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第28話「戦争の終結、経済条約の罠」
しおりを挟むアグラリア王国との戦争開始から10ヶ月。北部戦線の対峙状態と、ライアンの経済戦による敵国通貨「クラウン」の崩壊が相まって、ついにアグラリア王国から公式な和平申し入れが届いた。
「ついに彼らが折れたか」
王宮の会議室で、国王テラモン3世は満足げに言った。病から回復しつつある国王の顔には、久しぶりに穏やかな表情が浮かんでいた。
「陛下、この和平申し入れは受諾すべきでしょうか?」
外務大臣が慎重に尋ねた。王室顧問、将軍たち、そして経済顧問としてライアンも同席していた特別会議だった。
「詳細はどうなっている?」
「アグラリア王国は『互いの名誉を守る形での停戦』を希望しています。北部鉱山地帯の帰属については『共同管理』という選択肢も含めた交渉の余地があるとのことです」
「そもそも奴らが仕掛けてきた戦争だ。条件など突きつけられる謂れはない」
バートン元帥が憤然と言った。
「軍としては、徹底的に叩くべきと考えます」
「しかし、我が軍も消耗しています」
マックスウェル伯爵が現実的な意見を述べた。
「戦争継続の場合、さらに3000万ゴールドの戦費が必要となります」
国王は深く考え込んだ後、ライアンに視線を向けた。
「ライアン殿、経済的観点からの見解を聞かせてほしい」
全員の視線がライアンに集まった。中央銀行総裁として、今や彼の意見は王国の政策決定に大きな影響力を持っていた。
「私は和平交渉の開始を強く推奨します」
ライアンは静かに、しかし確信を持って答えた。
「アグラリア王国の経済は崩壊寸前です。彼らが今申し入れてきたということは、国内の経済危機が限界に達したという証拠です」
彼は準備していた資料を広げた。
「我々の経済戦によって、クラウンの価値は当初の5分の1まで下落し、食糧価格は20倍に高騰しています。軍への給料支払いも3ヶ月滞っており、各地で兵士の反乱も起きています」
「つまり、今が最も有利な条件を引き出せるタイミングということか?」
国王が理解を示した。
「その通りです。さらに言えば、我々にとって真の勝利とは、単に領土を得ることではなく、長期的に敵国を経済的に支配することにあります」
ライアンの言葉に、多くの参加者が驚きの表情を見せた。
「具体的にはどういうことだ?」
「和平条約の中に、特別な経済条項を盛り込むのです。表向きは両国の復興と友好を促進するものでありながら、実質的にはアグラリア王国をサーディスの経済圏に組み込む仕組みを」
ライアンの目に冷徹な計算の光が宿った。
「そのような条項をアグラリアが受け入れるとは思えないが…」
「彼らは受け入れるでしょう。なぜなら、表面上は彼らにとっても有利に見えるからです」
長時間の議論の末、国王は和平交渉の開始を決断した。そして、交渉団の一員として、ライアンを経済顧問に任命したのだった。
***
和平会議は中立国であるミドル王国の首都ミドリアンで開催された。両国の外交官や将軍たちが集まる中、ライアンは「経済交渉部会」の議長として、重要な役割を担っていた。
「皆様、本日から戦後経済秩序の具体的な協議に入ります」
壮麗な宮殿の会議室で、ライアンは両国の経済専門家たちを前に静かに切り出した。
「この和平は単なる戦争の終結ではなく、両国の繁栄への新たな第一歩とすべきです」
アグラリア側の代表団は警戒心を隠せない様子だった。中でも財務大臣アルバート・フォン・シュタインは、鋭い目でライアンを観察していた。
「我々は、サーディス王国の『経済戦』によって甚大な被害を受けた」
シュタイン大臣は冷ややかに言った。
「通貨操作、市場妨害、そして偽造貨幣の流通…これらの行為に対する賠償を要求する権利がある」
