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第7話:魔王の溺愛
しおりを挟む結婚式から三日後、魔王城の訓練場でリリエルの鋭い一撃が魔族の戦士を吹き飛ばした。
「ぐっ...!」
鎧を身に纏った大柄な魔族が壁に叩きつけられ、そのまま倒れ込む。彼の周りには、既に十人以上の魔族戦士たちが意識を失っていた。
訓練を見守っていた魔族たちが息を呑んだ。
「信じられない...」
「たった三日で、あれほどの力を...」
リリエルは無表情のまま、自分の手を見つめた。彼女の左手からは紫がかった光が漏れ出ていた。光の中に黒い影が混ざっているような、不思議な力だった。
「素晴らしい」
魔王ヴァルゼスが拍手しながら訓練場に入ってきた。彼の目は興奮と欲望で輝いていた。
「わずか数日で、これほどまでに成長するとは」
リリエルは小さく息を吐いた。彼女自身も、自分の力の急激な成長に驚いていた。婚姻の儀式を経て、彼女の体は急速に変化していた。背中から生えた小さな翼は少しずつ大きくなり、左目の下の刻印はより鮮明になっていた。
「まだ十分ではありません」彼女は冷静に言った。「聖剣を奪うには、もっと力が必要です」
魔王は彼女に近づき、肩に手を置いた。
「焦るな」彼の声は低く、所有欲に満ちていた。「お前の復讐は必ず成功する。俺が保証する」
リリエルは魔王の金色の瞳を見上げた。かつての聖女としての彼女なら、この男の目に宿る狂気めいた執着を恐れただろう。しかし今の彼女は、その執着に安心感すら覚えた。
「ありがとう...」彼女は小さく呟いた。魔王の前でだけ見せる、弱さの表現だった。
魔王は彼女の頬に触れ、まるで貴重な宝物を扱うように優しく撫でた。しかし、その目に宿るのは純粋な愛情ではなく、絶対的な所有欲だった。
「お前は俺のものだ」彼は囁いた。「誰にも渡さない」
---
食堂で昼食を取りながら、リリエルは来客の知らせを受けた。
「魔王様、獣魔族の長が謁見を求めております」部下の魔族が報告した。
魔王は面倒そうに頷いた。
「了解した。執務室に通せ」
リリエルは食事を続けようとしたが、魔王は彼女の手を取った。
「一緒に来い」彼の声は命令だった。「お前も魔王妃として、こういった政務に慣れる必要がある」
リリエルは静かに頷き、食事を中断して立ち上がった。
執務室に入ると、そこには獣の特徴を持つ魔族の男が待っていた。狼のような耳と尻尾を持ち、鋭い牙が覗く彼は、獣魔族の中でも高位の者だった。
「魔王陛下」彼は深々と頭を下げた。「ご機嫌よう」
「何の用だ、グレイハウンド」魔王は椅子に腰掛けながら尋ねた。
「魔王の婚姻の儀式に招かれなかったことを残念に思っております」グレイハウンドの声には僅かな不満が混ざっていた。「獣魔族は古くから魔王家に忠誠を——」
「本題に入れ」魔王の声は冷たかった。
グレイハウンドは一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正した。
「はい。実は、王国との国境で我々の領地が侵害されております。新たな聖女の指示で、聖騎士団が我々の領域に——」
彼の言葉は途中で止まった。彼の鋭い獣の目がリリエルに向けられたからだ。
「これが...噂の魔王妃」グレイハウンドの声が変わった。「かつての聖女が、闇に堕ちたという話は本当だったのですね」
彼の目には好奇心と警戒が混ざっていた。
「目を離せ」
魔王の声が執務室に響き渡った。その声には明らかな怒りが含まれていた。
グレイハウンドは慌てて視線を外した。
「申し訳ありません、陛下」彼は頭を下げた。「無礼をお許しください」
「俺の妻を見つめる権利は誰にもない」魔王の声は低く、危険に満ちていた。「その目を潰されたくなければ、二度と彼女を直視するな」
