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ACT 5 ミドルトン男爵邸の亡霊
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間違いない。エドガー・シンクレアがサリーを直接手にかけた犯人だ。
そして向こうも、ぼくたちの正体を知っている。
さすがのエドガーも、ミドルトン男爵邸の家政婦が、実はぺてん師グレンフィールド兄弟の兄アーノルドだということまでは気がついていないらしい。だが、眼鏡で隠したあの黄金色の瞳にやつが気づいたら、最後だ。姉さんの生命が危うくなる。
なんとしてもこのことを姉さんに知らせなくては。
ぼくは三階建てのミドルトン男爵邸を振り仰いだ。
夜会のあいだは無数のランプや篝火で照らされていた屋敷も、今は次々に灯りが消され、眠りにつこうとしていた。とりあえず火の始末だけしておいて、本格的な片づけや掃除は明日やるのだろう。
あたりにはもう、ほとんど人の気配はない。総入れ歯の執事も建物の中へ入り、玄関の扉を閉じようとしている。
彼の視線を避け、ぼくはさっと植え込みの影に身をひそめた。
低く身を屈めたまま、建物に平行して前庭を突っ切る。
半裸の彫像だらけの前庭から、コの字型に突き出した東棟のサンルームを回り込み、裏庭へと走った。
男爵邸の構造は姉さんに説明してもらって、すべて頭に入っている。
貴族の館で働く上級使用人は、通常、役職に応じて屋敷内の決まった場所に個室が与えられる。執事ならワイン蔵のそば、女主人に仕える小間使いなら衣装部屋の隣だ。そして家政婦は、食品貯蔵庫の手前と決まっている。
広大な敷地を走り抜け、屋敷の北側にある厨房のそばまでたどり着いた時には、男爵邸の灯りはほぼすべて消され、あたりは無人のように静まりかえっていた。
ついさっきまで、ここで絢爛たる夜会が開かれていたなんて、嘘みたいだ。使用人たちも戦争のように忙しい一夜がようやく終わり、それぞれのベッドでぐっすり眠り込んでいるのだろう。
ぼくは半地下になっている食品貯蔵庫の窓の下に身を寄せた。
そして、短く、鋭く、指笛を鳴らす。
ぴゅう、ぴゅういッ、と夜行性の鳥の声を真似るそれは、昔から使ってきた、ぼくと姉さんふたりだけの合図だ。
反応はすぐに来た。
「セディか!?」
食品貯蔵庫の小さな窓が開く。そこから、薄手の夜着一枚の姉さんが、仔猫みたいにぱっと飛び出してきた。
「姉さん!」
反射的に腕を広げ、ぼくは姉さんの身体を抱き留めた。
軽くてやわらかな姉さんの身体。やっぱり少し痩せたみたいだ。
白い木綿の夜着は暗がりでも目立つ。ぼくは外套を広げ、姉さんの肩を包み込んだ。
ぼくたちは猫のように寄り添い、窓の下にうずくまった。
「どうした?」
姉さんは声をひそめ、緊張した表情でぼくを見上げた。
この口笛の合図を使うのは緊急事態が起きた時のみ、と決めてある。ただならぬことが起きたと、姉さんもすでにわかっているのだ。
「サリーを殺した奴がわかったよ」
「なんだって!?」
「エドガー・シンクレアが実行犯だ。間違いない」
姉さんも息を飲んだ。
「あいつ、ぼくの正体にも気づいてる。サリーの葬式に出た時に、顔を覚えられたんだ」
「じゃあ、オレのことも……」
「いや、それはまだだ。でも時間の問題だと思う」
だいたい、ただの硝子をはめ込んだ伊達眼鏡くらいで、このまばゆい瞳を隠しおおせるのは無理なんだ。
その瞳を覗き込もうとして、ぼくは気づいた。
姉さんの左ほほに薄赤く、斜めに走る傷痕がある。
「姉さん。これ、どうしたの?」
「たいしたことねえよ。痕は残ってるけど、もう痛みもなにもないから」
「そうじゃなくて。誰にやられたの!?」
姉さんは一瞬、口ごもった。
「――あの女」
まあ……、その答は聞くまでもないことだったけど。
「掃除の仕方が気に入らないって、若いメイドの顔を鞭でめった打ちにしてたんでさ。思わず止めに入っちまった」
「顔を……!?」
鞭打ちは、英国では躾の一端として伝統的に行われている。だがその場合も、背中や臀部、あるいは手のひらなど、できるだけ危険の少ない、傷痕の目立たない部位を選んで打つべきものとされる。顔なんか殴ったら、下手をしたら眼球を傷つけ、失明させてしまいかねない。
姉さんの傷だって、一歩間違ったら大怪我をしていたかもしれない。
「姉さん、一旦ここから逃げたほうが良くないか? このままじゃ……」
「でも、せっかくここまで仕込んだんだ。男爵夫人もだいぶ怯えてる。メイドたちにやたら暴力をふるうのもそのせいだ。そうやって他人を痛めつけることで、自分の強さを確認しようとしてんだよ。あと一押しなんだ。今さら放り出せない!」
姉さんはぼくの胸元を掴み、必死に訴えた。
「あの女だけは許さない。そりゃ、オレだってぺてん師さ。他人を騙して金まきあげてる犯罪者が、なにぬかしてんだって言われるだろうけど。でも――でもオレたちは、自分より弱い人間をいたぶって悦ぶなんて真似は、絶対にしない! そうだろ、セディ! サリーの死に顔を覚えてるだろ。あの女はああやって、身重のサリーをさんざん殴って、踏みにじったんだ!!」
「もちろん、わかってるよ。ぼくだってあの女は絶対に許せない。でも、姉さんの安全のほうが大事だよ。別の方法を考えたっていいじゃないか」
姉さんの気持ちは痛いほど良くわかる。そして、自分のためではなく、自分よりも弱い、自らを守るすべを持たない人々のために憤るリゼを、ぼくは誇らしく思う。
けれど。もしも、もしも姉さんがサリーと同じ目に遭わされたら。
ぼくはあの女を、この手で、生きたまま引き裂いてやる。
「わがままばっか言って、ごめん。でも、オレは絶対逃げない。途中で投げ出してたまるもんか」
「姉さん……」
「ごめんな、セディ。おまえにはいつも、無茶ばっか言っちゃうよな」
「いいよ、そんなの」
ていうか、今さらだろ。こんなふうに姉さんがわがままを言うのは、ぼくにだけなんだし。
姉さんにわがままを言ってもらえなくなったら、ぼくは反対に、姉さんに見放されたのかって心配になるだろうな。
「ありがと」
姉さんは少し淋しそうに笑った。
「心配いらねーって。どうせオレ、もうすぐクビになるだろうしさ」
「クビって……」
まあ、そうだろう。男爵夫人の性格を考えたら、自分に意見する使用人なんて絶対に許さないはずだ。たとえ使用人の意見がどれほど正論であろうとも。
「だからそうなる前に、なんとしても成功させなきゃ。これまでの仕込みが全部無駄になっちまう」
「うん――。確かに、それはわかるけど……」
「――しっ、黙って!」
鋭く、姉さんがぼくを制した。
「誰か来る。隠れろ、セディ!」
姉さんは開けっ放しの窓を指した。
「え、ぼくが? 姉さんは!?」
「いいから早く!」
反論している余裕はない。ぼくは姉さんに命じられるまま、窓枠を乗り越え、食品貯蔵庫に飛び込んだ。
そのまま、窓のすぐ下に身をひそめる。
ざく、ざく、と革靴で砂利を踏む硬い足音がした。
「どうしたんです、ミセス・メイザー。こんな夜更けに」
この声、ジュリアンだ!
「申し訳ございません。猫が……野良猫が、お庭に入り込んでいたようでしたので」
しおらしく、静かで上品な声を作り、姉さんは答えた。
「猫ですか。執事もたしかそんなことを言ってたな……」
ぼくはそろそろと首を伸ばし、窓の外を窺った。
灯りのない食品貯蔵庫の様子は、外からは真っ暗でなにも見えないはずだ。用心していれば大丈夫。
ジュリアンは夜の暗がりに眼を凝らし、こちらに背を向けている。プラチナブロンドが闇の中に浮かび上がり、まるでそれ自体が天使の光輪のように光を放っているみたいだ。
姉さんはその後ろに立ち、慎ましく視線を伏せている。
その手がすっと、黒く染めた髪をかき上げた。小さな貝殻みたいな可愛い耳朶があらわになる。
そのまま、すっ、すうっと、何度か髪を撫でつけて。
あれは、姉さんの合図だ。
――仕掛けろ。
姉さんが、そう言っている。
今まで、“仕事”の最中に何度もあの合図を送ってもらった。どんなことでもいい、ぺてんを仕掛けろ。あとは自分がなんとかするから、きっかけをつくれ。そういう合図だ。
わかったよ、姉さん。
ぼくは慌ただしくポケットを探った。
水晶の振り子、ハンカチ、それからマッチの箱が指に触れる。――うん、これが使える。
ぼくはマッチを取り出し、靴の踵で擦って火を点けた。
オレンジ色の小さな炎がぽうっと燃え上がる。
それを、手だけ伸ばして窓のそばへ突き出し、さっと振る。
「きゃあっ!?」
姉さんが短く悲鳴をあげた。
「どうしました?」
ジュリアンが窓のほうへ振り返るのと同時に、ぼくはマッチを強く振り、火を消した。
ジュリアンの眼には、怪しい火の玉が一瞬室内をよぎり、ぱっと消えたように見えただろう。
「い、今のは……」
「若さまもご覧になられたのですか?」
「あなたも見たんだね、ミセス・メイザー」
姉さんは声もなくうなずいた。
「なんだったんだ、あれは……。小さな火の玉が、ぱっと浮かんで、消えてしまった……」
「――きゃっ!?」
「なんだ、今度はどうしたんだ!?」
「今……、今、そこに、誰か……!!」
姉さんはふるえる手で庭の奥を指し示した。
「白い……人影が……」
「人影? いや、ぼくにはなにも……」
「あ……。も、申し訳ございません。……きっと、わたくしの見間違いでございます」
今にも消え入りそうな声で謝り、姉さんはジュリアンに背を向けた。
「待ってくれ。なにを見たんです、ミセス・メイザー」
「いいえ、何でもございません。もう、失礼いたします」
目を伏せ、逃げるように立ち去ろうとする家政婦を、ジュリアンはその手を掴んで強引に引き留めた。
「お許しください。ありもしないものを見たなどと言って怯える愚か者には、レディ・ミドルトンは鞭をお与えになります」
「鞭……? 母が、あなたを鞭打つと?」
驚きを隠せないジュリアンに、姉さんはさらに居たたまれない様子を見せた。
言ってはいけないことを言ってしまった、という苦渋と愁いに満ちたその表情を、芝居だと見抜ける人間はまずいないだろう。相棒のぼくでさえ、すぐさま飛び出していって抱きしめてあげたいくらいだ。
「母にはなにも言わせない。あなたが知っていることを全部、話してほしいんだ……!」
「若さま――」
ジュリアンの熱意に、やがて家政婦はためらいながらも口を開く。――この、絶妙の間合い!
「このごろ、お屋敷の中でいろいろとおかしなことが続いているのをご存じでしょうか。メイドたちが怯えております。その……」
「うん。ぼくも聴いた。ロンドンデリーの歌だろう?」
「それだけではございません。先ほど、わたくしも見ました。白い人影が、そこを……」
姉さんはおずおずと、庭の暗がりを示した。
ジュリアンもそちらを凝視する。家政婦が見たものが、自分にも見えないか、と。まあ、見えるはずはないんだが。
「メイドたちの中には、……レディ・ミドルトンの後ろに同じような怪しい人影を見たとまで、申す者もおります」
「母の――!?」
姉さんは苦悩に満ちた表情でうなずいた。
「どういうことだ、それは!?」
「わかりません。まさか……レディ・ミドルトンにお伺いするわけにもまいりません……」
そりゃそうだ。訊けるわけがない。あなたは幽霊に取り憑かれるほど恨まれる覚えがありますか、なんて。
「わたくしも、なにがなんだかわからないのです。こんなことは生まれて初めてです。わたくしもメイドたちも、誰に相談すれば良いのかすら、わからなくて……」
「相談……?」
「同じような経験をした人でもあれば、良い解決方法もご存じでしょう。ですがわたくしたちには、そんな知識も経験もありません。ただ、ただ、怖ろしくて……!」
「知識、経験……」
ジュリアンはなかば無意識のうちに家政婦の言ったことを繰り返し、やがてはっと顔をあげた。
「そうだ。ミスター・メリウェザー……。あの人なら……!」
実はこれは、ぼくたちぺてん師の常套手段だ。迷っている相手にさりげなくヒントを与え、思考を誘導していくのだ。相手は自分で問題の答を思いついたと感じているから、その思考自体が都合良くコントロールされているのだとはなかなか気づかない。
「そうだ。彼ならきっと相談に乗ってくれる。ミスター・メリウェザーに話をしてみよう」
「メリウェザーさまとおっしゃいますと、さきほどの夜会で若さまのお手伝いをしてくださった方でしょうか?」
「ああ。彼ならきっと、良い方法を知ってるはずだ。明日にでも相談に行くよ」
――やった!
