16 / 18
第16話:「直樹商会、開業の日」
しおりを挟むカレイド市東区、修繕されたばかりの倉庫兼事務所の前には、「橘交渉商会」の新しい看板が朝日に照らされて輝いていた。開業の日を迎え、建物の周囲には祝いの花や飾りつけが施され、小さいながらも華やかな雰囲気に包まれていた。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
直樹は建物の前に立ち、集まった人々に向かって頭を下げた。開業式には、アルバート・ギルド長をはじめとする商人ギルドの幹部たち、出資者のガルド・バロン、「マザーの食堂」のマーサ、そして東街道警備隊となったガストンとその部下たちなど、直樹がこれまで関わってきた多くの人々が参列していた。
「橘交渉商会は、異なる地域の価値観を繋ぎ、新たな商業の流れを創造することを目指します」直樹は決意を込めて宣言した。「皆様のご支援のおかげで、この日を迎えることができました。心より感謝申し上げます」
開業を祝う拍手が沸き起こる中、アルバート・ギルド長が前に進み出た。
「橘直樹君」アルバートは厳かな声で言った。「君の商才と誠実さは、カレイド市の商業界に新風を吹き込むだろう。商人ギルドを代表して、橘交渉商会の船出を祝福する」
続いてガルド・バロンが挨拶した。「私は多くの商人を見てきたが、橘のような交渉の才能を持つ者は稀だ。彼の商会は必ず成功する。それを見込んで投資した私の目に狂いはない」この言葉に、参列者たちからは感嘆の声が漏れた。
テープカットの儀式が行われ、「橘交渉商会」は正式に開業した。建物内部に入ると、簡素ながらも整然とした事務所スペースと、小さな商談室、そして奥に広がる倉庫がある。壁には東と南の地域の地図が貼られ、現在取り扱っている商品のサンプルも展示されていた。
「ここが事務所ですか」ガストンが周囲を見回しながら言った。「なかなか立派なものだな。山賊だった俺たちを雇ってくれたのも、この商会のおかげだ」
「いえ、それはあなた方の真摯な姿勢があったからこそ」直樹は微笑んだ。「これからも東街道の安全をよろしくお願いします」
開業式の後、簡単な祝宴が開かれた。参列者たちは飲食を楽しみながら、直樹や互いに言葉を交わしていた。その中で、マーサが直樹に近づいてきた。
「橘くん、ついに夢が叶ったわね」彼女は誇らしげに言った。「あなたが最初に私の食堂に来た日が、まるで昨日のことのように思えるわ」
「マーサさんがいなければ、ここまで来られませんでした」直樹は心から感謝した。「最初に仕事をくれたのはあなたですから」
「これからは大商人になるのね」マーサは嬉しそうに言った。「でも、たまには食堂に顔を出してね」
「もちろんです」直樹は約束した。「あなたの食堂は、私の原点です」
祝宴の終わり頃、ガルド・バロンが直樹を脇に呼んだ。
「橘」彼は静かな声で言った。「開業おめでとう。だが、本当の勝負はこれからだ。明日から実際の商売が始まる」
「はい」直樹は真剣に頷いた。「心構えはできています」
「一つアドバイスを」ガルドは続けた。「商会として最初の取引は特に重要だ。成功すれば良い評判になり、失敗すれば悪い噂が立つ。最初の取引先は慎重に選びなさい」
直樹はこの助言に深く頷いた。「ありがとうございます。心に留めておきます」
参列者が帰り、建物に直樹一人が残った頃、日は既に西に傾いていた。彼は静かになった事務所で、明日からの商売について考えを巡らせていた。
「最初の取引...」
確かにガルドの言う通り、商会としての最初の仕事は重要だ。安易に決めるわけにはいかない。直樹はノートを広げ、現在のリソースと可能性のある取引先をリストアップし始めた。
---
