫り、空は紅く染まっていた。
「あるいは、あなた自身にも特別な運命が待っているのかもしれん」
レインは混乱した。自分が異世界に来たことすら理解できていないのに、さらなる運命など考えられなかった。
「私はただ、元の世界に戻る方法を探していただけで…」
「元の世界?」
長老の目が鋭く光った。
「あなた…異世界から来たのか?」
レインは口を噤んだ。これまで異世界から来たことを村人に明かしたことはなかった。しかし、長老の前では隠し通せないような気がした。
「はい…私は別の世界の人間です。突然光に包まれ、この世界の森に放り出されました。そこでルーンと出会ったのです」
長老は驚いたように目を見開いた。
「なるほど…全てが繋がる」
「どういうことですか?」
「古い予言にこうある。『月の紋様を持つ獣は、星の向こうから来た守護者と共に現れ、世界の均衡を取り戻す』と」
レインは息を呑んだ。予言?守護者?そんな大それた役割を担えるとは思えなかった。
「それは…私のことではないはずです。私はただの大学生で…」
「運命は、しばしば最も予想外の形で訪れるものだ」
長老は静かに笑った。
「急に全てを理解する必要はない。ただ、あなたとルーンの出会いには深い意味があると信じるがよい」
長老は立ち上がり、古い棚から小さな木箱を取り出した。それを開くと、中には銀色に輝く小さなペンダントがあった。
「これは私の祖父から受け継いだもの。神狼の守護者が身につけるとされる『月の護符』だ。今はあなたに託したい」
レインは戸惑いながらも、感謝してペンダントを受け取った。それは月の形をしており、中央に小さな青い石が埋め込まれていた。
「ありがとうございます…でも、なぜ私に?」
「直感だよ」
長老は微笑んだ。
「さあ、暗くなる前に村に戻りなさい。ただ覚えておいてほしい。神狼の力は満月の夜に最も強まる。そしてルーンの中に眠る力は、まだ目覚めたばかりだということを」
レインは頷き、立ち上がった。ルーンを抱き上げ、長老に深々と頭を下げる。
「今日はありがとうございました。また伺ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。いつでも歓迎する」
長老の言葉に礼を言い、レインは館を後にした。
帰り道、夕闇が迫る中、レインは長老から聞いた話を反芻していた。神狼としてのルーン。異世界から来た守護者としての自分。そして世界の均衡を取り戻すという予言。
「なんだか急に、重大な責任を背負わされたみたいだね」
レインはルーンを見つめた。ルーンは彼の腕の中で、まっすぐにレインを見返した。その瞳には、単なる子犬のものとは思えない深い理解があった。
首にかけたペンダントが、月明かりを受けて淡く光った。レインはそれを握りしめた。
村に戻る途中、満月が昇り始めていた。その光を浴びると、ルーンの体が微かに輝き始め、額の紋様がはっきりと浮かび上がった。
「やっぱり、満月に反応するんだね」
レインが言うと、ルーンは小さく鳴いた。その声には、どこか神秘的な響きがあった。
家に戻ると、意外にも玄関先にミーナが立っていた。彼女は心配そうな顔をしていた。
「レイン!どこに行ってたの?皆心配してたのよ」
「ごめん、ガリウス長老に招かれて…」
「長老に!?」
ミーナは驚いた表情を浮かべた。
「何を話したの?」
「色々と…この地方の伝説とか」
レインは詳細を話すのを避けた。ルーンの正体については、まだ村人に知られたくなかった。
「そう…でも長老に招かれるなんて、すごいことよ」
ミーナは微笑んだ。
「あ、それと夕食を持ってきたの。今日は疲れているでしょうから」
レインは感謝の言葉を述べ、ミーナを中に招き入れた。彼女の作った温かいシチューとパンは、長い一日の疲れを癒してくれた。
ミーナが帰った後、レインは窓辺に座り、満月を見上げた。ルーンも彼の隣で、月を見つめていた。
「君と私の出会いは本当に運命だったのかな」
レインは首からぶら下がるペンダントを見つめながら呟いた。
「もし本当に私が何かの『守護者』なら、一体何を守るべきなんだろう」
その問いに、ルーンはレインの手に頭をすりよせた。その仕草には、「私を守ってくれるだけでいい」と言っているかのような温かさがあった。
レインはルーンを抱きしめた。
「そうだね。まずは君を守る。それが私にできる最初のことだ」
月明かりが部屋を静かに照らす中、レインとルーンは互いの存在に安らぎを感じながら眠りについた。彼らの絆は、これから始まる長い旅の中で、さらに試され、深まっていくことになる。しかし今はまだ、その旅の始まりに過ぎなかった。
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