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第17話「儀式の代償」
しおりを挟む暗闇の中、真一の意識が浮遊していた。何処とも知れぬ虚空を漂いながら、彼は自分の存在そのものが分解し、再構築されていくような感覚を覚えた。そして、かすかな声が聞こえてくる。
「真一…起きて…」
まぶたが重い。一度、二度と瞬きをして、ようやく目を開けると、真一は「紅い部屋」の床に横たわっていた。天井からは赤い光が降り注ぎ、壁には無数のひび割れが走っている。部屋全体が崩壊しかけているようだった。
「よかった、目を覚ましたね」
声の方を見ると、そこには健太が立っていた。しかし、その姿はもはや半透明ではなく、完全に実体化していた。その周りには他の6人の子どもたちも集まっている。皆、実体を取り戻し、ほっとした表情を浮かべていた。
「何が…起きたんだ?」真一は、頭痛を感じながら上体を起こした。
「『紅い核』を封印した」健太が説明した。「あなたの祖母から教わった言葉によって、『紅い御子様』の力は大きく弱まった」
記憶が次々と戻ってくる。黒い結晶、祖母の教えた呪文、そして強い光。真一は自分の手のひらを見た。皮膚が赤く染まり、まるで赤い糸が皮膚の下を走っているようだった。
「これは…」
「代償だよ」健太の表情が暗くなった。「『紅い核』を封印するためには、誰かが代わりに呪いを受けなければならない」
「僕が?」
「そう」健太は悲しげに頷いた。「でも、まだ終わっていない。呪いを完全に解くためには、最後の儀式が必要なんだ」
真一はゆっくりと立ち上がった。頭がクラクラする。部屋の中央の祭壇を見ると、「紅い核」と呼ばれた黒い結晶は消え、代わりに小さな赤い球体が置かれていた。それは脈打つように光を放っている。
「あれは…」
「『紅い核』の残骸だよ」美香が説明した。「力のほとんどは失われたけど、まだ完全には消えていない」
健太が真一の前に立ち、真剣な表情で言った。「真一、お前が儀式を完了させれば、僕たちは自由になれる」
「どんな儀式だ?」
「最後の『紅の游び』だよ」健太は答えた。「でも、その代わりに…」彼は言葉を詰まらせた。
「その代わりに?」
「お前は僕たちの代わりに『紅い部屋』に永遠に封印される」
真一の背筋に冷たいものが走った。自分の命を犠牲にするということか。死ぬのか、それとも健太たちのように幽霊として存在するのか。
「どういうことだ?」真一は震える声で尋ねた。「僕が死ぬということ?」
「死ぬわけじゃない」健太は首を横に振った。「でも、現世には戻れなくなる。『紅い部屋』の新たな番人として、ここに留まらなければならない」
「どれくらいの間?」
「永遠に」健太の目に涙が浮かんだ。「僕たちが15年間そうだったように」
真一は言葉を失った。永遠に「紅い部屋」に閉じ込められる。外の世界には二度と戻れない。それは死よりも恐ろしいことかもしれない。
「そんな…」
「選択肢はある」健太はすぐに言った。「拒否することもできる。僕たちは無理強いしない」
「でも、拒否したら?」
「僕たちは永遠に解放されない」健太は静かに答えた。「そして、村の呪いも解けない。子どもは生まれず、毎月の生贄は続く」
真一は苦悩した。自分が逃げたせいで村と友人たちを呪いの中に閉じ込めてしまったという罪悪感と、自分の命を犠牲にする恐怖との間で揺れ動く。
「15年前、あなたが逃げたことは間違いじゃなかった」健太は真一の葛藤を察したように言った。「当時の僕たちは『紅い御子様』に操られていた。あなたが逃げたことで、最悪の事態は免れた」
「でも、君たちは…」