翌朝、直樹は早くから事務所に出勤した。開業初日、どんな依頼や商談が舞い込むか分からない。すべてに対応できるよう、準備を整えておく必要がある。
午前中、数人の来訪者があった。開業を祝う商人たちや、単純に好奇心で訪れる市民たち。直樹は丁寧に対応し、橘交渉商会の事業内容や取り扱う商品について説明した。
「主に毛皮と絹を取り扱っていますが、その他の交易品についても柔軟に対応いたします」
来訪者の中には、実際の取引を検討している商人もいた。小規模な衣料店の主人は、ネイル村の毛皮に興味を示していた。
「品質が良いと聞いたので、見本を見せてもらえますか?」
直樹は丁寧に商品を説明し、サンプルを見せた。交渉の結果、小さな注文を受けることができた。開業初日にして最初の契約だ。些細な金額ではあるが、商売の第一歩としては悪くない。
午後遅く、一人の来訪者が事務所を訪れた。高級な装いをした中年の男性で、その佇まいからは裕福な商人あるいは貴族の雰囲気が漂っていた。
「橘交渉商会の直樹様でいらっしゃいますか?」男性は丁寧な口調で尋ねた。
「はい、私が橘直樹です」直樹は立ち上がって迎えた。「どのようなご用件でしょうか?」
「私はレオナルド・クライン」男性は自己紹介した。「カレイド市北区の衣料品商です。あなたの商会の噂を聞き、興味を持ちました」
直樹は商談室に案内し、お茶を出した。「どのようなご興味をお持ちでしょうか?」
「あなたがネイル村の上質な毛皮と、南方の絹を扱っていると聞きました」レオナルドは言った。「実は、私の店では高級衣料の新シリーズを計画しています。それには最高品質の材料が必要なのです」
直樹は【最強の値切り】スキルを軽く発動させ、レオナルドの真意を探った。彼は確かに高級衣料品店の経営者だが、その野心は単なるビジネスを超えて、カレイド市の上流階級全体に影響力を持ちたいという願望があるようだった。
「どのような素材をお探しですか?」直樹は質問した。
「狐の白毛皮を50枚と、南方の最高級絹を100反ほど」レオナルドは答えた。「特に毛皮は純白で、傷や変色のないものが良い」
直樹は眉を上げた。「かなり大きな注文ですね」
「価格は問いません」レオナルドは豪快に言った。「品質さえ確保できれば」
これはまさに大きなチャンスだった。開業早々の大型契約は、商会の評判を一気に高めるだろう。しかし、直樹は慎重さを忘れなかった。レオナルドの要求は具体的すぎる。特に白狐の毛皮50枚というのは、簡単に集められる数ではない。
「レオナルド様」直樹は丁寧に言った。「ご要望は理解しました。確かに当商会ではネイル村の毛皮と南方の絹を扱っていますが、純白の狐の毛皮50枚というのは...」
「難しいでしょうか?」レオナルドは少し挑戦的な目で直樹を見た。
「不可能ではありませんが、時間がかかります」直樹は正直に答えた。「白狐は希少で、50枚を集めるには複数の村を回る必要があります」
「どれくらいの期間が必要ですか?」
「最低でも2ヶ月はかかるでしょう」直樹は計算した。「そして、価格も通常より2割ほど高くなります」
レオナルドは考え込んだ様子だったが、やがて決断したように頷いた。「わかりました。2ヶ月後の納品で契約しましょう。前金として半額を支払います」
契約書が作成され、レオナルドは約束通り前金を支払った。彼が去った後、直樹は深い安堵とともに、大きな責任感も感じていた。これは橘交渉商会にとって最初の大型契約だった。
---
その日の終わり、直樹は事務所で契約書を確認し、計画を練っていた。白狐の毛皮50枚は非常に大きな数だ。ネイル村だけでは到底集まらないだろう。周辺の村々も回る必要がある。
「時間はあるが、簡単ではない...」直樹は呟いた。
そこへ、ノックの音が響いた。時間は既に夕刻を過ぎている。誰だろうか?