窓枠の下で、ぼくは声を殺して喝采した。
さすがは姉さんだ。ついにここまで話を持ってきたぞ。
「落ち着いて、ミセス・メイザー。この件はぼくに任せて。必ず何とかしてみせるから」
「若さま……」
ああ、そうだよ、ジュリアン。きみの努力が、結果的に真実を白日の下にさらすことにつながるんだ。罪は暴かれなくてはならない。
あとはジュリアンの相談に乗るふりをして、ぼくがこの屋敷で大々的に降霊会をやるだけだ。
ぼくと姉さんの力でサリーの亡霊を出現させ、その恨み哀しみを余すところなく語らせてやる。
「あなたは早く部屋に戻ったほうがいい。そんな恰好では風邪を引いてしまう」
「え? ……あ、きゃっ!」
ジュリアンにそう言われて、姉さんは小さく押し殺した可愛い悲鳴をあげた。まるで今初めて、自分が薄っぺらな夜着一枚きりで紳士の前に立っていることに気がついたかのように。
「す、すみません、わたくし……。まあ、なんてこと――!」
若さまへの挨拶もろくすっぽ言えないまま、家政婦は脱兎のごとく逃げ出した。
白い木綿の夜着に包まれた後ろ姿が建物の向こうに走り去るのを見届けて、ジュリアンももと来たほうへと歩き出す。
――で、ぼくは、ふたりの足音が聞こえなくなってからも、食品貯蔵庫の窓の下で、じっと身をひそめているしかなかった。
やがて。
「セディ。おい、セディ」
こつ、こつ、と窓硝子を小鳥がつつくような音がした。
見ると、姉さんがひどく恨めしそうな顔をして、爪先で窓をノックしている。
「早く開けろ。寒いんだよ。この窓、内側からしか開けられねえんだ」
「あ、ごめん」
そうか。姉さんはさっき、この窓から出てきた。ジュリアンの前じゃ、さも厨房の裏口から出てきたように装っていたけど、裏口の鍵が開いているはずはない。この窓からしか建物内に戻れないんだ。
ぼくが窓を開けると、姉さんは出てきた時と同じく軽々と窓枠を乗り越え、食品貯蔵庫に飛び込んだ。
「うーっ、寒いーっ!」
可哀想に姉さんは、唇も真っ青になってかたかたふるえている。
「あっためてあげようか?」
ドア一枚へだてた向こうは、家政婦の個室。姉さんのベッドがある。
大丈夫、使用人たちも今夜はもうぐっすり眠っているはずだ。リゼがちょっとお悧巧に声を我慢していれば、誰にもばれないさ。
けれど、
「莫迦!」
姉さんはきゅっとぼくの耳朶を抓った。
「なに聞いてたんだ、おまえは! 明日になったら、ジュリアンがおまえの屋敷に行くぞ!それまでに準備しておくことがあるだろうが!」
「やだなあ。そんなのとっくに完了してるよ」
「おまえが終わってても、オレがこれからなの! 邪魔しないで、とっとと帰れ!!」
結局ぼくは食品貯蔵庫の窓から外へ出て、足音を忍ばせながらすごすごと自分の屋敷へ戻るしかなかった。
これじゃまるで間男だ。――今夜はキスひとつできなかったのに。
翌日。時計が正午を告げる前に、ジュリアンはぼくの屋敷へやってきた。
社交界のルールでは非常識と言われる午前中の訪問は、ジュリアンの焦りの現れでもあるだろう。
「不躾な訪問をお許しください。どうしてもあなたの力をお借りしたいのです」
客間に通されるなり、思い詰めた表情で青年が切り出したのは、やはりミドルトン男爵邸の怪奇現象についてだった。
「なにか心当たりがあるのかい?」
「いいえ、まったく」
ジュリアンは即答した。
彼は本当にサリーのことはなにも知らないのだろうか。
まあ、サー・ローレンスが自分の愛人のことを息子に打ち明けるとは思えないし、男爵夫人も、愛人には人殺しを手伝わせても、実の息子には自分の悪事を知られないよう努力するだろう。
ぼくはわずかな胸の痛みを覚えた。
真実が明らかになれば、ジュリアンも少なからず傷を負うだろう。下手をしたらミドルトン男爵家は爵位を召し上げられ、断絶してしまうかもしれない。
だがそれは、彼にとってあの忌まわしい母親から解放される最初で最後のチャンスになるかもしれないのだ。
誰だって、生きていく上で重荷や苦悩となるものは必ず抱えている。ぼくと姉さんは貧しさと、幼くして親を失ったこと。加えてぼくは母の私生児だった。ジムの場合は、事故で重い後遺症を負った。
裕福な家に生まれたジュリアンにも、あのどうしようもない母親が多大な負担となってのしかかっている。
けれど人はみな、それぞれの重さ苦しさに耐えて、生き続けるものなのだ。
自分の力で生き抜く方法は、誰にでも必ずある。必死に求めれば、必ず光は見つかる。かつてのぼくと姉さんがそうだったように。
ジュリアンがそうした光を信じられるよう、できる限りの手助けはしよう。ぼくはそう思った。
そしてぼくは覚悟を決め、ジュリアンを真っ直ぐに見た。
「実は、初めてお会いした時からずっと気になっていたんだ。メイドは白い人影と言ったそうだが、ぼくには違うものが見える。レディ・ミドルトンを取り巻く……黒い怨念の渦が」
「怨念ですって……!?」
「すまない、その――」
「いいえ、いいんです。母は多くの人から恨まれて当然の人間ですから……」
掠れがちの声で言うジュリアンは、家族としての愛情を人としての倫理観でねじ伏せようとしているように見えた。
「ご覧になったでしょう、昨夜のことを。あんなのはまだ序の口です」
やがてジュリアンは、堰を切ったようにしゃべり出した。
「田舎の領地にいる時は、母は小作人を奴隷のようにこき使い、見かねて諫めた牧師夫人を衆人環視の中で罵倒して辱め、止めに入った村人も杖でめった打ちにしました。挙げ句の果てにはその村人を、貴婦人の自分に暴力をふるったと嘘の訴えを起こして、牢屋に入れさせたんです。……村人は獄中で病死し、彼の妻も後を追って首を吊りました」
身内の恥を他人に打ち明けるのは、誰だってつらい。だがジュリアンは、もう自分ひとりの胸にはおさめておけなくなってしまったのだろう。
「その時の牧師さまも教区を追い出され、貧困の中で亡くなったと聞いています。後釜になった牧師は、母の……、母の……!」
「ジュリアン」
「醜い……っ! どうして彼女は、あんなにも醜いまま、生きていられるんだ……!!」
「もういい、ジュリアン。もう止せ」
こみ上げる嗚咽を必死に堪え、肩をふるわせるジュリアンに、ぼくは思わず手をさしのべた。血の気が失せるほど強く握りしめられた拳に、自分の手を添える。
「ぼくに見えるのは、黒い霧のような想念の塊だけだ。それが具体的に誰の想いなのか、男爵夫人をどうしようとしているのかまではわからない。調べてみなくては」
「調べる……? そんなことができるんですか?」
「ああ。きみさえ良ければ、きみのお屋敷で降霊実験をやらせてもらいたい。男爵夫人に取り憑いたものの正体をあばき、その訴えを聞くんだ」
ジュリアンはしばしためらう様子を見せた。
ここで強引に迫ったら、逆効果だ。
「いや、悪かった。きみの考えはわかるよ。心霊実験など所詮は異端の科学だ。信用できないのも無理はない。ましてぼくは、昨夜あんな芝居をして、みんなを騙しているしね」
「いいえ! 違います、ミスター・メリウェザー。あなたを疑うなんて、あり得ない!」
ジュリアンは自分から強くぼくの手を握り返した。
「お願いします、ミスター・メリウェザー。ぼくは、ミドルトン男爵家を救いたい」
わすれなぐさ色の瞳が、真っ直ぐにぼくを映す。
「グレアムと呼んでくれ、ジュリアン」
「え……」
「約束しよう。全力を尽くすよ」
ぼくはそっと、ジュリアンにうなずいて見せた。
思い詰めて硬く強ばっていたジュリアンの表情が、見る間にやわらかくほころんでいく。安堵と、母親にすがりつく幼い子どものような無力さとが入り交じった、不器用な微笑みが浮かんだ。
「ありがとう、ミスター……いえ、グレアム。本当にありがとう。あなたの友情に感謝します……!」
うん……、悪いね、ジュリアン。
ぼくはたしかに全力を尽くすと約束したけど、“なにに対して”かは一言も言っていないよ。
ああ、もちろん全力を尽くすさ。サリーの無念を晴らし、ジムの心を少しでも安らがせるために。あの女にふさわしい罰が与えられるよう、グレンフィールド兄弟の全力を見せてやるさ。
二日後、ぼくは、さまざまな小道具を抱えた従僕のウィルを引き連れて、ミドルトン男爵邸に乗り込んだ。
ジュリアンが用意してくれた小客間で、窓に厚くカーテンを引き、銀の燭台を並べ、降霊会にふさわしい重苦しい暗闇を作りだす。家具はすべて運び出し、客間はがらんとしたただの四角い箱になっていた。
男爵邸にはあらかじめ、近隣の住人たちを数人、呼び集めてあった。
「もしも彼らの中に男爵夫人を呪詛している者がいたら、実験の最中に必ず馬脚を現すはずだ。少しでも疑わしいと思われる者は、みんな招いておくといい」
ジュリアンの名で心霊実験の見学に招待された彼らは、告発の目撃者となり、噂の発信源となるだろう。
「燭台をこちらへ。まだ火は点けなくていいよ。椅子は、これじゃあだめだな。肘掛け附きのを用意してくれ。――ああ、ウィル。そこはもっとしっかりふさいで。わずかな風も入り込まないように!」
男爵邸の使用人たちの手も借りて準備を整えていると、やがてどたどたどた……っと荒っぽい足音が響いてきた。
「なんなの!? なにをしてるの、ジュリアン!?」
「お母さん」
怒りで顔を赤黒く染めた男爵夫人の後ろには、キツネ顔の小間使いもくっついてきている。
「降霊実験ですよ。ミスター・メリウェザーがおっしゃるには、我が家には多くの霊道が集まり、降霊実験には最適なんだそうです」
男爵夫人にはこう説明するようにとあらかじめ教えておいた言い訳を、ジュリアンは忠実に繰り返した。
「お母さんだってご覧になったでしょう? パーティーの夜に出現した騎士の霊を」
「なにを言ってるの! あれは……!」
息子に反論しようとして、男爵夫人は言葉に詰まった。
ジュリアンが招待した人々の中に、シモンズ夫妻もいたからだ。
小間使いまで悔しそうに唇を噛んでいる。
「お屋敷の中に、良くない霊の波動を感じます。男爵閣下のご病気もこれが原因ではないかと、ぼくは思います」
「そんなバカな……!」
ぼくの説明に、男爵夫人はふいごのような鼻息を噴き出し、叫んだ。
「わたしは信じません! 幽霊とか悪霊とか、全然信じてませんから!!」
おやおや。あなたは昔から霊感が強くて、いろんな霊体験をしてきたんじゃないのかい? それこそ、金縛りとか金縛りとか、ね。
「お母さん。これはお母さんのためでもあるんですよ」
ジュリアンは静かに、力強く母親を説得しようとした。
「お母さんだって、このごろ、わけもなく身体がつらいっておっしゃっていたじゃありませんか」
「それは……、わたしは昔から病弱で、身体が弱いんです! 若いころはものすっごく痩せてたんだから! そのせいなのよ!!」
……おっとっと。笑っちゃいけない。
やはり男爵夫人の説得は、ジュリアンひとりには荷が重いみたいだ。
「レディ・ミドルトン。降霊会はロンドンの最新流行ですよ。ご婦人向けの雑誌にも良く記事が載っているでしょう?」
ぼくはとっておきの好青年スマイルで、男爵夫人に語りかけた。
「この実験が成功すれば、きっとロンドン中の紳士淑女があなたの神秘体験を聞きたがるでしょうね。あなたは一躍、王都のヒロインだ!」
「え……っ」
「それに――ああ、そこのきみ! 男爵夫人の小間使いだろう? いいね、きみもなかなか霊感が強そうだ。良ければ実験の手伝いをしてくれないか?」
「えっ!? あっ、あた、あたくしでござぁますか!?」
小間使いはとたんに目を輝かせ、女主人を押しのけんばかりに身を乗り出した。やっぱりみんな、この手のイベントが大好きなんだねえ。
「はい、はいっ! なにをすれば良いんでございましょう?」
「まずはこの屋敷で働く女性たちを全員集めてほしい」
「は? 使用人を? メイドたちをですか?」
小間使いは女主人の命令を飛び越え、ぼくの指示に従い出してしまった。男爵夫人の味方は、もうひとりもいない。
男爵夫人のように権勢欲の強い人間は、実はひとりきりではなにも行動できないことが多い。必ず多数の賛同者を引き連れていなければ、発言すらできないのだ。そのため、あの手この手を弄して他人を支配し、自分の味方に仕立て上げる。反対に味方がひとりもいない場では、簡単に多数派のほうへ流れていってしまうのだ。
「この屋敷に関わりの深い女性たちの中から、霊魂と波動の合う人を選び出し、降霊の依代とします」
「波動……? よ、よりしろって――」
「大丈夫。すべてはこの振り子が教えてくれる」
ぼくは信念に満ちた口調で断言し、水晶の振り子を高くかざして見せた。
やがて黒いドレスに白いエプロン、木綿のモブキャップで統一されたメイドたちが、ずらりとぼくの前に整列した。その列に、小間使いも意気揚々と並ぶ。
見学客たちは、邪魔にならないよう壁際に下がり、固唾を呑んで実験を見守った。
男爵夫人は執拗にぺちゃくちゃしゃべり続け、なんとか実験を邪魔しようとしていた。が、誰も返事をしないどころか、彼女のほうを見ようともしないので、とうとう黙り込むしかなくなった。
「これで全員かい?」
「いえ、ちょっと待ってください。家政婦のミセス・メイザーがまだです」
少し遅れて、家政婦が小客間に入ってきた。曇りがちな表情からも、彼女がこのイベントに乗り気でないことがわかる。
姉さんは相変わらず半喪服みたいなグレーのドレスに、でっかくて不格好な木綿のモブキャップをかぶっていた。これぞ家政婦、という身なりだ。
「よし。みんな揃ったね」
ぼくは振り子を手に、彼女たちの前を歩いた。ひとりひとりの前で立ち止まり、その眼前に振り子をかざす。
けれど振り子は、ぴくりとも動かない。
「だめだな。相性が合わないみたいだ」
誰もがぼくの振り子を凝視していた。
振り子は、わずかに揺れる時もあるが、神秘現象というにはあまりにも弱い。そして小間使いの前まで来ると、わずかに動いていた振り子がまたぴったりと止まってしまった。
――言っておくが、これはちょっと練習すれば誰にでもできることなんだよ。指先に込める力の加減ひとつでね。
そして、心霊研究家グレアム・スペンス・メリウェザーが、男爵家の家政婦の前に立った時。
水晶の振り子がいきなり大きく揺れだした。急激に左右に振れ、やがて円を描いてぐるぐる回り出す。
「これは……!」
突然の不可思議な現象に、誰もが押し殺した驚きの声をあげた。
「この女性だ! 間違いない、この人の霊的波動は完全にこの屋敷を通る霊道と合致している。今回の依代にもっともふさわしい!」
ぼくは低い声で断言した。ここで大声を張り上げると、嘘くさくなる。大げさでなく、けれどいかにも昂奮を隠しきれない、といった演技が大切だ。
「あの、これはいったい何なのでございますか、若さま」
「心配しないで、ミセス・メイザー。どうか、グレアムの実験に力を貸してほしい」
困惑し、なかば怯えている家政婦に、ジュリアンは優しく語りかけた。
その言葉に家政婦も、まだなにがなんだかわからないという表情ながら、小さくうなずいた。
「それではこちらへ――ええと、ミセス……」
「メイザーです。アン・コレット・メイザー」
「では、ミセス・メイザー。こちらの椅子へどうぞ。皆さんは一列に壁際に並んでください。そう、みんなで手をつないで――」
「一列に? 丸くならなくてよろしいのですか?」
「ええ。今回はいきなり良くない霊魂が飛び込んでくる可能性があります。悪い霊が現れた時、すぐに追い払えるよう、逃げ道を作っておくんです」
見学者たちも半信半疑の様子でぼくの指示に従い、後ろにさがって互いに手をつないだ。
たしかに、こういう心霊実験では普通、参加者たちは手を繋いで丸く輪を作り、被験者を取り囲むものなんだけどね。今回はそんなことされたら、ぼくの背後でいろいろとマズイものが見えちゃうからさ。
メイドたちも壁際に下がり、見学者たちの後ろにもう一列作って実験を見守る。
男爵夫人は列に加わろうともしなかった。みんなから離れて部屋の隅に立ち、こっちを睨んでいる。
隣にはいつの間に来たのかエドガーが立っていた。
が、男爵夫人は愛人が来てくれたことにも気づいていないらしい。醜く顔を引き歪め、苛立たしそうに小刻みに身体を揺すっていた。
「ウィル。蝋燭に灯を」
部屋中の灯りを消し、ウィルはぼくが持ってきた燭台に一本だけ蝋燭を灯した。
暗闇の中、ひどく小さな蝋燭の炎だけが、頼りなげに浮かび上がる。
蝋燭のそばにいるぼくと家政婦は、なんとかその姿形がわかるが、他の人たちには光が届かず、誰がどこに立っているかも良く見えないだろう。
「さあ、ミセス・メイザー。気持ちを楽にして。この振り子を見つめてください」
ぼくは水晶の振り子を姉さんの前にかざした。
気持ちを楽に、の言葉に従い、姉さんはぶかぶかのモブキャップを外して膝の上に置いた。黒髪が闇に溶け込むようだ。
「振り子の動きを目で追って……右、左、右、左――。そう、心と頭を空っぽにして。あなたは空っぽの器になるんです……」
誰も、なにも言わない。男爵夫人ですら黙りこくって、実験に見入っていた。
「さあ、息を吸って――吐いて……。あなたは今、この屋敷の空気と同化している……。見えるはずだ、屋敷を突き抜ける霊道が、光り輝く霊魂の軌跡が――」
静かに、歌うような抑揚で、ぼくは繰り返した。
やがて家政婦の身体から力が抜けていく。
彼女は昏睡したようにぐったりと椅子にもたれかかった。彼女が意識を失ったのは、誰の目にも明らかだった。
これからどうなるのか。誰もが息を飲んで次の動きを見守った。
その時。
どこからともなく、細い細い歌声が聞こえてきた。
ロンドンデリーの歌だ。
「きゃあっ!?」
女性たちが口々に悲鳴をあげた。
「静かに! 今、霊がここに来ている!」
ぼくは低く鋭く、みなを制した。
これもタネは同じ。ぼくの屋敷で働くメイドのファニーが、あらかじめ姉さんの手引きでミドルトン男爵邸に忍び込み、屋敷中の注意が降霊会に集まったところを見計らって、家政婦の寝室の暖炉に頭を突っ込み、ロンドンデリーを歌い出しただけだ。
壁の中を通る煙突に反響し、殷々とこだまする歌声は、とうてい生きた人間のものとは思えない。上手いぞ、ファニー!