「閉じ込められた」健太は頷いた。「でも、それは仕方なかった。あの時、祭壇に置かれていたのは旅行者の子ども・雄太じゃなく、あなただった。あなたが逃げなければ、『紅い御子様』は完全に目覚め、村全体を飲み込んでいただろう」
「なぜ僕が選ばれたんだ?」
「あなたの血が特別だったから」健太は説明した。「祖母のミヨさんも同じ血を引いていた。霧間村を守るための特別な血筋。『紅い御子様』を封じる力を持つ血だ」
真一の記憶がさらに鮮明になる。祖母は村を出る前に自分に呪文を教えていた。「いつか必要になる時が来る」と。祖母はこの日が来ることを予見していたのだ。
「15年前、僕たちは『紅の游び』をやり過ぎた」健太は続けた。「最初は小さな生贄から始めたけど、次第にエスカレートしていった。そして『紅い御子様』の呪いを受けてしまった」
「呪い?」
「『紅い御子様』の声が聞こえるようになった」健太の目が虚ろになる。「毎晩、夢の中で囁いてくる。『もっと大きな生贄を』『本物の力を得るために』と」
「だから雄太くんを…」
「そう」健太は恥ずかしそうに頷いた。「でも、本当に欲していたのはあなただった。あなたの特別な血を」
「そして僕は逃げた」
「その呪いを解くには、一人を生贄に捧げる必要があった」健太の声が震えた。「選ばれたのは裏切り者のあなた。でも、あなたが逃げたことで儀式は未完了となり、僕たち7人の子どもは『紅い部屋』に閉じ込められ、大人になれないまま、幽霊として存在するようになった」
「村は…」
「子どものいない村となった」健太は悲しげに言った。「『紅い御子様』の呪いで、村では子どもが生まれなくなった。そして毎月の月例祭では、大人が『紅い部屋』に入ることで、僕たちの霊を鎮めていた」
真一は床に膝をつき、頭を抱えた。全ては自分のせいなのか。自分が逃げたせいで、友人たちは15年間も苦しみ、村は呪われた。
「自分を責めないで」美香が近づいてきた。「あなたは正しいことをした。あの時、僕たちは正気じゃなかった」
「でも…」
「今、あなたには選択肢がある」健太は真一の肩に手を置いた。「最後の儀式を完了させるか、それとも拒否するか」
「儀式とは?」
「『紅い核』の残骸を受け入れることだ」健太は祭壇の上の赤い球体を指差した。「あなたの体内に取り込み、永遠に『紅い部屋』の番人となる」
「そうすれば、君たちは自由になれる?」
「はい」健太は頷いた。「僕たちは成仏し、村の呪いも解ける。子どもが再び生まれるようになる」
真一は立ち上がり、祭壇に近づいた。赤い球体はまるで生き物のように脈打っている。それを取り込むということは、自分の人生を諦めることを意味する。東京での仕事、未来への希望、全てを失う。
「時間がない」健太が急かした。「『紅い部屋』が崩壊し始めている。決断しなければ」
真一は振り返り、友人たちの顔を見た。健太、美香、剛志、理恵、純平、直樹、里美。15年前の姿のまま、時が止まったように。彼らの目には希望と恐怖が混在していた。
「君たちは15年間、ここで苦しんでいたんだね」真一はつぶやいた。
「苦しかったよ」健太は素直に答えた。「でも、それは僕たちの罪への罰でもあった。雄太くんを誘拐しようとしたのは間違いだった」
「僕が決断を拒否したら、君たちはどうなるの?」
「このまま『紅い部屋』に閉じ込められたままだよ」健太は静かに言った。「そして、いずれ『紅い核』は再び力を取り戻し、より強力な『紅い御子様』として復活するだろう」
「村は?」
「呪いは続く」健太は肩をすくめた。「子どもは生まれず、村は徐々に衰退していく」
真一は深呼吸し、決意を固めた。自分が逃げたせいで友人たちと村が15年間苦しんだ。その責任を取るべきだ。
「わかった」真一は言った。「儀式を完了させよう」
