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第七話 愛していると言ってくれ
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脳内物質がもたらす快楽的衝動の相互関係ーー続き(論文の一部抜粋)
(略)
ーー「嫉妬」。
invidia.ーー七つの大罪にも数えられるその感情は、比較的ポピュラーな激情の一種であろう。
そして、それらの中では、最も早い段階から人に訪れるものである。
それは、生後6ヶ月~生後1歳前後。主に母親との関係から発露する。
赤子にとって、最小の世界は母との関係である。
母はその子にとっては、世界の全てであり、母を失うということに、何よりも恐れを感じる。
それは、当然のことながら、生命の維持に直結することであり、本能にプリンティングされた必要不可欠な感情である。
だから、赤子は自分の父親であったとしても、母に近づく者を警戒し、嫉妬し、母を求めて泣き叫ぶ。
それが、「嫉妬」という感情の原風景である。
成長するにつれ、世界に広がりが見られると、当然、嫉妬の対象は「母親」だけではなくなっていく。
これも、成長過程にとっての当然の帰結である。
一方、母親の方も嫉妬という激情とは、決して無縁ではない。
ーー 母親は息子の友人が成功すると妬む。母親は息子よりも、息子の中の自分を愛しているのである。
これは、かのニーチェの言葉だが、嫉妬とは一種の「自己愛」だと説明ができるかもしれない。
レヴィアタンに導かれ、激しい業火に身を焼きながら、一方ではそんな自分に酔いしれている。
人間とは、相反するそんな感情さえも、本稿のテーマでもある「快楽」の起爆剤へと摩り替える。
例えば、今回の被験者の一人ーーそう仮にNo.1としておこうか。
この人物の例こそ、まさにこの実験でのうってつけのケースでありーー
(略)
*
私はその晩も愛しい少女を抱きながら、この上なく、幸福だった。
だが、いつも脳裏を掠める不安があった。
それは、この子が私ではない別の男のものになる日が訪れること……。
私との関係が許されない以上、その日は遠からず訪れることは運命として決まっていた。
私は彼女を抱きながら、そんな漠然とした不安に毎晩駆られていた。
「今日ね。姉さんから電話があったの」
私が衣服に袖を通し、眼鏡をかけ直していると、まだ裸のままの少女がぽつりと呟くように言った。
「どっちの?」
「華の姉さん。そのあと、大きい姉さんからも」
「ああ、千客万来だね。で?なんだって?」
「そっちでいい人見つけたの?って。華の姉さんは、その話ばかり」
「いいひと……ね。こんなことになっているなんて……想像もしていないだろうな」
「……うん」
彼女はそう小さく頷くと、気恥ずかしそうに毛布で自分の白い素肌をそっと隠した。
「で?大きい姉さんは?」
「あのね。私に会って欲しい人がいるって」
「会って欲しい人……?」
「フィアンセ……?っていうのかな?そういう人だと思う」
私はその瞬間、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を感じた。
「今……なんて?」
「えっ?……今度会ってみて欲しいって。お父様からのご伝言らしいの。お父様の学部の後輩の方で、お父様と同じお医者様らしいの。まだ私……そんなこと、ぜんぜん考えられないのに」
「嫌だ……」
「えっ……?」
私は思わず、当惑した彼女を抱き寄せ、きつく抱き締めていた。
「あの……」
「君が他の男に抱かれるなんて……そんなことになったら……きっと僕は気が狂ってしまうに違いない……」
「えっ……?」
「君に許嫁?馬鹿な。許さないさ……。そんなこと、絶対に」
「あんっ……!!」
「君は僕だけのものだ……。誰にも触れさせたりなどしない……」
私はそう言うと、もうめちゃくちゃに彼女に口付けていた。
「やだ……あっ!!いやっ!!怖い……。怖いぃっ!!」
「愛してる。君だけを愛している……他に何もいらない……いらないんだ!!」
「いやあああああっ!!痛いっ!!」
私は悲鳴のような少女の声で、はっと我に還った。
見ると、彼女は小鳥のように小刻みに震え、私を怯えきった目で見上げていた。
「……すまなかった」
私は彼女から身体を離すと、ベッドに腰掛けた。
頭がガンガンと痛んだ。
頭だけではない、心もギシギシと軋むように痛んだ。
ただ私は彼女を愛しているだけなのに。
ただ、それだけなのに。
彼女を愛すれば愛するほど、私は私自身が怖くなる。
コワクナル。
「シャワーを浴びてきなさい。今日は……もう部屋に戻った方がいい。今日の僕はどうかしているんだ」
「嫌」
「えっ……?」
「このまま……もう一度……抱いて?私の部屋は肌寒くて嫌い。だから、私を暖めて」
そう白い腕を絡めてきた彼女に、私は優しく口付けた。
霧の街は今日もまた、氷雨と共に静かに私たちを包み込んでいた。
*
私はその日、いわゆる西海岸に位置するこの街の外れの小さな古びた教会にいた。
私の傍らには、彼女自身のように純白のウェディングドレスに身を包み、白いレースで包まれた少女がいた。
ステンドグラスからの七色の光を受け、佇む彼女のあまりの目映さに、あまりの可憐さに、私はしばらく言葉もなく彼女を見つめていた。
私は洗いざらしの白いシャツに、黒のGパンといったいつも通りの服装だったが。
そう、私は今、ある目的のためにここにいる。
少女と結婚するために。
決して彼女を誰にも渡さないために……。
無駄な足掻きだと言うことはよく解っている。
だが、当時の私には理屈や正論など、どんな意味も持っていなかった。
ただ、彼女を何らかの方法で自分のもとにつなぎとめておきたい。
ただ、その一心だったのだ。
そう。それが真っ向から神の意志に背く所行であったとしても。
見事に銀髪の神父は、声を上げた。
「困りましたな。このままでは、結婚式を挙げることはできません」
私は思わず、はっとして身体が硬くなるのを感じた。
まさか、神父は「知っている」のか?
本来ならば、許されないはずの婚姻だということが。
脇の下から冷たい汗が流れた。
私は自分からあえてその話題は出さないように務めながら、反論した。
「なぜです?こうして指輪も持参しています。それなのに……」
だが、神父の答えは意外なものだった。
「あなた方の結婚の証人が必要なのです」
「えっ……?」
私は自分の懸念が杞憂に終わったことで、ほっとしたが、同時に困ったことになったと思った。
こんな街外れに知り合いはいないし、第一、ここに来る途中も、人っ子一人見かけることもなかったから。
二人だけの事に頭を支配され、そのことに考えが及んでいなかった。
「証人……?そんな……」
私が途方に暮れると同時に、教会内に光が差し込んだ。
外の日差しが差し込む扉から、小さな影が現れた。
それは、一人の少年だった。
まさに、それは天の配剤だった。
「坊や。こっちに来てくれないか?」
私がそう声をかけると、少年はきょとんとした顔で私たちを見上げた。
「お願いだ」
少年は小さく頷くと、ゆっくりと私たちの方へと歩を進めた。
「いいかい?今から君は、僕と彼女の結婚の証人だ。いいね?」
少年は、理解したのかしていないのかわからないが、素直に頷いた。
「よろしいですね。神父様」
初老の司祭は、微笑みながら頷いた。
「私たちは夫婦として、順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、生涯、互いに愛と忠実を尽くすことを誓います」
誓い終わると、私たちは静かに指輪を交換し、誓いの口づけを交わすため、私は少女のレースをゆっくりとめくりあげた。
その時、教会を訪れて初めて、レースのカーテンに閉ざされていた少女の瞳を目の当たりにした。
その瞳は、黒真珠のように暗く揺れていた。
その面には、何の表情も浮かんでいなかった。
緊張しているのか、喜んでいるのか、それとも……?
私はあえて、全ての想いを断ち切るように、誓いの口づけを交わした。
その様子を少年は、興味深そうに見守っていた。
「ありがとう。坊や。これは今日のお礼だよ」
全ての儀式が滞りなく終了し、私がそう少年に50ドル金貨を握らせると、彼は嬉しそうににっこりと微笑みながら教会を後にした。
*
霧の街はその日、珍しく嵐だった。
そんな荒れ狂う雷鳴に後押しされるように、私の行為は加速していた。
骨董品のようなベッドの軋む音と、少女の上げる可愛らしい喘ぎ声。
「愛している……ずっと……ずっと君のことを……」
唸る豪雨は、野獣共の咆哮のようで、見慣れたはずの部屋は、まるで見も知らない暗い森の中を思わせた。
ここは深く暗い森の中、そう獣の住処。
それでいい。
誰も知らない、誰にも知られていない森の奥の奥。
そうこの国では、誰も私たちを「識らない」。
全てが赦される世界。
遠くで獣たちの咆哮がする。ここに理性のある人間という動物など、存在しない。
道徳も常識も何もかもない。
ここにあるのは、ただ互いを求め合う躰だけ。
己自身が獣になったかのような感覚に、理性が急速に低下していくのを感じた。
少女が愛しい、欲しい。
誰にも渡さない。この子は僕のものだ。
汗ばむ肌が吸い付くように互いを求める。加速する。
「あっ…すごい……ああんっ……」
「困った子だね。下の口をこんなに蜜でいっぱいにして……んっ……」
いやらしい音を立てて、少女を味わい尽くしていく。
「み、見ちゃだめ……だ……だめです……あっあ……はぁ、恥ずかしい……あっ……ああっ……や、やめないで……あ……ど、どうしたんですか?」
私はふいに少女から唇を離すと、窓の外に目を遣った。
「ほら。外の雷鳴をお聴き。神様も僕らのこと、お怒りなんだよ」
その刹那、一際大きな雷鳴が、部屋を震わせた。
「いやっ!!怖い!!雷怖い!!どうして神様が怒っているんです?……どうして……?どうしていけないの?仲良しなことは、良いことなのでしょう?」
「僕たちはね。大人になってしまったんだ」
「おとな?」
「そう。だたの仲の良かった、まだ幼かった『あの』僕らの関係にはもう戻れない。こうして……禁断の果実を口にしてしまったから」
「どういうことですか?それがいけないことなんですか?だって、私たち……愛し合っているだけなのに。どうして……?今日のあなたは、なんだか、怖い……」
「きっと、今夜で最後だ……」
そう。私はその夜、言い知れぬ激情の中に身を置いていた。
こうして彼女と肌を重ねることができるのも、今夜が最後になるかもしれなかったから。
ぽつりと漏らした私の言葉に、少女は泣き出しそうな顔を上げた。
「どうして? どうして、そんな悲しいこと……?」
「明日から新しい下宿人が増える。それはーーわかるだろう?」
「どうして?何がいけないんですか?私たち、仲良くしているの。仲良くすることは、何も悪いことじゃないわ」
「言っただろう?僕たちは赦されないんだ。だがね。僕はもうそんなこと、どうでもいいんだ。
君は永遠に僕のもの。僕だけのもの。他の誰にも渡しはしない……。
君が他の男に抱かれるなんて……そんなことになったら……きっと僕は気が狂ってしまうに違いない……」
「あっ……ああっ……あ……」
私はそう言うと、彼女の左手の薬指で光るリングに口付けた。
そして、彼女を抱きながら、文字通り、堕ちた。
その深い深い闇の世界へーー。
*
翌日、嵐の後の快晴に照らされた私たちの下宿は、にわかに賑やかさを増していた。
荷物を運ぶ運送業の男たちが、せわしなく階段を行き来している。
そう。今日から新たな下宿仲間が増えるのだ。
そして、その下宿する仲間は、私もよく知っている人物だった。
「お久しぶりです」
そうにこりともせずに顔を出したのは、左近風魔だった。
風魔は元々アリゾナの某大学の医学部に在籍しているが、ロングバケーションを契機にこちらの大学に一時的に籍を置くことにしたらしい。
私たちは久しぶりの再会を喜び合った。
「歓迎するよ。風魔。長旅ご苦労様。疲れただろう? 今、あの子がレモネードを作ってくれているんだ」
そう言っている側から、当の本人がレモネードを載せた盆を手に、奥から顔を出した。
彼女は笑顔をみせながら、風魔の前に冷たいレモネードを差し出す。
「良かった。風魔ちゃんが来てくれて、嬉しい。私、風魔ちゃんがいないと、淋しかった。だって、風魔ちゃんと私は一心同体ですもの。うふふ」
「僕が一緒だったのに、淋しかったのかい?」
「そんなこと、言わないで。ご存じでしょう? 私と風魔ちゃんは、特別なの」
「ああ。わかっていますよ。……ははは」
「相変わらずですね。私も仲の良いお二人に割って入るようで、恐縮ですが」
そう風魔はいつものように、やや呆れ気味に私たちを見つめていただけだった。
風魔の存在に関して、一点だけ問題があった。
それは……。
私は甘えるように唇を求める少女を制した。
「ダメだ。この下宿は壁が薄い。昨晩も言ったが……これからは、残念だが、頻繁に逢うことはできないだろう」
すると、彼女はちょっといたずらっぽい瞳を上げ、私から素早く眼鏡を奪った。
「大丈夫。風魔ちゃんは、早朝から解剖実習ですもの。夕方まで戻らないわ。私だって、風魔ちゃんに知られたら……でも、あなたが愛しいの」
彼女は伸びをすると、私の頭をかき抱き、私の唇を奪った。
風魔の不在。
この情報が私に安堵をもたらしたのか。
私は少女の唇を貪ってた。
やがて、少女の唇は私の首筋、そして彼女によって開かれたシャツの中へと進んでいく。
「あっ……」
滑り落ちる私のシャツ。
少女が私のベルトに手をかけた瞬間。
背後で何かが雪崩落ちるような音がした。
振り返ると、そこには大量の書物を抱えた(その大半は床の上だったが)風魔が、平生の彼女では珍しく、青ざめた表情で立っていた。
私たちのこの惨状を目撃したのだ。無理もない。
私たちは凍り付いたように互いに身動きさえできないまま、見つめ合っていた。
「風魔ちゃん……」
最初にその呪詛を解いたのは、少女の声だった。
だが、風魔は何も答えず、書物を床に投げ捨てると、さっと背を向け駆け出した。
「風魔ちゃん……!!」
半裸のまま風魔を追おうとした少女を制すると、私は慌てて傍らに落ちていたシャツを羽織り、風魔の後を追った。
「待ってくれ……!!待ってくれ、風魔……!!」
私は階段の前で追いついた風魔の腕を取ると、彼女を正面に向かせた。
「話を聞いてくれ。風魔。このことを……家には……」
「言えるはずないでしょう……!?」
振り向いた風魔は、今にも泣き出しそうな悲痛な表情を浮かべていた。
だが、それは本当に一瞬のことだった。風魔は、いつものような能面に戻ると、
「私は……あなた方の行為をとやかく言える立場ではない」
と俯いた。
「僕はね。風魔。生半可な気持ちであの子を抱いた訳ではない。……僕はあの子と『秘密結婚』をした」
「…………!?」
「確かに僕たちは決して許される間柄ではないだろう。それは、百も承知の上だ。だが、僕は、彼女ときちんとした契りを交わしておきたかったんだ」
「…………」
「そう。向こうでは、決して許されない……だから、せめて、こちらにいる間だけでも、僕はあの子を妻としていたい。風魔。許してくれないか。僕とあの子のことを。こちらにいる間だけでも……」
「できない……」
「……風魔」
「私にはできない」
「君も……祝福してはくれないのか。それは、僕と……あの子が……」
「……常識とか、道徳とか、そんな理由からではありません」
「じゃあ、どうして」
「言えません」
風魔はきっぱりと言い切ると、肩に置かれた私の手を振り払い、名の通り、風のように走り去っていた。
風魔がこの件で激情を表したのは、それっきりだった。
彼女は、それからも何事もなかったかのように私たちに接していた……。
私は安堵しながらも、どこか怖かった。
だが、そんな問題を吹き消すような別の問題は、すでに燻り出していたのだ。
*
霧の街は、今日も静かに濡れている。
傍らの灰皿には、草臥れた吸い殻が山のように積まれている。
私は下宿のけぶる自室で、タバコをふかしながら、ただ頭を抱えていた。
あの子が帰って来ない。
そして、彼女のゼミ仲間の証言。
「彼女なら、グレイン教授のところにいるみたいですよ」
グレイン教授は、宗教倫理学の権威で、少女のゼミの担当であった。
彼は男やもめの老紳士だった。
グレイン教授は年齢に似つかわしくなく、大変お洒落な人物で、いつも甘いオーデコロンを愛用していた。
キャンパスでは、二人が親しげに路地を歩く姿が度々目撃されているという。
あまりにも年齢が離れすぎている。
まして、二人は教員と教え子だ。
ありえない。ありえるはずがない。あって良いはずがない。
私はその日の昼下がり、大学のグレイン教授の部屋を訪ねた。
だが、不在だった。
「ひどい有様だな。せっかくの美丈夫が台無しじゃないか」
私は通りがかった友人の戯事を遮り、グレイン教授の行方を訪ねた。
返って来たのは、絶望的な答えだった。
「グレイン教授だったら、今日もあの子と一緒に帰ったようだぜ?仲が良いことだよな」
私は言い知れぬ虚無を抱いて、この下宿に戻った。
何本目なのかわからないタバコに火をつけようとした刹那。
ノックの音が響いた。
私の返答の後、ドアを開けたのは、風魔だった。
「あなたらしくもない惨状ですね」
そう能面は、傍らの台に何かを置くと、室内に入ってきた。
「君にはわからないだろう。僕は自分がこんなにも弱い存在だとは思わなかった。
あの子は今頃、グレイン教授の元で何をしているのだろう。何をしているか……決まりきっているな。
あの子はもう子供ではないんだ。
ああ、どんな顔であの子を待てばいい?あの子が帰ってきたら、どう振る舞えばいい?
わからない。何もわからないんだ」
「あなたはあなたの思うままにあの子と接すれば良いでしょう。これまでと同じように」
「これまでと……同じように?」
「そう。それ以外にあなたはどうしようと?そして、どうされたいのです?
あなたが取り戻したいのは、『今まで』の彼女との関係でしょう?
