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第29話「東方貿易の拡大、フェルミナへの復讐」
しおりを挟むサーディス王国とアグラリア王国の和平条約締結から三ヶ月。戦争の喧騒が去り、王国全体が平和の息吹に満ちていた。国民は戦後復興に熱心に取り組み、経済も徐々に活性化しつつあった。
そんな中、中央銀行本部の最上階にある総裁室では、ライアンが新たな計画の最終確認を行っていた。彼の前には、東方大陸の詳細な地図と貿易路を示す図面が広げられていた。
「東方航路の準備状況はどうだ?」
エドモンドが報告した。
「予定通りです。ラグナー家の大型商船5隻が整備を終え、出港準備が整いました。積荷も完了し、明日の朝の出航を待つのみです」
「素晴らしい」
ライアンは満足げに頷いた。戦争終結後、彼は再び商業、特に東方貿易の拡大に注力していた。フェルミナ大市で獲得した「東方貿易の特別代表権」を最大限に活用する時が来たのだ。
「東方特使のチャン殿からの連絡は?」
「はい。東の大陸側でも私たちの船団を受け入れる準備が整ったとのことです。彼らの主要港『青龍港』に専用の埠頭を確保してくれたそうです」
これは大きな成果だった。従来、東方との貿易はフェルミナを中心とする黄金翼商会の独占状態にあった。特に青龍港の利用権は厳しく制限されており、新規参入者が簡単に取引できる状況ではなかったのだ。
「チャン特使との親交が実を結んだな」
ライアンの目に満足の色が浮かんだ。彼がフェルミナ大市での商談時に東方語を話したことが、信頼関係の始まりだった。それを丁寧に育み、今や彼は「東の文化を理解する商人」として特別な信頼を得ていたのだ。
「特に効果的だったのは『文化交流プログラム』ですね」
エレナが加わった。彼女は社交担当としてこのプログラムの中心的役割を担っていた。
「先月から王都に滞在している東方商人団は、サーディスの発展と王都の美しさに感銘を受けています。特に中央銀行のシステムと軍需産業の効率性に強い関心を示していました」
「彼らが帰国すれば、より多くの取引機会が生まれるだろう」
ライアンは眼前に広がる未来図を描いていた。
「さて、明日の出航式には国王陛下も出席される予定だ。万全の準備を」
***
翌朝、王都の主要港湾エルフィス港は前例のない賑わいを見せていた。「東方直接貿易」の初の船団出航を祝うため、王室関係者や貴族、商人たちが多数集まっていたのだ。
港に整列した5隻の大型商船は、赤と金の装飾で彩られ、サーディス王国の旗と共に特別な「東方貿易」の旗を掲げていた。その姿は壮観で、王国の新しい時代の幕開けを象徴しているようだった。
「本日、サーディス王国と東の大陸を直接結ぶ貿易航路が開かれる」
テラモン国王が簡潔ながらも厳かな演説を行った。
「この歴史的な一歩は、我が国の繁栄と国際的地位の向上に大きく貢献するだろう」
国王はライアンに視線を向けた。
「この事業を推進したライアン総裁の先見性と手腕に感謝したい」
ライアンは静かに頭を下げ、敬意を示した。彼の地位と影響力は、かつての奴隷の身分からは想像もできないほど高まっていた。
儀式の最後に、国王は赤いリボンを切り、船団の出航を宣言した。雄大な帆を広げた商船団は、集まった人々の歓声と共に、東の大陸へと出航していった。
儀式が終わると、ライアンは関係者との会話に忙しく立ち回った。彼は東方文化に関する深い知識を示しながら、商人たちと次の計画について議論していた。
「これは単なる始まりに過ぎません」
彼は熱心な商人たちに語りかけた。
「東方貿易は莫大な可能性を秘めています。彼らの絹、香辛料、陶磁器は我々の市場で高く評価されるでしょう。そして彼らは我々の毛織物、金属製品、魔鉱石加工品を求めています」
「しかし、フェルミナはこれをどう見るでしょうか?」
ある商人が心配そうに尋ねた。
「彼らの反発は避けられないでしょう」
ライアンは冷静に応じた。
「しかし、我々は公正な競争を行うだけです。東方市場は一商会の独占物ではなく、全ての商人に開かれるべきです」
その言葉には説得力があった。多くの商人たちが新航路への参加に興味を示し、次の船団への出資を申し出る者も現れ始めた。
***
一方、フェルミナではグランツ総帥が激怒していた。
「なんと傲慢な!我々の歴史的権益を侵害するとは!」
黄金翼商会の本部に集められた幹部たちは、老総帥の怒りに畏縮していた。
「サーディスの新航路に関する情報をもっと早く掴むべきだった」
グランツは鋭い視線で息子のマーカスを睨みつけた。
「申し訳ありません、父上」
マーカスは頭を下げた。
「我々も対抗策を準備していますが、ライアン・ミラーの動きは予想以上に早かったのです」
「そのライアンとかいう元奴隷が、我々黄金翼商会を出し抜くとは…」
グランツの拳がテーブルを打った。