続いて、燭台で一本だけ燃え続ける蝋燭が、風もないのに炎が大きくなったり小さくなったり、時におかしな色の炎を発したり、奇怪な様子を見せ始める。
「……な――っ!? なんだ、あれは!?」
実直な羊毛商人のシモンズ氏には悪いが、これもぼくたちの小細工だ。単純に、蝋燭のロウにいろいろ不純物を混ぜてあるだけさ。
暗がりに目を凝らし、ぼくは男爵夫人の様子をうかがった。
男爵夫人は蝋人形のように硬直し、あらぬ方向を睨んでいた。歯を剥き出して食いしばり、今にも叫び出しそうなのを必死で抑えているようだ。
よし、今だ!
ぼくは振り子を高々と差し上げ、声を張り上げた。
「さまよえる霊魂よ! 訴えたいことがあるならば、彼女の肉体を借りるといい! 清廉な乙女の肉体に宿り、きみの嘆き哀しみを語るのだ!」
振り子が揺れる。
ぼくは叫んだ。
「見ろ! あそこに霊が出現したぞ!!」
真っ暗な天井の片隅を指さす。
人々はみな、ぼくの動きにつられて、そこを見た。
その時、一陣の風が吹き抜けた。
ごうっと渦巻く風が室内を通り過ぎ、唯一の灯りを消してしまう。
これはウィルの仕業。何のことはない、ぼくがマントに隠して持ち込み、実験開始と同時にマントごとウィルに預けた大きめの板で、ばさっと蝋燭をあおいで消しただけ。従僕が持っているマントなんて、誰も見ないからね。さらに、ウィルの動きが見とがめられないよう、ぼくが適当なことを叫んでみんなの注意を天井付近に向けたのさ。種明かしをすれば、どれもこれも、ほんと、たいしたことないんだ。
室内は、真っ暗になった。
「きゃあああッ!!」
「なんだ!? いったい何が起きたのだ!?」
「いや、怖いぃ! 助けて!」
悲鳴と怒鳴り声が交錯した。
「静かに! 落ち着いて、皆さん、その場を動かないで!」
ぼくはさらに声を張り上げた。
それを合図に、ウィルがふたたび蝋燭に灯を灯す。――今度の蝋燭は、極端に芯の糸を短くしてある。当然、炎は小さく、光は弱々しい。
その、かすかなオレンジ色の光の中、浮かび上がったのは。
茶色の髪を振り乱し、白いシュミーズを血に染めた、サラ・ホワイトの亡霊だった。
「きゃあああ――ッ!!」
絶叫したのは、誰だったのだろう。
――ひと……ごろ、し……。
サリーの亡霊が、ゆらゆらと右手を前へ持ち上げた。
――ひと、ごろし……。かえして……。あたしと、サー・ローレンスの赤ちゃんを、かえしてよ……。
青白い爪の亡霊の手ははっきりと、どれほど憎んでも余りある犯人を指さしていた。
ミドルトン男爵夫人、マリオン・フレッチャー・ウェイクスリーを。
「――あんたが……あんたが、殺したんだ……。あたしと、あたしの赤ちゃんを……。あたしのおなかを何度も蹴って、杖で殴って……あんたが殺した、あたしの赤ちゃんをおおおッ!!」
もちろん、このサリーは姉さんだ。
姉さんはハニーブロンドを黒く染めた染料を中途半端に洗い落とし、その上からさらに黒髪のかつらをかぶっていたのだ。長い髪の上にかつらをかぶった不自然さは、ぶかぶかのモブキャップで覆い隠していた。
黒の染料が落ちきっていないブロンドは、ところどころサンドベージュみたいなまだらになり、揺れる蝋燭の光のもとでは茶色っぽく見えるというわけだ。
グレーのドレスにも細工がしてあり、身ごろを強く引っ張るとすぐに脱げる仕掛けになっている。これはモリス夫人たちが縫ってくれた。そしてその下は、血まみれのシュミーズだ。
さらにウィルが上手い具合に蝋燭の炎をあおり、ゆらゆらと不安定に揺らめかせる。その光に照らされた姉さんの姿はより一層、この世のものとは思えなくなる。
これらの小細工をなによりも本物らしく見せているのは、神懸かったような姉さんの演技だ。
「誰だ! きみは誰だ!?」
打ち合わせどおり、ぼくが亡霊を問い質す。
「サリー……。サリー・ホワイト……サー・ローレンスの、本当の、妻……。マリオン・フレッチャーに殺された……!」
「こ、殺された!?」
「ゆるさない……。許さない、マリオン・フレッチャー……人殺しいぃぃッ!!」
「人殺し――人殺しって、まさか……!!」
恐怖に悲鳴をあげていた女性たちも、今や呼吸すら忘れたように沈黙していた。目の前で展開する驚愕の事態に必死で見入っている。
「うそだ……うそだ、うそだああああッ!!」
破鐘を叩くような絶叫が響いた。
「し、死んだんだ! てめえは死んだはずだ! あたしゃこの目で見たんだからね! こんなこと、あるはずねえんだよおおッ!!」
汚いコックニー訛りを剥き出しにしてわめいているのは、ミドルトン男爵夫人だった。
その場に居合わせた者はみな、両眼を見開いて男爵夫人を見た。
すかさずウィルが、蝋燭の灯を夫人のほうへ突き出す。オレンジ色のか細い光に照らされて、恐怖と怒りに歪んだ男爵夫人の顔は、脂汗にまみれ、鼻は大きく膨らみ、口の端から涎さえ垂れて、貴婦人どころか人間とも思えないほどの醜悪さだった。
「そう……。そうよ、あたしは死んだ……。殺された……あんたに殺された――!」
声をふるわせ、姉さんが男爵夫人を追いつめる。
「許すものか、マリオン・フレッチャー……。呪ってやる、祟ってやる……。おまえが地獄の焔で焼かれるまで……!」
「ぎゃあああッ!! いやああ、いぎゃああああッ!!」
男爵夫人はもはや、人の言葉すら発しなかった。サリーの告発を聞くまいと、全身の力を振り絞って叫び続ける。両手で髪をかきむしり、骨太の身体をのけぞらせ、また折り曲げ、ばたばたと足を踏みならして暴れる。
なによりもその異常な態度が、亡霊が出現して自らを殺した犯人を告発するという非現実的なできごと、その告発内容が真実であると、証明していた。
「死んだんだ、てめえ、死んだじゃねえかよおっ! うちの地下室で、くたばってたじゃねえかああッ!! 来るなあ、ぐるなああッ!! あっちいげえええッ!!」
男爵夫人は床に倒れ込み、芋虫のように這い、転げまわった。
見学客たちは誰ひとりとして、彼女を助け起こそうとはしない。狂ったようにのたうち回る夫人を、ただ茫然と見おろしている。
男爵夫人の腹心である小間使いも、息子のジュリアンすら、身動きするすべすら忘れたように立ちつくしたままだった。
彼らの耳には、はっきり聞こえたはずだ。サリーはこの屋敷の地下室で殺された、と。ミドルトン男爵夫人マリオン・フレッチャー・ウェイクスリーは、人殺しだと。
実際に手をくだしたのはエドガー・シンクレアであっても、命じたのは男爵夫人に間違いないのだ。
よし、そろそろ仕上げだ。
ぼくは水晶の振り子を大きく振り回した。
「去れ、悪霊よ! 復讐は神の御業だ、彼女の裁きは神の御手にゆだね、死者は死者のあるべき世界へ帰るのだ!」
これを合図に、ウィルがふたたび蝋燭を消す。暗闇の中で姉さんは黒髪のかつらをかぶり、グレーのドレスの衿をかき合わせて、家政婦アン・メイザーに戻るのだ。
その後、霊に憑依されて気を失った家政婦を、ぼくは身体が冷えないようにマントでくるんで抱き上げ、閉めきった部屋から連れ出す。
「ミセス・メイザーの部屋はこちらです」
と、すかさず案内するのは男爵邸のメイドたちに紛れ込んだファニーというわけだ。
そして室内には、幽霊の告発を聞き届けた複数の紳士淑女と、自らの態度でその告発が真実だと証明してしまった男爵夫人とが残される。
いつもながら、姉さんの計画は完璧だ。
――破滅しろ、殺人者レディ・ミドルトン。
が。
「てめえぇ……っ。この、くたばりぞこないの淫売がぁ……っ!」
地獄の悪鬼がうなるように、床に突っ伏した男爵夫人が呻いた。ぜいぜいと獣のような激しい息づかいが聞こえる。
「死んでまであたしをバカにしやがんのか、てめえ、この、ちくしょおおおッ! だったら、何度でもぶっ殺すまでだああッ!!」
夫人はがばっと跳ね起きた。ごつごつと節くれ立った手で、猛然と姉さんに掴みかかろうとする。
「殺してやらあッ! この売女ッ! ふざけんじゃねえぞぉッ! 今度こそあたしが、あたしがああッ!!」
「危ない!」
ぼくは反射的に前へ飛び出し、姉さんをかばった。
夫人の両手がぼくの胸元にぶち当たった。思わず息が詰まり、咽せそうになる。でかい宝石の嵌った指輪がまるで凶器だ。
さらに、今度は後ろからがつんと一発蹴り上げられる。姉さんだ。
なにやってんだ、莫迦、てことだろう。そりゃそうだ、幽霊をかばう人間なんかいるわけない。
「あ、危ない、えー……悪霊だ! 男爵夫人に悪霊が取り憑いたぞ! みんな逃げろ!!」
男爵夫人の両手を掴み、ぼくは叫んだ。
獣のようにうなる夫人を必死に抑えつける。なんて馬鹿力だ、ほんとに女かよ!?
「ここは危険だ、みんな早く外へ出て!」
降霊会の場は、たちまちパニックになった。
「きゃああっ、助けてえっ!!」
「化け物だ、男爵夫人が化け物になったあ!」
「こっちです、早く!」
ウィルが小客間のドアを開け放つ。
「逃げよう、あたしたちも!」
ドアのそばでファニーが叫んだ。
「レディ・ミドルトンは悪魔に取り憑かれたんだ! このまんまじゃ、あたしたちも殺される!」
こんな混乱した場では、メイドたちだって互いの顔なんか確認してやしない。同じ制服を着ていたら、仲間だと思うさ。
ウィルとファニーに先導され、客もメイドたちも雪崩をうって客間から逃げ出した。
「いい加減にしてくれよ、婆さん!」
ぼくは掴んだ男爵夫人の手を強く引き寄せ、反動をつけて膝蹴りを食らわせた。夫人の身体がぐらりと前のめりになったところを、とどめに後頭部へ肘をたたき込む。
男爵夫人は顔面からぐしゃりと床へ倒れ込んだ。
こいつは姉さんを鞭打ってくれた分だ。鼻の骨を折らないでやっただけ感謝しろ。
「うえ……。けっこう容赦ねえんだなあ、セディ」
廊下に残った者がいないか確かめていたウィルが、客間に戻ってきた。
「ジュリアンとエドガーは?」
「客と一緒に逃げてったぜ。玄関ホールへ降りてったのは見たけど、後は知らねえ」
「よし、ぼくらも引き上げよう」
マントや蝋燭などの小道具を手早くまとめ、ぼくは姉さんを振り返った。
「ねえさ……ミス・メイザーも、もうこんな屋敷に用はないだろ? 一旦ぼくの屋敷に寄って――」
だが、姉さんの返事はなかった。
「あ? どうしたの!?」
姉さんはするっとぼくの横を通り抜けた。
そのまま無言で部屋を飛び出し、廊下を走り出す。まだらのサンドベージュに染まった髪を振り乱して。
「ちょっと待って! どこ行くんだよ!?」
ぼくは慌てて姉さんの後を追いかけた。
「おい、セディ!?」
「ウィル、ファニーといっしょに屋敷へ戻れ! ロールズに頼んでワイン蔵にでもかくまってもらえ、ぼくが帰るまで、絶対出てくるなよ!」
人の気配がほとんどなくなった男爵邸の中を、姉さんは風のような速さで走っていく。
ぼくは必死でその後を追った。
全速力で走っているのに、姉さんに追いつけない。
姉さんは息を乱す様子もない。おまけに、足音ひとつ響かない。まるで足が床にまったくついていないみたいだ。
姉さんは屋敷中央、彫刻で飾られた大階段を駆け上がると、そのまま迷わず三階の廊下を走り抜けた。
廊下の突き当たりには、壁一面を覆う古びたタペストリーが吊されていた。石造りの家では、壁から冷気が伝わるのをふせぐため、昔はよくこんなタペストリーを下げていたものだ。
姉さんはなんにも言わず、そのタペストリーをまくりあげた。
壁かと思っていたそこには、小さな扉が隠されていた。
「こんなところに、部屋が……!?」
姉さんはその扉を開けようとした。が、鍵がかかっているのか、開かない。姉さんはドアノブをつかみ、何度かがたがたと揺さぶった。
すると。
べきッ、とひどく大きな音がした。
そしてドアが開く。姉さんは迷わず室内へ駆け込んだ。
「待って、姉さん!」
ぼくも姉さんの後を追い、部屋へ飛び込む。――飛び込もうとして、ぎょっとした。
ドアノブが壊れてる!
金属の破断面は真新しい。たった今、壊れたばかりに見える。
もしかして、さっきの音はこのノブが壊れた音だったのか? まさか、姉さんが素手で金属のドアノブを握りつぶしたって!?