リリエルは魔王の過剰な反応に少し驚いた。彼の独占欲は彼女の予想以上に激しかった。
「お話を続けてください」リリエルが冷静に言った。彼女は魔王の肩に軽く手を置き、彼を落ち着かせようとした。
グレイハウンドは床を見つめたまま、国境での問題について説明を続けた。その間、彼は一度もリリエルを直視しなかった。
話が終わると、魔王は解決策を提示し、グレイハウンドを下がらせた。
「あなたの反応は少し過剰だったのでは?」リリエルは魔王に尋ねた。
「過剰?」魔王は彼女の顎を掴み、顔を近づけた。「俺の妻を他の男が見つめるのを許せるわけがない。お前は俺だけのものだ」
その言葉と行動には、狂気に近い独占欲が滲んでいた。リリエルは彼の金色の瞳を見つめ返した。
「あなたの独占欲は異常ね」彼女は淡々と言った。
「それが気に入らないのか?」魔王の声には緊張が走った。
リリエルは僅かに微笑んだ。それは冷たいながらも、どこか嬉しそうな表情だった。
「いいえ」彼女は静かに答えた。「誰かに必要とされることは...悪くないわ」
魔王の表情が和らいだ。彼はリリエルの髪に触れ、指で絡めるように撫でた。
「お前を手に入れた時から、俺は誰にもお前を渡すつもりはなかった」彼は言った。「お前の全てが欲しい。体も、心も、魂も」
その言葉に、リリエルの胸に奇妙な温かさが広がった。
---
夕方、リリエルは魔王城の書庫で聖剣に関する古文書を調べていた。復讐計画を具体化するための情報収集だった。
書庫の扉が開き、魔王が入ってきた。彼の手には小さな箱があった。
「何を調べている?」
「聖剣についてです」リリエルは古文書から顔を上げた。「聖剣は元々『光と闇の均衡』を保つために創られたものだそうです。単なる光の武器ではないんですね」
魔王は興味深そうに頷いた。
「だからこそ、お前のような存在——光と闇の力を両方持つ者には親和性が高いだろう」
「おそらく」リリエルは同意した。「そして私の血には、聖剣を目覚めさせる力があるはず」
魔王は彼女の隣に座り、持ってきた箱を開けた。中には赤い宝石がついた黒い首飾りがあった。
「これはお前への贈り物だ」
リリエルは首飾りを見つめた。それは美しい細工が施された黒檀のチョーカーで、中央に深紅の宝石が埋め込まれていた。
「これは...?」
「魔力増幅の宝具だ」魔王が説明した。「お前の力をさらに強化する。そして...」
彼は一瞬躊躇ったように見えたが、続けた。
「...俺との繋がりを強める効果もある」
リリエルは首飾りを手に取り、宝石に触れた。その瞬間、彼女の指先に電流のような感覚が走った。
「これをつければ、私の場所があなたに分かるようになるのね」彼女は魔王の真意を察した。
「ああ」魔王は認めた。「俺はどこにいても、お前を感じることができる」
それは明らかな監視のためのアイテムだった。かつての彼女なら、そんな束縛を拒絶しただろう。しかし今の彼女は——
「つけて」彼女は首飾りを魔王に差し出した。
魔王は少し驚いたように彼女を見つめた。
「抵抗しないのか?」
「あなたは私を守ると約束した」リリエルは冷静に答えた。「私はあなたを信じると決めた。だから...」
彼女は言葉を切った。口にするのは難しい感情だった。しかし、彼女の目には決意が宿っていた。
魔王は満足げに微笑み、彼女の後ろに回ってチョーカーを首に巻いた。鍵を閉めると、宝石が一瞬赤く輝いた。
「これで...お前は完全に俺のものだ」彼は彼女の耳元で囁いた。
リリエルは新しい首飾りに触れた。それは物理的な束縛の象徴だったが、奇妙なことに彼女は安心感を覚えていた。
「他にも贈り物がある」魔王は言った。
彼は書庫の奥から長い箱を持ってきた。開けると、中には優美な黒い剣が収められていた。刀身は黒く、柄には紅玉が埋め込まれている。