ならば、そうするより他に道はない。あの子をこれまで通り受け入れる。
それがあなたの取るべき道だ。たとえ、あの子が他の男性に抱かれていたとしても……ね」
私は言葉を無くしていた。
「あの子は良い意味でも悪い意味でも『無邪気』なんです。あなたもそのことはよくご存じのはずでしょう?」
思わず、風魔の肩を掴んでいた。
正面に現れた、流れるような黒髪。雪のような肌。そして、黒水晶のような瞳。
「やっぱり、君にはわからないんだな。人は人を愛すれば、強くなんてなれない。
少なくとも、僕は君のように冷静に考えることなんてできない。君は誰かを愛したことがないのか。
だから、そんな残酷なことが言えるんだ。お願いだ。僕を放っておいてくれないか。
今は……君を見ているのが辛い。この黒髪も、この瞳も、あの子のものじゃないんだから」
私はそう言うと、彼女の肩を離した。
どれくらい経ったのか(実際はほんの数秒だろう)。
「何もご存じないのは、あなたの方だ……」
風魔はそんな呟きを残して、私の部屋を後にしていた。
ふと振り返ると、ドアの近くの台には夕餉が置かれていた。
風魔は、こんな惨状の私のために夕食を作って持って来てくれたのだろう。
「風魔……」
私がそんな夕餉を見下ろしていると、階下で物音がした。
階段を上がってくる靴音。
それは紛れもなくあの子のものだった。
彼女は私の隣にある自室のドアを開け、その中に消えたようだった。
あの子の気配だけが、この石の壁から感じられる。
私はあれほどまでに会いたかったあの子に、会う勇気がなかった。
自分が彼女に対して、浅ましい醜態を晒してしまわないか。
ただ、それだけが気懸かりで。
眠ろう。
眠ってしまおう。
きっと、きっと明日になったら私も変わっているだろう。
だが、どうしようもなくあの子を求める衝動が、私を寝付けさせなかった。
*
「昨日は……すまなかった」
翌日、部屋を訪ね、そう声を落とした私に、風魔はいつもの能面で答えた。
「なぜ、あなたが謝るのです?私はあなたが言う通り、氷柱のような路傍の木石。誰かへの愛情など、微塵も感じたことなどない。あなたを諭す資格などない人間です」
「だが……」
「もうやめましょう。あの子も戻ったようですし、私は少し頭を冷やしたい。あとはお二人で解決なさって下さい」
私はそう言われても、やはりあの子に会う勇気がなかった。
だが、会いたくて会いたくて仕方がないのだ。
私は棚から、林檎酒を取り出した。
未知の味であるそれを含むと、想定通りのひどい吐き気と反転する世界。
たった一杯のシードルにノックアウトされた私は、ベッドに崩れ落ちた。
どれくらい時が経ったのか。
すでに暗色に染められた自室を、ふらふらとする足取りで後にした。
飲めないはずのアルコールの力を借りた私は、隣の部屋のドアノブを回していた。
いつもの通り、鍵はかかっていなかった。
あの子はそう言った面でも無邪気だった。
ベッドには、静かに眠る少女の姿があった。
目覚める気配はなかった。
私がそっと毛布に手を差し入れると、はっとした。
震えているのだ。
なぜ?
彼女は起きているのか?
今、私がこうしてここにいることをちゃんと、わかっているのか。
では、どうして眠ったふりをしている?
何も答えない?
私のことが怖いのか?
私のことが嫌いになったのか?
もう君の心はあの老紳士のもとにあるのか。
猛烈な吐き気と頭痛が私を襲った。
ショックとアルコールの洗礼。
私はクラクラとする頭で、彼女の寝台のそばにしゃがみ込んでいた。
寝台で人形のように目を閉じた少女。
あの老人が、この流れるような黒髪に触れ、この雪のような肌に触れて、この身体を抱いたというのか。
嘘だ。そんなこと。
奪い返したい。
どんなことをしても。
私は痛む頭を振り、寝台に滑り込むと、眠ったふりをし続ける彼女の首筋にキスをした。
びくりと震えた細い肩。
そこにかかるワンピースの肩紐を、ゆっくりと下ろす。
ガンガンと痛む頭。
目を開けていられなかった。
だが、私はその白い乳房に口付けた。
溢れる少女の吐息。
若い私の方が、君を満足させられるはず、させてみせる。
そんな想いを込めながら。
ひとつになった瞬間、少女の黒水晶のような瞳から、そっと一筋の涙が落ちた。
君は僕だけのものだ。
この唇も肌も君を構成するすべては……僕だけの……。
君を奪う者は……どんな人間も……。
……許さない……。
「ちぃ……僕は……君を愛して……」
*
翌朝、二日酔いの私はまったく使い物にならず、一日自室のベッドで横になっていた。
やけに階下の部屋が騒がしいのが、痛む頭を抱えた私には、堪らなく不快だった。
一昨晩、取り戻せたあの子との関係は、まだ「身体」だけだった。
話をしなければならない。そして、取り戻さなければならない。
あの子の全てを……。
私は彼女の自室のドアをノックした。
ドアが開くのと同時に、何かが私の胸に飛び込んできた。
それは、目を真っ赤にして泣きはらした少女だった。
「昨日、お部屋のノックをしても、お返事してくださらなかったから、私、寂しかったの。不安だったの」
昨日の私は階下の音のあまりの煩さに閉口し、睡眠薬を飲んでいたので、気がつかなかったのだろう。
昨日、彼女が私を訪ねてくれていたという事実は、私を幾分安堵させた。
「それに、風魔ちゃんも急にアリゾナに帰るって、昨日出て行ってしまったし」
私は驚いて声を上げていた。
「風魔が……? どうしてそんな急に……?」
「わかりません……私、寂しいの。風魔ちゃんがいなくなって、あなたまでいなくなったらって。怖かったの。心がすごく凍えるみたいに寒い……温めてください」
私はそう唇をせがむ少女を制した。
「話があるんだ。ずっと君が帰って来るのを待っていた。どうして、何の連絡もくれなかったんだい?」
「そんな。ほんの数日、グレイン教授のところにお泊まりしていただけですよ?どうしたんです?」
その無邪気な答えに、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
グレイン教授との不義。
私は本当のところ、やはりありえるはずがないだろうと、心のどこかでは信じていた。
常識的にありえない。
ありえるはずがない。
そう、結局のところは単なる噂話である可能性の方に賭けていたから。
私は愚かな妄想に身を浸し、自らその世界で彷徨っていたにすぎない。
だが、その根底が、いきなり音を立てて崩れ去っていた。
「君は本当に、教授のところにいたのか?」
少女はきょとんとした顔で私を見上げた。
彼女の肩を掴んだ両手は震えていた。
「僕と君は結婚したはずじゃないか?どうしてそんな……」
「私、グレイン教授と仲良くしているだけよ?どうして?どうして、いけないの?」
私は、その瞬間。
「あの日」と同じだと思った。
「仲が良いことは、とても良いことだって、いつも教えてくれていたじゃない?」
「それは……」
言い淀む私の唇を少女は塞いだ。
「やめなさい……!!まだ話は終わっていない……!!」
「寒い。寒いの。温めて……」
「やっ……!!ダメだ。離しなさい!!まだ……まだ……話が……」
「好きよ。あなたが好き……抱いて。ねぇ。抱いて……」
私はそのまま、彼女のベッドに押し倒されていた。
グレイン教授の残り香がそっと薫った。
済し崩し的に行われたいや、行ってしまった行為の後、私は半裸のまま、天井にかかった蜘蛛の巣を見上げていた。
彼女に残された、付けた覚えのない痕と甘いオーデコロンの香り。
傍らの少女は、これからも「無邪気」にグレイン教授と「仲良く」することだろう。
そんなこと、耐えられない。
許せない。許せるはずがない。赦されるはずがない。
私は衝動的に彼女の細い首に手を伸ばしていた。
静かに横たわるこの細く白い首筋を縊りあげれば、この子を永遠に私のものに……。
私のものに……。
その刻。
少女が小さく寝返りを打った。
私はその瞬間、崩れていた。
そして、シーツに突っ伏したまま、哭いた。
できるはずがない。
私にこの子を失う選択肢など。
それならば、別の選択肢が必要だ。
別の選択肢。
それはーーーーー。
*
The San Francisco Examiner 2008年5月7日付け(日本語訳)ーー新聞の切り抜き抜粋(第一審甲第20号証)
6日早朝。自宅からーー大学教授スミス・グレイン氏(69)の遺体が発見された。
氏の死因は、薬物による中毒死。他殺、自殺の両面から捜査が行われている。
尚、氏は宗教倫理の権威でありーーーー
*
その晩。一人の青年が愛車に滑り込んだところだった。
彼はいつものようにキーを取り出すと、エンジンを掛けた。
その時だった。
コンコンという窓ガラスを叩くような音がしたのは。
彼が音のした方に顔を向けると、そこには黒光りする毛皮をまとった一人の少女が不安げな顔をして立っていた。
彼はその少女の顔を改めて、一瞬にして硬直した。
この少女の顔を知らない人間が、この日本に果たして存在するのだろうか?
毎日ブラウン管を通して観ていたその顔が、今、目の前にあるのだ。
彼は目の前で起きている現実がにわかに信じられなかった。
「あ……き、君は……」
「あの……助けて……助けて下さい」
「た、助ける?」
自分がか?と彼は思わず自分の顔を指さしていた。
そもそも何から彼女を「助ければ」良いのか。
彼がそう様々な思いを巡らせていると、少女が切羽詰まった声で悲鳴のように言った。
「お願い!!乗せて!!」
彼は慌ててドアのキーを開け、少女を迎え入れた。
「追われているんです」
「追われている……?君が?」
少女は彼の目を見つめながら、ただ頷いた。
その時、少女の背後のガラスに数名の影が揺れた。
あれが、彼女が追われているという相手なのだろう。
彼は、咄嗟に一計を案じた。というよりは、気がついたら身体が動いていた。
少女の小さな悲鳴と共に、助手席が倒れ、彼は少女の上に覆い被さっていた。
「あの……」
「しっ……。黙って」
やがて、影の気配が感じられた。
その瞬間、息が止まった。
一秒、三秒……?いや、もっと長い間か、はたまた短い時間だったのか、
「ちっ。なんだよ、見せつけやがって」
という投げやりな男の声の後、人の気配がなくなった。
「……もう大丈夫みたいだね。なんとかやり過ごせたみたいだ。驚かしてすまなかった。……えっ?」
今度は彼の方が驚きの声を上げる番だった。
少女が彼に抱き付いてきたのだ。
「あ、あの……君……」
彼はある事実に気がついて、思わず赤面した。
少女が纏う毛皮の下は、なぜか下着姿だったのだ。
彼の鼓動は再び高鳴った。
彼は慌てて彼女から身体を離すと、小さく咳払いをした。
「怖い……怖いんです」
「怖い……?」
彼はできることなら、詳しい事情は尋ねないようにしようと考えていた。
プライベートを追及するのは、彼の本位ではなかった。
だが、それも時と場合によるだろう。
彼はそう思い直し、優しく尋ねた。
「何が怖いんだい?」
「言えません……」
「さっきの男たち?」
「うん。でも……」
「その後ろに……誰かいるんだね?」
少女は、はっとして顔を上げると、泣き出しそうな顔で頷いた。
それで、彼は全てを悟った気がした。
『あの噂』はきっと真実なのだろうと。
「私……もう嫌なんです。誰かに救い出して欲しくて。……あなただったらきっと……」
「えっ?」
今回のことは、単なる行きずりの行動だったのではないのか。
当惑する彼の名を少女は遠慮がちに、「さん」付けで小さく呼んだ。
実のところ、彼と少女はこの晩が初対面ではなかった。
数週間前の某パーティで二人は顔を合わせて名乗り合っていた。
彼は一瞬で少女に瞳を奪われた。
あの瞬間、確かに彼女は自分を見つめていた。
その瞳には、自分と同じようなある種の温かみが感じられた。
それは、気のせいなどではなかったのだ。
「あのパーティで……僕のこと……覚えていてくれたの?」
少女は、力強く頷いた。
「あなたなら、きっと私を救ってくれる……そう思ったから、ここに来たんです。……あなただから……」
「僕だから……?」
もう少女は言葉にならないようだった。
彼はきつく拳を握り締めた。
「お願いします……!!私を助けて下さい」
そう続けて自分の名を呼ばれた瞬間、彼は彼女を抱き締めていた。
彼は全てを覚悟した。
例え、あの人物を敵に回したとしても、例え、この身体がバラバラにされようとも、もう決して、君を離さないと。
*
それは、東京の街に珍しく雪の降り積もった晩のことだった。
不動充は、深夜自宅マンションの駐車場に車を止めると、深々と降り続く雪の中を歩き出した。
「このマンションの唯一の欠陥は、駐車場が外にあることだな」
彼は誰ともなくそう呟くと、白い息を吐きながら、歩を進めた。
サングラス越しに、不動は目を細めた。
古ぼけた街灯の下に、何かがあった。
近づくと、黒猫が蹲っているようだった。
やけに大きな猫だ。
不動の脳裏には、そんな月並みな感想が掠めた。
だが、次の瞬間、彼はようやく異変に気がついた。
黒い毛並みから微かに覗き、月夜の雪に反射してきらきらと輝いていたのは、紛れもなく白い肌だったから。
抱き上げてみると、それは一人の少女だった。
長く黒い髪が零れ、紙のように蒼白な顔が露わになった。
まるで人形のようだと不動は感じた。
それほどまでに少女は精巧な整った顔立ちをしていた。
手袋を外し、頬に手をやると、既に氷のように冷たかった。
先程、彼が少女を猫か何かだと感じた理由がすぐにわかった。
少女はどういう訳か黒い光沢のある毛皮を着ていたのだ。
不動は少女から雪を払ってやっていたが、やがて、はっとして手を止めた。
毛皮のコートの中が、下着姿だったからだった。
彼はしっかりとコートの前を合わせ、その白いレースに包まれた素肌を遮ると、少女の身体を抱き上げた。
取り敢えず、彼は少女を自分の寝室のベッドに横たえた。
雪にまみれたコートは微かに霜を帯び、冷たかった。
このままこのコートを着せていては、かえって少女の体温は奪われていく。
とは言え、一人暮らしの自分に彼女に着せるような衣服などない。
深夜に衣服を調達できるような店もない。
彼はふと思い当たって、クローゼットの奥をまさぐった。
不動は一瞬ためらった後、白い袋の中から女物の衣服を取り出した。
それは妻の遺品だった。
彼はその中から桃色の寝具を取り出すと、寝室へと戻った。
少女の身体を抱き上げ、コートを脱がせると、先程目にした白いレースの下着が顔を出す。
余程長期間、あの雪の中に埋もれていたのか、白いレース一面にもしっとりと霜が降りていた。
不動は少し思案した後、少女から下着も脱がせることにした。
ブラのホックを外す瞬間、少女が悩ましげに小さく吐息を漏らしたので、彼ははっとしてまた手を止めた。
彼は素早く生まれたままの状態になった彼女に寝具をかけると、再びクローゼットの前に行き、同じように妻の遺品から下着を選び出すと、苦心して少女に着せた。
パジャマを着せ、布団をかける頃には、少女を連れ込んで既に二時間が経過していた。
彼は慣れない作業によってかいた額の汗をぬぐうと、一息つく間もなく、電話を手にした。
だが、彼がかけたのは、警察でも病院でもなかった。
*
「で。電話であなたが話されていたのが、こちらのお嬢さんですか」
不動は無言でただ肯定するように顎を引いた。
「まさか、女性を拾ってくるとは……あなたもなかなか因果な方ですねぇ。まして、こんなにもお美しい女性を」
そう言うと、簡単な診察を終えた医師――乃木庸司はすやすやと眠る少女の手を毛布の中に仕舞った。
「拾うも何も仕方があるまい。放っておいてマンションの目の前で凍死されても寝覚めが悪いだろう」
「ま、あなたにしては珍しく……善意に駆られての行動ということですね。実に愉快だ」
「愉快がるのは勝手だが……この少女。どうなんだ」
「軽い打撲痕などは見られますが、見たところ、凍傷の気もないですし……発熱も今のところない。命に別状ないでしょう」
「そうか……」
「気になるようでしたら、私の病院にお連れして精密検査を」
「いや、それには及ばないだろう。お前の診断を信じる」
乃木医師は、ふっと口元に笑みを浮かべると、恭しく礼をした。
「さて……これから、どうされるおつもりです?」
「さあてな。これから追々考えるさ。夜は長い」
そう言うと、不動は大きく伸びをして少女を振り返った。
無邪気に寝息を立てるあどけなさを残すその顔を。
*
鳥ーー2015年4月15日18時03分 不動充自宅マンション
ーーーー『退院おめでとう。今日からお前をここに置くことにした。どの部屋も、好きに使ってくれてかまわない』
ーーーー『は、はい……』
ーーーー『ただし、条件がある』
ーーーー『条件……ですか?』
ーーーー『そうだ。買い物以外で外に出ることは、俺の許可無しには許さん。誰かがこのマンションを訪ねてきても、絶対にドアを開けるな。それと、テレビや新聞を見ることも許さない。守れるか?』
ーーーー『……はい。不動さん』
わたしは今まで、アルバイトの件以外で不動さんとの約束を破ったことはありません。
でも……。
ーー『愛してる。君だけを愛している。あの頃も……今も変わらずに』
ーー『いやああああっ!!不動さああああああああああん!!』
ーー『うあっ……!?』
毎朝、新聞は不動さんが読んだ後は、どこかに処分されてしまいます。
残された手段は、テレビです。
もし、あの男の人が死んでしまっているのなら、きっと、ニュースになっていることでしょう。
あの男の人がどうなったのか。
わたしはいてもたってもいられませんでした。
「不動さん……ごめんなさい」
わたしはそう不動さんに謝ると、テレビのスイッチを入れました。
「こちらは、先日行われた池袋駅前での選挙演説の様子です。いや?。すごい人ですね。やはり、目玉である高城一輝氏効果でしょうかね」
わたしは、思わずテレビの画面に釘付けになっていました。
今、テレビで演説をしている男性。
彼こそ、あの男の人に違いありません。
「あの人……生きてた……良かった……良かった……」
ーーーー『ちぃ……』
柔らかな光の中で、そうわたしを呼ぶ声……。
それはあの綺麗な顔をした男の人?