「姉さん、手! 手は大丈夫なの!?」
ぼくがいくら呼びかけても、姉さんは振り返りもしなかった。
部屋の真ん中に人形みたいに立っている。
そこは、隠し部屋と言うにふさわしい、小さく狭苦しい部屋だった。
天井は屋根裏に圧迫されて低く、明かり取りの窓もひどく小さい。そして、病人特有の蒸れたような臭いが籠もっていた。
そして部屋のほとんどを占めるベッドに、ひとりの男性が横たわっていた。
病みおとろえ、痩せた身体。かなり薄くなってしまった白髪。肌は紙のようにかさかさで、黄色っぽく萎びている。
だが、そのひょろりと伸びたシルエットに、ぼくは見覚えがあった。
「まさか……」
ぼくがその人の名を口にするより早く、姉さんはベッドに駆け寄り、男性の腕に飛び込んだ。
「サー・ローレンス――!」
「サリー……、サリーなのか!?」
かすれた声で、ミドルトン男爵ローレンス・パウエル卿が答えた。
苦しげに息を吸い込み、病んだ身体を必死に起きあがらせる。ローレンス卿は枯れ枝のようになってしまった腕で、姉さんを抱きしめた。
――姉さん? 本当にあれは、ぼくの姉さん、ぼくのアネリーゼなのだろうか?
「サー・ローレンス、会いたかった。会いたかった、あたしの……あなた――!」
茶色の髪が乱れかかる頬を、透明な涙がつたい落ちる。
あれは……、あれは、いったい誰だ。
ローレンス卿をしっかりと抱擁し、その腕に抱かれている女性は。やつれた頬をいとおしげに撫で、まばたきする一瞬すら惜しいというように彼を見つめている女性は。
「サリー。サリー、許しておくれ。私のせいだ。私のせいで、きみが……!」
ローレンス卿はこの状況に何の疑問も感じていない様子だった。目の前の女性の顔を両手で包み込み、同じく涙を浮かべている。
「泣かないで、ローレンス。あたし、幸せだった。ほんとに、幸せだったよ――」
涙で顔をくしゃくしゃにして、それでも懸命に微笑むその顔に、かわいいそばかすが見えたと思ったのは――ぼくの気のせいだったろうか。
「だから、ねえ、もう自分を責めないで。お願い、莫迦なことは考えないで。大丈夫、あなたがもっともっとしわしわになって、歯も髪も一本も残ってないおじいちゃんになっちゃったって、あたし、あなたが大好きよ。ずうっと、ずうっと、あなたが大好きよ……!」
「私もだ、サリー。永遠にきみを愛しているよ……」
生涯にただひとり、真実愛した女性を腕に抱き、乱れた髪に頬をうずめて、ローレンス卿は言った。
「ありがとう、サリー。ともに生きてくれて、本当にありがとう……!」
それは、愛する人に送る最期の言葉だ。どれほど語っても語り尽くせない、生命のすべてを込めて送る、“愛しています”。
本当は誰もがこうして、愛する人に告げたいと願っているだろう。けれど、穏やかな臨終の床で家族に見守られながら、それを口にできる人はごく稀だ。大概の場合、死は突然、無慈悲に、あるいは不条理にやってくるものだから。
サリー。わかったよ。きみが本当に言いたかったのは、その言葉だったんだね。
サリーが笑った。
ああ、たしかにそこにいるのは、サリーだった。
……あたしこそ。
ありがとう。いっぱい、いっぱい、愛してくれて、ありがとう。
一緒にいられたのは、ほんの短いあいだだけだったけど。
一生分よりももっとたくさん、あたし、幸せをもらったから。
ありがとう。あたしと家族になってくれて、ありがとう。愛させてくれて、ありがとう。
あたしと、出会ってくれて、ありがとう。
大好きよ。大好きよ。大好きよ……。
姉さんの身体がほのかな光に包まれた。
やわらかな、霧に溶けるような光が、ぽつ、ぽつ、と小さな気泡のように姉さんの身体から立ちのぼり、そして天へ向かって消えていく。
そして、サリーは消えてしまった。
彼女の魂は、最愛の人に見守られながら、天国へと旅立っていった。
姉さんの身体ががくっとくずれ、ベッドに突っ伏した。
「姉さん!?」
ぼくは慌てて姉さんに駆け寄った。
抱き起こすと、
「あ、あれ?」
姉さんはまだ少し焦点の合わない目で、ぼくを見上げてきた。
「セディ……。オレ――」
「姉さん、大丈夫!? どっか痛いとことか……」
「痛いって……あ、あーっ! 痛い、痛い痛い痛い! 手が痛い! うわっ、なにこれ!なんでオレの手、こんな血まみれなの!? ぱっくり切れてんじゃん!!」
それはたぶん、鍵の掛かったドアノブを素手でぶっ壊した時の傷だ。
ぼくはクラヴァットを外し、姉さんの手の傷に巻き付けた。
「おい、ここどこだよ。ミドルトン男爵邸にこんな部屋あったっけ? なんでオレ、こんなとこにいるんだよ?」
「えっと、それは……」
「きみは、私をサリーに逢わせてくれたのだよ」
静かな声がした。
その声で姉さんは初めて、ローレンス卿の存在に気がついた。
「ミドルトン男爵……サー・ローレンス」
まだどこか夢心地のような口調でつぶやく姉さんとぼくに、ローレンス卿は小さく、けれどしっかりとうなずいて見せた。
「このような見苦しい姿をお目に掛けて、申し訳ない。よろしければ、お名前を伺いたいのだが」
「あ、失礼しました。ぼくは――」
一瞬迷い、ぼくはすぐにローレンス卿の老いて灰色がかった目を真っ直ぐに見た。
この人には嘘をつくべきじゃない。そう思った。
「セオドア・グレンフィールドと言います。サリーの友人でした」
「貴君が……。そうか。サリーから何度か話を聞いていた。ありがとう。サリーは本当に良い友人に恵まれた」
ローレンス卿は微笑み、目元を軽く指で抑えた。そこにわずかに光るものが残っていることにぼくも姉さんも気づいていたが、あえて口にはしなかった。
「それで――、ことは、すべて片づいたのだろうか?」
「ローレンス卿」
「こんなところに閉じこめられていても、私はまだミドルトン男爵であり、この屋敷の主人だ。屋敷内の出来事は、切れ切れにでも耳に入ってくる」
その声は誰を責めるでもなく、淡々と事実を受け入れようとしていることだけが感じられた。
病床に端然と居住まいを正したその姿は、侵しがたい気品を感じさせた。称号や身分によるものではなく、長い人生を苦闘し続け、あまたの喜び哀しみをその胸に受け入れてきた人間だけが持つ、力強さ、誇り高さだった。
「はい。決着はつきました。まだしばらくは閣下の身辺も騒がしいかもしれませんが。罪を犯した人間にはふさわしい罰が与えられたと、思っています」
だが、ぼくたちはこの人に謝らなくてはならない。男爵夫人の罪をあばき、白日のもとに晒したことで、ミドルトン男爵家の家名は泥まみれになってしまった。
ぼくたちにはこの方法しかなかった。けれど他の人間なら、もっと上手な、誰も傷つかない手段が取れたのかもしれない。
「感謝する、ミスター・グレンフィールド」
落ち着いた声で、ローレンス卿は言った。
「申し訳ない。本来ならば、私がやるべきことだった」
「そんな……」
「だが、この体が自由に動けば、私はきっとあの女を殺していただろう。ミスター・グレンフィールド、きみは誰の血も流さずにことを収めてくれたのだろう?」
「え? ええ。それは、確かにそうです。ですが、サー・ローレンス、どうしてそのことを――」
「サリーだよ」
ローレンス卿は静かに微笑した。ああ、この人は本当に、なんていとおしそうにサリーの名を口にするんだろう。
「あの子は血を見るのが大の苦手でね。ジムが転んで鼻のあたまをすりむいただけでも、半べそをかくほど心配していた。誰かが傷を負ったのなら、あんなに優しい表情で私のところへ来てくれたはずがない。本当に感謝する」
彼の感謝の言葉が、けれど胸に刺さって痛かった。
「こんなところにおひとりで残られたのでは、ご不自由でしょう。サー・ローレンス、よろしければ、一時ぼくの屋敷へいらっしゃいませんか?」
開け放したドアの向こうからも、人の気配は伝わってこない。どうやら男爵邸の使用人たちはひとり残らず逃げ出してしまったようだ。
こんな空っぽの屋敷に病人をひとり残しておくなんて、できるわけがない。
「そうだな。こんな恰好で申し訳ないが、お言葉に甘えさせていただこう」
ベッドを降り、どうにか立ち上がったローレンス卿に、ぼくは肩を貸した。姉さんが室内ローブを探し出し、ローレンス卿に羽織らせる。
支えた身体は、若い頃は壮健だったろうと思わせるしっかりした骨格だったが、今は悲しくなるくらい、軽かった。ぼくが支えていなければ、立つこともおぼつかないようだ。
そしてぼくたちはタペストリーに隠されていた病室を出て、長い廊下を歩きだした。
ゆっくりゆっくり歩きながら、ローレンス卿はぽつりぽつりと語ってくれた。
「きみたちは、ミドルトン男爵家の名を汚したなどとは考えなくて良い。それは……もともと私が受けるべき罰だ」
「サリーを愛したからですか? 妻子ある身で」
「いや。サリーを愛したことは、たとえ神の御前でも、何ら恥じるつもりはない。私の罪は二十二年前、マリオンと結婚したことだ」
初めて、ローレンス卿の表情に苦い後悔が浮かんだ。
「あの当時、我が家は祖父の代からの浪費のせいで、破産寸前だった。多額の持参金で我が家を救ってくれる花嫁ならば、誰でも良かったのだ。爵位を欲していたり、さまざまな事情で結婚を急ぐ娘たちの中で、マリオンがもっとも高額の――破格ともいえるほどの持参金を持っていた。私は迷わず彼女と結婚し、それから四ヶ月経たないうちに、マリオンはジュリアンを産んだ」
――やっぱり。
マリオン・フレッチャーの名前は、産婆のフィリパ婆さんの顧客名簿にもしっかり記載されていた。それも、四回も。
「忘れるもんかい。あたしゃあの阿婆擦れが十四の頃から、莫迦な火遊びの始末をしてやってたのさ。十四で初めて父なし子を孕んでから、四回だよ。どれだけ股がゆるいんだい。さすがに五回目は断ったがね。これ以上流したら、二度と子が孕めなくなるよってな」
フィリパ婆さんが中絶を断った子どもがジュリアンなのかは、わからない。だが精肉業者のフレッチャー氏は、父親もわからない子を――わかっていたら、その男と結婚させるさ――妊娠した娘を、多額の持参金をエサに金に困っていた貴族に押しつけ、厄介払いしたわけだ。
「産まれてくる子に男爵位は継がせなくて良い。そういう約束だった。爵位は、私とマリオンとのあいだにこれから産まれる子に継がせればいい、と。……だが私は、マリオンを真の妻として遇したことは、一度もない」
隣に女性が――姉さんがいるので、ローレンス卿は慎重に言葉を選んでいたが、つまりそれは、男爵夫人と肉体関係を持ったことは一度もないってことだ。
「彼女にはレディの称号を与え、同じ屋敷に住み、食卓もともにした。が、それだけだった。彼女とジュリアンがなにをしようと、どんな人間と交際していようと、私は一切関心を払わなかった。二十二年間、私たちはずっと、赤の他人だったのだ」
そんな夫婦は、上流階級にはごまんといるだろう。いや、階級を問わず、世界中どこの街にだっているはずだ。
まして、どこの誰ともわからない男の子どもを孕んだまま、いけしゃあしゃあとレディ・ミドルトンの座に納まった女を、愛してやれというほうが無茶だ。
だが、女としての自分に過剰なまでの自信を持っていた男爵夫人には、それは我慢できないことだったのだろう。自分には指一本触れようとしない夫が、外では娼婦を買い、あまつさえその娼婦と恋に落ち、子どもまで授かっただなんて。
「少し、訊いてもよろしいですか? 閣下はその……あの病室に閉じこめられていたようですが、どうしてそんなことに?」
「私が、この屋敷を出たいと言ったからだ」
悲しげに、ローレンス卿は言った。
「貴族というのは不自由なものだ。離婚するにも、上院議会に報告しなければならない。家庭の恥を広言しなければならないのだ。家名に傷をつけず、残された人生をサリーと生きるために、私はマリオンに、私は死んだことにしてくれと頼んだのだ。私は馬車の事故かなにかで死んだと公表し、空の棺で葬儀を出せば、誰も疑う者はない。男爵家はマリオンの好きにすれば良い、と。だが、マリオンはそれを許さなかった。自分が黒髪の息子を産むまで、なんとしても私をここに縛りつけておく、と――」
そうか。金髪のジュリアンはウェイクスリー家の血を引いていないと一目でわかる。現当主が死亡しても、彼に爵位を継がせることは他のウェイクスリー一族がけして許さないだろう。たとえ強引に相続しても、ミドルトン男爵家には消えようのない醜聞がつきまとうことになる。社交界は、私生児の存在は黙認しても、その子がおおやけに家督を継ぐことはけして許さない。
だから男爵夫人は、ウェイクスリー一族のそれに似た黒髪の息子を産むまで、なんとしてもローレンス卿に生きて、自分のそばに居てもらわなければならなかったわけだ。で、種馬に選ばれたのが黒髪のエドガーだった、ということか。
「いや、でも、あの年令で出産ってのは、ちょっと無理があるんじゃ……」
「マリオンはまだ四十一だ」
「えっ!?」
……てっきり五十すぎだと思ってた。肌はくすんで、目元もあごも体のラインもたるみきってるし。若い頃から荒淫と無茶な堕胎を繰り返してきたツケなんだろう。
なによりも他者を妬み、陥れることでしか自分の幸福を感じられない彼女の性格が、外見の醜さになって現れているように、ぼくには思えた。
「私は……サリーに約束した。ミドルトンの爵位も、ウェイクスリーの名前もいらない。ただ、ふつうの家族として、ともに暮らそうと。誰も私たちのことを知らない、遠いところへ行って、私は羊を飼って、畑をたがやして、サリーは毎日パンやパイを焼いて……。そうだ。ジムはその村の学校に通うのだよ。あの子は頭の良い子だ。きっと勉強が好きになる。そうやって、私とサリーとジムと、産まれてくる子と……家族みんなで、ささやかな幸せを築いていこうと――」
ローレンス卿の声が涙にふるえた。
