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第5話:「魔王妃」の烙印
しおりを挟む魔王城の大広間は、かつてない程の緊張感に包まれていた。
何百という魔族たちが整列し、中央の玉座に座る魔王ヴァルゼスを見上げていた。彼らの目には、恐れと敬意、そして好奇心が混ざっていた。
玉座の隣には空席がある。魔王妃のための席だ。
「我が臣下たちよ」ヴァルゼスの声が広間に響き渡った。「今夜、お前たちに紹介する者がある」
広間の扉が開き、リリエルが姿を現した。
彼女は昼間の訓練着とは全く異なる、荘厳な黒のドレスを身にまとっていた。金の刺繍が施された黒と深紅のドレスは、彼女の金髪と青い瞳を際立たせていた。首元には紅玉の首飾り、左手には魔王との契約の証である黒い刻印が浮かび上がっている。
かつての聖女の優しい微笑みはなく、冷たい気品を漂わせながら、リリエルは堂々と入場した。
魔族たちの間に驚きの声が広がった。
「あれは...」
「人間か?」
「いや、あの髪...聖女ではないのか?」
リリエルは一切表情を変えず、真っすぐに玉座へと向かった。彼女の歩みは優雅で、高貴さに満ちていた。
玉座の前で一礼すると、魔王は立ち上がり、彼女の手を取った。
「我が妻、リリエル」魔王が宣言した。「かつて聖女として王国に仕え、今は闇を選んだ女だ」
魔王の言葉に、広間に衝撃が走った。魔族たちの間で囁きが広がる。
「聖女が魔王の妻に?」
「冒涜だ...」
「私たちの敵ではないのか?」
疑いの声が高まる中、ヴァルゼスは手を上げた。一瞬で広間が静まり返る。
「今夜、我が妻との血の契約を正式に結び、彼女を魔王妃として迎える」魔王は続けた。「いかなる反対も認めぬ」
最後の言葉には威圧があった。誰も声を上げる勇気はなかった。
魔王はリリエルを玉座の隣へと導き、彼女を座らせた。彼の目には所有欲と満足感が満ちていた。
「儀式を始めよ」魔王が命じた。
老いた魔族の祭司が前に進み出た。鬼のような角と長い髭を持ち、禍々しい杖を手にしている。
「魔王陛下」祭司が声を上げた。「人間との契約、それも聖女との契約は前例がございません。彼女の魂は光に縛られており、完全な契約は—」
「黙れ」魔王の一言で、祭司は言葉を切った。「彼女の魂はもはや光だけには縛られていない。闇を受け入れ始めている」
魔王はリリエルの方を向いた。
「見せてやれ」彼は囁いた。「お前の力を」
リリエルは静かに立ち上がり、右手を前に差し出した。彼女は目を閉じ、自分の内側に意識を向けた。
すると、彼女の手から光が放たれ始めた。それは聖女の純白の光ではなく、紫がかった光だった。光の中に、黒い影のような模様が浮かび上がっている。
広間の魔族たちは息を呑んだ。通常、聖なる光は魔族にとって苦痛を与えるものだ。しかし、リリエルの放つ光は違った。光でありながら、闇の要素を含んでいた。
「これは...」祭司が震える声で言った。「聖なる力と闇の力が...共存している」
「そうだ」魔王は満足げに微笑んだ。「彼女は特別な存在だ。今はまだその力の一部しか目覚めていないが、やがて『聖魔女』となる」
「聖魔女...」祭司の目が驚きで見開かれた。「伝説の存在です」
リリエルは自分の力を眺めながら、内心で思った。
「聖魔女...私が?」
彼女の中で聖女としての記憶が蘇る。神に忠実に仕え、光の力で人々を癒してきた日々。そして、それらの人々に裏切られた痛み。
「もういい」魔王が彼女に声をかけた。「十分だ」