子どもたちの顔に安堵の表情が浮かんだ。健太は感謝の眼差しで真一を見つめた。
「ありがとう、真一」
祭壇に向かって一歩踏み出した時、真一は一瞬立ち止まった。「健太、一つだけ聞かせてくれ」
「何だい?」
「この15年間、君たちは本当に僕を恨んでいなかったの?」
健太は首を横に振った。「恨んでなんかいなかったよ。むしろ、尊敬していた。あなただけが『紅い御子様』の誘惑に打ち勝ち、正しい判断ができたから」
その言葉に、真一の目に涙が浮かんだ。「ありがとう」
真一は祭壇の前に立ち、赤い球体を手に取った。温かい。まるで小さな心臓のように脈打っている。
「どうすればいいんだ?」
「心臓の上に置いて、僕たちが教える言葉を唱えて」健太が言った。
真一は球体を胸に当て、健太たちが口々に教える言葉を復唱し始めた。古い言葉、意味はわからないが、不思議と口から自然に出てくる。まるで血が覚えているかのように。
言葉を唱え終えると、球体が真一の胸に溶け込み始めた。痛みはなかったが、体中に熱が広がり、次第に赤い光が肌から放たれるようになった。
「これで…終わりか?」
「まだだ」健太が言った。「最後に、私たちと『紅の游び』をしよう」
子どもたちが円陣を組み、真一を中央に立たせた。皆が手をつなぎ、あの不気味な歌を歌い始める。
「紅い紅い 紅いお部屋 誰が入るの 私が入るの みんな入ろう 紅いお部屋」
歌声が部屋中に響き渡り、壁がさらに大きく揺れ始めた。天井から赤い霧が降り注ぎ、子どもたちの体を包み込む。彼らの姿が徐々に明るく輝き始め、実体がどんどん透明に変わっていく。
「さようなら、真一」健太の声が遠くから聞こえてきた。「君のおかげで、僕たちは自由になれる」
子どもたちの体が光に変わり、天井へと昇っていく。そして一斉に弾けるように消えた。部屋には真一一人だけが残された。
「皆…」
真一の体はさらに赤く輝き、血管を通じて「紅い核」の力が全身に広がっていくのを感じた。そして、部屋の様子が変わり始めた。壁のひび割れが修復され、天井からの赤い光が柔らかくなる。
部屋の中央に、真一の姿を映し出す鏡が現れた。鏡に映るのは、赤く染まった肌を持つ自分の姿。目は闇のように黒く、しかし内側から赤い光を放っている。もはや人間とは言えない存在に変わっていた。
「これが…僕の姿」
真一は鏡に近づき、自分の新しい姿をじっと見つめた。恐怖はなかった。むしろ、奇妙な平穏を感じていた。これが自分の運命だと受け入れられたからだろうか。
突然、部屋の扉が開き、一筋の光が差し込んだ。そこには河合宮司が立っていた。
「高槻さん…成し遂げたのですね」
「宮司さん…」
「あなたの犠牲は、村を救いました」河合は深々と頭を下げた。「これからは、月例祭も終わります。あなたが『紅い部屋』の新たな番人となったのですから」
「僕は…ここにいなければならないんですね」
「はい」河合は悲しげに頷いた。「しかし、あなたの名は霧間村の歴史に永遠に刻まれるでしょう」
河合は一歩下がり、扉を閉めようとした。
「待ってください」真一は言った。「一つだけお願いがあります」
「なんでしょう?」
「祖母の墓に花を供えてください。そして…東京の私の事務所に連絡を。『事情があって村に残ることにした』と」
河合は頷き、「承知しました」と答えた。
扉が閉まり、真一は再び一人きりになった。「紅い部屋」の新たな番人として、永遠の時を過ごす運命を受け入れたのだ。
窓から見える外の景色は、赤い月が沈み、朝日が昇り始めていた。新しい日の始まり。そして真一にとっては、新しい永遠の始まりだった。
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