それは、ローレンス卿が長く、苦難に満ちた人生の果てに、ようやく見つけたたったひとつの夢だったのだろう。
「もしも私が、もう少し彼女に目を向けていたら……。妻として愛することはできなくとも、せめて友人になろうと努力していたら……。マリオンもあそこまで堕ちずに済んだのかもしれない」
「もう、済んだことです。サー・ローレンス」
「ああ、そうだな。……終わったことだ」
ぼくの言葉に、ローレンス卿は静かにうなずいた。
かすかに聞こえた細い吐息だけが、彼の哀しみを物語っていた。
ことり、ことり、とぎこちない足音を響かせて、螺旋階段を降りる。
そしてぼくたちは、ようやく一階の玄関ホールにたどり着いた。
誰もいなくなったホールは、さらにがらんと広く、寒々しく見える。
高い天井に飾られた豪奢なシャンデリア、二階、三階の回廊へと続く螺旋階段、そこを飾る派手な彫像たちと、ローレンス卿はひとつひとつを確かめるように眺めていった。
「昔はこんなふうじゃなかったよ、この屋敷も。建物は大きく荘厳だったが、ここまで装飾が多くはなかった。あの階段の下にグランドファーザークロックがひとつ置いてあるきりでね」
このごてごてと飾り立てた様子は、やはり男爵夫人の好みだったんだろう。
「ミドルトン男爵家の行く末は、私に考えがある。これ以上、誰も傷つかない方法を採るつもりだ。この屋敷もいずれ手放すことになるだろう。使用人たちには、できる限りのことをしてやって――」
「勝手なことをしてもらっては困ります。ミドルトン男爵」
突然、頭上から声が響いた。
そして向こうも、ぼくたちの正体を知っている。
さすがのエドガーも、ミドルトン男爵邸の家政婦が、実はぺてん師グレンフィールド兄弟の兄アーノルドだということまでは気がついていないらしい。だが、眼鏡で隠したあの黄金色の瞳にやつが気づいたら、最後だ。姉さんの生命が危うくなる。
なんとしてもこのことを姉さんに知らせなくては。
ぼくは三階建てのミドルトン男爵邸を振り仰いだ。
夜会のあいだは無数のランプや篝火で照らされていた屋敷も、今は次々に灯りが消され、眠りにつこうとしていた。とりあえず火の始末だけしておいて、本格的な片づけや掃除は明日やるのだろう。
あたりにはもう、ほとんど人の気配はない。総入れ歯の執事も建物の中へ入り、玄関の扉を閉じようとしている。
彼の視線を避け、ぼくはさっと植え込みの影に身をひそめた。
低く身を屈めたまま、建物に平行して前庭を突っ切る。
半裸の彫像だらけの前庭から、コの字型に突き出した東棟のサンルームを回り込み、裏庭へと走った。
男爵邸の構造は姉さんに説明してもらって、すべて頭に入っている。
貴族の館で働く上級使用人は、通常、役職に応じて屋敷内の決まった場所に個室が与えられる。執事ならワイン蔵のそば、女主人に仕える小間使いなら衣装部屋の隣だ。そして家政婦は、食品貯蔵庫の手前と決まっている。
広大な敷地を走り抜け、屋敷の北側にある厨房のそばまでたどり着いた時には、男爵邸の灯りはほぼすべて消され、あたりは無人のように静まりかえっていた。
ついさっきまで、ここで絢爛たる夜会が開かれていたなんて、嘘みたいだ。使用人たちも戦争のように忙しい一夜がようやく終わり、それぞれのベッドでぐっすり眠り込んでいるのだろう。
ぼくは半地下になっている食品貯蔵庫の窓の下に身を寄せた。
そして、短く、鋭く、指笛を鳴らす。
ぴゅう、ぴゅういッ、と夜行性の鳥の声を真似るそれは、昔から使ってきた、ぼくと姉さんふたりだけの合図だ。
反応はすぐに来た。
「セディか!?」
食品貯蔵庫の小さな窓が開く。そこから、薄手の夜着一枚の姉さんが、仔猫みたいにぱっと飛び出してきた。
「姉さん!」
反射的に腕を広げ、ぼくは姉さんの身体を抱き留めた。
軽くてやわらかな姉さんの身体。やっぱり少し痩せたみたいだ。
白い木綿の夜着は暗がりでも目立つ。ぼくは外套を広げ、姉さんの肩を包み込んだ。
ぼくたちは猫のように寄り添い、窓の下にうずくまった。
「どうした?」
姉さんは声をひそめ、緊張した表情でぼくを見上げた。
この口笛の合図を使うのは緊急事態が起きた時のみ、と決めてある。ただならぬことが起きたと、姉さんもすでにわかっているのだ。
「サリーを殺した奴がわかったよ」
「なんだって!?」
「エドガー・シンクレアが実行犯だ。間違いない」
姉さんも息を飲んだ。
「あいつ、ぼくの正体にも気づいてる。サリーの葬式に出た時に、顔を覚えられたんだ」
「じゃあ、オレのことも……」
「いや、それはまだだ。でも時間の問題だと思う」
だいたい、ただの硝子をはめ込んだ伊達眼鏡くらいで、このまばゆい瞳を隠しおおせるのは無理なんだ。
その瞳を覗き込もうとして、ぼくは気づいた。
姉さんの左ほほに薄赤く、斜めに走る傷痕がある。
「姉さん。これ、どうしたの?」
「たいしたことねえよ。痕は残ってるけど、もう痛みもなにもないから」
「そうじゃなくて。誰にやられたの!?」
姉さんは一瞬、口ごもった。
「――あの女」
まあ……、その答は聞くまでもないことだったけど。
「掃除の仕方が気に入らないって、若いメイドの顔を鞭でめった打ちにしてたんでさ。思わず止めに入っちまった」
「顔を……!?」
鞭打ちは、英国では躾の一端として伝統的に行われている。だがその場合も、背中や臀部、あるいは手のひらなど、できるだけ危険の少ない、傷痕の目立たない部位を選んで打つべきものとされる。顔なんか殴ったら、下手をしたら眼球を傷つけ、失明させてしまいかねない。
姉さんの傷だって、一歩間違ったら大怪我をしていたかもしれない。
「姉さん、一旦ここから逃げたほうが良くないか? このままじゃ……」
「でも、せっかくここまで仕込んだんだ。男爵夫人もだいぶ怯えてる。メイドたちにやたら暴力をふるうのもそのせいだ。そうやって他人を痛めつけることで、自分の強さを確認しようとしてんだよ。あと一押しなんだ。今さら放り出せない!」
姉さんはぼくの胸元を掴み、必死に訴えた。
「あの女だけは許さない。そりゃ、オレだってぺてん師さ。他人を騙して金まきあげてる犯罪者が、なにぬかしてんだって言われるだろうけど。でも――でもオレたちは、自分より弱い人間をいたぶって悦ぶなんて真似は、絶対にしない! そうだろ、セディ! サリーの死に顔を覚えてるだろ。あの女はああやって、身重のサリーをさんざん殴って、踏みにじったんだ!!」
「もちろん、わかってるよ。ぼくだってあの女は絶対に許せない。でも、姉さんの安全のほうが大事だよ。別の方法を考えたっていいじゃないか」
姉さんの気持ちは痛いほど良くわかる。そして、自分のためではなく、自分よりも弱い、自らを守るすべを持たない人々のために憤るリゼを、ぼくは誇らしく思う。
けれど。もしも、もしも姉さんがサリーと同じ目に遭わされたら。
ぼくはあの女を、この手で、生きたまま引き裂いてやる。
「わがままばっか言って、ごめん。でも、オレは絶対逃げない。途中で投げ出してたまるもんか」
「姉さん……」
「ごめんな、セディ。おまえにはいつも、無茶ばっか言っちゃうよな」
「いいよ、そんなの」
ていうか、今さらだろ。こんなふうに姉さんがわがままを言うのは、ぼくにだけなんだし。
姉さんにわがままを言ってもらえなくなったら、ぼくは反対に、姉さんに見放されたのかって心配になるだろうな。
「ありがと」
姉さんは少し淋しそうに笑った。
「心配いらねーって。どうせオレ、もうすぐクビになるだろうしさ」
「クビって……」
まあ、そうだろう。男爵夫人の性格を考えたら、自分に意見する使用人なんて絶対に許さないはずだ。たとえ使用人の意見がどれほど正論であろうとも。
「だからそうなる前に、なんとしても成功させなきゃ。これまでの仕込みが全部無駄になっちまう」
「うん――。確かに、それはわかるけど……」
「――しっ、黙って!」
鋭く、姉さんがぼくを制した。
「誰か来る。隠れろ、セディ!」
姉さんは開けっ放しの窓を指した。
「え、ぼくが? 姉さんは!?」
「いいから早く!」
反論している余裕はない。ぼくは姉さんに命じられるまま、窓枠を乗り越え、食品貯蔵庫に飛び込んだ。
そのまま、窓のすぐ下に身をひそめる。
ざく、ざく、と革靴で砂利を踏む硬い足音がした。
「どうしたんです、ミセス・メイザー。こんな夜更けに」
この声、ジュリアンだ!
「申し訳ございません。猫が……野良猫が、お庭に入り込んでいたようでしたので」
しおらしく、静かで上品な声を作り、姉さんは答えた。
「猫ですか。執事もたしかそんなことを言ってたな……」
ぼくはそろそろと首を伸ばし、窓の外を窺った。
灯りのない食品貯蔵庫の様子は、外からは真っ暗でなにも見えないはずだ。用心していれば大丈夫。
ジュリアンは夜の暗がりに眼を凝らし、こちらに背を向けている。プラチナブロンドが闇の中に浮かび上がり、まるでそれ自体が天使の光輪のように光を放っているみたいだ。
姉さんはその後ろに立ち、慎ましく視線を伏せている。
その手がすっと、黒く染めた髪をかき上げた。小さな貝殻みたいな可愛い耳朶があらわになる。
そのまま、すっ、すうっと、何度か髪を撫でつけて。
あれは、姉さんの合図だ。
――仕掛けろ。
姉さんが、そう言っている。
今まで、“仕事”の最中に何度もあの合図を送ってもらった。どんなことでもいい、ぺてんを仕掛けろ。あとは自分がなんとかするから、きっかけをつくれ。そういう合図だ。
わかったよ、姉さん。
ぼくは慌ただしくポケットを探った。
水晶の振り子、ハンカチ、それからマッチの箱が指に触れる。――うん、これが使える。
ぼくはマッチを取り出し、靴の踵で擦って火を点けた。
オレンジ色の小さな炎がぽうっと燃え上がる。
それを、手だけ伸ばして窓のそばへ突き出し、さっと振る。
「きゃあっ!?」
姉さんが短く悲鳴をあげた。
「どうしました?」
ジュリアンが窓のほうへ振り返るのと同時に、ぼくはマッチを強く振り、火を消した。
ジュリアンの眼には、怪しい火の玉が一瞬室内をよぎり、ぱっと消えたように見えただろう。
「い、今のは……」
「若さまもご覧になられたのですか?」
「あなたも見たんだね、ミセス・メイザー」
姉さんは声もなくうなずいた。
「なんだったんだ、あれは……。小さな火の玉が、ぱっと浮かんで、消えてしまった……」
「――きゃっ!?」
「なんだ、今度はどうしたんだ!?」
「今……、今、そこに、誰か……!!」
姉さんはふるえる手で庭の奥を指し示した。
「白い……人影が……」
「人影? いや、ぼくにはなにも……」
「あ……。も、申し訳ございません。……きっと、わたくしの見間違いでございます」
今にも消え入りそうな声で謝り、姉さんはジュリアンに背を向けた。
「待ってくれ。なにを見たんです、ミセス・メイザー」
「いいえ、何でもございません。もう、失礼いたします」
目を伏せ、逃げるように立ち去ろうとする家政婦を、ジュリアンはその手を掴んで強引に引き留めた。
「お許しください。ありもしないものを見たなどと言って怯える愚か者には、レディ・ミドルトンは鞭をお与えになります」
「鞭……? 母が、あなたを鞭打つと?」
驚きを隠せないジュリアンに、姉さんはさらに居たたまれない様子を見せた。
言ってはいけないことを言ってしまった、という苦渋と愁いに満ちたその表情を、芝居だと見抜ける人間はまずいないだろう。相棒のぼくでさえ、すぐさま飛び出していって抱きしめてあげたいくらいだ。
「母にはなにも言わせない。あなたが知っていることを全部、話してほしいんだ……!」
「若さま――」
ジュリアンの熱意に、やがて家政婦はためらいながらも口を開く。――この、絶妙の間合い!
「このごろ、お屋敷の中でいろいろとおかしなことが続いているのをご存じでしょうか。メイドたちが怯えております。その……」
「うん。ぼくも聴いた。ロンドンデリーの歌だろう?」
「それだけではございません。先ほど、わたくしも見ました。白い人影が、そこを……」
姉さんはおずおずと、庭の暗がりを示した。
ジュリアンもそちらを凝視する。家政婦が見たものが、自分にも見えないか、と。まあ、見えるはずはないんだが。
「メイドたちの中には、……レディ・ミドルトンの後ろに同じような怪しい人影を見たとまで、申す者もおります」
「母の――!?」
姉さんは苦悩に満ちた表情でうなずいた。
「どういうことだ、それは!?」
「わかりません。まさか……レディ・ミドルトンにお伺いするわけにもまいりません……」
そりゃそうだ。訊けるわけがない。あなたは幽霊に取り憑かれるほど恨まれる覚えがありますか、なんて。
「わたくしも、なにがなんだかわからないのです。こんなことは生まれて初めてです。わたくしもメイドたちも、誰に相談すれば良いのかすら、わからなくて……」
「相談……?」
「同じような経験をした人でもあれば、良い解決方法もご存じでしょう。ですがわたくしたちには、そんな知識も経験もありません。ただ、ただ、怖ろしくて……!」
「知識、経験……」
ジュリアンはなかば無意識のうちに家政婦の言ったことを繰り返し、やがてはっと顔をあげた。
「そうだ。ミスター・メリウェザー……。あの人なら……!」
実はこれは、ぼくたちぺてん師の常套手段だ。迷っている相手にさりげなくヒントを与え、思考を誘導していくのだ。相手は自分で問題の答を思いついたと感じているから、その思考自体が都合良くコントロールされているのだとはなかなか気づかない。
「そうだ。彼ならきっと相談に乗ってくれる。ミスター・メリウェザーに話をしてみよう」
「メリウェザーさまとおっしゃいますと、さきほどの夜会で若さまのお手伝いをしてくださった方でしょうか?」
「ああ。彼ならきっと、良い方法を知ってるはずだ。明日にでも相談に行くよ」
――やった!
