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第7話:貧民街の救済者
しおりを挟む夕暮れの空が赤く染まり始めていた。
クロヴィスは隠れ家として確保した貧民街の小さな屋敷で、記憶水晶の内容を確認していた。水晶に封じられた映像は鮮明で、聖女ディアナが王太子アレクシスを操っている決定的瞬間を捉えていた。
「これで証拠は十分です」
彼は満足げに頷き、水晶を安全な布で包んだ。この証拠を適切な人物に届けることが次の課題だった。王宮は聖女の影響下にあり、直接的なアプローチは危険すぎる。
「レティシア様、これをどうするか相談を...」
クロヴィスが振り返ると、部屋にはレティシアの姿がなかった。
「レティシア様?」
彼は急いで隠れ家の各部屋を確認したが、彼女の姿は見当たらない。代わりに、台所のテーブルの上に一枚の紙切れが置かれていた。
『クロヴィス、少し出かけます。ハーバー地区の子供たちに救援物資を届けなければなりません。すぐに戻ります。—レティシア』
クロヴィスの顔から血の気が引いた。今はディアナの刺客が彼らを追っているかもしれない状況だ。レティシアが一人で外出するのは非常に危険だった。
「なぜこんな時に...」
彼は呟きながらも、すぐに行動に移った。貴重な証拠である記憶水晶は隠れ家の床下に隠し、彼はレティシアの後を追った。
◆◆◆
ハーバー地区は王都の中でも特に貧しい場所だった。港湾労働者や漁師の家族が多く住み、日々の糧を得るために懸命に働いていた。しかし、最近の政策変更で港の使用料が高騰し、多くの家族が生活の危機に瀕していた。
クロヴィスが地区に足を踏み入れると、通りには普段より多くの人々が集まっていた。彼らは皆、ある一点に注目している。
人混みを縫って進むと、そこには見慣れた金髪の少女の姿があった。レティシアだ。彼女は質素な服装に身を包み、大きな荷物を開けていた。中には食料、医薬品、そして子供たちのための衣類が詰まっていた。
「一人一つずつよ。順番に並んでね」
彼女は穏やかな笑顔で言い、子供たちに品物を分け与えていた。その姿は、社交界で見せる「高慢な悪役令嬢」とはまるで別人のようだった。
「天使様、ありがとう!」
「天使様が来てくれた!」
子供たちの嬉しそうな声が通りに響き渡る。レティシアの周りには、感謝の表情を浮かべた大人たちも集まっていた。
「王太子の婚約者が密かに貧民街を助けてくれている...信じられないよ」
「表向きは高慢だって噂だけど、本当は心優しい方なんだな」
クロヴィスは人混みの中に身を隠し、その様子を静かに見守った。レティシアの慈善活動について知ってはいたが、彼女がここまで住民たちに慕われているとは思っていなかった。
そんな中、一人の老婆がレティシアに近づいた。
「レティシア様、あなたのおかげで孫の熱が下がりました。この恩は一生忘れません」
老婆は涙ながらに彼女の手を握った。
「そんな...当然のことをしただけよ」
レティシアは照れたように言った。その表情には純粋な喜びが浮かんでいた。
「でも、どうして『聖女様』はこんなことをしてくれないんでしょう?彼女も慈善活動をしているって噂ですが、ここには一度も来ませんよ」
老婆の言葉に、周囲からも同意の声が上がった。
「あの『聖女』の慈善活動は見せかけだけさ」
若い漁師が不満げに言った。
「彼女が来るのは裕福な貧民街だけ。本当に苦しんでる俺たちのところには顔も見せやしない」
「それに、彼女の配るのは古くて使い物にならないものばかり」
別の女性が加えた。
「質問ばかりするくせに。私たちの不満や王宮への意見、特に王太子への不満を執拗に聞いてくるの」
レティシアはそれらの話を真剣な表情で聞いていた。
「情報収集が目的だったのね...」
彼女は小さく呟いた。
クロヴィスはその会話を聞き、ディアナの計画の一端を垣間見た気がした。聖女の「慈善活動」は、王太子の婚約者としての彼女の立場を強化するための偽りの善行であり、同時に民衆の不満を探るスパイ活動でもあったのだ。
突然、クロヴィスの暗殺者としての直感が危険を察知した。彼は周囲を素早く見回し、屋根の上に不審な人影を見つけた。
「レティシア様!」
彼は叫びながら人混みを掻き分け、彼女に駆け寄った。そのちょうどその時、屋根から何かが飛んできた。クロヴィスは反射的にレティシアを抱きかかえ、地面に転がった。
