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鬼、美少年、アホ、そして暴君

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 高校生になって、二日目。

 俺は聖堂学園の制服を着てその通学路を歩んでいるはずなのに、同じように通学路を歩く聖学の生徒とは違う学校に通っているように思えてしまう。

 その原因は言わずもがな、自分の在籍するクラスが《選りすぐりのアホとバカを集めたクラス》だということ、そして高校デビューの初日が全国でも類を見ない学級閉鎖という形でスタートしたということだ。あと担任がろくでなしであるということも含む。

 ――一年AB組。

 まさかそんなクラスに俺がぶち込まれるとは思いもしなかった。

 いや、片鱗は見せていたのかもしれないが自分でもそこまでではないと思いたい。けれど普通は作らないよ、優等生の集まる有名進学校にそんなふざけたクラスを。学校側の意図は微塵もわからないがAB組に配属されたことは紛れもない事実。
 
 でもここは切りかえが大事だ。
 
 AB組に配属されたからといって高校生活のすべてがふいになったわけじゃない。たかが担任がクズで、初日から学級閉鎖して、自分がアホまたはバカだと認定されただけのこと。こんなのは世界規模で考えればたいしたことじゃない。きっとどこかの国でも同じような境遇に遭っている学生はいるはず。きっといるはずだ。うん。

「…………」

 いるわけないよな。不安だ。そして孤独だ。
 
 たった一日で、それも初日で、俺の高校生活はバラ色ではなくなった。
 漠然とした不安を胸に聖学の校門をまたぐ。そこからは、ほかの生徒とは別方向だ。
 彼らは教室棟へ、俺は雑木林へ。

・・・・・

 上履きを履いて一年AB組に向かう。
 扉のガラス越しに見えた教室には、二人の生徒がいた。
 横一列に並べられた五つの席、その窓側一番奥と、その手前を埋めている。

 エキストラ……ではなさそうだ。安堵しつつも油断をしないというか、警戒を怠らないというか、まずは入り口から二人を観察することにした。

 窓側に座るのは、熊を素手で殺せそうな大男。
 その手前には、まるで美少女のような小柄な美少年。
 およそ獣と、およそ美少女。なるほどなるほど。

 ――キャラが濃いな。

 もう視覚だけで濃いのがわかる。
 奥に座る大男はまさに大男らしい容姿と言えばいいのか、髪型は耳下まで伸ばしただけの大雑把なもので、両目は前髪で隠れ、その下に見える顎はゴツゴツとしている。固く結われた口はあまり喋らなさそうで、体は見るからに頑健で野性味に溢れ、学生服のブレザーも前は全開で長袖はモリモリしている。そんな大男が腕を組んで座っているのだ。

 もし彼に「昔、ジャングルで暮らしていた」と言われても、俺は「ああ、やっぱりね」と当たり前のように返すだろう。というか、彼は本当に高校生なのか?

 しかしだ。
 そんな色濃い大男の隣に座るのが、これまた色濃い美少年ときた。

 サラサラな金髪のショートヘアーに何一つ欠点の見当たらない中性的な美しい顔立ちが印象的で、その小柄な身体は大男の隣にいるためか、より一層に小さく見える。まるで高貴な人形が置かれているかのように思えてしまう。最初はとんでもない美少女がいるぞと浮かれてしまったが、残念ながら学生服が男物だった。ただそれほどに美形なのだ。

 もし彼に「昔、女の子していた」と言われても、俺は「ああ、やっぱりね」と当たり前のように返すだろう。というか、彼は本当に彼なのか?