窓枠の下で、ぼくは声を殺して喝采した。
さすがは姉さんだ。ついにここまで話を持ってきたぞ。
「落ち着いて、ミセス・メイザー。この件はぼくに任せて。必ず何とかしてみせるから」
「若さま……」
ああ、そうだよ、ジュリアン。きみの努力が、結果的に真実を白日の下にさらすことにつながるんだ。罪は暴かれなくてはならない。
あとはジュリアンの相談に乗るふりをして、ぼくがこの屋敷で大々的に降霊会をやるだけだ。
ぼくと姉さんの力でサリーの亡霊を出現させ、その恨み哀しみを余すところなく語らせてやる。
「あなたは早く部屋に戻ったほうがいい。そんな恰好では風邪を引いてしまう」
「え? ……あ、きゃっ!」
ジュリアンにそう言われて、姉さんは小さく押し殺した可愛い悲鳴をあげた。まるで今初めて、自分が薄っぺらな夜着一枚きりで紳士の前に立っていることに気がついたかのように。
「す、すみません、わたくし……。まあ、なんてこと――!」
若さまへの挨拶もろくすっぽ言えないまま、家政婦は脱兎のごとく逃げ出した。
白い木綿の夜着に包まれた後ろ姿が建物の向こうに走り去るのを見届けて、ジュリアンももと来たほうへと歩き出す。
――で、ぼくは、ふたりの足音が聞こえなくなってからも、食品貯蔵庫の窓の下で、じっと身をひそめているしかなかった。
やがて。
「セディ。おい、セディ」
こつ、こつ、と窓硝子を小鳥がつつくような音がした。
見ると、姉さんがひどく恨めしそうな顔をして、爪先で窓をノックしている。
「早く開けろ。寒いんだよ。この窓、内側からしか開けられねえんだ」
「あ、ごめん」
そうか。姉さんはさっき、この窓から出てきた。ジュリアンの前じゃ、さも厨房の裏口から出てきたように装っていたけど、裏口の鍵が開いているはずはない。この窓からしか建物内に戻れないんだ。
ぼくが窓を開けると、姉さんは出てきた時と同じく軽々と窓枠を乗り越え、食品貯蔵庫に飛び込んだ。
「うーっ、寒いーっ!」
可哀想に姉さんは、唇も真っ青になってかたかたふるえている。
「あっためてあげようか?」
ドア一枚へだてた向こうは、家政婦の個室。姉さんのベッドがある。
大丈夫、使用人たちも今夜はもうぐっすり眠っているはずだ。リゼがちょっとお悧巧に声を我慢していれば、誰にもばれないさ。
けれど、
「莫迦!」
姉さんはきゅっとぼくの耳朶を抓った。
「なに聞いてたんだ、おまえは! 明日になったら、ジュリアンがおまえの屋敷に行くぞ!それまでに準備しておくことがあるだろうが!」
「やだなあ。そんなのとっくに完了してるよ」
「おまえが終わってても、オレがこれからなの! 邪魔しないで、とっとと帰れ!!」
結局ぼくは食品貯蔵庫の窓から外へ出て、足音を忍ばせながらすごすごと自分の屋敷へ戻るしかなかった。
これじゃまるで間男だ。――今夜はキスひとつできなかったのに。
翌日。時計が正午を告げる前に、ジュリアンはぼくの屋敷へやってきた。
社交界のルールでは非常識と言われる午前中の訪問は、ジュリアンの焦りの現れでもあるだろう。
「不躾な訪問をお許しください。どうしてもあなたの力をお借りしたいのです」
客間に通されるなり、思い詰めた表情で青年が切り出したのは、やはりミドルトン男爵邸の怪奇現象についてだった。
「なにか心当たりがあるのかい?」
「いいえ、まったく」
ジュリアンは即答した。
彼は本当にサリーのことはなにも知らないのだろうか。
まあ、サー・ローレンスが自分の愛人のことを息子に打ち明けるとは思えないし、男爵夫人も、愛人には人殺しを手伝わせても、実の息子には自分の悪事を知られないよう努力するだろう。
ぼくはわずかな胸の痛みを覚えた。
真実が明らかになれば、ジュリアンも少なからず傷を負うだろう。下手をしたらミドルトン男爵家は爵位を召し上げられ、断絶してしまうかもしれない。
だがそれは、彼にとってあの忌まわしい母親から解放される最初で最後のチャンスになるかもしれないのだ。
誰だって、生きていく上で重荷や苦悩となるものは必ず抱えている。ぼくと姉さんは貧しさと、幼くして親を失ったこと。加えてぼくは母の私生児だった。ジムの場合は、事故で重い後遺症を負った。
裕福な家に生まれたジュリアンにも、あのどうしようもない母親が多大な負担となってのしかかっている。
けれど人はみな、それぞれの重さ苦しさに耐えて、生き続けるものなのだ。
自分の力で生き抜く方法は、誰にでも必ずある。必死に求めれば、必ず光は見つかる。かつてのぼくと姉さんがそうだったように。
ジュリアンがそうした光を信じられるよう、できる限りの手助けはしよう。ぼくはそう思った。
そしてぼくは覚悟を決め、ジュリアンを真っ直ぐに見た。
「実は、初めてお会いした時からずっと気になっていたんだ。メイドは白い人影と言ったそうだが、ぼくには違うものが見える。レディ・ミドルトンを取り巻く……黒い怨念の渦が」
「怨念ですって……!?」
「すまない、その――」
「いいえ、いいんです。母は多くの人から恨まれて当然の人間ですから……」
掠れがちの声で言うジュリアンは、家族としての愛情を人としての倫理観でねじ伏せようとしているように見えた。
「ご覧になったでしょう、昨夜のことを。あんなのはまだ序の口です」
やがてジュリアンは、堰を切ったようにしゃべり出した。
「田舎の領地にいる時は、母は小作人を奴隷のようにこき使い、見かねて諫めた牧師夫人を衆人環視の中で罵倒して辱め、止めに入った村人も杖でめった打ちにしました。挙げ句の果てにはその村人を、貴婦人の自分に暴力をふるったと嘘の訴えを起こして、牢屋に入れさせたんです。……村人は獄中で病死し、彼の妻も後を追って首を吊りました」
身内の恥を他人に打ち明けるのは、誰だってつらい。だがジュリアンは、もう自分ひとりの胸にはおさめておけなくなってしまったのだろう。
「その時の牧師さまも教区を追い出され、貧困の中で亡くなったと聞いています。後釜になった牧師は、母の……、母の……!」
「ジュリアン」
「醜い……っ! どうして彼女は、あんなにも醜いまま、生きていられるんだ……!!」
「もういい、ジュリアン。もう止せ」
こみ上げる嗚咽を必死に堪え、肩をふるわせるジュリアンに、ぼくは思わず手をさしのべた。血の気が失せるほど強く握りしめられた拳に、自分の手を添える。
「ぼくに見えるのは、黒い霧のような想念の塊だけだ。それが具体的に誰の想いなのか、男爵夫人をどうしようとしているのかまではわからない。調べてみなくては」
「調べる……? そんなことができるんですか?」
「ああ。きみさえ良ければ、きみのお屋敷で降霊実験をやらせてもらいたい。男爵夫人に取り憑いたものの正体をあばき、その訴えを聞くんだ」
ジュリアンはしばしためらう様子を見せた。
ここで強引に迫ったら、逆効果だ。
「いや、悪かった。きみの考えはわかるよ。心霊実験など所詮は異端の科学だ。信用できないのも無理はない。ましてぼくは、昨夜あんな芝居をして、みんなを騙しているしね」
「いいえ! 違います、ミスター・メリウェザー。あなたを疑うなんて、あり得ない!」
ジュリアンは自分から強くぼくの手を握り返した。
「お願いします、ミスター・メリウェザー。ぼくは、ミドルトン男爵家を救いたい」
わすれなぐさ色の瞳が、真っ直ぐにぼくを映す。
「グレアムと呼んでくれ、ジュリアン」
「え……」
「約束しよう。全力を尽くすよ」
ぼくはそっと、ジュリアンにうなずいて見せた。
思い詰めて硬く強ばっていたジュリアンの表情が、見る間にやわらかくほころんでいく。安堵と、母親にすがりつく幼い子どものような無力さとが入り交じった、不器用な微笑みが浮かんだ。
「ありがとう、ミスター……いえ、グレアム。本当にありがとう。あなたの友情に感謝します……!」
うん……、悪いね、ジュリアン。
ぼくはたしかに全力を尽くすと約束したけど、“なにに対して”かは一言も言っていないよ。
ああ、もちろん全力を尽くすさ。サリーの無念を晴らし、ジムの心を少しでも安らがせるために。あの女にふさわしい罰が与えられるよう、グレンフィールド兄弟の全力を見せてやるさ。
二日後、ぼくは、さまざまな小道具を抱えた従僕のウィルを引き連れて、ミドルトン男爵邸に乗り込んだ。
ジュリアンが用意してくれた小客間で、窓に厚くカーテンを引き、銀の燭台を並べ、降霊会にふさわしい重苦しい暗闇を作りだす。家具はすべて運び出し、客間はがらんとしたただの四角い箱になっていた。
男爵邸にはあらかじめ、近隣の住人たちを数人、呼び集めてあった。
「もしも彼らの中に男爵夫人を呪詛している者がいたら、実験の最中に必ず馬脚を現すはずだ。少しでも疑わしいと思われる者は、みんな招いておくといい」
ジュリアンの名で心霊実験の見学に招待された彼らは、告発の目撃者となり、噂の発信源となるだろう。
「燭台をこちらへ。まだ火は点けなくていいよ。椅子は、これじゃあだめだな。肘掛け附きのを用意してくれ。――ああ、ウィル。そこはもっとしっかりふさいで。わずかな風も入り込まないように!」
男爵邸の使用人たちの手も借りて準備を整えていると、やがてどたどたどた……っと荒っぽい足音が響いてきた。
「なんなの!? なにをしてるの、ジュリアン!?」
「お母さん」
怒りで顔を赤黒く染めた男爵夫人の後ろには、キツネ顔の小間使いもくっついてきている。
「降霊実験ですよ。ミスター・メリウェザーがおっしゃるには、我が家には多くの霊道が集まり、降霊実験には最適なんだそうです」
男爵夫人にはこう説明するようにとあらかじめ教えておいた言い訳を、ジュリアンは忠実に繰り返した。
「お母さんだってご覧になったでしょう? パーティーの夜に出現した騎士の霊を」
「なにを言ってるの! あれは……!」
息子に反論しようとして、男爵夫人は言葉に詰まった。
ジュリアンが招待した人々の中に、シモンズ夫妻もいたからだ。
小間使いまで悔しそうに唇を噛んでいる。
「お屋敷の中に、良くない霊の波動を感じます。男爵閣下のご病気もこれが原因ではないかと、ぼくは思います」
「そんなバカな……!」
ぼくの説明に、男爵夫人はふいごのような鼻息を噴き出し、叫んだ。
「わたしは信じません! 幽霊とか悪霊とか、全然信じてませんから!!」
おやおや。あなたは昔から霊感が強くて、いろんな霊体験をしてきたんじゃないのかい? それこそ、金縛りとか金縛りとか、ね。
「お母さん。これはお母さんのためでもあるんですよ」
ジュリアンは静かに、力強く母親を説得しようとした。
「お母さんだって、このごろ、わけもなく身体がつらいっておっしゃっていたじゃありませんか」
「それは……、わたしは昔から病弱で、身体が弱いんです! 若いころはものすっごく痩せてたんだから! そのせいなのよ!!」
……おっとっと。笑っちゃいけない。
やはり男爵夫人の説得は、ジュリアンひとりには荷が重いみたいだ。
「レディ・ミドルトン。降霊会はロンドンの最新流行ですよ。ご婦人向けの雑誌にも良く記事が載っているでしょう?」
ぼくはとっておきの好青年スマイルで、男爵夫人に語りかけた。
「この実験が成功すれば、きっとロンドン中の紳士淑女があなたの神秘体験を聞きたがるでしょうね。あなたは一躍、王都のヒロインだ!」
「え……っ」
「それに――ああ、そこのきみ! 男爵夫人の小間使いだろう? いいね、きみもなかなか霊感が強そうだ。良ければ実験の手伝いをしてくれないか?」
「えっ!? あっ、あた、あたくしでござぁますか!?」
小間使いはとたんに目を輝かせ、女主人を押しのけんばかりに身を乗り出した。やっぱりみんな、この手のイベントが大好きなんだねえ。
「はい、はいっ! なにをすれば良いんでございましょう?」
「まずはこの屋敷で働く女性たちを全員集めてほしい」
「は? 使用人を? メイドたちをですか?」
小間使いは女主人の命令を飛び越え、ぼくの指示に従い出してしまった。男爵夫人の味方は、もうひとりもいない。
男爵夫人のように権勢欲の強い人間は、実はひとりきりではなにも行動できないことが多い。必ず多数の賛同者を引き連れていなければ、発言すらできないのだ。そのため、あの手この手を弄して他人を支配し、自分の味方に仕立て上げる。反対に味方がひとりもいない場では、簡単に多数派のほうへ流れていってしまうのだ。
「この屋敷に関わりの深い女性たちの中から、霊魂と波動の合う人を選び出し、降霊の依代とします」
「波動……? よ、よりしろって――」
「大丈夫。すべてはこの振り子が教えてくれる」
ぼくは信念に満ちた口調で断言し、水晶の振り子を高くかざして見せた。
やがて黒いドレスに白いエプロン、木綿のモブキャップで統一されたメイドたちが、ずらりとぼくの前に整列した。その列に、小間使いも意気揚々と並ぶ。
見学客たちは、邪魔にならないよう壁際に下がり、固唾を呑んで実験を見守った。
男爵夫人は執拗にぺちゃくちゃしゃべり続け、なんとか実験を邪魔しようとしていた。が、誰も返事をしないどころか、彼女のほうを見ようともしないので、とうとう黙り込むしかなくなった。
「これで全員かい?」
「いえ、ちょっと待ってください。家政婦のミセス・メイザーがまだです」
少し遅れて、家政婦が小客間に入ってきた。曇りがちな表情からも、彼女がこのイベントに乗り気でないことがわかる。
姉さんは相変わらず半喪服みたいなグレーのドレスに、でっかくて不格好な木綿のモブキャップをかぶっていた。これぞ家政婦、という身なりだ。
「よし。みんな揃ったね」
ぼくは振り子を手に、彼女たちの前を歩いた。ひとりひとりの前で立ち止まり、その眼前に振り子をかざす。
けれど振り子は、ぴくりとも動かない。
「だめだな。相性が合わないみたいだ」
誰もがぼくの振り子を凝視していた。
振り子は、わずかに揺れる時もあるが、神秘現象というにはあまりにも弱い。そして小間使いの前まで来ると、わずかに動いていた振り子がまたぴったりと止まってしまった。
――言っておくが、これはちょっと練習すれば誰にでもできることなんだよ。指先に込める力の加減ひとつでね。
そして、心霊研究家グレアム・スペンス・メリウェザーが、男爵家の家政婦の前に立った時。
水晶の振り子がいきなり大きく揺れだした。急激に左右に振れ、やがて円を描いてぐるぐる回り出す。
「これは……!」
突然の不可思議な現象に、誰もが押し殺した驚きの声をあげた。
「この女性だ! 間違いない、この人の霊的波動は完全にこの屋敷を通る霊道と合致している。今回の依代にもっともふさわしい!」
ぼくは低い声で断言した。ここで大声を張り上げると、嘘くさくなる。大げさでなく、けれどいかにも昂奮を隠しきれない、といった演技が大切だ。
「あの、これはいったい何なのでございますか、若さま」
「心配しないで、ミセス・メイザー。どうか、グレアムの実験に力を貸してほしい」
困惑し、なかば怯えている家政婦に、ジュリアンは優しく語りかけた。
その言葉に家政婦も、まだなにがなんだかわからないという表情ながら、小さくうなずいた。
「それではこちらへ――ええと、ミセス……」
「メイザーです。アン・コレット・メイザー」
「では、ミセス・メイザー。こちらの椅子へどうぞ。皆さんは一列に壁際に並んでください。そう、みんなで手をつないで――」
「一列に? 丸くならなくてよろしいのですか?」
「ええ。今回はいきなり良くない霊魂が飛び込んでくる可能性があります。悪い霊が現れた時、すぐに追い払えるよう、逃げ道を作っておくんです」
見学者たちも半信半疑の様子でぼくの指示に従い、後ろにさがって互いに手をつないだ。
たしかに、こういう心霊実験では普通、参加者たちは手を繋いで丸く輪を作り、被験者を取り囲むものなんだけどね。今回はそんなことされたら、ぼくの背後でいろいろとマズイものが見えちゃうからさ。
メイドたちも壁際に下がり、見学者たちの後ろにもう一列作って実験を見守る。
男爵夫人は列に加わろうともしなかった。みんなから離れて部屋の隅に立ち、こっちを睨んでいる。
隣にはいつの間に来たのかエドガーが立っていた。
が、男爵夫人は愛人が来てくれたことにも気づいていないらしい。醜く顔を引き歪め、苛立たしそうに小刻みに身体を揺すっていた。
「ウィル。蝋燭に灯を」
部屋中の灯りを消し、ウィルはぼくが持ってきた燭台に一本だけ蝋燭を灯した。
暗闇の中、ひどく小さな蝋燭の炎だけが、頼りなげに浮かび上がる。
蝋燭のそばにいるぼくと家政婦は、なんとかその姿形がわかるが、他の人たちには光が届かず、誰がどこに立っているかも良く見えないだろう。
「さあ、ミセス・メイザー。気持ちを楽にして。この振り子を見つめてください」
ぼくは水晶の振り子を姉さんの前にかざした。
気持ちを楽に、の言葉に従い、姉さんはぶかぶかのモブキャップを外して膝の上に置いた。黒髪が闇に溶け込むようだ。
「振り子の動きを目で追って……右、左、右、左――。そう、心と頭を空っぽにして。あなたは空っぽの器になるんです……」
誰も、なにも言わない。男爵夫人ですら黙りこくって、実験に見入っていた。
「さあ、息を吸って――吐いて……。あなたは今、この屋敷の空気と同化している……。見えるはずだ、屋敷を突き抜ける霊道が、光り輝く霊魂の軌跡が――」
静かに、歌うような抑揚で、ぼくは繰り返した。
やがて家政婦の身体から力が抜けていく。
彼女は昏睡したようにぐったりと椅子にもたれかかった。彼女が意識を失ったのは、誰の目にも明らかだった。
これからどうなるのか。誰もが息を飲んで次の動きを見守った。
その時。
どこからともなく、細い細い歌声が聞こえてきた。
ロンドンデリーの歌だ。
「きゃあっ!?」
女性たちが口々に悲鳴をあげた。
「静かに! 今、霊がここに来ている!」
ぼくは低く鋭く、みなを制した。
これもタネは同じ。ぼくの屋敷で働くメイドのファニーが、あらかじめ姉さんの手引きでミドルトン男爵邸に忍び込み、屋敷中の注意が降霊会に集まったところを見計らって、家政婦の寝室の暖炉に頭を突っ込み、ロンドンデリーを歌い出しただけだ。
壁の中を通る煙突に反響し、殷々とこだまする歌声は、とうてい生きた人間のものとは思えない。上手いぞ、ファニー!