ライアンは微笑みながら応じた。
「シュタイン大臣のご懸念は理解します。しかし、過去の対立ではなく、未来の協力に目を向けるべきではないでしょうか」
彼は準備していた提案書を配布した。
「これは『両国共同繁栄計画』の概要です。主に三つの柱から成ります」
ライアンは落ち着いた声で説明を始めた。
「第一に、『戦後復興基金』の創設。両国が共同で出資し、戦争被害を受けた地域の復興を支援します」
「第二に、『特恵貿易協定』。両国間の関税を大幅に削減し、貿易を促進します」
「第三に、『通貨安定化協定』。両国の通貨を安定させるための協力体制を構築します」
アグラリア側の代表たちは、提案書に目を通しながら小声で相談を始めた。特に「戦後復興基金」の項に関心が集まっているようだった。
「この復興基金について、詳しく説明してほしい」
シュタイン大臣が要求した。
「総額5000万ゴールド規模の基金を想定しています。サーディス側が60%、アグラリア側が40%を出資します」
「その配分は不公平ではないか?」
「むしろ公平です」
ライアンは冷静に反論した。
「サーディスの経済規模はアグラリアの1.5倍。出資比率はそれを反映したものです」
「では、基金の使途は?」
「両国の戦争被害地域に平等に分配されます。特に、アグラリア北部の産業再建に重点が置かれるでしょう」
シュタイン大臣の表情がわずかに和らいだ。アグラリア北部は戦争で壊滅的な打撃を受けており、その再建は国家的課題だった。
「基金の運営主体は?」
「両国代表による『復興委員会』が監督し、実務はサーディス中央銀行が担当します」
ここがライアンの巧妙な罠の核心だった。運営をサーディス中央銀行、つまり実質的には彼自身が握ることで、アグラリアの戦略的産業への投資を自在にコントロールできるようになるのだ。
「なぜサーディス中央銀行なのか?アグラリア国立銀行でもよいのでは?」
「国際的信用と運用実績の問題です」
ライアンは冷静に説明した。
「サーディス中央銀行は新設ながらも、すでに国際的な評価を得ています。また、戦後復興には通貨安定が不可欠ですが、残念ながら現状ではクラウンの信用は著しく低下しています」
それはアグラリア側も否定できない現実だった。彼らの通貨は壊滅的な状況にあり、国際金融市場では相手にされなくなっていたのだ。
「さらに付け加えれば」
ライアンは決定打を放った。
「すでにミドル王国をはじめとする中立諸国が、サーディス中央銀行を通じた融資に合意しています。アグラリアが復興資金を得るためには、この枠組みへの参加が最も効率的なのです」
シュタイン大臣は黙考した後、重い口調で言った。
「検討する価値はあるだろう。しかし、基金の使途決定には我々にも発言権が必要だ」
「もちろんです。復興委員会は両国同数の代表で構成されます」
ライアンは微笑んだ。委員会の議決権は同数でも、実際の運用は中央銀行が行う。専門的かつ技術的な側面で、彼は常に主導権を握れるように設計していたのだ。
議論は特恵貿易協定へと移った。ここでもライアンは巧妙な仕掛けを用意していた。
「両国間の関税を5年かけて段階的に撤廃します。ただし、『戦略的産業』については特別枠を設けます」
「戦略的産業とは?」
「鉄鋼、造船、魔導機器など、国家安全保障に関わる産業です」
この「戦略的産業」の定義と保護措置は、実質的にサーディスの産業を優遇し、アグラリアの競合産業を制限するよう巧妙に設計されていた。しかし、それは専門的な経済用語と複雑な条文の中に隠されており、気づくのは難しかった。
「最後に、通貨安定化協定について」
これはライアンの最も野心的な計画だった。
「両国の通貨価値を安定させるため、一定の為替レートの維持を目指します。そのための『通貨安定化機構』を設立し、必要に応じて市場介入を行います」
