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高校受験、失敗

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 子供のころから、俺は『六法全書』が好きだった。

 両親に連れられていった図書館ではじめてそれと出会い、見た目の分厚さ、どしりとくる重厚感、そしてすべての法律が凝縮されているという高濃度に一目惚れをしたのだ。その武器にも盾にも魔法書にもなりそうな存在に酔いしれた俺は、その年のクリスマスにはサンタクロースに『ろっぽーぜんしょをくだちい』とお手紙を書いた。朝、枕元に置かれていたのはゲームソフトと大量のお菓子だった。これはこれで満足した。そして六法全書は年明けのお年玉で普通に買った。

 それ以来、俺は六法全書を肌身離さずと言っていいくらいに持ち歩いている。

 小学校では卒業するまでずっとランドセルに入れて登校し、鬼ごっこのときも六法全書を入れたリュックを背負って鬼から逃げ、夜眠れないときは六法全書を開いて難解な文字を見て眠気を誘い、ゲームをするときにもちょっとした腰かけ代わりに利用していた。その生活は中学生になっても変わることなく、とにもかくにも常に持ち歩いていた。

 そのおかげか俺の体は六法全書の重量によって知らないうちに日々鍛えあげられ、学校の体力テストでは帰宅部であるにもかかわらず毎年学年上位にいた。しかしこれがよくなかったのかもしれない。

 俺はいつのまにか六法全書と自分を過信するようになっていた。
 その愚かさに気付いたのは高校入試の当日――。

     ・・・・・

『テスト終了まで、あと五分です』

 放送で告げられる制限時間。
 周囲からは鉛筆で書きなぐる音が響くが、俺の手は完全に止まっていた。

 というか、問題が難しすぎて一問も解けていない!

 どうしてこうなった。なぜ解けない。どうかこれが全部夢オチであってくれ。
 刻々と過ぎゆく制限時間を目の前にあるテストに使うことなく、その原因究明のために費やしたことでようやく気付いた。

 ――そういえば俺、今まで全然勉強してなかった。

 盲点だった。まさかの根本的な問題。日頃から六法全書を持ち歩いていたことで体は鍛えられていたが、頭のほうはまったく鍛えられていなかった。当然といえば当然なのだが、言うなればアクション映画を観たあとに鑑賞者自身が強くなったと錯覚してしまうように、俺も長い年月をかけて秀才御用達の六法全書を持ち歩いていたせいであたかも自分が秀才だと錯覚し続けていた。今になって思う。

 ……まさしくバカじゃないか!?

 そんなとき不意に中学校の通知表に書かれていた先生の所感を思い出した。

『輝人君の八割はまともですが残り二割が異常です、次学期もガンバロウ!』

 当時はあまり褒められているようには感じなかったが、その通りだった。
 気付けば残り時間は数分もない。もうどうしようもないが、せめてこの入学試験、県内でもトップクラスの進学校である『私立聖堂学園』の高校入試を受けたという爪痕だけでも残しておきたい!

 すると自然と鉛筆を持つ手に力が入った。

 俺は残り時間で目の前の真っ白な答案用紙に遠慮なく文字を書きなぐった。

「はい。それでは答案用紙を裏にしてください」

 そしてテストは終わった。試験官が答案用紙を回収していく。
 俺はその後のテストも最後までやりきった。今ある俺の全力で。

 もうやり残したことはない。夢から覚めた俺は荷物を片付け、試験会場を後にする。

 それから一時間後、俺はハンバーガーショップで六法全書を枕代わりに涙で濡らした。

「今まで何をやっていたんだ……俺のバカ」

 ハンバーガーを食べたあと、長年連れ添った六法全書をゴミ箱に捨てた。

     ――――――

 後日。

 念のために合否発表を確認しにいったけれど、やっぱり俺は『合格』だった。

「………………え、合格?」

 掲示板に貼られた合否発表の紙には、俺の受験番号が確実にあった。
 どうやら世の中には、捨てる紙あれば拾う紙もあるようだ。


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