リリエルは力を収め、玉座に戻った。
祭司は深々と頭を下げた。
「陛下、儀式の準備をいたします」
祭司の合図で、複数の魔族が黒い水晶でできた台座を運んできた。その上には金の杯と、儀式用の短剣が置かれていた。
「魔王妃との契約の儀式を始める」祭司が宣言した。
魔王はリリエルの手を取り、二人で台座の前に立った。
「血の契約は既に交わしている」魔王が言った。「今夜は、全ての臣下の前で正式な儀式を行う」
祭司が短剣を魔王に手渡した。魔王は躊躇なく自分の手のひらを切り、血を杯に滴らせた。次に、同じ短剣がリリエルに渡された。
一瞬の躊躇があった。これが最後の選択の機会だとリリエルは感じていた。この儀式を終えれば、もう後戻りはできない。
彼女は一度だけ、魔王の金色の瞳を見上げた。そこには強烈な執着と期待が宿っていた。
「迷いがあるなら、今言え」魔王は小さな声で言った。「だが、約束しよう。俺はお前を裏切らない。お前の復讐を必ず果たさせる」
その言葉に、リリエルの最後の迷いが消えた。彼女は短剣で自分の手のひらを切り、血を杯に滴らせた。
二人の血が杯の中で混ざり合う。祭司が古代魔族の言葉で呪文を唱え始めた。
その瞬間、杯から黒い煙が立ち上り、二人を包み込んだ。リリエルの体に激しい痛みが走った。彼女の左手の刻印が広がり、腕全体を覆い始める。
魔王も同様に、右腕に新たな刻印が浮かび上がった。二人の刻印は同じ模様——永遠の契約の証だった。
「これで儀式は完了した」祭司が宣言した。「魔王様と魔王妃様の魂は永遠に結ばれました」
広間の魔族たちは一斉に膝をつき、頭を下げた。魔王の選んだ妃を、彼らは否応なしに認めるしかなかった。
リリエルは自分の腕を見つめた。刻印は美しく、複雑な模様で、中に紫の光が流れているように見えた。
「お前は正式に俺の妻となった」魔王が彼女の耳元で囁いた。「魔王妃リリエル」
その称号は奇妙な感覚をリリエルに与えた。かつて「聖女リリエル」と呼ばれた彼女が、今や「魔王妃リリエル」と呼ばれる。運命の皮肉だった。
「さあ、宴を始めよう」魔王が命じた。
広間の側面から扉が開き、多くの使用人が食事を運んできた。魔族たちは席に着き、魔王と魔王妃を祝う宴が始まった。
「乾杯」魔王が杯を上げた。「我が妻、魔王妃リリエルのために」
全ての魔族が杯を上げた。しかし、彼らの目には様々な感情が混ざっていた。敬意、恐れ、そして疑いと憎しみ。
リリエルはそれらの視線を全て受け止めた。彼女は魔王の隣に座り、冷たい微笑みを浮かべた。
「彼らは私を恐れている」彼女は魔王に小声で言った。
「当然だ」魔王は低く笑った。「お前は『聖女』だった。魔族の天敵だ」
「でも今は違う」リリエルは自分の刻印を見つめた。「私はもう聖女ではない」
「そうだ」魔王は彼女の手を取った。「お前は魔王妃だ。俺のものだ」
宴の間、様々な魔族が二人に挨拶に来た。表面上は敬意を示しながらも、多くの魔族がリリエルを疑いの目で見ていることは明らかだった。
特に、訓練場で見かけたグラウトは、露骨な敵意を隠していなかった。
「魔王妃様」彼は皮肉を込めた口調で言った。「人間の身で魔族を統治するとは、大変な重責ですな」
「そうね」リリエルは冷たく答えた。「でも私はもう人間の心を持っていないわ」
「それは本当でしょうか?」グラウトの目が鋭くなった。「一度裏切った者は、また裏切る。これは真理です」
リリエルの瞳が冷たく光った。彼女は立ち上がり、グラウトの目をまっすぐに見つめた。