投げナイフが、彼らがいた場所のすぐ横の地面に突き刺さる。
「な、何...?」
驚くレティシアを守るように立ち上がり、クロヴィスは冷静に状況を分析した。
「暗殺者です。5人...いや、7人いる」
彼の未来視は依然としてぼやけていたが、危険を察知する暗殺者としての直感は健在だった。
人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う中、黒装束の暗殺者たちが次々と現れた。
「レティシア・フォン・ルーベンシュタイン、聖女様からの挨拶だ」
先頭の男が冷たく言った。
「子供たちを安全なところへ!」
クロヴィスは周囲の大人たちに指示を出し、レティシアを守る姿勢をとった。
「クロヴィス...」
「私がお守りします。どうか後ろに」
彼は執事としての完璧な礼儀正しさを保ちながらも、その目は暗殺者時代の冷徹さを取り戻していた。
「貧民街に紛れて逃げられると思ったか?聖女様は全てをご存知だ」
暗殺者が言った。
「あの方の『始まりの紋章』の力は、お前たちの行動すら予測できる。もうお終いだ」
「それはどうかな」
クロヴィスは冷静に応じた。
「確かに未来は見えなくなった。しかし...」
彼は腰を低く構え、戦闘態勢に入った。
「過去の経験と、守るべき人がいる限り、私は決して負けない」
暗殺者たちが一斉に襲いかかってきた。クロヴィスは信じられない速さで動き、最初の攻撃者の短剣を避けながら、その腕を掴んで投げ飛ばした。
「影のように動く...噂の『影の執事』か!」
別の暗殺者が驚きの声を上げる。
クロヴィスは応えず、次々と敵を迎え撃った。彼の動きは正確で無駄がなく、まるで影のように敵の死角に回り込み、一撃で無力化していく。
しかし、暗殺者の数は多く、彼一人では全方向からの攻撃を防ぎきれない。一人の刺客がレティシアに接近しようとした。
「レティシア様!」
クロヴィスが警告の声を上げる間もなく、刺客の短剣がレティシアに向かって振り下ろされた。
しかし、予想外の展開が起きた。
レティシアは刺客の動きを見越したように身をかわし、手にした鞄を振り回して攻撃者の顔面を直撃させた。刺客はよろめき、彼女は急いで距離を取った。
「クロヴィス、私だって無防備じゃないわ!」
彼女の声には強い意志が込められていた。
「貴族の娘として、護身術は基本よ」
彼女の予想外の反撃にクロヴィスは一瞬驚いたが、すぐに態勢を立て直した。
「さすがです、レティシア様」
二人は背中合わせになり、周囲を取り囲む暗殺者たちに対峙した。
「執事と主人、二人とも始末する!」
暗殺者のリーダーが命令を下す。彼らは一斉に攻撃を仕掛けてきた。
クロヴィスは前世の暗殺者としての全ての技術と経験を呼び覚まし、敵の動きを予測し対応した。一人、また一人と暗殺者たちを倒していく。
しかし、戦いの最中、彼は不意に背後の気配を感じ取れなかった。振り返ると、刺客の一人がレティシアを狙い、短剣を振りかぶっていた。
「レティシア様!」
彼が叫んだその時、予想外の救援が現れた。
「天使様に手を出すな!」
一人の若い漁師が棒を振り回し、刺客の腕を強打した。短剣が地面に落ち、刺客は痛みに顔を歪めた。
続いて、次々と住民たちが道具や石を手に、レティシアを守るために集まってきた。
「天使様を守れ!」
「影の執事を助けるんだ!」
貧民街の住民たちがレティシアとクロヴィスの周りに人の壁を作り、暗殺者たちを威嚇し始めた。彼らの数は徐々に増え、やがて数十人になった。
「くっ...まさかこんな展開になるとは」
暗殺者のリーダーが状況を見て歯ぎしりした。
「聖女様の予測と違う...撤退する!」
彼らは煙幕を炊き、素早く姿を消した。
静寂が戻ると、レティシアはゆっくりと立ち上がり、住民たちに深々と頭を下げた。
「皆さん、ありがとうございます。命を救っていただきました」
クロヴィスも同様に頭を下げた。
「皆様のご勇気に、心から感謝します」
住民たちは互いに顔を見合わせ、誇らしげな表情を浮かべた。
「天使様が私たちを助けてくれたように、私たちも天使様を守ります」
老婆が前に出て、レティシアの手を取った。
「そして、影の執事さんも。あなたの戦い方を見ました。まるで影のような...」
「影の守護者だ!」
子供の一人が叫んだ。
「天使様と影の守護者!」
その言葉が群衆の中で広がり、やがて歓声となった。レティシアとクロヴィスを称える声が貧民街に響き渡る。