あなたは……だあれ?
「あの人は……高城……一輝?……一輝……兄様?うっ!!」
どうしたのでしょう。
頭が割れるように痛い……。
カラダの震えも止まりません。
わたしのカラダ……おかしい?
「まるでアイドル歌手のような人気ですねぇ。同じく国民的アイドルのクリス君は、彼のこと、どう思います?」
「そうですね。高城先生って、素敵ですよね。僕もすごく憧れちゃいます。僕、好きです。彼のこと……そう。憎らしいくらいに……」
「えっ?クリス君?」
「あはは。すみません。冗談ですよ」
「クリスさん……不動さんの事務所の人……うっ!!」
片方の瞳が、わたしの好きなエメラルドみたいに綺麗な人。
ーーーー『クリス。今日からうちで預かることになった雪だ』
ーーーー『あ、あのう。はじめまして。雪です』
ーーーー『雪?雪って、君の本名なの?』
ーーーー『い、いいえ。私、名前がわからないんです。だから、不動さんにつけてもらったんです』
ーーーー『へえ。名前がわからない……か。じゃあ、自分がどこの誰だかもわからないって訳?』
ーーーー『は、はい』
ーーーー『そうか。じゃあ、僕とおんなじだね』
ーーーー『えっ?』
ーーーー『SnowWhite』
ーーーー『えっ?す、スノーホワイト?』
ーーーー『そ。よろしくね。白雪姫』
「クリスさん……」
ーーーー『おいで。千鶴……』
「えっ……?」
ーーーー『千鶴。しばらく会わないうちに、随分レデイになったな』
ーーーー『父さん。いけませんよ。いつまでも千鶴を子供扱いしては』
ーーーー『うふふ……そうですわ。千鶴、もうコドモではありませんのよ?』
そう微笑むのは、わたし?
それとも、「千鶴」?
「千鶴……?それは誰?い、いや……怖い……ふ……不動さん……助けて……」
「さて、次の話題に移りましょう。総選挙と同じく巷の話題をさらっていることと言えば、やっぱりコレですよね。じゃじゃんっ!芸能プロダクション社長・不動充氏の保険金殺人疑惑。おっと、クリス君とこの事務所だよね。マズかったかな?」
その瞬間、息が詰まりました。
殺人ーー?
不動さんがーー殺人犯?
「嘘……そんなこと……不動さんは優しい人で……」
どうしよう。
身体が……カラダが……。
ーーーー『雪さん。記憶を失われた後遺症として、これから、もしかしたら、気持ちが不安定になったり、フラッシュバックと呼ばれる現象があなたを襲うかもしれません。その時は、慌てずに私にご連絡下さい。必ずですよ?』
「先生……乃木先生に電話しなくちゃ……」
わたしはふらふらとする頭を抱えながら、電話に向かいました。
わたしはふわふわとする頭で、必死に電話の傍にあった不動さんの住所録から乃木先生の電話番号を探し出すと、その番号に電話をかけました。
「乃木先生……センセイ……」
「はい。乃木医院です。……その声は、雪さんですか?」
「先生……わたし……わたし……」
「雪さん?どうかされたのですか?」
わたしは電話をしながら、背後のテレビに気を取られていました。
「やっぱ、マズかったかな~?このネタ」
「別にかまいませんよ。そんなの事実無根なんですからね」
「ほんとにほんと?」
「当たり前じゃないですか。僕、怒りますよ。もう」
「今日はさ。この辺りの真実を所属アイドルのクリス君に聞きたかったりした訳なんだよね?。愛妻に巨額の保険金をかけて殺すなんて、えげつないですよねぇ?クリス君」
「もう。僕、もう知りませんよ?」
「あっ……痛い……頭が……」
「雪さん?聞こえていますか?私の声が」
「センセイ……助けて下さい。……不動さんが……わたし、コワイ……」
わたしは、一体、何を信じればよいのでしょうか。
「雪さん!?どうされました?雪さん……!?雪さん!?」
*
鳥ーー2015年4月15日18時58分 TTV楽屋
「ひどいじゃないですか。あの話題にするなんて、僕、打ち合わせではぜんぜん聞いてなんていませんでしたよ?」
そう言うと、クリスは頬をぷっと膨らませた。傍の男は、そんなクリスを必死で宥めながら、
「そんなに怒らないでよ~。クリス君。俺もね、ディレクターから言われて仕方なかったんだよ~」
と猫なで声を出した。先ほどの番組の司会者である。
「僕、許しませんからね」
「ははは!!ごめんごめん。次は君の写真集の宣伝いっぱいするからさ。許して。ね?」
「もう。仕方がないですねぇ」
「クリス君のそういう優しいとこ、俺、好きだよ。じゃ、また来週ね!!」
そう逃げ出すように司会者が楽屋を後にすると、クリスは
「……許すはずないでしょう。不動さんを侮辱する輩は僕が許さない……」
と、冷徹な瞳でその背中を見つめていた。
「あ、あのうクリスさん」
馴染みの女性マネージャーが、恐る恐るという感じで声をかけてきた。
明らかに不機嫌なクリスに対しての遠慮がちな態度。
クリスはそのうんざりするほど卑屈な様子に、吐き捨てるように答えた。
「なんだい?マネージャーさん。今日はもうオフでしょう?僕、帰っていいね?」
「それが……お客様です」
「客?僕に断りもなしに勝手に通すのやめてもらえる?いつから君、そんなに偉くなったの?」
「ご、ごめんなさい。でも、その……お客様がお客様なので……」
そうしどろもどろになる彼女の様子に、ようやくクリスは異変を感じた。
「えっ?誰?」
「邪魔するぜ。トップアイドルの楽屋ってのは、やっぱり豪勢なものなんだな」
そうどやどやと入り込んで来たのは、見知らぬ男たちだった。
その先頭に立っているのは、大久保だった。
だが、当然のことながら、クリスはその名を知らない。
「なんです?あなたたちは……」
「不動充には、その昔、世話になった者でね」
「不動さんに?」
「あいつが裁判で俺を有罪にしなければ、俺の前途ってやつもまともだったんだけどよお?」
「裁判……?有罪?何を言っているんだ?あんたっ!?うあっ!?何するんだ?」
「おい、そこのマネージャーのお嬢ちゃんも混ざるか?」
「ひっ!!……ご、ごめんなさい……クリスさん。お、お疲れ様でした!!」
そう言うと、マネージャーは転げるように楽屋から逃げ出した。
「おいっ!!待てよ!!どういうことだよ!?やだっ!!離して!!」
「細い手首だねぇ。坊や。騒ぐとあんた自身のためにならないよ?ほら。誰が来るかわからないだろう?」
「くっ!!」
「これくらい、なんてことないだろう?どうせ、仕事もらうためって名目で、枕とかもやってるんだろう?」
「不動さんはそんなこと、僕にさせたりしないっ!!」
「社長さんを信頼しきってるって訳か?気に入らねぇ」
そう言うと、大久保はクリスの衣装に手をかけた。
「いやあっ!!やめてっ!!」
「やっぱり、アイドルってのは伊達じゃないな。良いカラダしてるじゃねぇか」
「やっ……嫌だっ……」
抵抗するクリスに容赦ない洗礼が浴びせられる。
「うっ!!げほっ!!」
「おとなしくしてろよ。その綺麗な顔に傷つけたくなかったらな」
「うっ……くっ……」
クリスは抵抗をやめた。今の自分の身体は大切な「商品」なのだ。
不動にとっての大切な。
最もこの「商品」に傷つかないためには、どうすればいいのか。
だから、クリスは自分から身体を開いた。
「自分で脱ぐからーー」
そう男たちを制し、自ら衣装を脱ぎ捨てたクリスの身体を目にした男たちは、にやにやと嫌な笑みを浮かべた。
どの目にも淫らな欲情が見て取れる。
変わらない。これまで自分を取り巻いてきたどの人間たちとも。
そう、不動以外の人間は、自分を性の捌け口の「道具」や「商品」としか見ていないのだから。
不動だけが自分を「クリス」として見てくれる。
だから、自分は不動のために「商品」でいられるのだ。
クリスはふっと涙ぐんでいた。
だが、すぐにその涙を飲み込んだ。
こんな見ず知らずの男たちのために自分が涙を流すなんて、プライドが許さなかった。
そう、今や自分は「あの頃」の自分ではないのだ。
芸能界という名の居場所でスターダムを極めた存在なのだ。
ここはステージだ。その大きな鏡に映る自分。
不動が愛してくれるこの躰。
どう?僕、綺麗だろう?
クリスはそう心の中で声を上げると、ポージングを取った。
クリスの目には、もう男たちの姿など写っていなかった。
クリスは笑いかけた。
こいつらはただの「客」ーー「客体」なのだ。
あくまでも、「主体」ーー主導権を握るのは、この僕なんだからと。
クリスが誘いかけるように、振り返ると、男たちは彼を奪い合った。
「アイドルとやれるってのは、なかなかいいな。プレミア感が違うねぇ?」
そう言うと、大久保はクリスの胸の飾りをつまみ上げた。
鋭い痛みがクリスの脳天に響く。
「やっ!!ああっ!!ああっ!!」
クリスは一方の男に突き上げられながら、別の男たちの愛撫の洗礼を受けていた。
彼のありとあらゆるパーツが男たちに汚されていく。
これは現実なんかじゃない。
ドラマだ。虚像なのだ。
こんなの現実じゃない……。
クリスは喘ぎながら、必死に現実を否定した。
「ああっ?上の口が暇そうだな。さぼってないで、ちゃんと俺のしゃぶれよ」
大久保はそう言うと、クリスの髪を掴んで引き寄せ、そそり勃つ己自身を咥えさせた。
クリスは大久保のそれを執拗に舐めた。この上なく、愛おしそうに。
「なかなかうまいじゃないか。おっと。最後までちゃんと処理してくれよ。その可愛いお口で」
これはドラマだ。自分は今、男たちに陵辱される「役」を演じているのだ。
完璧に演じきらなければならないんだ。
「さてと。そろそろ俺からも、くれてやるか。どけ」
クリスの中から男の気配が消えた。支柱を失い、クリスは腰を落とした。
だが、それは束の間の休息だった。
次の瞬間には、大久保が捻じ込んで来た。
「…………………!!」
「どうだ?イくか?」
大久保は、楽屋の畳に叩きつけるように腰を落とした。
「ああっ!!」
痛みでクリスの意識が飛びかけた。
「男の中ってのは、こんな感じなのか?悪くないねぇ」
「うっ…い…いたい……」
「さあ、鳴けよ。泣けよ。お前は不動の大事なタレントさんなんだろう?おら。泣けよ。叫べよ」
「いやあああっ!!いたああいっ!!」
その容赦のない行為に、クリスの中の扉が開く。
それは、封印したはずの過去の地獄絵図。
大久保のせせら笑う顔が、「父親」に重なる。
ーーーー『許して下さい!!お父様!!お父様!!』
戸籍もなく、ただ「あの家」に囚われていた自分。
あの頃の自分は「囚人」だった。
「嫌だ……嫌だ…やめて、お願い。やめて、『お父様』」
「あの家」で、何度その言葉を繰り返し、泣いていたかしれない。
戻りたくなんてない。絶対に。
だが。
今の自分も変わらないのかもしれない。
「クリス」という「商品名」を与えられ、マスコミの監視下に置かれ、台本の通りに笑い、こうして見ず知らずの男たちに辱められても、「商品」の品質を保つため、抵抗さえできないのだから。
今の自分は、芸能界という華やかな牢獄に囲われたーー囚人のまま。
「うっ……うあ……許して……許して……」
「なんだ?」
「もう戻りたくなんてないんだ……あんな地獄みたいな時代には……不動さん……僕には……あなたしか……いない……それでいいんだ。だって、あなたしかいらないんだから……」
そう、違うんだ。
不動さん。あなたがいれば、あなたがいる。ただ、それだけで、ここは牢獄ではなくなる。
「ああ……不動さん……不動さん……」
「あん?こいつ、何言ってんだ?気でも触れたか?」
「んっ……あっ……ああっ……いやっ……そんなに突かないでっ!!あっ!!あっ!!あっ!!」
「すごいな。こりゃ、下手な女よりずっといいぜ?」
「おい、早くこっちに回せよ」
クリスは男たちに弄ばれながら、荒い息でつぶやいた。
その瞳に残酷な光を湛えて。
「こんな現実、いらない……」
*
月ーー2015年4月15日19時27分 社会民政党本部
片桐智哉は、T大時代からの甲賀明美の二年後輩である。
英国生まれで、中学まで向こうで育ち、祖父が英国人のためか、日本人離れした整った顔立ちに金髪がトレードマークで、政界内ではやや浮いた容姿の青年だった。
明美の後輩ということは、同時に高城一輝の後輩でもある訳で、明美、一輝の両名に後輩として可愛がられてきた。
だが、智哉にとって、それは良い意味の思い出ばかりを残した訳ではなかった。
なぜなら、智哉は学生時代から明美のことを愛しており、同時に明美は一輝を愛していたから……。
三人は言わば、先輩後輩であり、「三角関係」だったのだ。
一番智哉が気懸かりなのは、一輝の気持ちが見えないことだった。
一輝は間違いなく明美に対して第一級の信頼を寄せている。
それは、二人がライバル政党に所属し、切磋琢磨している現在も変わらない。
だが、それは明美が期待するような「恋愛感情」とは違う。
いや、明美も一輝も互いに恐れていると言った方が正しいのか。
色恋沙汰により、この三人の関係が壊れることが。
明美も一輝もそのことを知りつつ「逃げている」のだ。
だが、智哉はもうそんな歯がゆい関係は終わりにしたかった。
智哉は一輝に対して宣戦布告してでも、明美に自分の想いを告げたかった。
例え、それが一輝との関係を断絶することになろうとも。
だから、あの晩の光景は、智哉にとって何よりの衝撃だった。
長年の想いの蓄積が爆発した、思いあまっての行動だったのだろう。
振り返った明美の涙に濡れた顔が、智哉の脳裏からは離れなかった。
あの時、どうして自分はあの場に飛び出して、彼女を慰めることができなかったのか。
『あなたを守りたい』。
その一言が言えなかったのか。
自分の不甲斐なさに、智哉は唇を噛んだ。
「どうされました?明美さん」
智哉は、学生時代から明美を親愛の意味を込めてファーストネームで呼んでいた。
それは、彼が大学卒業後、政治家となった明美を秘書として支える立場になった現在も変わらない。
それが、英国帰りの彼らしいやり方であったのと同時に、明美に対しての自分の職務を越えた本当の親愛の意味も密かに含んでという、智哉の精一杯の気持ちからでもあった。
ただ、明美はそのことには気がついていないようだった。
それが、智哉にはありがたいと同時に、もの哀しかった。
こんなにも近くにいるのに、明美が自分の気持ちに気がつかないのは、それだけ彼女が高城に想いを寄せている結果な気がして。
「ううん。何でもないの。いやね。あたしとしたことが……ぼうっとしちゃって」
「大丈夫ですか?熱……あるんじゃないですか?」
「平気よ。ちょっと考え事していただけなのよ……。あっ」
智哉はそっと明美の額に自分の手を当てていた。
「ほら。やっぱり……熱ありますよ」
「やだ……大丈夫よ。大袈裟なんだから……本当に何でもないったら。これくらいの熱。なんでも……」
「強がるのはあなたの悪い癖ですよ。明美さん」
「あのね。あたしは大丈夫だったら!!」
「さ、座って下さい。今、いいもの作ってあげますから。たまには秘書の言うことも聞くモノですよ。甲賀先生」
そう微笑むと、秘書は立ち上がろうとした担当議員を椅子に押し戻した。
明美はぷっと頬を膨らませた。
だが、秘書の運んできたものの良い香りに、思わず釣られていた。
「何?それ」
「ホットレモネードです」
そう答えると、秘書は明美の前に湯気の立つカップを置いた。
「あ、ありがと。……あちっ!!」
「そんなに慌てなくてもレモネードは逃げませんよ」
子供っぽいところがある彼女に、智哉はふっと微笑む。彼はそんな明美が一番好きだった。
「おいしい……」
「でしょう?よく僕の母も僕が熱を出した時は、こうしてレモネードを作ってくれたものです」
明美の様子を満足げに見つめると、智哉は自分の分のレモネードに口付けた。
「……ねえ、智哉君。君があたしの秘書になってくれて、どれくらいだっけ?」
明美は人心地ついたのか、急に別の話題をふってきた。その瞳は何かに思いを馳せるような様子だ。
「四年です。僕は大学を卒業してすぐ明美さんの秘書になったのですから」
「そっか。そうだよね。あたしが初当選してからだから、もうそんなになるんだね」
「ええ。早いものですね。時の流れは」
「そうだね。大学か。政治サークル楽しかったな。智哉君もあの頃はなかなかの論客だったよね。それでさ。よく、一輝君とやりあってたっけ。……そっか。彼もいたんだよね。あの頃から……なんか、変わってないね。今もあの頃と……ただ違うのは、彼があたしの『敵』になっちゃったこと……」
そう言うと、明美はカップにそっと視線を落とした。
「明美さん……」
「あはは。ごめん。なんか、センチになってるね。あたし」
明美はそう快活に笑ったが、長い付き合いの秘書には、それがカラ元気だということがすぐにわかった。
「一輝」の名前が出たことで、智哉の中に言い知れぬ何かが沸き起こっていた。
それは、紛れもない「嫉妬」だった。
こんなに側にいるのに、いつもあなたを見守っているのに。
どうしてあなたの目はいつも彼を追っているのだろう。
あんな穢れた男を。
思わず彼は拳を握りしめていた。
そんな想いが滲み出るかのように、自然と口調が強くなっていた。
「そんな顔はあなたには相応しくない。あなたは太陽のようにいつも明るく笑っていなくては駄目です」
いつもにも増して真剣な様子の秘書の異変に気がついたのか、明美も笑顔を消したまま、ただ、「智哉君……」と秘書の名を呼んだだけだった。
事務所のドアが勢いよく開いたのは、その時だった。
「あら~?お二人さん、なんかいい雰囲気ね。お邪魔しちゃった?」
「えっ!?あ、幹事長!!」
彼女は、天瀬京香。政治家歴20年のベテランで、社会民政党幹事長にして、元党首。
その年齢にしては、背丈が高く、強気そうで端正なエキゾチックな顔立ちと一歩も引かない姿勢から、「鋼の女」と呼ばれる元祖・美人政治家である。
懐が深く、見た目とは裏腹なおおらかな性格で、彼女の人柄を慕う者は多い。
現在は、党首の座を若手の甲賀明美に譲り、自らは幹事長として、明美を支える立場として活躍しており、明美
は彼女を先輩政治家として尊敬すると当時に、第二の母として慕っていた。