 すると大男がこちらに気付く。

 前髪の隙間から見えるその重く鋭い視線に思わずビビってたじろいでしまったが、出会って早々にそれを態度に出すのは失礼だ。よし、武器を持ってから教室に入るか。

 俺は家の鍵につけていた中学の修学旅行で買った十手のキーホルダーをポケットに忍ばせて教室に入り、なるべく大男とは目を合わせないようにして昨日と同じ席に座る。

「よ、よろしくね!」

 すると隣から細くて綺麗な手が差し出された。
 それは美少年からの友好の握手だった。女の子にも見えるから勝手ながら彼に奥ゆかしいイメージを抱いていたが、見かけによらず社交的な性格のようだ。しかしながらとてつもなく美形だ。美人は三日で飽きると言うが、本当はそれを提唱した者が美人妻をもつ妻帯者に対して僻みで言ったんじゃないかと勝手ながら彼を見て解釈した。

「……あ、あの……あ、握手……」
 
 そんなふうに握手も忘れて彼に見惚れていると、彼の顔は真っ赤になっていた。
 見つめられることが恥ずかしかったのか、握手されなかったことが恥ずかしかったのか、どちらにせよ、彼はそこまで社交的な性格ではなかったようだ。平静を装っているつもりだろうけれどその小さな両耳は真っ赤に火照り、緊張しているのがモロバレだった。高校生になったという気持ちが普段はしないような行動に移させたんだろう。

 ……しかし、なぜだろう。

 そんな思い切った行動をしてしまった彼を、俺は可愛らしいと思っている。
 相手は男なのに。なぜだろう。なんだ、この気持ちは……?

「あ、あの……そんなに……み、見られると……」
「あっ、ごめん」
「う、うん……大丈夫だから……」
「……………………」

 オイオイオイオオォイィ! 可愛く見えるってレベルじゃないぞこれはオオイィ! 母上この子ヤバイよぉぉ! 頬を赤らめるところとか脚をモジモジさせるしぐさとか……なんかこう性別とか関係なくむちゃくちゃ抱きしめたくなっちゃうよぉ! というかもう美少女でよくないかな! よいよ、よいよヨイヨナラサッサッ!

「あ、あの?」
「大丈夫だ。理性はある」
「へ?」

 キョトンとするのも超絶にカワイイがいけないぞ、落ち着け。
 
 俺は自分の太ももをつねることによって表には出せぬ心の叫びを鎮静し、それこそ平静を装いながら彼と友好の握手を交わす。

「よろしく」
「……へ?」
「あっ、間違えた」

 思わず恋人つなぎをしてしまった。
 深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、改めて握手を交わす。

「俺は木町だ。よろしく」
「え、えっと。僕は、山田中です」

 ……ん? よく聞こえなかったな。

「ごめん、上手く聞き取れなかった。もう一度言ってもらっていいか」
「あ、うん。僕の名前は、山田中」

 ……ヤマダナカ。

「あーそういうこと! 山田が苗字で、中が名前か。変わった名前――」
「えっと、ち、違うの!」

 山田(仮)はペンとメモを取り出して何かを書きはじめた。
 
 メモには『苗字:山田中 名前:宇宙』と書かれ、それを俺に見せてきた。

「えっと、これが僕の名前。山田中は苗字、なんだ」
「ヤマダナカ……全部、苗字?」
「う、うん」

 ――山田中。なんちゅうハイブリッドな苗字。

 山田中に至るまでに、山田と田中と山中のさんすくみによる長い歴史や因縁がありそうだけれど木町の俺が首を突っ込むのは野暮な話である。

「なるほど。なかなか珍しい苗字だね」
「そ、そんなことないよ?」
「そうかな。山田中という苗字は初めて聞いたけど」

「ぼ、僕の場合……名前の方が珍しいって、よく言われるから」
「あーたしかに。『宇宙(うちゅう)』って漢字の名前も珍しいな」

「え、えっと、漢字のほうじゃないの……。よ、読み方のほうが……」
「読み方が珍しいのか? ふーん……当ててみてもいいかい?」
「あ、うん……」

 山田中はそう言うと少し恥ずかしそうにうつむいた。
 
……いかん、またドキッとしてしまった。

 しかし今の山田中の様子から察するに彼の名前はどうやらキラキラネームのようだ。
 別にキラキラネーム自体はどうということはないが、ただ子供のことを深く考えずにあまりに度を超えた名前を付ける親を俺はどうかと思う。けれど山田中の場合は別だ。なんてったって山田中自身がキラキラしすぎているから名前がキラキラしていたところで違和感はない。