クロヴィスは複雑な表情で周囲を見回した。かつて暗殺者として恐れられた自分が、今は「守護者」として称えられている。運命の皮肉さと同時に、新たな使命感が胸に灯った。
◆◆◆
「皆さん、今日起きたことは、決して外部に漏らさないでください」
戦いの後、レティシアは住民たちに注意を促した。彼らは集会所に集まり、今後の対策を話し合っていた。
「私たちは今、王国の重大な危機に直面しています。聖女ディアナは偽りの存在で、王太子を操り、王国を乗っ取ろうとしているのです」
会場がざわめいた。
「証拠はあります」
クロヴィスが前に出て、記憶水晶の存在について簡単に説明した。彼は水晶自体は隠れ家に置いてきたが、その内容についても住民たちに伝えた。
「今、王宮は聖女の影響下にあります。直接的な行動は危険です。しかし、真実を広め、適切な時に適切な人々に証拠を示す必要があります」
「俺たちに何ができる?」
若い漁師が尋ねた。
「情報収集と伝達です」
レティシアが答えた。
「聖女の活動、王宮の動き、民の声...それらを集め、私たちに伝えてください。また、真実を信頼できる人々に静かに広めてほしいのです」
「お任せを!」
住民たちは熱心に頷いた。彼らの中には港湾労働者、市場の商人、使用人など、様々な場所で働く人々がいた。彼らを通じて、幅広い情報網を構築できる可能性があった。
「そして、もし私たちが危険に陥ったときは...」
クロヴィスが言葉を続けた。
「隠れ家を提供していただけないでしょうか」
「もちろんだ!」
複数の声が上がった。
「私の納屋を使ってください」
「うちの地下室なら安全ですよ」
次々と申し出がなされ、レティシアとクロヴィスは感謝の意を表した。
会議が終わりに近づいたとき、一人の老人が立ち上がった。彼は元宮廷料理人だという。
「実は、聖女の活動について気になることがあります」
彼の話によれば、聖女ディアナは月に一度、謎めいた儀式を行っているという。
「王宮の東の塔で、満月の夜に行われます。使用人たちの間では、その夜に近づいた者が記憶を失うという噂があります」
クロヴィスとレティシアは顔を見合わせた。
「次の満月は...」
「3日後です」
クロヴィスが即答した。
「そこに何かのヒントがあるかもしれません」
会議の後、二人は安全な場所へと移動した。トムという若者が提供してくれた地下室は、外部からは完全に隠れており、休息するのに適していた。
「クロヴィス、今日は本当にありがとう」
レティシアは疲れた表情ながらも、感謝の言葉を口にした。
「私の勝手な行動で危険な目に遭わせてしまって...」
「それは私こそお詫びすべきです」
クロヴィスは深く頭を下げた。
「あなたを一人にしてしまい、危険に晒してしまいました」
「でも...」
彼女は小さく微笑んだ。
「結果的に、私たちは大切な同志を得ることができたわ。貧民街の人々はディアナよりも私たちを信頼してくれている。彼らの協力は必ず力になる」
クロヴィスも同意した。
「彼らの証言からも、聖女の『慈善活動』が偽りであることは明らかです。情報収集と民衆の不満を探るための手段だったのでしょう」
「そして、私の評判を落とすためでもあるわね。『高慢な悪役令嬢』と『慈悲深い聖女』...対比を作り出したかったのよ」
レティシアは冷静に分析した。
「でも、本当の姿は逆だったということね」
二人は満月の儀式について話し合い、その情報を確認するための計画を立て始めた。彼らには記憶水晶という証拠があり、そして今や貧民街という新たな味方も得た。
「次の満月までに、私たちはもっと情報を集める必要があるわ」
レティシアは決意を新たにした。
「そして、アレクシスを救い出し、王国を守る」
クロヴィスは主の決意に応えるように頷いた。彼の金色の瞳には、強い決意が宿っていた。
「今は休息を取ってください、レティシア様。明日からの戦いに備えて」
彼は完璧な執事として彼女の休息の準備を整えた。しかし、彼の心の中では、暗殺者としての本能が完全に目覚めていた。守るべき主のために、彼は再び「死神の影」となる覚悟を決めていた。
夜空には、満月へと向かう途中の月が静かに輝いていた。時間はゆっくりと、しかし確実に運命の夜へと近づいていた。
(続く)
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