続いて、燭台で一本だけ燃え続ける蝋燭が、風もないのに炎が大きくなったり小さくなったり、時におかしな色の炎を発したり、奇怪な様子を見せ始める。
「……な――っ!? なんだ、あれは!?」
実直な羊毛商人のシモンズ氏には悪いが、これもぼくたちの小細工だ。単純に、蝋燭のロウにいろいろ不純物を混ぜてあるだけさ。
暗がりに目を凝らし、ぼくは男爵夫人の様子をうかがった。
男爵夫人は蝋人形のように硬直し、あらぬ方向を睨んでいた。歯を剥き出して食いしばり、今にも叫び出しそうなのを必死で抑えているようだ。
よし、今だ!
ぼくは振り子を高々と差し上げ、声を張り上げた。
「さまよえる霊魂よ! 訴えたいことがあるならば、彼女の肉体を借りるといい! 清廉な乙女の肉体に宿り、きみの嘆き哀しみを語るのだ!」
振り子が揺れる。
ぼくは叫んだ。
「見ろ! あそこに霊が出現したぞ!!」
真っ暗な天井の片隅を指さす。
人々はみな、ぼくの動きにつられて、そこを見た。
その時、一陣の風が吹き抜けた。
ごうっと渦巻く風が室内を通り過ぎ、唯一の灯りを消してしまう。
これはウィルの仕業。何のことはない、ぼくがマントに隠して持ち込み、実験開始と同時にマントごとウィルに預けた大きめの板で、ばさっと蝋燭をあおいで消しただけ。従僕が持っているマントなんて、誰も見ないからね。さらに、ウィルの動きが見とがめられないよう、ぼくが適当なことを叫んでみんなの注意を天井付近に向けたのさ。種明かしをすれば、どれもこれも、ほんと、たいしたことないんだ。
室内は、真っ暗になった。
「きゃあああッ!!」
「なんだ!? いったい何が起きたのだ!?」
「いや、怖いぃ! 助けて!」
悲鳴と怒鳴り声が交錯した。
「静かに! 落ち着いて、皆さん、その場を動かないで!」
ぼくはさらに声を張り上げた。
それを合図に、ウィルがふたたび蝋燭に灯を灯す。――今度の蝋燭は、極端に芯の糸を短くしてある。当然、炎は小さく、光は弱々しい。
その、かすかなオレンジ色の光の中、浮かび上がったのは。
茶色の髪を振り乱し、白いシュミーズを血に染めた、サラ・ホワイトの亡霊だった。
「きゃあああ――ッ!!」
絶叫したのは、誰だったのだろう。
――ひと……ごろ、し……。
サリーの亡霊が、ゆらゆらと右手を前へ持ち上げた。
――ひと、ごろし……。かえして……。あたしと、サー・ローレンスの赤ちゃんを、かえしてよ……。
青白い爪の亡霊の手ははっきりと、どれほど憎んでも余りある犯人を指さしていた。
ミドルトン男爵夫人、マリオン・フレッチャー・ウェイクスリーを。
「――あんたが……あんたが、殺したんだ……。あたしと、あたしの赤ちゃんを……。あたしのおなかを何度も蹴って、杖で殴って……あんたが殺した、あたしの赤ちゃんをおおおッ!!」
もちろん、このサリーは姉さんだ。
姉さんはハニーブロンドを黒く染めた染料を中途半端に洗い落とし、その上からさらに黒髪のかつらをかぶっていたのだ。長い髪の上にかつらをかぶった不自然さは、ぶかぶかのモブキャップで覆い隠していた。
黒の染料が落ちきっていないブロンドは、ところどころサンドベージュみたいなまだらになり、揺れる蝋燭の光のもとでは茶色っぽく見えるというわけだ。
グレーのドレスにも細工がしてあり、身ごろを強く引っ張るとすぐに脱げる仕掛けになっている。これはモリス夫人たちが縫ってくれた。そしてその下は、血まみれのシュミーズだ。
さらにウィルが上手い具合に蝋燭の炎をあおり、ゆらゆらと不安定に揺らめかせる。その光に照らされた姉さんの姿はより一層、この世のものとは思えなくなる。
これらの小細工をなによりも本物らしく見せているのは、神懸かったような姉さんの演技だ。
「誰だ! きみは誰だ!?」
打ち合わせどおり、ぼくが亡霊を問い質す。
「サリー……。サリー・ホワイト……サー・ローレンスの、本当の、妻……。マリオン・フレッチャーに殺された……!」
「こ、殺された!?」
「ゆるさない……。許さない、マリオン・フレッチャー……人殺しいぃぃッ!!」
「人殺し――人殺しって、まさか……!!」
恐怖に悲鳴をあげていた女性たちも、今や呼吸すら忘れたように沈黙していた。目の前で展開する驚愕の事態に必死で見入っている。
「うそだ……うそだ、うそだああああッ!!」
破鐘を叩くような絶叫が響いた。
「し、死んだんだ! てめえは死んだはずだ! あたしゃこの目で見たんだからね! こんなこと、あるはずねえんだよおおッ!!」
汚いコックニー訛りを剥き出しにしてわめいているのは、ミドルトン男爵夫人だった。
その場に居合わせた者はみな、両眼を見開いて男爵夫人を見た。
すかさずウィルが、蝋燭の灯を夫人のほうへ突き出す。オレンジ色のか細い光に照らされて、恐怖と怒りに歪んだ男爵夫人の顔は、脂汗にまみれ、鼻は大きく膨らみ、口の端から涎さえ垂れて、貴婦人どころか人間とも思えないほどの醜悪さだった。
「そう……。そうよ、あたしは死んだ……。殺された……あんたに殺された――!」
声をふるわせ、姉さんが男爵夫人を追いつめる。
「許すものか、マリオン・フレッチャー……。呪ってやる、祟ってやる……。おまえが地獄の焔で焼かれるまで……!」
「ぎゃあああッ!! いやああ、いぎゃああああッ!!」
男爵夫人はもはや、人の言葉すら発しなかった。サリーの告発を聞くまいと、全身の力を振り絞って叫び続ける。両手で髪をかきむしり、骨太の身体をのけぞらせ、また折り曲げ、ばたばたと足を踏みならして暴れる。
なによりもその異常な態度が、亡霊が出現して自らを殺した犯人を告発するという非現実的なできごと、その告発内容が真実であると、証明していた。
「死んだんだ、てめえ、死んだじゃねえかよおっ! うちの地下室で、くたばってたじゃねえかああッ!! 来るなあ、ぐるなああッ!! あっちいげえええッ!!」
男爵夫人は床に倒れ込み、芋虫のように這い、転げまわった。
見学客たちは誰ひとりとして、彼女を助け起こそうとはしない。狂ったようにのたうち回る夫人を、ただ茫然と見おろしている。
男爵夫人の腹心である小間使いも、息子のジュリアンすら、身動きするすべすら忘れたように立ちつくしたままだった。
彼らの耳には、はっきり聞こえたはずだ。サリーはこの屋敷の地下室で殺された、と。ミドルトン男爵夫人マリオン・フレッチャー・ウェイクスリーは、人殺しだと。
実際に手をくだしたのはエドガー・シンクレアであっても、命じたのは男爵夫人に間違いないのだ。
よし、そろそろ仕上げだ。
ぼくは水晶の振り子を大きく振り回した。
「去れ、悪霊よ! 復讐は神の御業だ、彼女の裁きは神の御手にゆだね、死者は死者のあるべき世界へ帰るのだ!」
これを合図に、ウィルがふたたび蝋燭を消す。暗闇の中で姉さんは黒髪のかつらをかぶり、グレーのドレスの衿をかき合わせて、家政婦アン・メイザーに戻るのだ。
その後、霊に憑依されて気を失った家政婦を、ぼくは身体が冷えないようにマントでくるんで抱き上げ、閉めきった部屋から連れ出す。
「ミセス・メイザーの部屋はこちらです」
と、すかさず案内するのは男爵邸のメイドたちに紛れ込んだファニーというわけだ。
そして室内には、幽霊の告発を聞き届けた複数の紳士淑女と、自らの態度でその告発が真実だと証明してしまった男爵夫人とが残される。
いつもながら、姉さんの計画は完璧だ。
――破滅しろ、殺人者レディ・ミドルトン。
が。
「てめえぇ……っ。この、くたばりぞこないの淫売がぁ……っ!」
地獄の悪鬼がうなるように、床に突っ伏した男爵夫人が呻いた。ぜいぜいと獣のような激しい息づかいが聞こえる。
「死んでまであたしをバカにしやがんのか、てめえ、この、ちくしょおおおッ! だったら、何度でもぶっ殺すまでだああッ!!」
夫人はがばっと跳ね起きた。ごつごつと節くれ立った手で、猛然と姉さんに掴みかかろうとする。
「殺してやらあッ! この売女ッ! ふざけんじゃねえぞぉッ! 今度こそあたしが、あたしがああッ!!」
「危ない!」
ぼくは反射的に前へ飛び出し、姉さんをかばった。
夫人の両手がぼくの胸元にぶち当たった。思わず息が詰まり、咽せそうになる。でかい宝石の嵌った指輪がまるで凶器だ。
さらに、今度は後ろからがつんと一発蹴り上げられる。姉さんだ。
なにやってんだ、莫迦、てことだろう。そりゃそうだ、幽霊をかばう人間なんかいるわけない。
「あ、危ない、えー……悪霊だ! 男爵夫人に悪霊が取り憑いたぞ! みんな逃げろ!!」
男爵夫人の両手を掴み、ぼくは叫んだ。
獣のようにうなる夫人を必死に抑えつける。なんて馬鹿力だ、ほんとに女かよ!?
「ここは危険だ、みんな早く外へ出て!」
降霊会の場は、たちまちパニックになった。
「きゃああっ、助けてえっ!!」
「化け物だ、男爵夫人が化け物になったあ!」
「こっちです、早く!」
ウィルが小客間のドアを開け放つ。
「逃げよう、あたしたちも!」
ドアのそばでファニーが叫んだ。
「レディ・ミドルトンは悪魔に取り憑かれたんだ! このまんまじゃ、あたしたちも殺される!」
こんな混乱した場では、メイドたちだって互いの顔なんか確認してやしない。同じ制服を着ていたら、仲間だと思うさ。
ウィルとファニーに先導され、客もメイドたちも雪崩をうって客間から逃げ出した。
「いい加減にしてくれよ、婆さん!」
ぼくは掴んだ男爵夫人の手を強く引き寄せ、反動をつけて膝蹴りを食らわせた。夫人の身体がぐらりと前のめりになったところを、とどめに後頭部へ肘をたたき込む。
男爵夫人は顔面からぐしゃりと床へ倒れ込んだ。
こいつは姉さんを鞭打ってくれた分だ。鼻の骨を折らないでやっただけ感謝しろ。
「うえ……。けっこう容赦ねえんだなあ、セディ」
廊下に残った者がいないか確かめていたウィルが、客間に戻ってきた。
「ジュリアンとエドガーは?」
「客と一緒に逃げてったぜ。玄関ホールへ降りてったのは見たけど、後は知らねえ」
「よし、ぼくらも引き上げよう」
マントや蝋燭などの小道具を手早くまとめ、ぼくは姉さんを振り返った。
「ねえさ……ミス・メイザーも、もうこんな屋敷に用はないだろ? 一旦ぼくの屋敷に寄って――」
だが、姉さんの返事はなかった。
「あ? どうしたの!?」
姉さんはするっとぼくの横を通り抜けた。
そのまま無言で部屋を飛び出し、廊下を走り出す。まだらのサンドベージュに染まった髪を振り乱して。
「ちょっと待って! どこ行くんだよ!?」
ぼくは慌てて姉さんの後を追いかけた。
「おい、セディ!?」
「ウィル、ファニーといっしょに屋敷へ戻れ! ロールズに頼んでワイン蔵にでもかくまってもらえ、ぼくが帰るまで、絶対出てくるなよ!」
人の気配がほとんどなくなった男爵邸の中を、姉さんは風のような速さで走っていく。
ぼくは必死でその後を追った。
全速力で走っているのに、姉さんに追いつけない。
姉さんは息を乱す様子もない。おまけに、足音ひとつ響かない。まるで足が床にまったくついていないみたいだ。
姉さんは屋敷中央、彫刻で飾られた大階段を駆け上がると、そのまま迷わず三階の廊下を走り抜けた。
廊下の突き当たりには、壁一面を覆う古びたタペストリーが吊されていた。石造りの家では、壁から冷気が伝わるのをふせぐため、昔はよくこんなタペストリーを下げていたものだ。
姉さんはなんにも言わず、そのタペストリーをまくりあげた。
壁かと思っていたそこには、小さな扉が隠されていた。
「こんなところに、部屋が……!?」
姉さんはその扉を開けようとした。が、鍵がかかっているのか、開かない。姉さんはドアノブをつかみ、何度かがたがたと揺さぶった。
すると。
べきッ、とひどく大きな音がした。
そしてドアが開く。姉さんは迷わず室内へ駆け込んだ。
「待って、姉さん!」
ぼくも姉さんの後を追い、部屋へ飛び込む。――飛び込もうとして、ぎょっとした。
ドアノブが壊れてる!
金属の破断面は真新しい。たった今、壊れたばかりに見える。
もしかして、さっきの音はこのノブが壊れた音だったのか? まさか、姉さんが素手で金属のドアノブを握りつぶしたって!?