 さて、考えてみるか。

 ベターな読み方だと『そら』だが、それだと山田中という苗字のほうが珍しい。それならもっとキラめかせて『こすも』なんてどうだろう。いやいや、それでも弱いな。けれどこれ以上キラめかせるとなるとさすがに俺一人の脳みそでは想像もつかないぞ。そう、まさに無限大の宇宙のように名前はあるのだから……ん? 無限大の宇宙? 

 そうか。そういうことか。

 無限大の『宇宙』と書いて、『いんふぃにてぃ』と読むのか。

 ……いやいやいやいや、さすがにそれはない。
 自分で考えておいてツッコむのもあれだが『いんふぃにてぃ』ってなんだ。まるで俺が山田中を小バカにしているみたいじゃないか。ここは無難に『こすも』にしておこう。

「わかったぞ。山田中の名前は、『こすも』だ」
「う、ううん。違うよ」
「はずれか」

 じゃあもう『いんふぃにてぃ』しかないな。

「ギブアップだ。教えてくれ」
「うん」

 十中八九、『いんふぃにてぃ』だろう。
 山田中は膝の上で両手をモジモジさせながら自分の名前を口にする。

「僕の名前は、わ――」
「わ?」


「『わーるどいずまいん』」


「そうかそうか、英文でくるのか」

 俺は思った。ヤバイだろ、と。
 まさか『いんふぃにてぃ』を軽々と飛び越えてくるとは。

 ――ヤマダナカ・ワールドイズマイン。

 まるで一部上場企業のような名前だが、そういう名前をつけたご両親の気持ちがなんとなくわかるから恐ろしい。きっと生まれてきた山田中のあまりの愛らしさに感極まって「世界はこの子のモノだ!」と思い立って名付けたに違いない。現にそれくらいのキラキラ具合でも山田中なら名前負けしない。むしろ山田中だからこそ受け止めきれる名前だと言っていい。山田中にはそれほどの容姿と雰囲気が備わっているのだ。

 仮に、俺が生を授かったときに『わーるどいずまいん』という名前を与えられていたとしよう。俺は迷わず保育器の中から乳児とは思えないハキハキした活舌で「頼む、殺してくれ」と看護師に懇願するだろう。俺はその名前でこの世を渡れる自信がない。

 本当に普通の名前でよかったと親に感謝していると、山田中の前にぬっと大きな丸太のようなものが横切った。

「……よろしく」

 それはさっき俺を睨んできた大男の腕だった。
 その手は山田中の小顔を生卵のように潰せそうほどに大きいが、彼もまた握手を求めているだけ。見た目は無期懲役を三セットほどこなしていそうだが悪い人間ではなさそうだ。それなら拒む理由もない。

 俺はそのごつい手と握手を交わした。

「俺は木町。多分、聞こえていたと思うけど」
「ああ、聞こえていた……俺は、鬼ヶ島だ」
「オニガシマ? それって昔話に出てくる、あの鬼ヶ島と同じ字?」

「ああ……あのシンデレラに出てくる鬼ヶ島と同じだ」
「いやシンデレラに日本諸島なんか出ねえよ」
「…………今のツッコミ、いいな」

 思わずツッコんでしまったが、べつに彼から鉄拳が飛んでくるとかそういうことはなく、むしろ鬼ヶ島は口角をニヤリとあげていた。彼は冗談が好き……なのかな。それと本人は笑っているつもりだろうけれど、はたから見たら『怖い』の一言だ。

