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プロローグ
1.はじめての夜
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薄いカーテン越しに、都会のネオンが微かに部屋に影を落としていた。
藤堂 怜(とうどう れい)は、固いマットレスの上で静かに息を潜めていた。
時刻は午前1時を過ぎている。壁にかけられたアンティークな振り子時計が、やけに響く音で時を刻んでいた。
彼が今いる場所は、友人でも親戚でもない、今日初めて足を踏み入れた場所だ。
この部屋の主は、怜より三つ年上の、そして彼の人生において最も複雑な感情を抱かせる男――篠宮 藍(しのみや あい)。
藍は、かつて怜の高校のバスケットボール部の先輩であり、怜にとって初めての、そして唯一の「憧れ」だった。その才能、容姿、全てにおいて群を抜いていた藍は、卒業後、親の会社を継ぐために大学へ進学し、今では都心の一等地に瀟洒なマンションを構える若手実業家となっていた。
そして、怜は、その藍の住むマンションの、この寝室に、たった今、住み込みの「付き人」としてやってきたのだ。
「……落ち着かないな」
怜は小さくため息をついた。
今日、藍に呼び出された。二年ぶりの再会だった。
大学で奨学金を打ち切られ、住んでいたアパートも追い出されそうになっていた怜に、藍は冗談めかした口調で言ったのだ。
「怜、お前、行くところがないならうちに来いよ。家賃、食費、全部面倒見てやる。ただし、俺の付き人としてだ」
その言葉は、まるで溺れている者に差し伸べられた蜘蛛の糸のように見えた。怜には選択肢がなかった。
そして、藍が提示した条件は、極めて単純なものだった。藍の身の回りの世話をすること。秘書的な業務を手伝うこと。そして――。
(まさか、本当にこんな部屋で寝ることになるとは……)
キングサイズのベッド。真新しいシーツ。藍の香水の、柑橘系とウッディノートが混ざり合った、どこか懐かしい、そして少し緊張を誘う香りが部屋を満たしている。
壁の向こう側、隣接する部屋から、小さな物音が聞こえた。
藍が、まだ起きているのかもしれない。
怜は、ベッドからそっと降りた。
この部屋に来る前に、藍から渡された「マニュアル」を思い出す。
それは、付き人としての職務内容が事細かに記載された、分厚い冊子だった。
《篠宮邸付き人マニュアル:第一章 日常の業務》
その中でも、怜の胸をざわつかせたのは、後半に書かれていた一文だった。
《第十項:特別な介助義務》
「主人が介助を必要とする時は、いかなる時も最優先で対応すること。特に『着用義務』の介助は、付き人の最も重要な職務の一つとする」
「着用義務」――。
それが何を意味するか、怜は知っていた。今日、このマンションに来る前に、藍の秘書から、事前に説明を受けていたからだ。
藍は、外では誰にも明かしていない、秘密の「習慣」を持っていた。
そして、その習慣こそが、藍が付き人を必要とする最大の理由だった。
怜は静かにドアノブを回し、廊下に出た。
廊下の突き当たり、藍の自室のドアの下から、わずかに光が漏れていた。
(今のうちに、明日からの準備を……)
マニュアルの指示に従い、怜は静かにその部屋へ近づいた。
藍の部屋の隣にある、小さな収納室。鍵はかかっていない。
怜がドアを開けると、室内に充満する、化学的な、少し甘いような独特の匂いが鼻をついた。
中は冷房が効いており、壁一面に棚が並んでいる。
棚には、大小様々な、そして種類の異なる紙製品が、綺麗に、整然と並べられていた。
大量の「おむつ」。
それは、高齢者や病人用の、医療用品として販売されている、様々なサイズの成人用おむつだった。
一日の使用量、交換時間、好みのメーカーまで、全てマニュアルに記載されていた。
怜の顔が、僅かに熱を持つ。
(篠宮先輩が、これを……)
憧れの先輩。完璧で、自信に満ち溢れた、どこか神聖な存在に思えた男が、自分の見えないところで、まるで幼子のように、紙のおむつに頼って生活している。
その事実が、怜の心に、憧憬とは異なる、新しい、複雑で、しかし抑えがたい感情の波を押し寄せた。