「これは実質的な通貨統合への第一歩ではないのか?」
アグラリア側の経済学者が鋭く指摘した。
「そのような意図はありません」
ライアンは平然と否定したが、彼の心の中ではまさにそれが最終目標だった。まずは為替レートの固定から始め、徐々に通貨統合へと進めるという長期的計画があったのだ。
初日の交渉は、予想以上の進展を見せて終了した。アグラリア側は経済的窮状から、多くの提案に前向きな姿勢を示していた。
***
その夜、ミドリアン城内の宿泊室で、ライアンはサーディス交渉団のメンバーと戦略会議を行っていた。
「アグラリア側の抵抗は予想よりも弱い」
外交官のヘンドリクスが感想を述べた。
「彼らは本当に経済条項の含意を理解しているのだろうか?」
「理解している者もいるだろう」
ライアンは静かに言った。
「特にシュタイン大臣は鋭い。しかし、彼らには選択肢がない。国内経済が崩壊寸前なのだから」
「しかし、これほど一方的な条件を受け入れるとは」
「表面上は互恵的に見えるよう設計している」
ライアンは説明した。
「短期的にはアグラリアにも利益をもたらす。彼らが気づくのは5年後、10年後…その頃には後戻りできないほど経済的に統合されているだろう」
彼の冷徹な計算に、交渉団のメンバーは畏敬の念を抱いたが、同時に不安も感じていた。
「これほどの経済的支配が実現すれば、アグラリアは実質的にサーディスの属国になる」
「それこそが真の勝利だ」
ライアンの目には野心の炎が燃えていた。
「領土や賠償金を得るよりも、永続的な経済支配を確立する方がはるかに価値がある」
***
交渉は3週間に渡って続けられた。陰に陽に影響力を行使したライアンの巧みな交渉術により、経済条項はほぼ彼の原案通りに固まっていった。
最後の障壁となったのは、北部鉱山地帯の帰属問題だった。軍事的にはサーディスが優位だったが、アグラリア側も完全な譲渡には抵抗していた。
「鉱山の権益分配についても、経済的解決策があります」
最終協議の場で、ライアンは新たな提案を行った。
「魔鉱石鉱山を『共同開発地域』に指定し、その開発権と利益を両国で分配するのです」
彼の提案は一見、大きな譲歩に見えた。しかし、その裏には巧妙な仕掛けがあった。
「具体的には、採掘権は50対50で分配。しかし、開発資金は復興基金から優先的に配分されます」
つまり、資金提供はサーディス中央銀行が管理する復興基金から行われる。これにより、開発の実質的な主導権はサーディス側、実質的にはライアン自身が握ることになる。
アグラリア側は議論の末、この提案を受け入れた。彼らにとって、領土の一部を失うよりも、名目上の共同管理権を得る方が政治的には受け入れやすかったのだ。
こうして、和平条約の全条項が合意に達した。表向きは「互恵的な平和条約」でありながら、その実態は長期的にアグラリア王国をサーディスの経済圏に組み込む巧妙な罠だった。
***
和平条約の調印式は、ミドリアン宮殿の大ホールで盛大に執り行われた。テラモン国王とアグラリアのフリードリヒ国王が親臨し、両国の要人たちが見守る中、歴史的な和平が成立した。
「長きに渡る戦いが、今、終わりを告げる」
ミドル王国のカール国王が仲介者として開会の辞を述べた。
「両国が力を合わせて平和な未来を築くことを心から願う」
テラモン国王とフリードリヒ国王が条約文書に署名すると、大きな拍手が沸き起こった。続いて両国の外務大臣、軍の代表、そして最後に経済条項の立案者として、ライアンも署名台に進んだ。
かつて奴隷市場で売られていた男が、今や二国間の歴史的和平条約に署名する立場にいる—その光景は、多くの人々の目に信じがたいものとして映った。
「あれが噂のライアン・ミラー殿か」
アグラリアの貴族たちが小声で話していた。
「奴隷から王国の経済を動かす男になったという」