「ちなみに……名前は、『灰に治る』と書いて……ハイジだ」
「あは、ははは。そうなんだ……」

 このとき、俺の脳内では奇跡的にも「ハイジもたくさん食べて大きくなったんだな。ところで友達のヤギはおいしかったか?」というハイセンスなブラックジョークが生み出されていたが、鬼ヶ島の尋常じゃない威圧感がそれを思いとどまらせる。すでに冗談を言える心持ちではない。怒っていないのはわかるが、それでもやっぱり怖い。

 すると鬼ヶ島はどこか残念そうに姿勢を戻す。……なんか悪いことをしたな。
 三人の自己紹介が済んだあとは、とくにすることもなく各々で時間を過ごした。
 山田中はノートに絵を描きはじめ、鬼ヶ島は腕を組んで寝ている。
 俺はAB組の人間について改めて考えてみることにした。

 ――クズ系教師の梶原。
 ――キラキラネーム系美少年の山田中。
 ――寡黙系大男の鬼ヶ島。

 ああ、やっぱり濃すぎるな。
 一クラス分のキャラの濃さがこの三人に凝縮されている。しかもここからあと二人もクラスメイトがやってくるのか。さすがにもう山田中と鬼ヶ島を超えられるキャラの濃いクラスメイトなどは来ない、と思う。

 そう予想立てしているとさっそく教室の扉が勢いよく開けられる。

 現れたのは、頭のてっぺんにアホ毛を生やした学ランの男子。
 その第一声は。

「みんな聞いてくれ! 今日はみんなでラーメンを食べにいかないか!」

 ……まーた、色濃いキャラがきやがった。
 言わずもがな彼とは初対面のはずなのにまるでずいぶんと前から交友があったかのような誘い口調を開口一番にやってのけた。それだけじゃ飽き足らず山田中と鬼ヶ島はきちんと聖堂学園から指定されたブレザーを着ているのに、彼は学ランだ。しかも本人は気にしていない。彼はもはや聖学の生徒かどうかも怪しい……が、AB組の生徒であるならば、それらすべてに合点がいってしまう。AB組にいることが恐ろしくなってきた。そして彼は、アホだ。

「あ、そういえば今日は予定あったな。今のナシで。じゃあオレここの席で」

 そう言って彼は、俺の隣の席に座った。
 俺は横目でチラリと確認すると、彼はこちらをガン見していた。
 今にも話しかけてきそうな雰囲気だが俺にも友達を選ぶ権利はある。だからといって無視を決め込むというのも人として正しい態度じゃない。よし、彼と交友を深めるかどうかは最初の会話内容で決めよう。

 俺は意を決して彼と目を合わせた。
 案の定、彼は嬉しそうに話しかけてきた。

「よろしくな、親友!」

 ……すでに彼とは深い交友があるようだ。んなわけないだろ。

「ちょっと待ってくれ。君とは初対面のはずだ。親友のわけがないだろ」
「そんなはずはないぜー。きのうも昼メシをいっしょに地球で食べたじゃねえかー」
「昼飯を食べに大気圏を出るバカがいると思うか?」
「じゃ、親友だな」
「いやいやいや!」

 なんだこの電波なやりとりは。しかも否定しているのに当たり前のように親友というレッテルをぺたぺたと強引に貼り付けてきやがる。俺はここまで友愛をねじこんでくる人間をかつて見たことがない。

「そもそもさ、俺の名前すら知らないだろ」
「もちろん知ってるぜ!」
「じゃあ言ってみてくれよ」
「ちょっとまってくれ。今、思いだすから」
「その時点でもう親友じゃねえよ……」
「オレは新茶古助。よろしくな!」