「だが、まだ勝負はついていない。我々も百年の経験と人脈を持っている。すぐに対抗策を実行せよ」
「はい。まず、価格競争を仕掛けます」
マーカスは計画を説明した。
「サーディス港での東方商品の値下げキャンペーンを行い、ライアンの商品を市場から締め出します。同時に、東方での買い付け価格を引き上げ、彼らの調達コストを圧迫します」
「良し。さらに、サーディスの船団が東方で冷遇されるよう、現地の商人たちに働きかけよ」
グランツは冷酷な戦略を指示した。
「必要なら賄賂も使え。東方での我々の人脈は深い。彼らを利用するのだ」
黄金翼商会の反撃計画が練られる一方、ライアンの側も油断していなかった。
***
「予想通り、グランツが動き始めました」
ガルドが情報経済局からの報告書を持ってライアンの執務室に入ってきた。
「黄金翼商会の大型商船団が、明日サーディス港に到着する予定です。大量の東方商品を積んでおり、破格の安値で販売する計画のようです」
「思ったよりも早い反応だな」
ライアンは冷静に応じた。
「しかし、これも計算内だ」
彼はセバスチャン財務大臣への書簡を取り出した。
「新たな『貿易規制令』の草案だ。これを今日中に国王に承認してもらう必要がある」
「貿易規制令?」
「国家安全保障と経済秩序維持のための緊急措置だ」
ライアンの目に冷徹な光が宿った。
「長年の独占により利益を享受してきた彼らは、その資本力で短期的な価格競争を仕掛けてくるだろう。しかし、我々にも強力な武器がある」
彼は窓の外の中央銀行の建物を見つめた。
「通貨と関税の力だ」
数時間後、テラモン国王は「戦後経済保護法」に署名した。これは表向きは「戦後の国内産業保護」を目的としていたが、実質的には外国商会、特にフェルミナの黄金翼商会に対抗するための法的枠組みだった。
***
翌日、黄金翼商会の豪華な商船団がサーディス港に入港した。15隻からなるその船団は、フェルミナの商業力を誇示するかのように壮麗な装飾を施していた。
船団を率いるマーカス・グランツは自信満々だった。
「我々の商品の質と価格で、サーディス市場を席巻してみせる」
彼は随行する幹部たちに言った。
「ライアン・ミラーの小さな商会など、我々の前では無力だ」
しかし、港に上陸したマーカスを衝撃的なニュースが待っていた。
「何だって?検疫検査だと?」
港湾管理官が平然と説明した。
「新しい貿易規制令により、すべての外国船は入港時に厳格な検疫検査を受ける必要があります。特に東方からの船舶は、疫病予防のため、7日間の隔離期間が義務付けられています」
「7日間だと?そんな規則は聞いていない!」
「昨日発効した新法令です。申し訳ありませんが、規則は規則です」
マーカスは激怒したが、何も変えることはできなかった。さらに追い打ちをかけるように、税関からの通知が届いた。
「『非優遇貿易国』からの輸入品に対する特別関税の適用について」
それは黄金翼商会の商品にのみ課される、30%の追加関税を通知するものだった。
「これは明らかな嫌がらせだ!」
マーカスは憤慨した。
「サーディス商工会議所に抗議する!」
しかし、商工会議所で待っていたのは冷ややかな対応だった。
「新しい貿易法は適正な手続きを経て制定されたものです。フェルミナ商人団だけが不当に扱われているわけではありません」
議長は無表情で答えた。彼もライアンの影響下にある人物だった。
マーカスが最後に頼ったのは銀行だった。短期的な損失を覚悟で価格競争を仕掛けるには、追加の融資が必要だったのだ。
「申し訳ありませんが、現在サーディス王立中央銀行の方針により、特定の外国商会への融資は制限されています」
銀行支配人の言葉に、マーカスは絶望感を味わった。
一方、こうした動きをすべて予測し、準備していたライアンは、自らの商船団の第二弾を準備していた。
「グランツの船団が足止めを食らっている間に、我々の第二船団を出航させる」
彼はエドモンドに指示した。
「今回は10隻の大型船で、より多くの商品を運ぶ。さらに、東方商人たちを招待する『文化交流船』も1隻加えよう」
「実に巧妙な戦略です」
エドモンドは感嘆の声を上げた。
「彼らが港で足止めを食らっている間に、我々は市場を先取りする」
「さらに重要なのは、東方商人たちとの直接的な関係構築だ」
ライアンは冷静に説明した。
「フェルミナが長年築いてきた東方との関係は、彼らを対等なパートナーとしてではなく、単なる供給源として扱ってきた。我々はそれを変える」
***
二週間後、予想外の事態がグランツ総帥を襲った。
「何だと!?青龍港での取引拒否?」
黄金翼商会の本部に届いた緊急報告に、総帥は激震を受けた。
「はい、東方の商人組合から通達がありました」
使者は恐る恐る報告した。
「彼らは『不公正な取引慣行』を理由に、当面の間、黄金翼商会との取引を制限すると宣言しました」
「バカな!我々は百年以上の関係がある!」