「あなたの言う通り」彼女は静かな声で言った。「裏切り者は二度裏切る。だからこそ、私は人間世界を裏切った。彼らが先に私を裏切ったからね」
彼女の左手から紫の光が漏れ始めた。グラウトが一歩後ずさる。
「しかし、私を受け入れた者は裏切らない」リリエルの目に決意が宿った。「これは誓いよ」
魔王が満足げに微笑んだ。グラウトは渋々頭を下げ、退いていった。
宴が進む中、リリエルは魔王に囁いた。
「復讐の計画を始めましょう」
「急いでいるようだな」魔王は彼女の頬に触れた。
「ええ」リリエルの目に冷たい光が宿った。「あの国がどれだけ混乱しているか、見てみたいの」
「明日から始めよう」魔王は約束した。「俺の力を全て使って、お前の復讐を果たす」
リリエルは静かに頷いた。彼女の心に、かつてない高揚感が広がっていた。それは聖女としての喜びとは全く異なる、復讐心からくる昂りだった。
宴が終わりに近づいた頃、魔王は立ち上がり、全ての魔族に向かって宣言した。
「明日から、王国への攻勢を強める。我が妻の望みは、彼女を裏切った者たちへの復讐だ」
魔族たちの間に戦意が高まった。彼らにとって、王国との戦いは長年の宿願だった。
「お前たちは我が妻に従え」魔王の声は厳しかった。「彼女を侮る者は、俺に刃向かうのと同じだ」
魔族たちは一斉に頭を下げた。リリエルは玉座から立ち上がり、魔族たちを見下ろした。
「私はかつて、あなたたちの敵でした」彼女は静かに言った。「しかし今は違う。私は魔王の妻となり、闇を選びました」
彼女の声には冷たい決意があった。
「もういい子ではいられません。これからの私は、復讐のためだけに生きる」
彼女の宣言に、魔族たちは黙って聞き入った。かつての聖女の口から発せられる冷酷な言葉に、彼らの多くが彼女を見る目を変え始めていた。
魔王はリリエルの肩に手を置き、魔族たちに向かって宣言した。
「我らが魔王妃の力を、お前たちは目にすることになるだろう。彼女は『聖魔女』となる。聖なる力と闇の力、両方を操る存在だ」
その言葉に、魔族たちの間でざわめきが起きた。伝説の存在が現実になるのを、彼らは恐れと期待を持って見つめていた。
宴が終わり、魔王はリリエルを王妃の間へと案内した。それは魔王の寝室に隣接する豪奢な部屋だった。
「気に入ったか?」魔王が尋ねた。
「ええ」リリエルは部屋を見回した。「王宮よりも居心地がよさそうね」
「ここはお前の城だ」魔王は彼女の肩に腕を回した。「お前は魔王妃として、この城とその民を統治する権利を持つ」
リリエルは静かに頷いた。彼女の心には新たな決意が芽生えていた。
「私は...もう後悔しない」彼女は呟いた。「私はこの道を選んだ」
「そうだ」魔王は彼女の顔を上げさせた。「お前は闇を選んだ。もう光には戻れない」
その言葉に、リリエルは微笑んだ。かつての優しい聖女の微笑みではなく、冷たく、決意に満ちた微笑みだった。
「戻りたいとも思わない」彼女は言い切った。「私はもう『いい子』ではない」
魔王は満足げに頷き、彼女の唇に軽くキスをした。
「明日からは、お前の復讐が始まる」彼は約束した。「お前を裏切った者たちに、地獄を見せてやろう」
リリエルは黙って頷いた。彼女の瞳には冷たい光が宿り、唇には決意の微笑みが浮かんでいた。
かつての聖女は完全に消え去り、そこにあるのは新たな存在——魔王妃リリエル、闇堕ちした聖女の姿だけだった。
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