 唐突な自己紹介で強引に濁しやがった……。

 ――新茶古助。

 俺が言うのもアレだけど、こいつはまさしくAB組にふさわしいアホだ。
 あと……なんか疲れた。

 もうすぐ朝のホームルームの時間になるけど、まだ一席残っている。

 美少年。大男。アホ。

 AB組はカオスな状態と化しているが、次はいったいどんなヤツが来るんだ。
この流れからして次にくるタイプは…………あー、ダメだ。まったく想像もつかない。それよりも今日はもう帰りたい。これ以上キャラの濃い人間を見てしまったら情報量の多さのあまりストレスによって体調を崩してしまいそうだ。
 すると廊下から足音が聞こえてくる。おそらく最後のクラスメイトだろう。
 俺は入り口に注目する。教室の扉がガラリと開けられる。

「………………」

 入り口に立っているのは、老年の紳士。

 それについては間違いない。入り口に立つのは高級そうなスーツを着た老年の紳士。白髪と白髭をたくわえながらも背筋はピンと伸びていて若々しく、しかしなぜか脇にはレッドカーペットが収まっていた。そして深々と俺たちに一礼して入室すると、レッドカーペットを床に置いて教卓の前までそれを一気に広げた。
レッドカーペットを敷き終えた紳士は入り口の横にピシッと立ち、告げる。

「お待たせしました。お嬢様のご登場でございます」

 教室の入り口から現れるのは、

 ――黒髪の美少女。

 偽りのない美少女。もちろん男の格好をしていない。
 
 その容姿はどこに目をやっても魅力的で、切れ長の澄んだ瞳、若々しく潤む小さな唇、背中までストンと伸びたシルクのような黒髪、制服の上からでも伝わる胸元のふくらみ、美を有しながら細すぎない健康的な脚、美という言葉が彼女のためにあるように思えた。 

 まさに文句の付け所のない美少女。

 そんな彼女が肩で風を散らしながら物怖じもせずレッドカーペットの上を歩く。そして教卓の前で立ち止まるとこちらへ向き直し、その手で長髪をなびかせた。いい香りがゆるやかな空気に乗って届き、少なくとも俺の視線は彼女に釘付けになった。

 彼女は告げる。

「私の名前は、高峰美嬢。以後、お見知りおきを」

 まるで国民の前に立つ王であるかのように、堂々と。

 ――すると教室に風が吹いた。

 教卓の前に立つ彼女の髪がふたたびなびく、それは彼女の凛々しさをより際立たせ、より可憐に、より美しく魅せた。まるで風が新たな出会いを知らせるかのように――。

「…………」「…………」「…………」「…………」

 ただ、俺は言葉が出なかった。
 いや、俺たちAB組の生徒は言葉が出なかったというのが正しい。

 なぜなら。
 これはあくまでも《茶番》に過ぎないからだ。

 教室の窓はすべて閉まっているので、そんなラブロマンスじみた風が吹くわけもなく、ならばその風はどこから来ているのかと風上へ目をやれば、老年の紳士が涼しげな表情で団扇をバタバタと猛烈にあおいでいた。これはひどい演出。ロマンもへったくれもない。
 
 高峰は紳士に言う。

「芝鳥、もういいわ。片付けてちょうだい」
「かしこまりました」

 そう伝えると紳士は手を止める。必然ながら風は止んだ。
 どうやらあの老年紳士は芝鳥と言う名前で、彼女の執事のようだ。レッドカーペットをくるくると手際よく巻いていく執事の芝鳥さんをよそに、人工風に吹かれてご満悦のお嬢様は室内を一瞥し、残る最後の席に視線を置くと、途端、眉間に皺を寄せた。

「面白くないわね。私に用意された席があんな隅だなんて」

 ……あ、これちょっとアレだな。性格に難がある女だ。
 そう思った矢先、彼女の視線が俺に留まる。
 
 正直、嫌な予感はした。

 彼女は近寄ってきて不躾に俺に指をさす。

「あなた。その真ん中の席をこの私に譲りなさい」

 やっぱり。そんなことだろうと思っていたよ。
 今までの振る舞いから見るに、目の前のお嬢様はワガママであることは把握済みだ。そんな彼女に対する返事の方向性はすでに決めていた。