「それが問題かもしれません…」
使者は慎重に言葉を選んだ。
「彼らは『百年間の不平等な関係』を見直す時が来たと言っています。特に、ライアン・ミラー氏が提示した『対等な商業パートナーシップ』という考えに強く共感しているようです」
グランツの顔が青ざめた。東方は黄金翼商会の最大の収入源だった。そこでの取引制限は、商会の経営基盤を揺るがす重大な危機だった。
「ライアン・ミラー…」
グランツの声には怒りと同時に、わずかな敬意のようなものも混じっていた。
「彼は単なる新参者ではなかったようだ」
***
サーディス王都では、東方から戻った最初の商船団が盛大に出迎えられていた。船は貴重な絹、香辛料、陶磁器などの東方商品を満載して帰還。その取引は大成功だった。
特に注目を集めたのは、帰還した船に同乗していた東方の高官や商人たちだった。彼らはサーディス王国を訪問し、ライアンが主催する「東西文化交流会」に参加するために来たのだ。
王宮で開催された歓迎会で、東方代表団の長であるチャオ大使が挨拶した。
「サーディス王国との新しい関係は、私たちにとって大きな喜びです。特に、ライアン総裁のような、我々の文化と慣習を尊重する方との取引は、真のパートナーシップと呼ぶにふさわしいものです」
その言葉は、暗にフェルミナの黄金翼商会との対比を示唆していた。
会の後半、ライアンは東方代表団と共に、新たな「東西貿易協定」に署名した。これにより、サーディス王国と東方諸国の間の直接貿易は公式に確立され、関税の相互削減や文化交流の促進が約束された。
「この協定は、単なる商業取り決めではなく、文明間の架け橋となるものです」
ライアンは洗練された東方語で挨拶し、代表団から大きな拍手を受けた。
***
数週間後、サーディス中央銀行のライアンの執務室に、意外な訪問者がやってきた。
「グランツ総帥がお見えです」
秘書が恐る恐る告げた。
「通してくれ」
ライアンは冷静に答えた。かつての宿敵との対面に、彼は内心の興奮を抑えていた。
杖をつきながら入ってきたグランツ総帥は、以前よりも老け込んだように見えた。東方貿易の喪失は、黄金翼商会に大きな打撃を与えていたのだ。
「久しぶりだな、ライアン・ミラー」
グランツは威厳のある声で言った。
「お会いできて光栄です、グランツ総帥」
ライアンは立ち上がり、丁重に応じた。
「何が目的で来たのかは想像がつくが、直接聞かせてほしい」
「単刀直入に言おう」
グランツは深いため息をついた。
「私は降参に来た。東方貿易での君の勝利を認める」
ライアンは静かに頷いた。
「賢明な判断です」
「しかし、この降参にも条件がある」
グランツは強い眼差しでライアンを見据えた。
「黄金翼商会を完全に潰すのではなく、限定的な参加権を認めてほしい。我々には百年の経験と知識がある。それは君にとっても価値があるはずだ」
ライアンは冷静に考えを巡らせた。グランツを完全に排除することもできたが、彼の経験と人脈は確かに有用だった。
「一つ提案があります」
ライアンは静かに言った。
「黄金翼商会は『サーディス・東方貿易連合』の一員として参加権を得る。ただし、商会の経営構造を改革し、東方諸国との取引方針を見直すことが条件です」
「経営構造の改革とは?」
「具体的には、理事会に若い世代と東方代表を加え、より開かれた組織にすることです」
それはグランツの権力を実質的に制限する提案だった。しかし、彼には選択肢がなかった。
「…承知した」
老総帥は渋々同意した。
「ただし、私の息子マーカスには重要な地位を約束してほしい」
「それは可能です。彼には『文化交流部門』の責任者を任せましょう」
グランツの表情が微妙に曇った。「文化交流」は実質的な権限のない名誉職に近い。ライアンの報復の意図を感じ取ったのだろう。
「受け入れる」
二人は形式的な握手を交わし、かつての宿敵との対決に終止符が打たれた。
***
その夜、ライアンはエドモンドと共に王都を見下ろす高台で杯を傾けていた。
「見事な勝利だ」
エドモンドが感嘆の声を上げた。
「グランツ総帥を降参させるとは。フェルミナ大市で彼に屈辱を与えられてから、見事な復讐を果たしたな」
「復讐ではない」
ライアンは静かに言った。
「単なるビジネスだ。優れた経営戦略と政策が、古い独占体制に勝ったというだけのこと」
しかし、彼の目には確かな満足の色が浮かんでいた。
「かつてのライバルも、今では単なる踏み台に過ぎない」
ライアンは夜空を見上げた。東方貿易の確立は、彼の経済帝国の新たな礎となった。そして彼の視線は、さらに先へと向けられていた。
「次は、大陸全体の商業ネットワークを統合する時だ」
彼の野望は、すでに一国の枠を超え、世界規模の経済支配へと広がっていた。
(第29話 完)
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