「姉さん、手! 手は大丈夫なの!?」
ぼくがいくら呼びかけても、姉さんは振り返りもしなかった。
部屋の真ん中に人形みたいに立っている。
そこは、隠し部屋と言うにふさわしい、小さく狭苦しい部屋だった。
天井は屋根裏に圧迫されて低く、明かり取りの窓もひどく小さい。そして、病人特有の蒸れたような臭いが籠もっていた。
そして部屋のほとんどを占めるベッドに、ひとりの男性が横たわっていた。
病みおとろえ、痩せた身体。かなり薄くなってしまった白髪。肌は紙のようにかさかさで、黄色っぽく萎びている。
だが、そのひょろりと伸びたシルエットに、ぼくは見覚えがあった。
「まさか……」
ぼくがその人の名を口にするより早く、姉さんはベッドに駆け寄り、男性の腕に飛び込んだ。
「サー・ローレンス――!」
「サリー……、サリーなのか!?」
かすれた声で、ミドルトン男爵ローレンス・パウエル卿が答えた。
苦しげに息を吸い込み、病んだ身体を必死に起きあがらせる。ローレンス卿は枯れ枝のようになってしまった腕で、姉さんを抱きしめた。
――姉さん? 本当にあれは、ぼくの姉さん、ぼくのアネリーゼなのだろうか?
「サー・ローレンス、会いたかった。会いたかった、あたしの……あなた――!」
茶色の髪が乱れかかる頬を、透明な涙がつたい落ちる。
あれは……、あれは、いったい誰だ。
ローレンス卿をしっかりと抱擁し、その腕に抱かれている女性は。やつれた頬をいとおしげに撫で、まばたきする一瞬すら惜しいというように彼を見つめている女性は。
「サリー。サリー、許しておくれ。私のせいだ。私のせいで、きみが……!」
ローレンス卿はこの状況に何の疑問も感じていない様子だった。目の前の女性の顔を両手で包み込み、同じく涙を浮かべている。
「泣かないで、ローレンス。あたし、幸せだった。ほんとに、幸せだったよ――」
涙で顔をくしゃくしゃにして、それでも懸命に微笑むその顔に、かわいいそばかすが見えたと思ったのは――ぼくの気のせいだったろうか。
「だから、ねえ、もう自分を責めないで。お願い、莫迦なことは考えないで。大丈夫、あなたがもっともっとしわしわになって、歯も髪も一本も残ってないおじいちゃんになっちゃったって、あたし、あなたが大好きよ。ずうっと、ずうっと、あなたが大好きよ……!」
「私もだ、サリー。永遠にきみを愛しているよ……」
生涯にただひとり、真実愛した女性を腕に抱き、乱れた髪に頬をうずめて、ローレンス卿は言った。
「ありがとう、サリー。ともに生きてくれて、本当にありがとう……!」
それは、愛する人に送る最期の言葉だ。どれほど語っても語り尽くせない、生命のすべてを込めて送る、“愛しています”。
本当は誰もがこうして、愛する人に告げたいと願っているだろう。けれど、穏やかな臨終の床で家族に見守られながら、それを口にできる人はごく稀だ。大概の場合、死は突然、無慈悲に、あるいは不条理にやってくるものだから。
サリー。わかったよ。きみが本当に言いたかったのは、その言葉だったんだね。
サリーが笑った。
ああ、たしかにそこにいるのは、サリーだった。
……あたしこそ。
ありがとう。いっぱい、いっぱい、愛してくれて、ありがとう。
一緒にいられたのは、ほんの短いあいだだけだったけど。
一生分よりももっとたくさん、あたし、幸せをもらったから。
ありがとう。あたしと家族になってくれて、ありがとう。愛させてくれて、ありがとう。
あたしと、出会ってくれて、ありがとう。
大好きよ。大好きよ。大好きよ……。
姉さんの身体がほのかな光に包まれた。
やわらかな、霧に溶けるような光が、ぽつ、ぽつ、と小さな気泡のように姉さんの身体から立ちのぼり、そして天へ向かって消えていく。
そして、サリーは消えてしまった。
彼女の魂は、最愛の人に見守られながら、天国へと旅立っていった。
姉さんの身体ががくっとくずれ、ベッドに突っ伏した。
「姉さん!?」
ぼくは慌てて姉さんに駆け寄った。
抱き起こすと、
「あ、あれ?」
姉さんはまだ少し焦点の合わない目で、ぼくを見上げてきた。
「セディ……。オレ――」
「姉さん、大丈夫!? どっか痛いとことか……」
「痛いって……あ、あーっ! 痛い、痛い痛い痛い! 手が痛い! うわっ、なにこれ!なんでオレの手、こんな血まみれなの!? ぱっくり切れてんじゃん!!」
それはたぶん、鍵の掛かったドアノブを素手でぶっ壊した時の傷だ。
ぼくはクラヴァットを外し、姉さんの手の傷に巻き付けた。
「おい、ここどこだよ。ミドルトン男爵邸にこんな部屋あったっけ? なんでオレ、こんなとこにいるんだよ?」
「えっと、それは……」
「きみは、私をサリーに逢わせてくれたのだよ」
静かな声がした。
その声で姉さんは初めて、ローレンス卿の存在に気がついた。
「ミドルトン男爵……サー・ローレンス」
まだどこか夢心地のような口調でつぶやく姉さんとぼくに、ローレンス卿は小さく、けれどしっかりとうなずいて見せた。
「このような見苦しい姿をお目に掛けて、申し訳ない。よろしければ、お名前を伺いたいのだが」
「あ、失礼しました。ぼくは――」
一瞬迷い、ぼくはすぐにローレンス卿の老いて灰色がかった目を真っ直ぐに見た。
この人には嘘をつくべきじゃない。そう思った。
「セオドア・グレンフィールドと言います。サリーの友人でした」
「貴君が……。そうか。サリーから何度か話を聞いていた。ありがとう。サリーは本当に良い友人に恵まれた」
ローレンス卿は微笑み、目元を軽く指で抑えた。そこにわずかに光るものが残っていることにぼくも姉さんも気づいていたが、あえて口にはしなかった。
「それで――、ことは、すべて片づいたのだろうか?」
「ローレンス卿」
「こんなところに閉じこめられていても、私はまだミドルトン男爵であり、この屋敷の主人だ。屋敷内の出来事は、切れ切れにでも耳に入ってくる」
その声は誰を責めるでもなく、淡々と事実を受け入れようとしていることだけが感じられた。
病床に端然と居住まいを正したその姿は、侵しがたい気品を感じさせた。称号や身分によるものではなく、長い人生を苦闘し続け、あまたの喜び哀しみをその胸に受け入れてきた人間だけが持つ、力強さ、誇り高さだった。
「はい。決着はつきました。まだしばらくは閣下の身辺も騒がしいかもしれませんが。罪を犯した人間にはふさわしい罰が与えられたと、思っています」
だが、ぼくたちはこの人に謝らなくてはならない。男爵夫人の罪をあばき、白日のもとに晒したことで、ミドルトン男爵家の家名は泥まみれになってしまった。
ぼくたちにはこの方法しかなかった。けれど他の人間なら、もっと上手な、誰も傷つかない手段が取れたのかもしれない。
「感謝する、ミスター・グレンフィールド」
落ち着いた声で、ローレンス卿は言った。
「申し訳ない。本来ならば、私がやるべきことだった」
「そんな……」
「だが、この体が自由に動けば、私はきっとあの女を殺していただろう。ミスター・グレンフィールド、きみは誰の血も流さずにことを収めてくれたのだろう?」
「え? ええ。それは、確かにそうです。ですが、サー・ローレンス、どうしてそのことを――」
「サリーだよ」
ローレンス卿は静かに微笑した。ああ、この人は本当に、なんていとおしそうにサリーの名を口にするんだろう。
「あの子は血を見るのが大の苦手でね。ジムが転んで鼻のあたまをすりむいただけでも、半べそをかくほど心配していた。誰かが傷を負ったのなら、あんなに優しい表情で私のところへ来てくれたはずがない。本当に感謝する」
彼の感謝の言葉が、けれど胸に刺さって痛かった。
「こんなところにおひとりで残られたのでは、ご不自由でしょう。サー・ローレンス、よろしければ、一時ぼくの屋敷へいらっしゃいませんか?」
開け放したドアの向こうからも、人の気配は伝わってこない。どうやら男爵邸の使用人たちはひとり残らず逃げ出してしまったようだ。
こんな空っぽの屋敷に病人をひとり残しておくなんて、できるわけがない。
「そうだな。こんな恰好で申し訳ないが、お言葉に甘えさせていただこう」
ベッドを降り、どうにか立ち上がったローレンス卿に、ぼくは肩を貸した。姉さんが室内ローブを探し出し、ローレンス卿に羽織らせる。
支えた身体は、若い頃は壮健だったろうと思わせるしっかりした骨格だったが、今は悲しくなるくらい、軽かった。ぼくが支えていなければ、立つこともおぼつかないようだ。
そしてぼくたちはタペストリーに隠されていた病室を出て、長い廊下を歩きだした。
ゆっくりゆっくり歩きながら、ローレンス卿はぽつりぽつりと語ってくれた。
「きみたちは、ミドルトン男爵家の名を汚したなどとは考えなくて良い。それは……もともと私が受けるべき罰だ」
「サリーを愛したからですか? 妻子ある身で」
「いや。サリーを愛したことは、たとえ神の御前でも、何ら恥じるつもりはない。私の罪は二十二年前、マリオンと結婚したことだ」
初めて、ローレンス卿の表情に苦い後悔が浮かんだ。
「あの当時、我が家は祖父の代からの浪費のせいで、破産寸前だった。多額の持参金で我が家を救ってくれる花嫁ならば、誰でも良かったのだ。爵位を欲していたり、さまざまな事情で結婚を急ぐ娘たちの中で、マリオンがもっとも高額の――破格ともいえるほどの持参金を持っていた。私は迷わず彼女と結婚し、それから四ヶ月経たないうちに、マリオンはジュリアンを産んだ」
――やっぱり。
マリオン・フレッチャーの名前は、産婆のフィリパ婆さんの顧客名簿にもしっかり記載されていた。それも、四回も。
「忘れるもんかい。あたしゃあの阿婆擦れが十四の頃から、莫迦な火遊びの始末をしてやってたのさ。十四で初めて父なし子を孕んでから、四回だよ。どれだけ股がゆるいんだい。さすがに五回目は断ったがね。これ以上流したら、二度と子が孕めなくなるよってな」
フィリパ婆さんが中絶を断った子どもがジュリアンなのかは、わからない。だが精肉業者のフレッチャー氏は、父親もわからない子を――わかっていたら、その男と結婚させるさ――妊娠した娘を、多額の持参金をエサに金に困っていた貴族に押しつけ、厄介払いしたわけだ。
「産まれてくる子に男爵位は継がせなくて良い。そういう約束だった。爵位は、私とマリオンとのあいだにこれから産まれる子に継がせればいい、と。……だが私は、マリオンを真の妻として遇したことは、一度もない」
隣に女性が――姉さんがいるので、ローレンス卿は慎重に言葉を選んでいたが、つまりそれは、男爵夫人と肉体関係を持ったことは一度もないってことだ。
「彼女にはレディの称号を与え、同じ屋敷に住み、食卓もともにした。が、それだけだった。彼女とジュリアンがなにをしようと、どんな人間と交際していようと、私は一切関心を払わなかった。二十二年間、私たちはずっと、赤の他人だったのだ」
そんな夫婦は、上流階級にはごまんといるだろう。いや、階級を問わず、世界中どこの街にだっているはずだ。
まして、どこの誰ともわからない男の子どもを孕んだまま、いけしゃあしゃあとレディ・ミドルトンの座に納まった女を、愛してやれというほうが無茶だ。
だが、女としての自分に過剰なまでの自信を持っていた男爵夫人には、それは我慢できないことだったのだろう。自分には指一本触れようとしない夫が、外では娼婦を買い、あまつさえその娼婦と恋に落ち、子どもまで授かっただなんて。
「少し、訊いてもよろしいですか? 閣下はその……あの病室に閉じこめられていたようですが、どうしてそんなことに?」
「私が、この屋敷を出たいと言ったからだ」
悲しげに、ローレンス卿は言った。
「貴族というのは不自由なものだ。離婚するにも、上院議会に報告しなければならない。家庭の恥を広言しなければならないのだ。家名に傷をつけず、残された人生をサリーと生きるために、私はマリオンに、私は死んだことにしてくれと頼んだのだ。私は馬車の事故かなにかで死んだと公表し、空の棺で葬儀を出せば、誰も疑う者はない。男爵家はマリオンの好きにすれば良い、と。だが、マリオンはそれを許さなかった。自分が黒髪の息子を産むまで、なんとしても私をここに縛りつけておく、と――」
そうか。金髪のジュリアンはウェイクスリー家の血を引いていないと一目でわかる。現当主が死亡しても、彼に爵位を継がせることは他のウェイクスリー一族がけして許さないだろう。たとえ強引に相続しても、ミドルトン男爵家には消えようのない醜聞がつきまとうことになる。社交界は、私生児の存在は黙認しても、その子がおおやけに家督を継ぐことはけして許さない。
だから男爵夫人は、ウェイクスリー一族のそれに似た黒髪の息子を産むまで、なんとしてもローレンス卿に生きて、自分のそばに居てもらわなければならなかったわけだ。で、種馬に選ばれたのが黒髪のエドガーだった、ということか。
「いや、でも、あの年令で出産ってのは、ちょっと無理があるんじゃ……」
「マリオンはまだ四十一だ」
「えっ!?」
……てっきり五十すぎだと思ってた。肌はくすんで、目元もあごも体のラインもたるみきってるし。若い頃から荒淫と無茶な堕胎を繰り返してきたツケなんだろう。
なによりも他者を妬み、陥れることでしか自分の幸福を感じられない彼女の性格が、外見の醜さになって現れているように、ぼくには思えた。
「私は……サリーに約束した。ミドルトンの爵位も、ウェイクスリーの名前もいらない。ただ、ふつうの家族として、ともに暮らそうと。誰も私たちのことを知らない、遠いところへ行って、私は羊を飼って、畑をたがやして、サリーは毎日パンやパイを焼いて……。そうだ。ジムはその村の学校に通うのだよ。あの子は頭の良い子だ。きっと勉強が好きになる。そうやって、私とサリーとジムと、産まれてくる子と……家族みんなで、ささやかな幸せを築いていこうと――」
ローレンス卿の声が涙にふるえた。
それは、ローレンス卿が長く、苦難に満ちた人生の果てに、ようやく見つけたたったひとつの夢だったのだろう。
「もしも私が、もう少し彼女に目を向けていたら……。妻として愛することはできなくとも、せめて友人になろうと努力していたら……。マリオンもあそこまで堕ちずに済んだのかもしれない」
「もう、済んだことです。サー・ローレンス」
「ああ、そうだな。……終わったことだ」
ぼくの言葉に、ローレンス卿は静かにうなずいた。
かすかに聞こえた細い吐息だけが、彼の哀しみを物語っていた。
ことり、ことり、とぎこちない足音を響かせて、螺旋階段を降りる。
そしてぼくたちは、ようやく一階の玄関ホールにたどり着いた。
誰もいなくなったホールは、さらにがらんと広く、寒々しく見える。
高い天井に飾られた豪奢なシャンデリア、二階、三階の回廊へと続く螺旋階段、そこを飾る派手な彫像たちと、ローレンス卿はひとつひとつを確かめるように眺めていった。
「昔はこんなふうじゃなかったよ、この屋敷も。建物は大きく荘厳だったが、ここまで装飾が多くはなかった。あの階段の下にグランドファーザークロックがひとつ置いてあるきりでね」
このごてごてと飾り立てた様子は、やはり男爵夫人の好みだったんだろう。
「ミドルトン男爵家の行く末は、私に考えがある。これ以上、誰も傷つかない方法を採るつもりだ。この屋敷もいずれ手放すことになるだろう。使用人たちには、できる限りのことをしてやって――」
「勝手なことをしてもらっては困ります。ミドルトン男爵」
突然、頭上から声が響いた。
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