「『闇刀』の強化版だ」魔王が説明した。「『暗黒剣』と呼ばれる武器。お前の力を最大限に引き出す」
リリエルは剣を手に取った。握った瞬間、彼女の体に力が満ちるのを感じた。
「この剣で...聖剣を奪います」彼女は決意を込めて言った。
魔王は満足げに頷き、彼女の肩を抱いた。
「俺たちが協力すれば、王国など易々と滅ぼせる」彼の声には確信があった。「お前の復讐を必ず果たす」
リリエルは彼の腕の中で、かつて感じたことのない安心感を覚えた。かつての聖女時代、彼女は誰からも愛されていると思っていた。しかし、それは彼女が「聖女」だからこそ得られた薄っぺらな敬愛だった。
今、魔王が彼女に示す感情は違った。それは狂気に近い執着だったが、少なくとも彼女自身に向けられたものだった。
「明日から、聖剣奪取の作戦を本格的に始める」魔王が宣言した。「準備はいいか?」
リリエルは剣を構え、微かに笑みを浮かべた。
「ええ、準備は万全です」
---
夜、魔王の寝室でリリエルは眠りにつこうとしていた。しかし、彼女の心は落ち着かなかった。
「眠れないのか?」
隣で横になっていた魔王が彼女の様子を察して尋ねた。
「ええ...少し」リリエルは正直に答えた。「明日からいよいよ復讐が始まると思うと...」
魔王は彼女を抱き寄せた。
「恐れているのか?」
「恐れではなく...」リリエルは言葉を探した。「不思議な感覚です。かつての私なら考えられなかったことをしようとしている」
魔王は彼女の金髪を指で梳くように撫でた。
「お前は変わった」彼は静かに言った。「光だけの存在から、光と闇の両方を受け入れる存在へ」
リリエルは彼の胸に頭を預けた。魔王の腕の中だけが、彼女にとって安全な場所だった。
「あなたは...私を裏切りませんか?」彼女は小さな声で尋ねた。魔王にだけ見せる弱さだった。
魔王は彼女の顎を掴み、顔を上げさせた。
「何度言えば分かる」彼の声は低く、激しいものだった。「お前は俺のものだ。俺は自分のものを手放さない」
彼は彼女の唇を奪うように口づけた。リリエルはその唇の感触に体を震わせた。魔王の口づけには所有欲と執着が込められていた。それは愛情というよりも、獲物を捕らえた捕食者の満足感に近いものだった。
しかし、リリエルにはそれで十分だった。彼女はその口づけに応じた。
口づけが終わると、魔王は彼女の首元に顔を埋めた。
「お前は俺だけを見ていればいい」彼は囁いた。「俺以外の男を見るな。話すな。考えるな」
その言葉には明らかな独占欲と支配欲があった。
「王太子は私を捨てた」リリエルは静かに言った。「でもあなたは違う。あなたは私を選んだ」
「ああ」魔王は彼女を強く抱きしめた。「あの愚か者は宝石を見つけながら、その価値が分からなかった。俺はお前を決して手放さない」
リリエルはその言葉に安心感を覚えた。彼の執着が、彼女にとっては最大の安全保障だった。
「私もあなたを手放さない」彼女は小さく呟いた。「あなただけは...」
魔王の顔に満足げな笑みが浮かんだ。彼は彼女の頬に触れた。
「お前の心も俺のものだ」彼は言った。「お前の全てが俺のものだ」
リリエルはその言葉を否定しなかった。かつての聖女としての彼女なら、そんな束縛に反発しただろう。しかし今の彼女は、その束縛に安らぎすら覚えていた。
「明日は早い」魔王は彼女の額にキスをした。「休め」
リリエルは魔王の腕の中で目を閉じた。彼女の心は不思議な平穏に包まれていた。それは光に包まれた聖女時代の平穏とは全く異なる、闇の中の安らぎだった。
明日から始まる復讐への期待と、魔王の溺愛に包まれながら、リリエルは眠りに落ちた。彼女の唇には、かつての聖女の面影はなく、冷たい微笑みが浮かんでいた。
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