「はい。どうぞ」

 答えはイエスだ。逆らわないに限る。

 たしかに彼女は見目麗しい美人だ。もし俺がラブコメの主人公だったならば、ここで「なんで俺がどかなきゃいけないんだ!」と述べて、次に彼女が「何よ。愚民のくせに、この私に反抗する気?」と返してくるので、さらに俺が「この傲慢女!」とバカにして彼女も「なんですって!」ときて、最後はお互いに「フンッ!」という流れだが、アレを現実でやる人間は正直に言ってうすら寒いし、俺の脳内はそこまで桃色でもない。
 俺はさっさと席を立った。

 ――ガシッ! 

 けれどなぜだろう。なんで俺はこのお嬢様に胸倉を掴まれているのか。

「あの、席はお譲りすると言ったんですけれど……」
「つまらない男。それでもキンタマついているのかしら」

 …………今、キンタマって言った? 

「いや、でも、胸倉を掴むのは……」
「私は面白いものが好きなの。面白さは人生を豊かにしてくれるわ。その逆、つまらないものは大嫌い。人生を殺していると言っても過言ではない。つまり、あなたがさっき言い放った毒にも薬にもならない至極つまらない発言は、私の人生を殺そうとしたようなもの……これが胸倉を掴まれる理由、わかったかしら」

 うん、わかるわけがないよな。

 忘れてはいけなかった。このクラスがAB組だということを。どんなに見目麗しかろうともAB組の生徒である以上は気を抜いてはいけなかった。そして彼女はきっとバカだ。思ったことを平気でやっちゃうようなタイプのバカ。今の発言でなんとなくわかった。それはともかく腕力がヤバイ。片腕の力だけで俺の体が引き寄せられている。今のところの彼女のタイプをまとめると、金持ちワガママ怪力熱血バカ女、だ。

 とにかくここは謝っておこう。

「すみません」
「その反応がつまらないと言っているのよ!」

 より一層に胸倉を掴む手に力が込められた。もうどうすりゃいいのよ。
 
 もう自分では解決できそうにないため、助けを求めるように視線を泳がせる。
 まずは入り口の横にいる芝鳥さんに目を向ける。執事という立場ならきっと止めてくれると考えたけれど、芝鳥さんは視界に何も入れないように顔を綺麗に壁面に向けていた。そうか黙認ってやつか。さすが彼女の執事だ。君主に従順というわけだな。

 仕方ないので、次に視線を鬼ヶ島に向ける。彼なら止めてくれるだろうと期待したが、鬼ヶ島は微笑ましい眼差しを俺たちに送っていた。微笑ましい眼差し……だと思う。もちろん怖かった。おそらく死線を何度もくぐり抜けている鬼ヶ島にとっては、こんなやりとりなんぞ猫がじゃれあう光景となんら変わりないのだろう。その様子からして助けてくれそうにない。

 その手前の山田中はとてもアワアワしていて愛らしく、その綺麗な顔に傷がついたら困るので却下。

 となると、残るは……。

「親友なら助けてくれよ、新茶君」
「ダメだ。今、FXがやばいことになってる」

 このタイミングで外国為替証拠金取引やってんのか!?

 いつの間にか新茶の机の上にはノートパソコンが開かれていた。

 新茶はパソコンで為替チャートを見ながら「また変動したぞ!」などと唸りながらトレードをしている……と思いきや、変動する為替チャートを見ながらそれをパソコン内のスケッチブックに模写しているだけだった。新茶は「やっぱりユーロ通貨は書いてて面白いなー」と喜んでいた。もう理解ができない。

 もういい。自分で何とかするしかない……。
 
 強引に引き剥がすことも考えたが、これでも初対面で相手は女性だ。たとえ相手がヤバくてもできれば対話でなんとかしたい。

「高峰さん、もう苦しいんで、手をはなしてくれませんか?」
「つまらない男はそうやって一生媚びていなさい! この腰抜けタマなしチンカス童貞!」

 ――ここで俺の中の何かがプッツンした。

 女性への暴力は決してよくない、が! こいつが女じゃなければいいだけの話!!