「恐るべき出世だ。彼の才能は本物らしい」
「しかし、一介の商人がなぜあれほどの力を?」
彼らの言葉には、畏怖と嫉妬と好奇心が入り混じっていた。
調印式後の祝宴で、フリードリヒ国王は直々にライアンに声をかけた。
「ライアン殿、君の経済的知見には感服した。和平条約、特に経済条項の立案に尽力してくれたことに感謝する」
「恐れ多いお言葉、ありがとうございます」
ライアンは丁重に頭を下げた。
「両国の繁栄こそが、私の願いです」
「サーディスにはない人材だな」
国王は微笑んだ。
「もし興味があれば、アグラリアの財務顧問としても君の才能を活かしてほしい」
「光栄な申し出ですが、私はサーディスに忠誠を誓っております」
ライアンは穏やかに断った。
「しかし、両国の経済協力には引き続き尽力いたします」
国王はライアンの肩を軽く叩き、次の客人へと移っていった。彼は気づいていなかったが、まさに「経済協力」という名の下で、彼の国がライアンの経済的影響下に置かれていくことを。
祝宴の喧騒から少し離れた場所で、ライアンは静かに杯を傾けていた。そこにラインハルト将軍が近づいてきた。
「見事な手腕だった」
将軍は低い声で言った。
「表向きは公平な条約でありながら、実質的にはサーディスの経済的勝利を確保するとは」
ライアンは微笑んだ。
「将軍は鋭い観察眼をお持ちですね」
「私は軍人だが、政治や経済も無視はできない。君の提案した経済条項が、長期的にどのような結果をもたらすか…想像に難くない」
「しかし、この条約はアグラリアにとっても利益をもたらします。特に短期的には」
「そこが巧妙なところだ」
将軍は認めるように頷いた。
「君のような男が敵に回ると恐ろしい。だが、私は今日の和平を支持している。これ以上の血が流れることは避けたかった」
「その点では意見が一致していますね」
ライアンは静かに言った。
「戦争は時に必要かもしれませんが、真の繁栄をもたらすのは平和と貿易です」
二人は互いへの敬意を込めて杯を交わした。敵として出会った彼らだったが、今や一種の理解者となっていた。
***
和平条約の調印から一週間後、ライアンは王都に戻り、中央銀行本部で最初の復興委員会を主催していた。
「戦後復興基金の最初の融資案件として、アグラリア北部の鉄鋼業再建を検討しています」
彼は委員たちに説明した。
「同時に、共同開発地域での魔鉱石採掘事業も開始します」
計画は着々と進行していた。表向きは戦後復興と経済協力という名目で、実質的にはアグラリア経済の重要部門をサーディスの影響下に置く戦略が実行に移されつつあった。
会議後、エドモンドがライアンを訪ねてきた。
「素晴らしい成果だ」
彼は率直に称賛の言葉を述べた。
「戦争は終結し、北部鉱山の利権は確保され、しかもアグラリア経済に対する影響力も手に入れた。まさに全面的勝利だ」
「これも序章に過ぎない」
ライアンは静かに言った。
「戦後復興基金は、将来的な『大陸共同銀行』への第一歩となる」
エドモンドは驚いて目を見開いた。
「大陸共同銀行?それは…」
「そう、大陸全体の通貨と金融を統合する機関だ」
ライアンは窓の外の夕暮れの王都を見つめながら、彼の野望を語った。
「戦争は武器で始まり、金で終わる。そして、金を制する者が真の勝者となる」
彼の目には冷徹な野心の光が宿っていた。サーディスとアグラリアの和平は、彼の構想する経済帝国への単なる一歩に過ぎなかったのだ。
「次は東方貿易の拡大だ。フェルミナを迂回する交易路を確立し、東の大陸との直接取引を拡大する」
ライアンの頭の中では、すでに次の戦略が練られていた。戦争が終結した今、彼の経済帝国はさらなる拡大の時を迎えようとしていたのだ。
(第28話 完)
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