ドアを開けると、そこにはガルド・バロンが立っていた。
「夜分遅くにすまない」ガルドは言った。「初日の様子を見に来たんだ」
「バロン様」直樹は驚きながらも喜んで迎え入れた。「お忙しいのに、ありがとうございます」
ガルドは中に入り、直樹の机の上に広げられた契約書に目をやった。「仕事が入ったようだな」
「はい」直樹は頷き、レオナルド・クラインとの契約について説明した。
ガルドは契約内容を聞くと、急に表情を曇らせた。「レオナルド・クライン...北区の衣料商か」
「ご存知ですか?」直樹は尋ねた。
「ああ」ガルドは重々しく頷いた。「彼は商才はあるが、評判は良くない。取引相手を騙したり、契約を一方的に破棄したりすることで知られている」
直樹は驚いた。「そんな...」
「特に新しい商会をターゲットにすることが多い」ガルドは続けた。「前金を払って安心させた後、納品直前に何らかの難癖をつけて契約破棄を申し出る。そして既に支払った金額の返還を要求する」
「つまり...」
「そうだ」ガルドは厳しい表情で言った。「君は彼の罠にはまりかけているかもしれない」
直樹は椅子に深く腰掛け、頭を抱えた。開業初日にして、このような危機に直面するとは。「どうすればいいのでしょうか...」
「契約はもう結んでしまったのか?」ガルドが尋ねた。
「はい」直樹は頷いた。「そして前金も受け取りました」
「なら、契約を履行するしかないだろうな」ガルドは現実的に言った。「だが、細心の注意が必要だ。彼が何を企んでいるのか、常に警戒しなければならない」
直樹は真剣に頷いた。「アドバイスをありがとうございます。気をつけます」
ガルドは帰り際に、最後の助言を残した。「商売では時に困難に直面する。だが、ピンチをチャンスに変える知恵を持つものこそが、真の商人だ。私は君ならできると信じている」
直樹はこの言葉に励まされた。「必ず乗り越えてみせます」
---
ガルドが去った後、直樹は遅くまで対策を考えていた。レオナルド・クラインが本当に悪意を持っているかは分からない。しかし、用心に越したことはない。
「50枚の白狐の毛皮...」直樹は考え込んだ。「もし彼が契約破棄を狙っているなら、この数量の希少性を理由にするだろう」
直樹は【最強の値切り】スキルで得た情報を思い返した。レオナルドは上流階級に影響力を持ちたいという野心がある。そして高級衣料の新シリーズを計画している...
「そうだ!」直樹はひらめいた。「彼の真の目的は毛皮そのものではなく、その希少性にある。白狐の毛皮がレアだからこそ、上流階級に訴求できる」
この考えを元に、直樹は新たな計画を練り始めた。白狐の毛皮を集めるだけでなく、それを用いた独自のデザイン、そして「限定品」としてのブランド価値を提案する。さらに、南方の絹との組み合わせで、他では手に入らない特別な製品を創り出すのだ。
「レオナルドが契約破棄を狙っているなら、むしろ先手を打って、彼が断れないような提案をしよう」直樹は決意した。
翌朝、直樹は早速行動に移した。まずはネイル村のヨハン村長に書簡を送り、白狐の毛皮の確保を依頼する。同時に、南方の絹商人組合にも連絡を取り、特別な織りの絹を注文した。
商会の評判がかかった大きな挑戦。直樹は持てる知恵と交渉力を総動員して、この危機を乗り越えようとしていた。
「値切りの王を目指す者として、これくらいの困難は乗り越えてみせる」
直樹の目には、新たな決意の光が宿っていた。
0
あなたにおすすめの小説
神様の忘れ物
mizuno sei
ファンタジー
仕事中に急死した三十二歳の独身OLが、前世の記憶を持ったまま異世界に転生した。
わりとお気楽で、ポジティブな主人公が、異世界で懸命に生きる中で巻き起こされる、笑いあり、涙あり(?)の珍騒動記。
セーブポイント転生 ~寿命が無い石なので千年修行したらレベル上限突破してしまった~
空色蜻蛉
ファンタジー
枢は目覚めるとクリスタルの中で魂だけの状態になっていた。どうやらダンジョンのセーブポイントに転生してしまったらしい。身動きできない状態に悲嘆に暮れた枢だが、やがて開き直ってレベルアップ作業に明け暮れることにした。百年経ち、二百年経ち……やがて国の礎である「聖なるクリスタル」として崇められるまでになる。
もう元の世界に戻れないと腹をくくって自分の国を見守る枢だが、千年経った時、衝撃のどんでん返しが待ち受けていて……。
【お知らせ】6/22 完結しました!