 つまりこいつが女じゃないと証明できれば俺は反撃に転じられるということ!!

「オラァアッ!!」

 俺は感情のままに、高峰の胸に手を押し当てて性別を確認した。そして叫ぶ。
 
「よし!! 証明された! こいつは女だ!!」

 ……じゃ、ダメじゃん。

 それから色々とダメなことに気づいたときには高峰に背負い投げを掛けられた。

「こんの変態がぁああああああッ!」

 床に叩きつけられる俺。皮肉にもそこで胸倉から手がはなれる。
 痛みに悶えるなか、俺を見下ろしてくる高峰。

「…………まあ、この私に抗ってきた度胸だけは認めてあげるわ」

 高峰は何かに納得した様子で、残る最後の席に着いた。
 節々が痛むなか、俺もとりあえず席に戻った。

 ……帰りたい。いや、もう仮病でも使って早退しよう。実際、心身ともにボロボロだ。

 すると梶原が入室してきた。
 
 よし、あいつの前で咳の一つでもして帰って――。

「…………よぅ…………全員……いるか……」

 ――俺よりも帰りたそうだ。

 昨日会ったときの梶原とは打って変わって、背中がひどく曲がり、歩く姿はよれよれと覇気がなく、顔の小皺やボサボサに散った髪がひどく目立っていた。何より、顔が灰色だ。昨日の競艇でそんなに負けたのか? 
いや、そんなことはどうでもいい。俺はもう帰るんだ。

 何度か咳き込むフリをしたあと、梶原に向かって手を挙げる。

「……なんだ……木町」
「すみません、ゴホッ……なんだか体調が、ゴホッ……悪いので、帰ります」
「……………………そうか。調子が悪いか」

 そう梶原がボソリと呟くと次の瞬間、その口からガリッと何か噛むような音がした。

「ああああ痛いい、じゃなくて!! 体調わりぃいいいい! ゲホゲホゲホーッ! あーあー! 本当に体調が悪いなぁあー! なんせ舌を! じゃなかったぁ! 咳き込んだだけで吐血するレベルだもんなぁああー! これは休まなきゃなあー! 休まなきゃこれは死んじゃうかなぁー! あははー!」

 咳き込むたびに血がギャグみたいに飛び散るのに、梶原は笑いながら叫び続けた。
 そしてピタリと口の動きを止めた梶原は、俺の目を見て言った。

「仮病するならこれくらいしてみろよ」
「……すみません」

 口元に血を垂らしながら、その目は死の先を垣間見たかのような狂気に満ちていた。
 俺が一年AB組に在籍して初めて学んだことは、『人間は追いつめられると何でもする』ということだった。そして梶原は「体調悪くなったんで帰るから、これ今日の予定表。これ見て各自でやっといて。あと明日から授業だけど筆記用具だけでいいから」と言い残し、口から血を垂らしたまま帰っていった。

 結局、今日も梶原は早退してしまった。

「フン、面白い担任じゃない」

 横では高峰がそう呟く。
 その日は予定表を見て、自己紹介と席決めの二項目を済ませて、下校となった。
帰り道、今日のクラスメイトの自己紹介を振り返る。

「私は高峰美嬢。好きなものは面白いすべて。嫌いなものはつまらないすべてよ」
「ぼ、僕は山田中、わ、宇宙(わーるどいずまいん)です。よろしくおねがいします」
「鬼ヶ島灰治……ピチピチの、JKです…………冗談です」
「あのよ。ホッチキスとホチキスってどう違うんだ? オレにはさっぱりわからねえ」

 帰宅後、体調を崩したのは言うまでもない。


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