「……これが、俺の仕事」
怜は、明日使用するための大判のおむつを一枚、そっと取り出した。その白い、柔らかな感触に、怜は思わず息を飲んだ。
藤堂 怜(とうどう れい)は、固いマットレスの上で静かに息を潜めていた。
時刻は午前1時を過ぎている。壁にかけられたアンティークな振り子時計が、やけに響く音で時を刻んでいた。
彼が今いる場所は、友人でも親戚でもない、今日初めて足を踏み入れた場所だ。
この部屋の主は、怜より三つ年上の、そして彼の人生において最も複雑な感情を抱かせる男――篠宮 藍(しのみや あい)。
藍は、かつて怜の高校のバスケットボール部の先輩であり、怜にとって初めての、そして唯一の「憧れ」だった。その才能、容姿、全てにおいて群を抜いていた藍は、卒業後、親の会社を継ぐために大学へ進学し、今では都心の一等地に瀟洒なマンションを構える若手実業家となっていた。
そして、怜は、その藍の住むマンションの、この寝室に、たった今、住み込みの「付き人」としてやってきたのだ。
「……落ち着かないな」
怜は小さくため息をついた。
今日、藍に呼び出された。二年ぶりの再会だった。
大学で奨学金を打ち切られ、住んでいたアパートも追い出されそうになっていた怜に、藍は冗談めかした口調で言ったのだ。
「怜、お前、行くところがないならうちに来いよ。家賃、食費、全部面倒見てやる。ただし、俺の付き人としてだ」
その言葉は、まるで溺れている者に差し伸べられた蜘蛛の糸のように見えた。怜には選択肢がなかった。
そして、藍が提示した条件は、極めて単純なものだった。藍の身の回りの世話をすること。秘書的な業務を手伝うこと。そして――。
(まさか、本当にこんな部屋で寝ることになるとは……)
キングサイズのベッド。真新しいシーツ。藍の香水の、柑橘系とウッディノートが混ざり合った、どこか懐かしい、そして少し緊張を誘う香りが部屋を満たしている。
壁の向こう側、隣接する部屋から、小さな物音が聞こえた。
藍が、まだ起きているのかもしれない。
怜は、ベッドからそっと降りた。
この部屋に来る前に、藍から渡された「マニュアル」を思い出す。
それは、付き人としての職務内容が事細かに記載された、分厚い冊子だった。
《篠宮邸付き人マニュアル:第一章 日常の業務》
その中でも、怜の胸をざわつかせたのは、後半に書かれていた一文だった。
《第十項:特別な介助義務》
「主人が介助を必要とする時は、いかなる時も最優先で対応すること。特に『着用義務』の介助は、付き人の最も重要な職務の一つとする」
「着用義務」――。
それが何を意味するか、怜は知っていた。今日、このマンションに来る前に、藍の秘書から、事前に説明を受けていたからだ。
藍は、外では誰にも明かしていない、秘密の「習慣」を持っていた。
そして、その習慣こそが、藍が付き人を必要とする最大の理由だった。
怜は静かにドアノブを回し、廊下に出た。
廊下の突き当たり、藍の自室のドアの下から、わずかに光が漏れていた。
(今のうちに、明日からの準備を……)
マニュアルの指示に従い、怜は静かにその部屋へ近づいた。
藍の部屋の隣にある、小さな収納室。鍵はかかっていない。
怜がドアを開けると、室内に充満する、化学的な、少し甘いような独特の匂いが鼻をついた。
中は冷房が効いており、壁一面に棚が並んでいる。
棚には、大小様々な、そして種類の異なる紙製品が、綺麗に、整然と並べられていた。
大量の「おむつ」。
それは、高齢者や病人用の、医療用品として販売されている、様々なサイズの成人用おむつだった。
一日の使用量、交換時間、好みのメーカーまで、全てマニュアルに記載されていた。
怜の顔が、僅かに熱を持つ。
(篠宮先輩が、これを……)
憧れの先輩。完璧で、自信に満ち溢れた、どこか神聖な存在に思えた男が、自分の見えないところで、まるで幼子のように、紙のおむつに頼って生活している。
その事実が、怜の心に、憧憬とは異なる、新しい、複雑で、しかし抑えがたい感情の波を押し寄せた。
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