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
異世界で魔法が使えない少女は怪力でゴリ押しします!
ninjin
ファンタジー
病弱だった少女は14歳の若さで命を失ってしまった・・・かに思えたが、実は異世界に転移していた。異世界に転移した少女は病弱だった頃になりたかった元気な体を手に入れた。しかし、異世界に転移して手いれた体は想像以上に頑丈で怪力だった。魔法が全ての異世界で、魔法が使えない少女は頑丈な体と超絶な怪力で無双する。
猫好きのぼっちおじさん、招かれた異世界で気ままに【亜空間倉庫】で移動販売を始める
遥風 かずら
ファンタジー
【HOTランキング1位作品(9月2週目)】
猫好きを公言する独身おじさん麦山湯治(49)は商売で使っているキッチンカーを車検に出し、常連カードの更新も兼ねていつもの猫カフェに来ていた。猫カフェの一番人気かつ美人トラ猫のコムギに特に好かれており、湯治が声をかけなくても、自発的に膝に乗ってきては抱っこを要求されるほどの猫好き上級者でもあった。
そんないつものもふもふタイム中、スタッフに信頼されている湯治は他の客がいないこともあって、数分ほど猫たちの見守りを頼まれる。二つ返事で猫たちに温かい眼差しを向ける湯治。そんな時、コムギに手招きをされた湯治は細長い廊下をついて歩く。おかしいと感じながら延々と続く長い廊下を進んだ湯治だったが、コムギが突然湯治の顔をめがけて引き返してくる。怒ることのない湯治がコムギを顔から離して目を開けると、そこは猫カフェではなくのどかな厩舎の中。
まるで招かれるように異世界に降り立った湯治は、好きな猫と一緒に生きることを目指して外に向かうのだった。
【完結】487222760年間女神様に仕えてきた俺は、そろそろ普通の異世界転生をしてもいいと思う
こすもすさんど(元:ムメイザクラ)
ファンタジー
異世界転生の女神様に四億年近くも仕えてきた、名も無きオリ主。
億千の異世界転生を繰り返してきた彼は、女神様に"休暇"と称して『普通の異世界転生がしたい』とお願いする。
彼の願いを聞き入れた女神様は、彼を無難な異世界へと送り出す。
四億年の経験知識と共に異世界へ降り立ったオリ主――『アヤト』は、自由気ままな転生者生活を満喫しようとするのだが、そんなぶっ壊れチートを持ったなろう系オリ主が平穏無事な"普通の異世界転生"など出来るはずもなく……?
道行く美少女ヒロイン達をスパルタ特訓で徹底的に鍛え上げ、邪魔する奴はただのパンチで滅殺抹殺一撃必殺、それも全ては"普通の異世界転生"をするために!
気が付けばヒロインが増え、気が付けば厄介事に巻き込まれる、テメーの頭はハッピーセットな、なろう系最強チーレム無双オリ主の明日はどっちだ!?
※小説家になろう、エブリスタ、ノベルアップ+にも掲載しております。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
高校生の俺、異世界転移していきなり追放されるが、じつは最強魔法使い。可愛い看板娘がいる宿屋に拾われたのでもう戻りません
下昴しん
ファンタジー
高校生のタクトは部活帰りに突然異世界へ転移してしまう。
横柄な態度の王から、魔法使いはいらんわ、城から出ていけと言われ、いきなり無職になったタクト。
偶然会った宿屋の店長トロに仕事をもらい、看板娘のマロンと一緒に宿と食堂を手伝うことに。
すると突然、客の兵士が暴れだし宿はメチャクチャになる。
兵士に殴り飛ばされるトロとマロン。
この世界の魔法は、生活で利用する程度の威力しかなく、とても弱い。
しかし──タクトの魔法は人並み外れて、無法者も脳筋男もひれ伏すほど強かった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる