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第8話「祖母の遺言」
しおりを挟む鷹野の家から逃げるように帰った真一は、心臓の鼓動が治まらなかった。明日、「紅い部屋」に入るべきだという古老の言葉。15年前の契約を完遂するため——その意味するところが恐ろしかった。窓から差し込む夕日が部屋を赤く染め、壁に伸びる影が不気味に揺れている。
「逃げるしかない」
真一は荷物をまとめ始めた。今夜のうちに村を出よう。しかし、祖母の形見をそのまま置いていくわけにはいかない。真一は祖母の遺品がまだ残っている納戸へと向かった。
納戸は埃っぽく、長年使われていない道具や布団が積み上げられていた。つり下がる裸電球の下、真一は祖母の形見となるものを探し始めた。長持ちを開け、着物や小物を一つ一つ確認していく。
積み重なった箱の奥から、真一の目に留まったのは古びた桐箱だった。「真一」と表書きされている。祖母が自分のために残したものだろうか。
箱を開けると、中には一通の封筒と数枚の古い写真、そして見覚えのある赤い布切れがあった。封筒には「真一へ——いつか君が帰ってきた時のために」と書かれていた。震える手で封を切り、中の手紙を取り出す。
-----
真一へ
このたより書いている今日は、あなたが霧間村を出た日から、ちょうど一か月が経ちました。あなたがこの手紙を読む頃、私はもうこの世にいないかもしれません。しかし、あなたに伝えなければならないことがあります。
霧間村に戻ってはいけません。特に「紅い部屋」には絶対に近づいてはいけないのです。あの子たちがあなたを連れ戻そうとしています。
15年前、村で何が起きたのか、あなたは覚えていないでしょう。記憶喪失は、あなたの心を守るための防衛反応です。かつてあなたは、村の子どもたち7人と共に「紅い部屋」に入れられました。しかし、部屋の中で何かが起き、あなただけが生き残ったのです。
その夜、私はあなたの悲鳴で目を覚まし、「紅い部屋」へと急ぎました。扉の前で、あなたは血まみれになって泣いていました。周りには村人たちが集まり、あなたを責め立てていました。私はあなたを連れて、その夜のうちに村を出ました。
あなたが村を出た後、霧間村では子どもが生まれなくなりました。村人たちは「紅い御子様」との新たな契約を結び、毎月、大人の一人が「紅い部屋」に入るようになったのです。
もし何かの理由であなたが村に戻ることになったら、東の山を越えなさい。崖沿いの小道を3キロほど行くと、古い鳥居があります。その先に出ると、隣村に抜けられます。
しかし、覚えておきなさい。村を出ても、あの子たちはあなたを見つけようとするでしょう。「紅い部屋」の子どもたちは、あなたを忘れていないのです。
あなたが何をしたのか、私にはわかりません。ただ、あなたを守りたい一心で村を出ました。この手紙を読んだら、すぐに村を出なさい。そして、二度と戻らないで。
愛しているよ、真一。
祖母より
-----
手紙を読み終えた真一の手が震えていた。祖母は自分を守るために村を出たと言うが、「あなたが何をしたのか」という一文が気になる。「紅い部屋」で、自分は何をしたというのか?
封筒の中から、もう一枚紙切れが出てきた。地図のようだ。村の東側に続く山道と、そこから隣村へ抜ける脱出ルートが記されている。そして地図の隅に小さく「紅い月の夜は出られない」と書かれていた。
そして写真。それは自分が子どもの頃、友達と遊んでいる光景だった。田んぼの中で泥だらけになりながら笑う子どもたち。その中に見覚えのある顔——健太、美香、そして他の5人の子どもたちの姿があった。皆、普通の子どもの顔で笑っている。怨念を帯びた表情ではなく、ただの村の子どもたち。
「健太…美香…」
名前を口にすると、記憶の奥底が揺さぶられる感覚がした。彼らは自分の幼なじみだった。一緒に虫取りをし、山を駆け回り、秘密基地を作った仲間たち。しかし、なぜ今彼らは赤い服を着て、不気味な姿で現れるのか。
「紅い部屋では何が起きたんだ…」
真一は記憶を必死に呼び戻そうとしたが、頭に激痛が走るだけだった。思い出すことを拒む自分の心が、記憶を封印しているかのようだ。
最後に、箱に入っていた赤い布切れを手に取った。それはかつて自分が着ていた服の切れ端のようだ。触れた瞬間、真一の鼻腔に生温かい鉄の匂いが広がった。血の匂いだ。
「これは…」
不意に窓の外から物音がした。カーテンを開けると、庭に赤い服を着た子どもたちが立っていた。7人の子どもたちは無言で真一を見上げ、やがて一斉に手を振った。
慌ててカーテンを閉め、真一は祖母の手紙を握りしめた。「紅い部屋」で何が起きたのか。なぜ自分だけが生き残ったのか。そして鷹野の言う「契約を完遂する」とは何なのか。
夜が更けていく。真一は、明日の朝一番で村を出る決意をした。地図によれば、東の山を越えれば隣村に出られる。しかし、「紅い月の夜は出られない」という祖母の警告が気になった。今夜は満月。窓から見える月は、すでに不気味な赤みを帯びている。
「明日の朝を待つしかない」
真一はベッドに横になった。しかし、目を閉じても眠れない。「紅い部屋」の記憶が断片的に甦る。友達の笑顔。そして悲鳴。壁に浮かび上がる赤い手形。そして…あの「存在」。
いつの間にか、真一は眠りに落ちていた。
夢の中で、真一は子どもの頃の自分になっていた。赤い服を着て、「紅い部屋」の中にいる。周りには7人の友達。皆で手をつなぎ、円陣を組んでいる。
「紅の游び、紅の游び」
子どもたちが口々に唱える。中央には何かが置かれている。それは…人形?いや、違う。それは小さな動物だった。犬か猫のようだ。
次の瞬間、景色が変わる。部屋の中は暗く、友達の姿はない。壁には赤い手形。床には大量の赤い液体。そして自分の手には…
「真一…」
声がする。振り返ると、そこには祖母の姿があった。しかし、現実の祖母ではなく、若く美しい頃の祖母だ。
「祖母さん…」
「あなたはもう思い出したの?」祖母は悲しげな表情で尋ねた。
「何を?」
「あなたが何をしたのか…」
祖母の姿がゆらめき、その背後に「紅い部屋」が見える。扉が開き、中から赤い光が漏れ出す。その中に、何かの影が見えた。子どもたちだ。7人の子どもたちが手をつなぎ、こちらを見ている。
「真一くん、約束したよね?」健太の声。「明日、紅の游びをしようって」
「いや…僕は…」
「逃げたらダメだよ」美香が言う。「約束したのに」
子どもたちが一斉に手を伸ばし、真一を引き寄せようとする。祖母の姿は消え、真一は子どもたちに囲まれた。
「いやだ!」
叫び声と共に、真一は目を覚ました。冷や汗でシーツが濡れている。窓からは夜明けの光が差し込んでいた。
「夢か…」
しかし、ベッドの上には赤い手形が付いていた。まるで誰かが触れたかのように。
真一は震える手で祖母の遺言を再び読んだ。「村を出ても、あの子たちはあなたを見つけようとするでしょう」。その言葉に、恐怖が増した。
外は霧に包まれている。荷物をまとめ、真一は家を出る準備を始めた。祖母の手紙と地図、そして日記を鞄に詰める。必要最低限の衣類と、水、食料も用意した。
玄関のドアを開けようとした時、真一の足が止まった。ドアの前に、小さな赤い靴が7つ並べられていた。子どもたちの靴だ。
その靴を踏み越え、真一は霧の中へと踏み出した。東の山を目指して、村を脱出する時が来たのだ。
しかし、村を歩いていると、家々の窓から村人たちが真一を見つめているのが感じられた。皆、無言で、まるで彼の行動を監視しているかのようだ。
そして、村はずれに着く頃、前方に人影が見えた。赤い服を着た子どもたちだ。7人が手をつないで道をふさいでいる。
「行かないで、真一くん」健太が言った。「今日はあなたの番だよ」
真一は立ち止まった。逃げるべきか、それとも…
子どもたちの背後の霧の中から、別の人影が現れた。それは河合宮司だった。
「高槻さん、逃げても無駄です」河合は静かに言った。「『紅い御子様』の呼び声から逃れることはできません。今日、あなたは『紅い部屋』に入るのです」
子どもたちが笑顔で真一に手を差し伸べる。その瞳は真っ黒で、中に光はなかった。
「さあ、行こう。紅の游びを、完成させよう」
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