「ちょっと~。明美。どうしたの?不抜けた顔して。風邪でもひいたの?大事な選挙戦の真っ最中よ?しっかりなさい。今はあなたが党首なんだから」
そう言うと、前党首は明美の鼻先に人差し指を突きつけた。
「すみません。ちょっと風邪気味なんです」
「ほんとにそれだけ?」
「えっ?」
「国民改新党のこと。気になるの?」
やっぱり、『師匠』には敵わない。
明美は心の中でぺろっと舌を出すと、観念したように肯定の返事をした。
前党首は「困ったものね?」と前置きすると、言った。
「確かに、あたしたち社会民政党は、あなたの同級生のおかげで押され気味だけど、負ける気なんてしないわ。あたしたちにはあたしたちの戦い方がある。議席の数は問題じゃないのよ。大切なのは、どんな仕事をやれるかってことなの。ね?そうだ!!景気づけに今夜、もつ鍋でも食べにいきましょ。あたしが奢ったげるから。風邪なんか、吹っ飛ぶわよ」
「ほんとですか?やった?!!」
もつ鍋が大好物の明美は思わず、ガッツポーズをしていた。
前党首はそんな明美の様子に満足げに頷くと、急にいたずらっぽい表情を向けた。
「ま。あなたが国民改新党のこと、気に掛けるのは、他にも理由がありそうだけど」
「えっ!?な、何言ってるんですか?からかわないで下さいよ!!もう!!」
「あれ~?あたしは何にも具体的なことなんて言ってないけど?明美は何に対してからかわれたって思ったのかしら?もしかして、同級生の君のことだったりするのかしら~?」
「うっ。は、はめましたね……」
「あははっ!!明美、あんたはやっぱり若いわね。いいのよ。あんたのそういうとこ、これからも大切にね。あたしには、もう取り戻したくても戻せないもんだからさ」
明美と智哉は急にしんとして、顔を見合わせた。
「あのね。その哀れむような目、やめてもらえる?こっちだって、あんたよりはちょ~っと上だけど、まだまだ若い気でいるんだからさ。あんたに党首の座は譲ったけど、まだまだ負けないわよ。じゃ、また夜にね。智哉。明美のこと、頼んだよ」
そうウインクすると、前党首はまた勢いよくドアを開け、事務所を後にした。
急に静けさを取り戻した室内。
「ねえ、智哉君。あたし、そんなにひどい顔、してたかな?」
「ひどい……というか、元気はないって感じですね。そんな顔では、有権者の方の不安を煽ってしまうと思います。だから、幹事長もご心配なさってあんなことを……」
「君にも京香さんにも、やっぱり敵わないわね。……確かに、気になって仕方がないのよ。彼のこと」
「一輝先輩のこと……ですか?」
「……うん。そうだ。君、一輝君の留学先でも一緒だったんだけっけ。彼さ、どんな感じだった?イギリスでも相変わらずだった?」
その質問に智哉は、はっとして思わず目をそらした。
「どうしてそんなこと、聞くんです?」
「ただの興味本位。彼、日本では昔から、ある意味有名人だったでしょう?だから、誰も知り合いのいないイギリスで、どんな感じだったんだろうって……」
「どうしてですか?明美さん。彼は……彼は政敵ですよ。そんな相手のこと、気に掛けている場合ではないと思います」
「あたしだって、そう思う。今は選挙戦真っ最中だもの。頭ではわかっているのよ。でもね……彼のこと、考えてしまうのよ」
そう言うと、明美は珍しくため息をついた。
彼女は明らかにペースを乱している。いや、乱されている。
智哉は、あえて知らないふりを装い、軽いノリで明美に問いかけた。
「好きなんですか?彼のこと」
「えっ?や、やだ。そんなんじゃないわよ。京香さんも君もなんか勘違いしてる。あたしはただ、彼は昔からの腐れ縁だから……」
明美は可哀想なほどに狼狽し、耳たぶまで顔を真っ赤に染めると必死に両手を振った。
この上なく、初心で可愛らしい先輩。
穢れない彼女。
なのに、あの男は。
まだ熱いカップを握りしめる。
智哉の瞳に冷たい光が宿った。
「僕は……認めません」
「えっ?」
「彼はあなたには相応しくない」
智哉はレモネードに視線を落としたまま、独り言のように続けた。
「彼は穢れている……」
「えっ?…何?何のことを言っているの?君、何か彼のこと……知っているの?」
智哉ははっとして、明美の顔を見た。そこには、言いようのない懸念が渦巻いていた。
今度慌てるのは、智哉の番だった。
「い、いえ……すみません。忘れて下さい」
「智哉君?」
「あ、明美さん。時間です。演説会場に向いましょう。今、車出してきますから。あと、明美さん。僕、明日御厨先生のところに行って、風邪薬と栄養剤もらってきますから」
「御厨のオジサンとこ?もうっ!!これくらい平気だったら!!大袈裟なの!!」
「いけません。今は大切な時なのですから。何度でも言いますが、秘書の言い分も聞くものですよ」
智哉はそう言うと、車を回すため駐車場へと向かった。事務所を後にする背中を、
「もう……心配性なんだから」
という明美の声が追いかけた。
歩を進める智哉は、キッと正面を見据えたまま、繰り返し呟いていた。
「相応しくない。あの男はあなたには相応しくないんだ。……決して、決して……あんな男にあなたは渡さない。絶対に……」
*
鳥ーー2015年4月15日19時46分 TTV楽屋
クリスは男たちの去った楽屋で、その大きな鏡に自分の顔や身体を写し、ふっと笑みを漏らした。
どこも怪我をしている様子はない。
抵抗しなかったおかげで、衣装も無事だった。
ただ、そこにあるのは男たちに付けられた無数のキスマーク。
彼はまた笑った。
こんなものはすぐに消えるだろうから。
「商品」を守りきったことに、クリスは微かな満足感を覚えていた。
クリスはスマホを取り出すと、不動の元にかけた。
ワンコールで聞き慣れた愛おしい声。
「俺だ」
「ねえ。不動さん。今すぐ会いたいんだ。今、テレビ局なんだ。迎えに来てくれるでしょう?」
「悪い。今は無理だ」
「どうして?今夜は不動さん、僕の部屋来てくれる約束だったじゃない」
「雪が倒れたらしい」
Snow White……?
不動の口から溢れた「キーワード」に、クリスの瞳で冷酷な光が宿る。
「そんなの乃木先生に任せておけばいいじゃないか。不動さんが行ったって、できることなんて何もないじゃない」
「悪い。クリス。急いでいるんだ。切るぞ」
「不動さん!!僕、ずっと待っているからね。不動さんが来てくれるまで……何時になっても……ずっと、ずっと」
不動の声は耳障りな電子音に変わっていた。
「不動さん……SnowWhite……僕より、あの子のために……渡さない。渡すもんか。僕には不動さんしかいないんだから……」
*
鳥ーー2015年4月15日20時15分 乃木医院
診察室で不動充と乃木医師は向かい合っていた。
問題の雪は、別室ですやすやと眠っていた。
「雪は大丈夫なのか?」
「ええ。軽いフラッシュバックに襲われ、混乱してしまったようですね。特に心配を要するほどの症状でもありません」
「そうか……」
「不動さん。……雪さんのことですがね。先日、彼女の記憶喪失の原因を探るため、彼女の脳の検査を行いました。その結果、軽い打撲痕が見つかりました。記憶喪失の原因は、頭部に受けた打撃によるショック性のものだと推測されます。ですが……」
「どうした」
「あなたにお伝えするべきなのか……正直、ためらっていることがあるのです」
「ためらう?なぜだ」
「あなたはあの少女に対して、特別な感情をお持ちではないかと」
「特別?馬鹿な。雪は子供だぞ」
そう不動はサングラスを指で上げた。
「そうですか。あなたならそうおっしゃるだろうと考えていました。……今はあなたの言い分をそのまま飲むことにしましょう。ですが、彼女は私の患者です。守秘義務がある」
「守秘義務……方便だな。お前の言い分もわからないでもない。確かに俺と雪は赤の他人だ。俺という信頼に値しない男には、あの少女の健康上の秘密を聞く権利はない。だがな。今の雪の保護者はこの俺だ」
「あなたは『保護者』として彼女のことを知る権利がある……ということですね。でも、やはりこの話は、彼女の真の身内にも聞いて頂くべき内容です」
「雪は身元がわからないんだぞ。どうする気だ」
「あと一か月。この間に彼女の身元がわからないようでしたら、あなたを真の保護者として、そして、私は主治医として、お伝えしましょう。きっと」
*
鳥ーー2015年4月15日21時02分 クリス自宅マンション
渋谷の高層マンションの最上階。
その一人では広すぎる部屋の一室で、クリスはベッドに突っ伏していた。
その時、鼓膜が微かに音を捉えた。それは間違いなく、鍵の開く音だった。
「不動……さん?」
クリスは合鍵を持つただ一人の人物、その愛する男の名を呟くと、部屋を飛び出した。
リビングに着くと、
「悪い。遅くなったな」
と愛する男がサングラス越しに微笑んでいた。
クリスはその胸に飛び込んでいた。
「不動さん!!やっぱり来てくれたんだね?僕、信じていたよ。信じてた。僕には不動さんしかいないように、不動さんには僕しかいないんだからね」
「クリス……」
「不動さん。抱いて」
「ああ。シャワー浴びてくる」
「いらない。今のままの不動さんに抱いて欲しいんだよ」
異変を察したらしい不動が、心配げに自分の名を呼んだ。
だが、クリスは聞こえなかったふりをして、彼を寝室へと誘った。
「ねえ、来て。不動さん」
ベッドからのクリスの誘いに、不動は黒のトレンチコートを脱ぎ捨てると彼を抱き締めた。
「あっ……不動さん。もっと強く、強く抱いてよ。……落ち着くんだ。不動さんの匂い……ねえ。もうすぐやるんでしょう?」
「ああ」
「莉奈、きっとうまくやってくれるよ。楽しみだね。僕、あいつが泣いても叫んでも、絶対に許さないんだ。不動さんの苦しみ。不動さんの怒り。不動さんの悲しみ。全部全部あいつに思い知らせてやるんだから」
「クリス?どうした?」
「でもね、不動さん。今は僕のことだけ考えて。今は僕のことだけ愛して。ね?不動さん。お願いだから」
「クリス。何があった?」
「いいんだ。あなたは何も知らなくていい。今、こうして僕を抱いてくれるだけでいいんだ。不動さん……愛してる。あなただけを愛してる」
*
月ーー2015年4月16日18時37分 高城家
「わかった……おいで」
そう降り注いだ先輩の声に顔を上げると、真剣な眼差しの先輩が、私を導くように手を差し伸べていた。
先輩は、今、私を受け入れようとしているのか?
本当に?
情けない話だが、私はまた泣き出してしまっていた。
これは、優しさか哀れみか、それとも……?
そんなこと、もうどうでも良かった。
私の告白を聞いて、彼が私に手を差し伸べてくれた。
他に何を望むというのだろう。
だが、私は自分の震える指先を差し出すのを躊躇った。
この手を握ってしまったら、もう後戻りできない。
今までの二人の関係は、本当に壊れてしまうかもしれない。
怖い…堪らなく、恐い……。
一刻の激情に任せて告げたこの禁忌が、私から永遠に彼を奪ってしまう。
そんな気がして。
もしかしたら、この手を取った瞬間、先輩は私の前から消えてしまうかもしれない。
だが、私の熱い身体は、もはや彼を求めて止まないのだ。
彼が欲しくて欲しくて堪らないのだ。
私は本当に意気地のない人間で、最低だ。
きつく目を閉じたまま、恐る恐る彼の方に手を伸ばした。
私の指先が、先輩の指先と触れ合った瞬間、彼は私の手を取り、抱き寄せた。
「僕のせいで、辛い思いをさせた……」
彼はそう言うと、私の髪を優しく撫でた。
優しく僕を包んだ先輩のぬくもり。
あの男に重ねた幻影ではなくて、本当の先輩の……。
決して、夢幻ではない先輩の……。
私は、幼子が甘えるように彼の胸に顔を埋めた。
私を優しくベッドに横たえると、先輩は私の衣服を脱がせた。
「先輩……僕、嬉しいです。本当に…本当に先輩が……」
「古館君。もう少し力を抜いてごらん?」
「は、はい……あのう。先輩……」
「大丈夫。心配しないで。僕に任せて」
「先輩……あっ!!」
「いけない。古館君。声を上げたら気づかれる……」
「で……でも……そんなこと……無理……」
「じゃあ、こうしていよう」
えっ?とゆるゆると顔を上げた私の唇は、優しく塞がれていた。
それは、私にとって初めてのキスだった。
スネークとの悪夢の中、確かにあの男は執拗に私の身体を弄んだが、なぜか唇だけはその餌食とはなっていなかった。
神様がひとつだけ、たったひとつだけ私に慈悲を与えてくれたのかもしれない。
せめてファーストキスがあなたで……良かった。
「……んっ……先輩……」
求め続けた先輩の唇は、この上なく甘く切ない味がした。
*
月明かりの差し込む寝台では、小鳥のように震える古舘和己のシャツのボタンを、高城一輝はゆっくりとひとつひとつ外していく。
「は、恥ずかしいです……僕……」
そう呟くと、和己は顔を背けた。
まだ成熟しきっていないような彼の白い身体は、未完成のオブジェのように、どこか危うげな儚さがあった。
そこに埋め尽くされた無残な痕。
当初、花びらのように美しかったそれは、今や変色し、彼の身に起こった悲劇を伝える残像となっていた。
後輩の滑らかな肌を埋め尽くすこの残響は、一輝にとって罪の証しだった。
巻き込んではならないはずの後輩を、巻き込んでしまった自分自身の罪への。
そのひとつひとつが、一輝を非難するように波打つ。
一輝はほうっと長い息を吐くと、決意したようにその肌に口付けた。
感じた事のない刺激に「あっ……」と声を上げ、身悶えた後輩の手をしっかりと握り締める。
そのひとつひとつに優しく口付けていく。
ーーーー浄化して欲しい。
そんな後輩の願いに答えるために。
その度に、和己は小さく声を上げた。
その可愛らしい声は、次第にボリュームを上げていく。
「いけない。古館君。声を上げたら気づかれる……」
「で……でも……そんなこと……無理……」
彼は涙ぐみながら、一輝を見上げた。
無理と言いながらも、必死に声を押し殺そうとしている後輩の姿は、ひどくいじらしい。
「じゃあ、こうしていよう」
一輝は和己の声を封じるように、口付けた。
「んっ……」
ゆっくりと舌を絡めようとしたが、和己は勝手がわからないのだろう。一輝の舌には和己の歯が当たり、痛みが走った。
だが、一輝にはそんな和己が可愛らしく思われた。
同時に、この純粋な後輩を本当に自分が抱いてもいいのか。
この行為が本当に和己を救うことになるのか。
そんな迷いが去来する。
一輝はそんな想いを振り払うかのように、再び舌を絡めた。
和己もまたそれに従うように自分の舌を絡める。
一輝の指先に力が篭っていく。
「あ…んっ……」
和己が薄っすらと目を開けた。
自分を映す後輩の瞳には、今までとは違う何かが宿っていた。
そんな瞳を見据えながら、一輝は思う。
恐らく、今の自分の瞳も変わっているのだろう。
「先輩」「後輩」という今までの関係ではない視線をクロスさせると、二人は一層激しく唇を求めあった。
「んっ……んんっ……」
『お前のことは、俺が守る』
一輝は、はっとして唇を離していた。
見下ろすと、突然止まった行為に、不安げな眼差しで自分を見上げる後輩の姿があった。
「せ、先輩……?」
まだ夢現を漂うような和己が、不安げな声を上げた。
「駄目だ……これ以上は……できない」
一輝はそう顔を背けると、和己から身体を離した。
「辛くてたまらない。君を傷つけてしまうことがわかっているから。まるで、心が……軋むようなんだ」
そうベッドに腰掛けた一輝を、そっと身体を起こし和己は見上げた。
「先輩……あなたが愛しているのは……僕じゃないんですね」
「すまない……」
「いいんです。わかってました。僕……ずっと。だって、あなただけ見ていたから」
「古館君……」
和己は微笑んだ。
「一度だけの我が儘だって言ったじゃないですか。今だけ。今夜だけ僕を愛して下さい。
そうしたら、僕、あなたの全てを忘れることができるから。今のこの時間を僕に下さい。
僕、傷ついたっていいんです。ただ、この僕の穢された全てを浄化して欲しい。
そして、僕をあなたにあげたいんです。僕はそれだけで、救われる。それだけでいいんです。
あなたの心が欲しいなんて、言わないから」
「だが、古舘君……」
和己は一輝の反論を指で制した。
「先輩……僕は嫌だ。あなたに浄化してもらえなければ、この先、僕はこの穢れた身体のままで生きていくことなんてできない。僕はあなたに今抱いてもらえないなら……」
和己は微笑んだまま、言った。
「この場で舌を噛み切って死にます」
一輝は絶句した。
和己は微笑んだまま、静かに涙を流した。
「ねえ、先輩。今だけ僕を愛して下さい」
そして、幼子がしゃくりあげるように、
「ごめんなさい。先輩。でも、お願い。先輩。僕を助けて……!!」
と泣き崩れた。
「わかった……もらうよ。古舘君……」
一輝は和己の肩を抱き寄せると、再び口付けた。
*
私は卑怯だ。
私はベッドサイドの自分の上着で光るバッジを見遣った。
今の私はこのバッチに相応しくない浅ましい男だ。
でも、今はどんなに罵られたっていい。蔑まれたっていい。
あなたに浄化して欲しい。
あなたに触れて欲しい。
あなたが欲しい。
「あ……先輩。ここも……触って……舐めて…お願い…そして、キスして……」
スネークに触れられたところ、全てを触って、舐めて、キスして欲しい。
そのひとつひとつが、浄化されていくから。
あなたの指先で、唇で、舌で私は生まれ変わることができる。
私の穢れた全てを、消去して欲しい。
彼は私の懇願に答えるように、そこに細い指先で触れ、舐め上げ、口付けた。
ああ、熱い……。
全身が、あなたが触れたところが熱い。
加速していくその行為。
どんどん熱を帯びていく私は、普段は感じられない先輩の激しさに翻弄された。
「ああん……先輩!先輩!めちゃくちゃにして……僕をめちゃくちゃに……し……て……。忘れさせて」
やがて、先輩は私をうつ伏せで寝台に横たえた。そして、私の腰くびれに両手を添えた。
「あ……先輩……」
「古舘君。僕もこちら側からは経験がない。……つらい思いをさせてしまったら、すまない」
「えっ……?」
先輩の初めてが……私……?
こんなに幸福なことがあるだろうか。
確かに私は女ではない。だから、どんなに望んでも、彼の本当の意味での初めてを貰うことはできない。
だが、私は男であることで別の初めてを貰うことができるのだ。
「行くよ。……古舘君…」
「あっ……ああ……!!」
先輩を受け入れ、思わず仰け反った私の背中に、彼は優しく口付けた。
あんなに嫌だった行為が……こんなに……こんなに。
涙でぼやけて何も見えなくなった。
このまま彼の中に溶けて消えてしまいそうだった。
いや、このままあなたに溶けて消えてしまいたい。
「痛くない?古館君……」
「い、いたい……でも、嬉しいです……」
「……ふるだて…く…ん」
「僕、……先輩とひとつになれたんですね」
先輩は私の言葉に答えるように、私の手を強く握り締めた。
「……動かすよ。古舘君……」
「あっ……ひ……あっ!!あっ!!せ、先輩!!先輩!!」
ああ、痛い……!!そして、熱い……!!
でも……。
「先輩……すご…い…きもち……い……い」
「古舘君……」
「ねぇ……もっと……強く、抱いて……」
私の懇願通り、先輩は私を強く抱き締めてくれた。
一層深く入り込む彼。
「あっ……ああっ……いい……せんぱ……」
私は幸せだった。
私は今、先輩のものになったのだ。
ずっと見続けていた夢が、今、確かに現実となっていた。
「古舘君……僕はもうこんなに奥まで君を知ってしまった……」
「僕、嬉しいです。あなたに知ってもらえて……」
「古舘君……すまない……出る!!」
やっ!!熱い……!!
先輩の熱い血潮が私に溢れた。
脳天まで痺れるような感覚。
私の様々なものが弾け飛んだ。
いらない。
もう何もいらない。
あなた以外ーー
「あっ!!ああん!好き!あなただけなんだ!ああっ!ああ!」
私は泣き叫んだ。
こんなに嬉しいのに。
こんなに痛いのに。
こんなに繋がっているのに。
こんなに愛しているのに。
この一時が終われば、私とあなたは……。
私は泣きじゃくっていた。
私を見下ろす漆黒の瞳。
ああ、そんなに哀しい目をしないで。
私は馬鹿だ。
あなたを困らせてばかりだ。
強くならなくては、もうあなたにそんな瞳をさせないように。
でも、今だけはーー。
「忘れ……させて………」
何もかも全てを。
そして。
あなたとのこの一夜も。
意識が飛びかけた私の脚に、何かが触れた。
まだ夢の中を泳ぐ私の脚を、先輩が掴んでいた。
「何……?何をするの?先輩……」
先輩は、私の脚を開かせると、無様なまでに反応し続けている私自身にそっと手を差し伸べた。
「やっ!!ダメ、先輩!!そんなとこ……キタナい……」
「……僕は今夜、君の全てを浄化するんだろう?……んっ……」
そこは、その指先で触れてくれるだけで、十分だったのに。
ダメだ。そんなところにキスしたら、先輩の唇が穢れてしまう。
あなたのその唇は、多くの人を導く言葉を紡いできた。
そして、これからも人々の希望となる言葉を放つはずの唇なのだ。
それなのに、こんな……こんなことに使っちゃダメなんだ……。
だが、先輩は私の制止を振り切り、滴る蜜を舐め上げていく。
ーーーー君の全てを浄化する…
ああ、この人はこんなにも責任を感じて……。
ごめんなさい……。
ごめんなさい……!!
私はぺちゃぺちゃと音を立てて私を舐める彼の髪を撫でながら(私はもうどうして良いかわからなかった)、無意味な謝罪を繰り返していた。
その時だった。
あっと声を上げる間もなく、己の熱いものが迸った。
それは、先輩の顔をしどどに濡らしていた。
彼は放心したように、動きを止めていた。
しまった……!!
私は羞恥心で先輩の顔を見ることができなかった。
本当に先輩を汚してしまった。
穢してしまった。
私は悪戯を見咎められた子供のように、泣きじゃくりながら大きく頭を振ると、彼から目を逸らしていた。
どれくらい経ったのか、私は自分を呼ぶ先輩の声に、彼を見下ろした。
そこにいたのは、窓から差し込む月夜に照らされ、キラキラとまるで寒天質な照明をまとった先輩だった。
彼は不思議そうにそのぬらぬらとした粘液に塗れた両手を見つめていたが、やがてそれをぺろりと舐めた。
そして、その視線をゆっくりと私に向けた。
「古舘君……気持ち良かった?」
その理性を失ったかのように鈍く光る白痴の瞳は、どこか儚げなそれでいて、倒錯的な耽美ささえ感じさせた。
それはまるで、闇に朱く浮かび上がる、夜桜のように。
なんて……綺麗……。
そんな先輩の艶かしさに、私の中の何かが疼き始めた。
たった今、達したはずのそれは、再び熱い何かを滾らせていく。
「ね、先輩もちゃんと脱いで……」
私は自分だけでなく、先輩にも気持ちよくなって欲しかった。
彼の寝具を脱がせるのも、もどかしい気持ちだった。
露わになった先輩の白い肌。
私の身代わりとなった彼に付けられた傷跡。
それは、私の傷だ。
私はその傷跡に口付けた。
「あっ……古舘君」
「先輩の傷は、僕が癒してあげます。ね?先輩……んっ……」
私たちは、文字通り、互いの傷を舐め合った。
私は先輩を真似て、優しく彼の胸を吸い上げた。
先輩は私の肌から唇を離すと、小さく吐息を漏らした。
彼の白い胸にほんのりと色付いたのは、私自身の愛撫で咲いた初めての華だった。
なんて……綺麗……。
私はそれからは、もう夢中で彼に愛撫していた。
彼の悩ましげな吐息が、私を後押しする。
やや上気して、ほんのり桜色に染まる肌。
私の咲かせた花びらが、華麗に咲き誇る肌。
あまりの眩さに目眩がした。
やっぱりあなたは「桜」だ。
あの桜。
あの満開の桜なのだ。
なんて……綺麗……。
咲き誇る首筋、肩、胸、背中、そしてーー。
ーーーー『あなたはここで、私を受け入れるのです』
先輩。あなたも、ここで、私を。
私は先輩のなだらかな丘陵を撫でた。
「先輩……僕の……本当の初めて……あなたにあげます……だから、もらって下さい」
私は彼の背中に顔を埋めた。そう。私自身も一緒にーー。
「あっ……!!ああっ!!」
仰け反る先輩の手をしっかりと握りしめた。
彼の背中がガクガクと震える。
私が先輩を感じさせているのか?
夢みたい……。
どうか、このまま覚めないで……。
「あ……古舘く……」
彼は私を飲み込んでいく。受け入れていく。知りたい。もっとあなたの奥がーー。
「先輩……気持ちいいですか?僕の……」
「あっ……ああっ……」
「先輩の中……暖かい……あ、で、でも、これ、どうすれば……」
「ゆっくりでいいから、動かしてごらん……」
「えっ……あ、あの。僕の腰をですか?」
「そうだ……あっ……ああっ……」
私の運動に即して、波打つ彼の滑らかな背中。
そんな彼の背中に、そっと頬を寄せる。
私の下で必死に声を押し殺して、吐息を漏らす彼が堪らなく愛おしかった。
「あ。ヤダ……また出ちゃう……どうしよう……」
「いいよ……古舘君…」
「えっ……?」
「僕の中に出して……いい」
「そんな……僕、先輩のこと、これ以上、汚せません」
「いいから。おいで……」
そう言うと、先輩は後手で私の腰に触れた。
「あ……だ、ダメ……」
「今夜の僕は、君の全てを受け入れる。そうだろう?」
「先輩……」
私は溢れ出る涙と共に、熱いそれを先輩に注いだ。
彼は悩ましげに喘ぐと、シーツをきつく握り締めた。
私はそんな彼の手を自分の手で包み込んだ。
そして、その背中を抱き締めた。
頬を通して感じられる、暖かい先輩の体温、鼓動。
私の全ては今、あなたのもの。
あなたの全ても今、私のもの。
これ以上、何もいりません。
今、この一時だけを、永遠にさせて欲しい。
全てを閉じ込めて欲しい。
あなたのその手で……。
行為の後、先輩は私を優しく抱き締め、そのまま二人は眠りに落ちていた。
明日目覚めたら、私はもう何もあなたに求めてはいけない。
ただの先輩後輩。
ただ、それだけになる。
何も哀しむ必要などない。
今夜のこの温もりが、私の中での永遠になるのだから。
「……先輩。それでも僕はあなたを……」
瞼に白い光が差した。
ゆっくりと瞳を上げる。
どれくらいそうしていたのか。
カーテンを閉め忘れた部屋に徐々に満ちて行く、閃光。
それは、夢の終わりの合図だった。
私は自分に巻きつく高城の腕をそっと解いた。
幸い、彼は深い眠りの中にいるらしく、目を覚まさなかった。
今、彼が目覚めたら。その私の大好きな漆黒の瞳が開かれ、私を見つめたら。
そして、その柔らかな唇が私の名を呼んだら。
私はここを永遠に出ていくことができなくなる。
約束を守れなくなる。
そして……確実に自分が保てなくなる。
一晩だけの我儘。彼はそれを受け入れ、私の全てを優しく包み込んでくれた。
今度は、私がその約束を守る番。それが、私の最後のプライドなのだ。
「先輩……すみません。僕、帰ります」
私は自分の身支度を整え、眠る彼の髪をそっと撫でると、夢の残像を振り切るように部屋を後にした。
*
私の足は自然と自分の城へと向いていた。
今まで目にしたことのない、早朝のビル街は、まるで知らない街のように思われた。
だが、今の私にはその光景は相応しい気がした。
私はそう、今度こそ新しい自分に再生するのだ。
「あの人」に浄化されたこの身体と、「あの人」を断ち切ったこの心で。
古ぼけた事務所のドアに鍵を差し込んだ瞬間、私は異変に気がついた。
鍵が、かかっていない?
まさか、またあいつらに!?
私は思わず、転がるように事務所内に入っていた。
「ふ、ふあ~い。おはようございます。古館法律事務所は今日も通常営業です……って、所長?」
「結菜……?」
寝ぼけ眼をこすりつつ、私を見上げる結菜の姿に、どっと脱力した。
「やだ。あたし、所長待ってて寝ちゃってたんだね。乙女として不覚……所長こそ、朝帰り?もう心配してたんだからね?」
「ああ……悪い」
「何~?朝っぱらから腑抜けたような顔して。もしかして、女の子にでも振られた?あはは」
結菜はそう屈託無く笑うと、大きく背伸びした。
「へえ~?よくわかったな」
「えっ?嘘……」
彼女はなぜだかひどくショックを受けているようだった。私はなんだか愉快になって、
「フラれたよ。綺麗さっぱりね」
と外国人のようにオーバーに首をすくめてみせた。
「所長……」
結菜が絶句したように私を見つめていた。そんなにこのリアクションは、おかしかったのか。
確かに、私がやっても、ぜんぜん様にならないだろう。
それにしても、随分失礼な話だ。
どうしたんだよと軽口を叩こうとした私は、はっとして自分の口を手で覆っていた。
私の頬にはまた熱いものが流れていたから。
「愛してた……愛していたのに……僕は……」
「やだ……泣かないでよ。本当に?本当に……所長、好きな人いたの?」
私は手の甲で、必死に涙を拭うと、
「馬鹿にするなよ。僕だって……そういう相手の一人や二人いたっていいだろ?」
と結菜を睨んでいた。
また結菜に八つ当たりか。
本当に私という男は……この姿形のまま、女々しいことこの上ない。
いつもそんな時、どやしつけてくれるはずの結菜は、私から視線を逸らし、小さく、
「そ、そうだよね。……ごめん」
と言っただけだった。
「結菜……?」
彼女の細い肩は、小さく震えているようだった。
どうしたんだよと私が今度こそ、口にしようとした瞬間、先回りしたように結菜は、声を上げた。
「よ~しっ!!わかった。今日は飲もう?あたしが気の済むまで付き合ったげるから」
「えっ……」
「こんな時は、一晩飲んでぜ?んぶ忘れちゃえばいいのよ。今日は臨時休業決定!!だいたい、こ~んなふぬけた状態の所長、恥ずかしくって、お客様の前に出せないわよ。ほら。決まったら、さっさとお酒買ってくるの。男の子でしょ?」
そう結菜はいつものように朗らかに笑った。
見慣れた所内。
ふと目に留まるデスクに置かれた「所長・古舘和己」という大げさなプレート。
戻れる。
私はここでやっていける。
そう感じた。
私は胸に手を当て、深呼吸すると、
「……ああ。わかった。今日はとことん付き合ってもらうことにするよ」
と笑った。
*
鳥ーー2015年4月16日7時35分 乃木医院
わたしが目覚めると、そこにはお医者様がいらっしゃいました。
まだ頭がふわふわとします。
「お目覚めになられましたか。ご気分はいかがですか?」
「……もう大丈夫です」
「そうですか。……急にフラッシュバックに襲われて、怖かったでしょう?」
わたしは小さく頷きました。
「何か、気に掛かることでもおありですか?」
わたしははっとしました。
「フラッシュバックに襲われたということは、何かそれを誘発する事柄があったはずです。それは、不動さんのことですね?」
やっぱり、先生には敵いませんね。
わたしは正直に答えることにしました。
不動さんとの約束を破ってしまったことも。
「……はい。……先生。不動さんは、悪い人なのでしょうか」
「テレビ、ご覧になられたのですね?」
「……はい。わたし、不動さんとの約束を破りました。悪い子です。でも、不動さん、どうしてわたしにテレビを見たり新聞を読んだりすることを禁止したんでしょうか。それは、不動さんにやましいことがあるからなのではないですか?」
先生は、悲しげな目でわたしを見ていました。
わたしは話しながら、不安で悲しくて、胸が潰れてしまいそうでした。
わたしにとって不動さんは、今の全てだったからです。
もし、不動さんが「悪い人」だったら、わたしは、生きていけません。
「わたし、わたし……不安で、どうしたらいいのか、わからなくて……」
「雪さん。今、あなたが側で目にし、あなたが感じている彼の姿が偽りのない彼の姿です。あなたの目に彼はどう映っているのですか?」
「確かに、不動さん。あまりお話しては下さいませんけど、いつも私のこと、気遣って下さって、とても暖かい方だと思います」
「でしたら、何も心配はいらないでしょう?違いますか?」
先生は、そう細い目を細めて微笑みました。
「そうですね。私、馬鹿ですね。一番信頼できるのは、テレビや新聞ではなくて、自分で感じたことのはずなのに……」
「あなただけではありません。そして、不動さんのことだけではありませんよ。この世の中のあらゆることが、間違ったイメージの偏見に閉じ込められて、残念な結果を生んでいる。そういうことは思いの外、多いものです。悲しむべきことですがね。でも、誰も責められるべきでもない。哀しいすれ違いが生じているだけなのですから」
「そう……ですね。難しくて、よくわかりませんが、きっと、そうなんだと思います」
「ほんの少し、目先を変えたり、立ち止まってみるだけで、その過ちに気がつくこともできるはずなのですがね」
「……先生?」
「失礼。私ももしかしたら、同じ過ちを犯しているのかもしれない。そう、感じてしまいましてね」
「えっ?」
「そう。私も彼も……過去の遺恨に囚われ、大切なものが見えなくなっている……そうなのかもしれない」
「どうされたんですか?先生」
「申し訳ありません。雪さん。今日の診察はお終いです。もう退院してもかまいませんよ。またお会いしましょう」
そうわたしの質問を先生が遮った瞬間、ドアが開いて不動さんが顔を出しました。
「おや。タイミングが良いですね」
わたしは不動さんの顔を見て、とてもほっとしたのですが、同時に申し訳なさでいっぱいになりました。
わたしは不動さんの約束を破ったばかりか、こうして倒れてしまって、またご迷惑をおかけしてしまいました。
わたしは本当に駄目な子です。
「お前の話は終わったのか?」
「ええ。暇を告げたところですよ。では」
そう先生が立ち去ってしまうと、不動さんと二人きり。わたしは泣き出しそうになってしまいました。
「具合は大丈夫か?」
いつものようにサングラス越しの優しい眼差し。
わたしはそれを目にしただけで、涙がこぼれそうになりました。
この人が悪い人なはずありません。
こんなに優しい瞳を持った不動さんなのですから。
「はい。もう退院しても大丈夫だって先生にも言って頂けました」
「そうか」
「不動さん。ごめんなさい。わたし、不動さんとの約束、また破りました」
「そのことか。もういい」
「でも……」
「もういいと言っているだろう」
「……ごめんなさい」
俯くわたしに不動さんの声が降ってきます。
「テレビ見たのか」
「……はい」
「お前も俺を疑うか?」
「えっ?」
わたしは思わず顔を上げていました。
不動さんの声がすごくすごく哀しそうだったからです。
「お前も俺が人殺しだと言うか?」
「どうして?どうしてそんな哀しいことを言うんですか?私、不動さんを信じています。世界中の人が不動さんのことを疑っていたとしても、私は不動さんのこと、信じています」
「雪……もう少し、早くお前に出会っていたかったものだな」
「えっ……?」
「回り出した輪は止められない……。そうだ。俺は悪魔になる。あいつのために……それが俺の誓いだ」
「不動……さん?」
わたしの耳からは、その時不動さんが口にした言葉が、いつまでも離れませんでした。
「高城一輝……俺は、お前を許さない」
*
華ーー2015年4月16日10時24分 TTV報道局
人のまばらな報道局。
惚けたように使用済みの書類をシュレッダーにかける(なんで俺がこんなことまで……)俺の脳内では、あいつのセリフがエンドレスリピートしていた。
『わからないのか?……君の行為は……迷惑なんだ』
どんどん量産されていくこの木っ端微塵の紙くずみたいに、俺の脳内はこのセリフで埋め尽くされていた。
あいつにとって、俺は……やっぱり、迷惑なのか。
あいつと俺の距離は遠すぎる。
いや、俺はただ、あいつとの約束を守っただけだ。
迷惑も何も、あいつはあのままにしておいたら、確実に……。
俺がなんとか自分の行動を正当化しようと無駄な努力を払っていると、
「ちょっと~遠山颯人~。あんた、何アホ面さらしてぼさっとしとるん?」
と、今宮明日香が、相変わらず俺をフルネームで呼び捨てにして仁王立ちしていた。
「あ?なんだよ。アラレ」
「誰がアラレやねん。……定番のツッコミはさておき、あんたには、早速、うちの専属カメラマンとして、気張ってもらわなあかんな」
例の賭けの件か。まだ覚えてたのかよ。アラレ。
「ほな。芸能プロダクション社長・不動充について、ち?っとばかり、うちからレクチャーしたるから、ありがたくお聞き」
「へいへ~い」
俺はシュレッダー予定の書類の束を空き段ボールに放り投げると、自席の椅子に落ち着いた。
「とは言え、不動充は、一年前から芸能プロダクションを立ち上げたってことしかわかっとらん。謎の多い男やね。
で、不動充の前妻は、不動月夜。旧姓・篠宮。苗字聞けばわかるやろうけど、元華族の超が付くお嬢様やで。
そんでな、元々、高城剛三の公設第一秘書だったらしいわ。
これがまた、神々しいまでに綺麗な美女だったらしゅうてな。政界では、ちょっとした有名人だったらしいわ」
「へえ~。で?その月夜って不動のカミさんが不幸にも命を落としたって訳だな?保険金掛けられて」
「ま、平たく言ってまえば、そういうこっちゃね。しかし、芸能プロダクションの社長に元華族出身の美人政治家秘書。何の接点もないやろうに……どないして二人は知り合うたんやろなあ。その辺りもさっぱりわからへん。まして、保険金殺人やで……」
「なあ。事件発生は一年前なんだろう?なんで今頃うちの女王がその事件に目をつけたんだ?」
俺の問いに、アラレのメガネの奥の瞳が光った。
俺はそんな時、いつも思う。こいつも、腐っても記者なんだなと。
「こっからは、うちの憶測やけど、総選挙絡みやないかと思うとる」
「総選挙?」
「そや。この月夜はん。今、総選挙で大活躍中の高城一輝の元恋人言う噂があんねん。美男美女。理想のカップリングやな」
「なんだとっ!?」
俺は思わず、椅子を蹴って立ち上がっていた。
あいつに恋人がいただと……!?
へっ?突っ込む論点が違うってな。わかってるよ。だいたい、なんで俺はこんなに動揺してんのよ。
案の定、アラレのツッコミも炸裂する。
「はあ?なんであんたがそないにいきり立つ必要があんの?」
「あ?い、いや、何でもない……で?」
「続けるで?ま、父親の公設秘書やからな。二人が親密でも別におかしなことはないやろ。ただ、問題はこっからや。月夜が結婚して不動月夜になった後も付き合いがあったらしいから、いわゆる、不倫関係って奴ってこっちゃ」
「何っ!?」
あいつと不倫……一番結びつかないキーワードじゃねぇか……。
だが、俺はふとあの晩の高城のことを思い出した。
あの淋しげな瞳は、そんな苦しい胸中を暗に表していたのかもしれない。
「ま、聖人君子と呼ばれる高城一輝やからな。あくまで憶測の域は出とらん。下手に報道したら、名誉毀損で逆にこちらが訴えられるのがオチやからな。うちの仲間内の芸能記者連中も、手を出しとらんテリトリーや。
火中の栗を拾うような勇気のある輩はおらんってこっちゃな。うちとしては、不動の保険金殺人疑惑と併せて、狙いたいネタやねん。正直、女王のお誘いは、願ってもない申し出やったんよ。
『報道ワイドスクープ』お墨付きであの高城一輝に迫れるんやもんね」
「お前、あのイケメン政治家に憧れていたって訳じゃないのかよ?」
「それとこれとは別や~♪」
そう言うと、アラレはにんまりとした笑みを見せた。
「さいでっか」
「しっかし、相手の不動月夜は今や鬼籍や。インタビューもできへん。死人に口なしってとこやな。ここだけの話やけど、スキャンダルの発覚を恐れた高城一輝が邪魔になった月夜を葬った。そんな噂も流れとるんよ」
「おいっ!!出鱈目言うな!!あいつは……あいつはそんな奴じゃ……」
俺はまた椅子を蹴って立ち上がっていた。
可哀想なのは、俺の椅子だよな。アラレの視線が刺さる。
「は?あんた、高城一輝本人を知っとるような口ぶりやね?」
「い、いや……俺は……政治家に知り合いなんていない。ただ、なんとなく……なんとなくだ」
「ま、あんたの言いたいこともわかるけどな。今の日本国民に高城一輝は殺人者です~って言うてもだ~れも信用せんやろ。だいたいな。誰も直接手下したなんて言うてないやん。天下の高城一輝やで。そういう汚れ仕事を引き受ける組織も当然、存在しとるやろう。なあ?」
「なあ?って、あのなあ……」
「せっかくやから、高城一輝についても教えといたるわ。元々高城家は名門中の名門やからね。高城一輝の兄弟、全員各界で大活躍中やで」
「各界?」
「うん。一輝は四人兄弟の長男やね。下は大学教授が二人。医学博士と薬学博士やったかな?残りの一人は、いわゆるジャーナリストやね。みんな高城一輝に負けへん美人揃いやから、そら話題性抜群やで。ま、大学教授の二人は日本におらんらしいから、意味ないけど。ま、とにかく。あんたはうちの専属カメラマンなんやから、うちの指示通り、バッチリカメラ回してや!!」
俺はそう気合十分のアラレに向かって、盛大なため息をついた。
*
月ーー2015年4月16日11時43分 都内某所
武藤健二は、昨日の高城の第一秘書・楠美香子との打ち合わせの内容を反芻しながら、小走りに歩いていた。
今日の午後から健二は正式に高城の事務所で業務を開始する。
自分に務まるのか、そんな一抹の不安は過るが、自分を信じてくれた高城や、何より瑠璃香のためにも自分は頑張らなくてはならない。
そう自分を奮い立たせて、アパートを出た。
事務所の最寄りは「永田町駅」。そんな美香子の手書きのメモを確認すると、目的の駅まで自分を運ぶメトロの駅へ続く階段へと足を踏み入れようとした。
「よお。どこに出勤する気だ?ケンジ」
その声に、健二はびくりと肩を震わせた。
そして、恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、大久保やその配下の者たちだった。
あくまで榛原剛史の元で、彼の指示に従うだけだった健二は、彼らと直接口を効く機会はなかった。
「あ、皆さん……」
「ケンジ。てめぇ、こないだは、よくもやってくれたよな?」
「あ、あの……すみませんでした。でも、俺……俺、もうこの世界から足、洗いたいんです」
「足を洗うだあ?あははははは!!笑わせるぜ」
大久保と男たちは、爆発するように笑い声を上げた。
健二の背中に嫌な汗が流れる。
「てめぇなあ。そう簡単に問屋が卸すと思ったら、大間違いだぜ?」
「えっ?そ、そんな。俺、まだ、組に入れてもらえてないし……」
「はあ?さんざん榛原と組んでいろいろやっといて、組に入ってませんから今日からカタギになりますだあ?馬鹿野郎。てめぇだって、所詮、気取ったって、同じ穴のムジナなんだよ」
他の男が健二に近づくと、
「簡単に落とし前ってもんがつけられると思ってんのか?ああっ?」
と彼の襟首を掴んだ。
「や、やめて下さい……お、俺、もう……」
「ナマ言ってんじゃねぇよ。ああ?」
男は健二を突き飛ばした。
「うあっ!?」
健二は、道路へ派手に転倒した。
そんな彼の鳩尾に、熱い衝撃が走った。
「げほっ!?」
道路にうずくまる健二の身体の頭部、背部、腹部と至るところを男たちの攻撃が襲う。
「ほら。ケンジ。いいじゃねぇか。最後のご奉仕にサンドバックにな?ははは!!てめぇには、それがお似合いだよ!!」
大久保は、健二の元に歩を進めると、痛めつけられる彼を見下ろした。
「落とし前っつったら、やっぱり『指』だよな?」
唇の端から血を流しながら、健二は虚ろな目を上げた。
「ゆ、指?」
「一昔前だったら、切り落とされてたんだぜ?折られるだけなら、まだマシだろう?まずは一本目だ。そらよっと」
大久保は健二の左手を取ると、なんのためらいもなく、その小指を捻じ曲げた。
鈍い音がして、健二の指に激痛が走った。
「うあああああああああっ!?」
その頃、高城の事務所では、楠美香子が時計を何度も見上げていた。
「武藤君、まだかしら?」
御厨愛里沙も心配げに、
「ええ。携帯に連絡してみても、通じませんよ。初日から無断欠勤ですか?彼、そんな風に見えませんでしたけどね?」
と受話器を置いた。
「どうしたんでしょう……何かあったのかしら」
*
華ーー2015年4月16日13時10分 都内某所
消えないリフレインに悩まされながら、昼飯のための店を漁っていると、俺とは無縁な花屋の店先に、見知った顔を発見した。
「君は……雪ちゃんか?」
「あ、遠山さん!!」
不動雪はそう声を上げると、この花々に負けない可憐な笑顔を返した。
「この花屋で働いているのか?」
「はい。私、少しでも不動さんに恩返ししたくて……このお花屋さんでお世話になっているんです」
「そうか」
不動に恩返しか。
この子にとっては、不動はまさに恩人なのだろう。
だが、その不動が保険金殺人疑惑で世間を騒がせている。
そのことを知ったら、この子は一体、どう思うのだろうか。
「不動さん……たくさんテレビの取材とかに追いかけられているんですね」
「あ?ああ……そのようだな」
知ってしまっていたのか。
俺はなぜか、どうしようもなく胸が痛くなった。
この子にだけは、知られてはならない。
そんな気がしていたから。
「これ……どうぞ」
「えっ?」
俺の鼻先に、彼女自身のように可憐な赤いスイトピーが差し出された。
「遠山さん、約束、守って下さっているんですね」
「約束?」
「はい。あの、初めてお会いした日、私、言いましたよね。私のこと、秘密にしておいて欲しいって。
きっと、私が不動さんの居候だって知られたら、テレビの人たちに放っておかれるはずないですもの。
でも、今、私は静かに暮らしています。それは、遠山さんがちゃんと私との約束、守ってくれているって証拠なのでしょう?だから、そのお礼です」
「ああ、まあな」
「ありがとうございます。私、本当に感謝しているんです。今の私、不動さんとお医者様の先生と遠山さんしかいないから」
「お医者様?」
「はい。不動さんのお友達のお医者さんです。とても優しい方です」
「そうか。良かったな」
俺がそう微笑み返すと、彼女は
「……あの、今日、うちに来ませんか?」
と上目遣いで言った。
「えっ?」
「今日、不動さん、お泊まりで帰って来ないんです。不動さんがいたら、誰かを呼んだことがバレたら叱られてしまいますが、今日なら、お礼にごちそう作って遠山さんのこと、お招きできますから。私、お料理得意なんですよ。遠山さんのお口に合うかわかりませんけど」
そう言うと、雪は頬を染めた。
「って、それはマンションに二人っきりってことか?……おいおい」
俺はこの子にとって、人畜無害な存在なんだろうか?
いや、この子にとっては、俺も不動もその医者も、世界中の男全員が「いいひと」にしか見えていないのだろう。
「ありがたい話だが、そいつはまたの機会にしようぜ?」
「そうですか?何かきちんとお礼がしたかったのに。……残念です」
しょんぼりした少女の顔を見ると、なんだか「惜しいことした」って感じだが。
いや、これでいいんだ。これで。
最近、俺、自分の理性に自信が持てなくなってきたからな。
あいつのせいで……。
あいつ……今、何してんだろうか。
「遠山さん?」
「あ?ああ、悪い。なんでもないんだ。じゃ、俺は行くぜ」
「はい。また来て下さいね。私、待ってますから」
「ああ。じゃあな」
無邪気な笑顔をバックに、あのリフレインが木霊する。
『わからないのか?……君の行為は……迷惑なんだ』
「あいつ……くそっ……あの馬鹿。なんだって、いきなりあんなこと……」
*
月ーー2015年4月16日13時45分 都内某所
「ケンジ……ケンジはどこだ?」
榛原剛史は、大久保たちに詰め寄っていた。
昼過ぎ頃、様子が気になり健二のアパートを訪ねてみたが、もぬけの殻だった。
あの議員のところにでも行ったのか?
そう思い、遠目で奴の事務所を張り込んでみたが、そこに健二の姿はなかった。
剛史の中で嫌な予感がしたのは、その時だった。
彼は弾かれたように走り出すと、こうして大久保を問い詰めていた。
「知らねぇよ。あんな腰抜け」
「そうだ。ケンジなんざ輩の名前、聞いたこともねぇなあ?」
剛史は、自分の「同僚」たちを睨め回した。
「嘘つけ。ケンジのこと、知ってるんだろう?……大久保さん。ケンジのこと、知ってるんでしょう?」
「ああ、さっき会ったばかりだぜ。あいつ、カタギになるって血迷ったことほざいてな」
「カタギに……あいつ……」
剛史は思わず、拳を握り締めていた。
ガキの頃から、どこか押しの弱かった健二。
流されるようにこの世界に入ってしまった健二。
そんな健二が、今、自分の意思でその道から抜け出そうとしている。
剛史は、言い知れぬ熱いものが込み上げてくるのを抑えることができなかった。
「だから、落とし前つけてやったって訳だよ。榛原」
「落とし前?おいっ!!ケンジはまだこの組の人間でも何でもねぇじゃねぇか!!」
「馬鹿か?てめぇは。何年ここで飯喰ってっんだ?足洗うって奴は、それ相当の落とし前つけんのが筋ってもんだろうが」
「何した?ケンジに何しやがった?」
「そんなに知りたきゃ、てめぇの目で見てこい。この裏のゴミ捨て場だ」
「なんだとっ!?馬鹿野郎!!てめぇらのやってることは、落とし前じゃねぇ!!どけ!!」
剛史は思わず、格上の大久保にそんな口を叩いていた。
「やれやれ榛原。お前、どうした?あんな三下一人のためにお前が血相変えるとはな」
「うるせぇよ!!黙ってどけ!!」
「わかったよ。後はお前の好きにすればいい。ま、どうせ、あいつもあんなにボコられて、まともに生きられるか怪しいがな」
そうせせら笑った大久保が道を開けると、剛史は裏口へと駆け出した。
「ケンジ!!ケンジ!!いるか?おいっ!!」
「うっ……ううっ……」
「……!!ケンジ?ケンジか!?」
そこには、大量のゴミ袋に埋もれるように、無残な健二の姿があった。
「ケンジっ!?おい!!しっかりしろ!!」
「あ……兄貴ぃ……俺……げほっ……」
「ケンジ。しっかりしろっ!!死んだりしたら、許さねぇからな!!」
剛史は健二に肩を貸すと、よろよろと歩き出した。
近くの診療所に健二を連れ込むと、剛史は医師に噛みつくように迫った。
「なあ、先生。ケンジ助かるよな?な?」
明らかにその筋のものと思われる相手と患者に、内心、厄介なことになったと感じているのだろう。
医師は顔を逸らしながら、
「正直にお話します。……武藤さん。今夜が峠ですね」
と答えた。
「峠……!?ケンジ、助からないんですか!?」
「あとは、ご本人の生命力次第ということですわ。では」
「そんな……」
医師が消えたドアは、無常な音を立てて閉じた。
取り残された剛史は、ベッドの傍の椅子に崩れるように腰掛けた。
心電図の不快な電子音だけが、その場に響いていた。
「ケンジ。お前はガキの頃から俺の側で俺を助けてくれていたよな。俺がはみ出したら、お前まで一緒に道連れにしちまって……俺な。それだけはお前に詫び入れなきゃならねぇって思ってた」
剛史は深くうなだれたまま、意識を無くした健二の手を取った。
その複数の指には、痛々しく包帯が巻かれている。
『君はこんなところに居ちゃいけない!!』
「本当は俺が言わなくちゃいけない言葉だったな……なあ、ケンジ」
『先輩は心臓が悪いんです!!』
「高城……一輝。あいつ……あいつ……」
*
月ーー2015年4月16日17時02分 御厨医院
夕暮れの御厨医院。
そこでは、甲賀明美の第一秘書・片桐智哉が丁度、御厨院長から処方された薬を受け取っているところだった。
「はい。これが、甲賀明美さん用の風邪薬。御厨スペシャルってなあに?」
「ははは。それは、明美さん用に御厨先生が行って下さる特別処方らしいですよ。なんでも、しつこい風邪でもすぐに吹っ飛ぶとか……ありがとうございます。……新しい看護婦さんですか?」
「ま、そんなところね。うふふ……」
そう言うと、新米事務員・桃瀬莉奈は微笑んだ。
「なんだか、あなたのこと、どこかで……」
「詮索は無用よ。……お大事に」
その頃、医院の玄関ホールでは、御厨院長と医師・乃木庸司が立ち話をしていた。
御厨は午後の休診時間に乃木の訪問を受け、院長室で話し込んだ後、乃木を送るためにここに来ていた。
乃木とは、数年前に学会で出会ってから、互いに経営する医院が比較的近いこともあり、よく行き来する間柄だった。
「今日も有意義なお話ができて光栄ですよ。御厨院長」
「いや、私も君と話をする機会に恵まれて幸いだね。君と私は昔から不思議と意見がよく合う」
「乃木先生、もうお帰りになるんですか?一緒にご飯でもって思ったのに」
乃木の来訪を知って慌てて駆けつけた御厨芳樹が、残念そうに声を上げた。
「芳樹さん。それは嬉しいお誘いですが……またの機会にいたしましょう」
「今度、絶対ですからね」
「ええ。……おや。新しい看護婦さんですか?」
「はじめまして」
莉奈は乃木に対して、ごく自然に初対面の挨拶を行った。
「あ、彼女はなんとトップグラビ……むぐっ!?」
そう切り出そうとした甥っ子の口を塞ぎながら、御厨は答えた。
「彼女は私の遠い親戚の子でね。学校が長期休暇だというので、手伝ってもらっているんだ」
「そうですか。実にお美しい方ですね」
乃木はレンズ越しの細い目をますます細めた。
「そりゃ、そうですよ!!彼女は僕の心の恋人で、トップグラ……うぐうっ!!」
「どうされました?」
「……いや、何でもないんだよ。こら、芳樹。若いお嬢さんに関してあまりペラペラ男が話すものではないぞ」
「では、私はこれで」
「こちらの方、嬉しいこと言って下さったから、サービスに玄関までお送りして来るわ」
莉奈はそう言うと、受付のカウンターから出て、乃木と共に歩き出した。
「ああ、頼んだよ」
乃木と莉奈が玄関を出て行くと、御厨はようやく芳樹の口元から手を離した。
「……ぷっは~!!……ひどいな!!オジサン!!せっかく乃木先生にも莉奈ちゃんの魅力を教えてあげようって思ったのに」
「やれやれ。お前がいては、彼女のことがあっという間に世間に知れてしまうぞ」
「あ、ごめん……僕、嬉しくって、つい……」
「彼女のことを本当に想うなら、今はそっとしておいてやることが大切だ」
「そう……だね。ありがとう。おじさん。僕、彼女に何かしてあげたいって思っているんだけど、何していいのか、よくわからなくって……」
「ま、無理もないだろう。お前だって、まだまだ半人前なんだ。ま、焦らず、ゆっくり考えてみることだ」
「うん……」
外に出て乃木と二人きりになると、莉奈は仮面を外した。
「芳樹君はあなたのファンのようですねぇ」
「まあね。このアタシはトップグラビアアイドルだから、こうしてファンとかち合うっていうのも覚悟してたけど。あいつ、とにかくウザイのよね。アタシのやることなすこと、逐次監視してるっていうか……やりにくくて仕方がないわ」
「でも、言い換えれば、彼はあなたの言いなりな訳です。うまく利用することもできるのではありませんか?」
「……ま、それはそうなんだけど。そういうの、なんか気が進まないわ」
「ご自分を純粋に応援してくれるファンのことを利用することなどできない」
「えっ……?」
「違いますか?」
「べ、別にアタシはそんなんじゃ……ただ、あいつ、なんていうか……とにかくやりにくいのよ!!もうっ!!あ~っ!!イライラするっ!!」
「……よろしいのではありませんか?あなたは自然体のままで」
「……えっ?」
「言われたでしょう。不動さんに『できるだけ嘘はつくな』と」
「えっ?ええ……」
「何もかも嘘で塗り固めては身動きが取れなくなってしまう。あなたも下手な作意など持たずに、彼に接すればいいでしょう」
「わかってるわよ……」
「総選挙まで日がありません。あなたにはあなたの役割を速やかに遂行して頂かなくてはならない。そう。高城一輝が殺人者であるという証拠をあなたには掴んで頂かなくてはならないのですから」
「わかってるってば!!」
「期待していますよ。では」
だが、二人は気がついていなかったのである。もうひとつの人影に。
「一輝先輩が殺人……?……今の人たちは、一体何を……?何を……?」
そう呟くと、もうひとつの影ーー片桐智哉は乃木が愛車で去り、それを見送った莉奈が玄関ホールに消えるまで、その場で息を詰めて立ち尽くしていた。
*
月ーー2015年4月16日20時00分 都内某所
時間通りに指定した部屋に現れた相手に、榛原剛史は声をかけた。
「急に呼び出して……悪かったな」
「どうしたんだい?今日は随分、優しいじゃないか」
そう微笑んだ相手ーー高城は一輝、このカーテンの隙間から差し込む月光に溶けて、消えてしまいそうな儚さを感じさせた。
こうしてすぐに手が届くような距離にいるのに、なんだかひどく遠いところにいるような。
それはやはり、今の自分があの事実を知ったからなのか。
「……ケンジのこと、どうする気なんだ?」
まだ健二の身に起こった。いや、自分の世界が起こしてしまったことについて、剛史は相手に伝えられていなかった。
自分の口からは、とても言えることではなかった。
心の底から健二のことを信じているであろう、目の前の男には。
「武藤君のことか。武藤君にはこれから更正してもらえるように尽力するつもりだ。彼なら立派に期待に答えてくれると思う。
もう二度と君のいる世界に彼は返さない。それとも君はそれを邪魔するのか?」
幾分、非難めいた鋭い眼差し。
透き通るように澄んだ眼差し。
全ての闇を消し去るようなその強い光。
今の俺にとって、その瞳はーー。
眩しすぎる。
剛史はそれを避けるように視線を外すと、答えた。
「馬鹿言え。ケンジが決めたことだ。俺には関係ない」
「榛原君……」
「あいつは命がけで足抜けを選んだんだ。俺はそれを止める権利なんてありゃしねぇさ。俺はな。あいつとは違って、本当の半端もんだよ」
「榛原君?」
「生憎、俺はケンジのようにあの世界から足を洗う気はサラサラない。だが、ケンジの件ではあんたに借りができちまった」
剛史はよれよれの背広の内ポケットから、何かを取り出した。
「それは……」
「あの晩のあんたの醜態のネガだよ」
そう言うと、剛史は素早くベッドサイドのライターを取り、ネガを灰皿に入れ、火をつけた。
ネガは琥珀色に揺らめくと、ゆっくりと溶け出した。
「安心しな。複製はない。これで、あんたは自由だ」
「榛原君……」
「ただ、もう一度。もう一度だけ許して欲しい」
「えっ?」
「あんたを抱きたい気分なんだ。……あんたが欲しい。上手く説明できねぇが……ただ、あんたが欲しい」
そう真剣な眼差しで訴える剛史に、一輝は答えた。
「わかった。……シャワーを浴びてきたい。いいだろう?」
「ああ」
バスルームに消えた高城の背中を見送りながら、剛史はそっと呟いた。
「今夜で最後だ。詩織……悪い。今夜だけ。今夜だけ、お前のこと、忘れさせてくれ」
やがて、バスルームから出てきた高城の身体を、そっとベッドに横たえる。
ベッドサイドの照明を受け、浮かびあがる洗いざらしの髪や、熱を帯びて火照ったその湿り気を湛えた肌が、剛史を素直に高揚させる。
剛史はその黒く揺蕩う髪にそっと触れると、優しくキスをした。
そして、そこから覗く、白い耳たぶを甘噛みする。
「あっ……今夜は本当に……ずいぶん……優しいんだね」
考えてみれば、この男はこの華奢な身体で自分たちに立ち向かってきたのだ。
己の病と闘いながら。
「離したくない……あんたを……」
「榛原君……」
「だがな、あんたを自由にする。それが俺の落とし前だ」
そう言うと、剛史は一輝の首筋に唇を移した。
何かを訴えるように、刻み込むように強く吸い上げる。
「……あっ……榛原君……はぁんっ……あ……」
唇を下降させていく剛史の視界に、白い胸が入った。
この胸の中で息づいている。
心臓という命綱が。
剛史はそこに口付けた。
びくりと反応する一輝の指先を強く握り締める。
死ぬな。死なないでくれ。
俺の前から消えないでくれ。
そんな想いを刻みながら。
彼は必死に口付けていた。
何度も、何度も。
その度に、一輝の濡れた唇から吐息が漏れる。
「は、はいばら…く……」
自分の名を呼ぶ唇を封じると、剛史は己自身を一輝の中へ押し込めた。
もし、己に流れる生命という名のエネルギーをくれてやることができるなら。
この熱いものと一緒に注ぎ込んでやりたい。
「あっ……ぁあっ……ああっ!!」
こんなはみ出し者の自分よりも、この男の方がどれだけこの世界にとって、価値があるのか。
それなのに、神って奴はやっぱりいないのか?
剛史は、あの死にかけた日のことを思い出していた。
あの日、自分は死んだ。
それなのに、こうして生きている。屍のように闇の世界で生きている。
今の自分は、なんなのか。
こんな自分、くれてやる。いくらでもくれてやる。
俺のこのパルスを、溢れ出すパトスを、いくらでも。
だから、どうかーー。
「ああっ!!やっ!!ダメっ!!これ以上……はいらな……」
優しくしてやりたいのに、高まる衝動に歯止めが効かない。
その激しさに耐えきれず、声を上げる一輝を剛史はきつく抱きしめた。
「好きだ。あんたが……あんたのことが……」
「んあっ……榛原君……すまない……僕は……」
「何も言うな。わかってる。俺みたいな半端ものをあんたが気にかける必要なんてない。こうやってあんたを抱いている。ただそれだけで、今の俺には十分なんだ」
「……すまない……すまない。榛原君……」
そう今にも泣き出しそうな顔で繰り返す一輝の唇をそっと塞ぐと、剛史はこの上なく優しく彼の背中を抱き締めた。
*
華ーー2015年4月16日22時45分 都内某バー
「いらっしゃいませ~。って、なんだ。あんただったの。颯人」
俺が来店すると、幼馴染のウェイトレスは、あからさまに落胆の声を上げた。
「だから、お前は毎回毎回、客に向ってなんだよ。その口の利き方は」
「だから、そんな偉そうな口叩くのは、溜め込んでるツケ、ぜ~んぶ払ってからにしてよね」
給料日前の俺にその一言は、深く突き刺さる。
「うっ……可愛くねぇ奴……」
俺たちのいつも通りの問答を静かに傍観していたマスターが、声をかけてきた。
「おい。颯人」
「どうした?マスター」
「いるぞ。天然記念物が」
「は?」
「そうだ。颯人~♪遠い親戚?の綺麗なお兄さん、ご来店中~だよ?」
と、幼馴染はぽーっと頬を染めた。こいつ、ほんと現金な奴……んっ?
「って、おい。まさか……」
カウンターには、鳴り止まないリフレインの相手ーー紛れもなく、高城一輝が座っていた。
「高城!?」
「なんだ。遠山君か」
「なんだ。じゃないだろ?何してんだよ。こんなとこで。あ~あ。またビールか。よっぽど気に入ったみたいだな。下戸のくせに……」
「何をしていようと、僕の勝手だろう」
高城は俺の方を見もしないで、グラスのビールに口付けようとした。
俺は慌ててそれを遮った。
「あのなあ……お前は天下の政治家先生なんだろ?だったら、こんな寂れたとこじゃなくて、政治家らしく、もっといい店で飲むとかあるだろう」
「颯人。お前、言わせておけばなあ……」
マスターはサングラスの上の額に青筋を立てた。
「あ、わりぃ」
「政治家らしい?イコール僕らしいってことかい?はっ。笑わせないでくれ。僕らしさなんて、今の僕には微塵も残されてなどいない」
「高城?お前、何言い出してるんだ?ほら。帰るぞ。またギターかき鳴らされても、今度こそフォローしきれねぇぞ」
俺が腕を取ると、高城はそれを邪険に振り払った。
「離せ。僕は帰らない」
「高城。お前なあ……いいかげんに……」
そう言いかけた俺を、初めて高城はまともに見つめた。
「なぜだ」
「えっ……?」
「なぜ君は僕の前に現れたんだ」
俺の中でエンドレスリピートするその冷たい眼差し。
「君さえいなければ……僕は一人で戦ってこれたのに……」
「高城?」
「君のせいで僕は自分の弱さに気がついてしまった……どうしてくれる?」
「お、おい……そんなむちゃくちゃなこと……」
「僕は君が憎い……いや、こうして言葉通り、君を憎めたら……楽だったんだろうな」
そう視線を落とすと、彼は風のように俺をすり抜け、そのままバーを後にした。
「おっ!?おいっ!!待てよ!!帰らないんじゃなかったのかよ!!」
「こ~ら!!颯人。無銭飲食~!!警察呼ぶわよ!!」
「馬鹿!!見りゃわかるだろ!!取り込み中だ!!ツケにしといてくれ!!」
「あんたのツケなんて、あてになんないわよ!!べ~っだ!!」
「待て。これ、見ろよ」
「あ。ひ~ふ~み~よ?……五万円?今の綺麗なお兄さん置いてったの!?ちょっと、やだ!!多すぎだよ~!!」
「あの馬鹿……」
俺は昔馴染たちの狼狽を横目で見ながら、外へ飛び出した。
高城の華奢な背中は、遥か前方を歩いていた。
奴の背中は、街頭のまばらな夜の街に、今にも溶けて消え入りそうだった。
俺は軽く舌打ちすると、走り出した。
「高城!!待てってば。お前は耳がねぇのか!!コラっ!!」
追いついた俺が思わず、奴の二の腕を掴んだ瞬間。
高城は俺を睨め上げた。
頭上の街頭が、スポットライトのように高城の顔を照らす。
美人だから、睨まれると妙な迫力がある。
「痛いじゃないか」
「あ、悪い……」
「言っただろう。僕には関わらないでくれ。迷惑なんだ」
「あんた、さっき言ったよな。何をしようと自分の勝手だって。だったら、俺だって言わせてもらう。俺があんたに関わるのだって、俺の勝手だ。違うか」
「君は何もわかっていない。僕が……あんな姿を君に見られて……どんな気持ちになったのかも……」
「えっ?」
「君だけは巻き込みたくなかったのに……」
「高城?」
なんて悲痛な目をするんだ?
こいつに一体、何があったというのだろう……。
俺の中の何かが疼く。
「僕は怖い。また自分の失敗で、誰かを失ってしまうんじゃないかと……君にもしものことがあったら……僕は……」
「あのな。高城。俺は過去のお前に何があったのかは知らない。だがな。たとえ、どんなことがあっても、どんな敵が現れても、俺はお前を守る。何度も言わせるなよ」
「遠山君……」
そう俺の名を口にした高城をまっすぐに見据え、俺は言っていた。
「あんたのことが好きだ。愛してる。……あんたの気持ちが知りたい」
不思議なくらい、あっさりと口に出していた。
実際、嘘偽りのない俺の正直な気持ち。
それがこれだったのだろう。
「遠山君……僕は……確かに他に愛している存在がいる」
「……そうか」
答えは、聞く前からわかっていた。
高城がいつも哀しげに俺を見上げ、何も答えなかったのは、俺以外に既に意中の相手が存在していたから。
当たり前か。
彼が俺と同じ想いを持っているはずなどない。
奴は閣僚経験まで持つ政治家先生で、俺はぺーぺーの報道カメラマン見習い。
こいつと俺の距離はありえないくらいに遠すぎる。
そんなこと、百も承知の上だった。
それでも俺は伝えたかった。
伝えずにはいられなかった。
ただ、お前を愛し、そして守り続けたいのだと。
「だがね。僕が愛した存在は、誰かに奪われてしまうんじゃないか……毎日怖くて怖くて……満ち足りたことなんて一度もなかった。だが、君と出会って君という存在を知って、君と過ごすようになって、とても気持ちが落ち着いていることに気がついたんだ」
「高城?」
「誰かに愛し愛されるということが、心の平穏をもたらしてくれるものだとしたら、その相手は、あの子じゃなくて、君なんだと思う」
「えっ……?」
そう当惑の声を上げた俺の目をまっすぐに見据えたまま、高城ははっきりと答えた。
「遠山君。僕も君を愛している」
どれくらいの時が経ったのか。
「嘘……だろ?」
俺はそう放心気味に答えることしかできなかった。
「こんなこと、嘘で言えるほど、僕は洒落モノじゃない」
高城は俺を見据えたまま、答えた。俺を映す漆黒の瞳に吸い込まれそうになる。
俺は高城の髪に手を伸ばした。
「高城……」
「はあ~はあ~っ!!やっと見つけた!!ちょっと、お兄さん!!これじゃ、お勘定多すぎだから!!ね?返すっ!!」
馴染みのダチは息を切らして、万札を俺たちの鼻先に突きつけた。
「この馬鹿が……よりによって、このタイミングかよ……」
俺は一気に脱力して、その場にしゃがみこんだ。
「何よ~。颯人。なんであんたが不機嫌なのよ」
何も知らないダチは、心底訳がわからないという風に、腕組みをした。
「ははは……それは迷惑料だよ。今日の分とこないだの分のね。チップとして受け取って欲しい」
「え?で、でも……」
「いいから、それ持って、とっとと帰れよ」
「な、何よ~!!人を邪魔モノみたいにさ。むかつく~!!」
「実際、邪魔もんなんだよ」
「何よ。あたしがいなくなったら何するつもりさ」
「あ?な、何するって、アレを……コレしてアレする訳でな」
「はあ?あんた、何顔赤くしてんの?意味わかんない」
「ははは。わかった。君の店で飲み直そう。五万円分。それなら、文句ないだろう?」
「何っ!?おいっ!!高城っ!!」
「お楽しみはまた後で。……だろう?遠山君?」
俺はお預け喰らった犬か!!
って、あのなあ。そういうことじゃない。
カラダとか理屈とか、そんなもん度外視で、ただ、あんたを守りたい。
とか言いながら、することはちゃんとする訳だが……って、だから、何言わせるんだ。
「やれやれ……今日はちゃんとしらふで帰って来れたな」
「君の部屋は落ち着くね。こじんまりしていて」
「それはイヤミか?先生」
「ははは。そうじゃないさ。本当に落ち着くんだ。君がいるからね」
「そういう殺し文句を言われちゃ、俺に勝ち目はないな」
俺はそう言うと、高城の顎を取った。
「あっ……もう少し、ゆっくりしてからにしないかい?せっかく落ち着いて……」
「あんたは制限時間付きの身の上だろう?選挙が相手じゃ、シンデレラよりタチが悪いぜ?」
「ははは……そうだね。うん……わかった。君の好きにしてくれてかまわない」
「しかし……こうも素直だと……逆に気持ち悪いな」
「そうかい?じゃあ、こんな感じならどうだい?」
そう俺に流し目を送ると、高城はいきなり俺の唇を奪った。
「……んっ……」
柔らかな唇の感触。なんとも言えない心地よさを感じながら、俺は反撃を開始した。
俺の反撃に、高城が小さく呻いた。
「……あっ……んっ……」
「……やられたら、倍返し。俺のじいちゃんの格言でな」
「んっ!!……君のおじいさんを……恨むよ……んっ…んんっ……」
互いの気持ちを確かめ合うように、そのまま俺たちは長い口付けを交わした。
唇を離すと、少し恥じらうような顔をした高城にぶつかった。
高城は俺を上目遣いで見上げると、そっと視線を逸らした。
ヤバイ……可愛い……。
だから、なんでお前はそんなに可愛いんだよ!!
ベッドに腰掛けると、そのまま高城を膝の上に乗せる。椅子にでもなった気分だ。
背を向ける奴の襟首から覗く頸だけで、俺のビートは最高潮に達していた。
背中から抱き締めたまま、ラフなストライプのシャツに手をかける。
今日はTシャツじゃないのか。
こんなボタンがいっぱいの服は、一言で言うと……面倒だ。
俺が紳士だったら、ひとつひとつのボタンをゆっくり外していきながら、「綺麗だよ」とか睦言を繰り出すんだろうが。
あいにく、相手は確かに掛け値無しに「綺麗」なのは間違いないが、野郎だし、俺は紳士とは程遠い、ただの青二才。
そんな訳で、シャツの合わせの部分に手を差し入れると、力任せに引きちぎった。
小さなボタンが四方に弾け飛んで、消えた。
「遠山君!!僕の帰りのことも考えてくれないと困る……こんなシャツじゃ、帰れないじゃないか」
「じゃあ、帰らなきゃいいんじゃないのか?」
「君はまたそんなことを……あっ……」
シャツを床に放ると、高城の背中に唇を滑り落とす。
思わずのけぞった彼のカラダを、背中から抱き締める。
手探りで肌をまさぐると、胸の突起に当たった。
小さく吐息を漏らした高城の顎を取ると、もう一方の手で胸の飾りを刺激した。
顎の方にやった指先は、やがて唇に触れた。高城がその指先を優しく噛んだ。そして、舌で転がした。
今リードしてるのは、俺の方だぜ?
俺はそんな高城の顎を再び取ると、そのイケナイ唇に口付けた。
「んっ……んあっ……」
この飾りの下で息づくものの生命活動を妨げないように、壊れ物でも扱うように、刺激しすぎないように優しく揉み込んでいく。
高城の身体ががくがくと震えた。
正面を向かせると、可愛らしく突起してきたそれを舐め上げた。
「やっ!!あぁっ!!」
高城は俺の頭を掻き抱くと、可愛らしい声を上げて、大きくカラダを反らせる。
やや長めの前髪がぱらりと溢れ、悩ましげな顔を隠した。
だが、そんな様子が堪らなくしどけない。
ちくしょう……堪らねぇ……。
だから、なんでお前は男のくせにそんなに「せくすぃー」なんだよ!!
そのままベッドに押し倒し、ベルトを引き抜き、ジーパンと下着を一気に脱がせる。我慢できない。まどろっこしいの嫌いだ。
露わになった脚を取ると、俺はその白い太腿にキスをした。
それだけで、奴のカラダはビクリと震えた。
その反応が嬉しくて、俺はそのまま愛撫を続けた。
「はぁん……はぁ……」
こいつは全身が性感帯なんだろう。俺にとってもだが。
だから、何でお前のカラダはこんなに感じやすいんだよ!!
うつ伏せにすると、高城は首だけこちら側に向けた。
やや不安げに揺れる瞳や、濡れた唇から漏れる吐息だけで、素直にそそられる。
お兄さん、頑張っちゃうぞ。
っと、病気のことを考えると、当然ながら、あまり激しい行為はマズイだろうと思う。
そうだ。頭ではわかってる。
でもなーー
吸い付く肌の感覚が、堪らない。
愛撫に力が籠もった。スピードが増す。
だから、なんでお前はこんな肌を持ってるんだよ!!
こんなカラダ相手にセーブするって、拷問だろう?
やべぇ……止まらねぇ……若さって奴に歯止めが効かなくなる。
「これ以上……ダメ……ああっ!!……壊れる……こわ……れ……ちゃう……」
悪い。高城。俺、壊れたお前も好きなんだ。俺の腕の中限定だけどな。
「君は……僕を……殺す気か……あっ!!ああっ!!」
若気の至りだ。骨は拾ってやる。耐えろ。高城。
「あっ……君は……僕を守ってくれるんじゃ……なかったの……か……やっ!!ああんっ!!」
苦しそうに(その何とも悩ましげな顔は、燃料投下以外の何物でもない。しかも、ガソリン級の)喘ぐ、高城にとって、やっぱり、今の俺はお前の「敵」か?
「……っ!!ほんと……お前の中って、気持ちいいよな……」
「何言い出すんだ君は……そんな……恥ずかしいこと……よく言えるな……」
「ほんとのことだから、仕方ないだろう?お前はどうなんだ?俺が中にいるご感想は?」
「……そんなこと、答えるとでも……思っているのか?」
「聞きたいね。模範的な回答を頼むよ。先生」
「やっ!!激しいっ……はげしすぎ…る……ああっ!!わかった……答える……僕も気持ちいいっ……君がいてくれて……気持ちい……い」
「はい。よくできました」
「……はぁん……あっ……あっ!!あっ!!ああんっ!!」
突き上げる度に、上がる可愛らしい声。
その口からは、意味のある言の葉が消えていた。
そして、その瞳からは、いつもの理知的な光が消えていた。
ダメだ。これ以上は、さすがに死ぬ。静まれ……鎮まれ……俺……一旦、休憩を挟もう。CMだ。
燃えたぎる激情を抑えるため、奴から視線を外し、(視界にこいつの姿があると、止まるものも止められない)必死の思いで身体を離した。
「高城。喉乾いただろう?水でも飲むか?今、持って来てやるからな。待ってろ……んっ?」
俺の手首が掴まれていた。
それは、高城の手だった。
「どうした?高城」
「やめ……ないで」
「へっ……?」
振り返った俺の目に映ったのはーー
こう、手をグーにしてだな、そんでもって、それを可愛いらし~い口元にやってて、おまけに上目遣いの潤んだ瞳だ。
んでもって、ほんのり上気した頬。
それで、男のくせにグロスでも塗ってんのか?ってくらい濡れた唇な訳だよ。
で。
その濡れた唇から溢れた甘い声が、俺の鼓膜に炸裂した。
「もっと……して」
あ~あ、あ~あ~。
この馬鹿……死にてぇのか!!
って、こないだもこんなノリじゃなかったか?
俺は頭を抱えた。
ダメだ。もうダメだな。
せっかく鎮火したはずだった俺の燻る残り火は、その顔と声だけで再炎上を始めた。
「頼むから、昇天するのは、カラダだけにしてくれよ?」
幼子のように俺を見つめたまま、小さく「うん」と答えた高城に、俺は無意味に「あ~あ、あ~あ!!ちくしょうっ!!」と声を上げると、リクエスト通り、フルボリュームで行為を再開した。
*
フルボリューム2ラウンド目を終え、息の上がった俺は、高城の身体を抱き寄せると、
「初めての晩も……こないだも、お前はいつも傷だらけだったな。今日のは……あの変態野郎か……」
と傷口に口付けた。激しくやらかしちまったにも関わらず、幸いなことに、高城の生命活動は平常通り維持されている。
「……あっ……痛いっ……全てが僕の咎の代償だ。……僕のために消えた命とあの子を抱いた背徳のね」
「高城?」
「一輝でいい。颯人。……名前で呼んで欲しい」
「わかったよ。一輝。お前にこんな辛い思いは決してさせない。俺がお前を守っていく。だから、もうそんな哀しそうな目はするな」
「……うん……あっ!!」
お前の痛みは、今や俺の痛みだ。
お前が血を流す時は、俺も共に傷ついていることだろう。
では、お前が死ぬ時は?
その時、俺は……。
「颯人……君の優しさは……何よりの薬だよ……」
「あんまり無茶するな?身体に悪いだろう?」
「君が……無茶をさせるんじゃないか……あっ……!!あっ!!やっ!!君は言っているそばから……!!ああっ!!ああんっ!!」
それは否定できないな。
惰性や欲望からじゃない。
性別や地位や名誉や生きてきた道のりも、全て俺たちの間には関係ない。
距離さえも軽く飛び越えてみせる。
そうだ。今なら心から言える。
一輝。お前を愛していると。
「思えば、こうして……本当に誰かに愛し愛されたことは……なかった気がする」
そう言うと、一輝はどこか遠い目をした。
「あの子を抱きながら、いつも不安でいっぱいだった。安らぎなんて……感じられなかった。だが、今は違う。君がいてくれるそれだけで、僕は……安心なんだ」
「一輝……」
「もう……思い残すことは……ない」
「馬鹿野郎!!本当に昇天すんなよ!?」
そうだ。俺を残して逝くなんて、絶対に許さない。
俺が絶対にお前を守ってみせる。
死神だろうと誰であろうと、指一本触れさせたりしない。
そう。絶対に……。
「おはよう……っと、まだおやすみか。……寝顔……かわいんだよな……ちっくしょうっ!!」
冷静になって考えてみると、俺はこいつと両想いになったということなのか?
ちょっと、待て。
相手は、あの高城一輝。
あの高城一輝だぞ?
今をときめく政治家・高城一輝と『両想い』……。
一番ありえない展開って奴じゃないのか?
だが、俺の隣には夢でも幻でもなく、高城一輝が眠っている。
「……んっ……」
「うっ!?」
高城の顔を見ることができない……。
ドキがムネムネ……。
って、俺はどこの乙女だ。
「……おはよう。颯人」
高城はそう言うと、朝日に溶けてしまいそうなほど可憐に(やっぱりこの表現しか思い付かねぇ)微笑んだ。
俺はそのまま次のラウンド(何ラウンド目か忘れた)に突入したい気分になったが、社会人の悲しさを噛み締めながら、そんな考えを必死に振り払った。
高城はちゃぶ台の前に陣取り、新聞を広げている。
一方の俺はと言えば、必死にフライパンの中の目玉焼きと格闘していた。
だから、どうして俺が新妻ポジションなんだ?
「できたぞ。ちゃぶ台の上、片付けてくれ。……なあ、一輝。飯の準備は交代制に……」
「やあ。美味しそうだね。ありがとう。颯人」
「うっ……」
負けだ。俺の負けだ。
そんな朝日よりも眩しい笑顔を見せられたら、俺は完敗だ。
「ん?今、何か言いかけたかい?」
「い、いや。何でもない……食おうぜ」
「うん?」
*
鳥ーー2015年4月17日0時52分 都内某ガレージ
世田谷区のガレージ。
そこは不動の昔の自宅だった。
そう。まだ彼のそばに妻がいた季節のーー。
「また、それを眺めていたのですか?」
乃木は琥珀の液体の注がれたグラスを不動の前に置くと、熱心に何かに視線を落とす彼に声をかけた。
それは、赤いカメオの嵌ったピンバッチだった。
「月夜が最期に握り締めていたピンバッチ……見誤るはずがない。これは俺が奴に贈ったものだ。全ての証拠が、あいつが……高城一輝が本ボシだと告げている」
不動の脳裏に妻の最後の電話の声が蘇る。
ーーーー『助けて……あなた……一輝君が……もう彼は私が知っている彼ではなくなってしまった……彼は悪魔……悪魔に魅入られ……うっ……ううっ……わたしは……彼に……殺される』
「一輝は当時、入閣前のデリケートな身体だった。あらゆるスキャンダルが奴にとっては許されないものだった。あいつの野望のためにな」
「野望のためですか……しかしね。私は未だに信じられないのですよ。あの青年が、あんなにも非情な行いをしたとは……」
不動はグラスの中身を一気に呷った。
「人間は己の野心のためなら、悪魔に魂を売る。俺はそんな人間を嫌というほど見続けてきた。騙されるな。……あいつは美しい悪魔だ」
*
月ーー2015年4月17日0時54分 都内某所
片桐智哉は、深夜のハイウェイを疾走していた。
行く宛もないドライブ。
もう休まないと明日(いや、もう今日か)の業務に差し支える。
だが、今自宅のベッドに潜り込んだとしても、一睡もできそうにないことを智哉はよくわかっていた。
静かな興奮が彼を包み込んでいた。
殺人……。
それはあの男ーー高城一輝とは一番結びつかないキーワード。
だが、同時に智哉は考える。
そうだ。「穢れた」あの男には、むしろそれは相応しい罪状なのではないかと。
なぜなら……。
智哉は、そっと留学時代に記憶を飛ばした。
一足先に留学をしていた高城。そして、その傍らにいた、世にも美しい少女。
ある日、彼は言った。
『僕は彼女と結婚したんだ』
智哉は、その一言に耳を疑った。
なぜなら、智哉は留学初日、他ならぬ彼の紹介で、その少女の素性を知っていたのだから。
空港に着いた初日、自分の下宿先よりも先に、何気なく先輩である高城の部屋を尋ねると、その少女が顔を出した。
ひどく戸惑う自分を、彼女は悪戯っぽい瞳で見つめていた。
そう。猫目石のような瞳で。
『先輩。この女性は?』
『ああ、彼女は僕の妹の千鶴だよ。ご挨拶なさい。千鶴』
『はい。お兄様。高城千鶴です。仲良くして下さいね』
高城は当惑する智哉におかまいなしで、そっと左手をかざしながら、自分の薬指を見つめていた。
そこには、銀に光るエンゲージリングがあった。
智哉は、冷水でも浴びせかけられたかのように、身体が震えるのを感じた。
「……狂いだろう。わかっている。だがね、僕は千鶴と約束を交わしておきたいんだ。例え、いつか破られる約束であろうとも、どんなに空しい足掻きであろうとも……」
そのエンゲージリングを愛おしそうに眺める瞳は。
その銀縁の眼鏡の奥の瞳が。
どこか、この世ではないどこかを見据える虚ろな瞳が。
あの日の少女と同じ猫目石のようだったから。
「彼は裁かれるべき男。……悪魔に魂を売った男。……そんな男に明美さんは決して渡さない……そうだ。許されるはずがない……あなたは穢れたエゴイストなのだから」
(略)
ーー「嫉妬」。
invidia.ーー七つの大罪にも数えられるその感情は、比較的ポピュラーな激情の一種であろう。
そして、それらの中では、最も早い段階から人に訪れるものである。
それは、生後6ヶ月~生後1歳前後。主に母親との関係から発露する。
赤子にとって、最小の世界は母との関係である。
母はその子にとっては、世界の全てであり、母を失うということに、何よりも恐れを感じる。
それは、当然のことながら、生命の維持に直結することであり、本能にプリンティングされた必要不可欠な感情である。
だから、赤子は自分の父親であったとしても、母に近づく者を警戒し、嫉妬し、母を求めて泣き叫ぶ。
それが、「嫉妬」という感情の原風景である。
成長するにつれ、世界に広がりが見られると、当然、嫉妬の対象は「母親」だけではなくなっていく。
これも、成長過程にとっての当然の帰結である。
一方、母親の方も嫉妬という激情とは、決して無縁ではない。
ーー 母親は息子の友人が成功すると妬む。母親は息子よりも、息子の中の自分を愛しているのである。
これは、かのニーチェの言葉だが、嫉妬とは一種の「自己愛」だと説明ができるかもしれない。
レヴィアタンに導かれ、激しい業火に身を焼きながら、一方ではそんな自分に酔いしれている。
人間とは、相反するそんな感情さえも、本稿のテーマでもある「快楽」の起爆剤へと摩り替える。
例えば、今回の被験者の一人ーーそう仮にNo.1としておこうか。
この人物の例こそ、まさにこの実験でのうってつけのケースでありーー
(略)
*
私はその晩も愛しい少女を抱きながら、この上なく、幸福だった。
だが、いつも脳裏を掠める不安があった。
それは、この子が私ではない別の男のものになる日が訪れること……。
私との関係が許されない以上、その日は遠からず訪れることは運命として決まっていた。
私は彼女を抱きながら、そんな漠然とした不安に毎晩駆られていた。
「今日ね。姉さんから電話があったの」
私が衣服に袖を通し、眼鏡をかけ直していると、まだ裸のままの少女がぽつりと呟くように言った。
「どっちの?」
「華の姉さん。そのあと、大きい姉さんからも」
「ああ、千客万来だね。で?なんだって?」
「そっちでいい人見つけたの?って。華の姉さんは、その話ばかり」
「いいひと……ね。こんなことになっているなんて……想像もしていないだろうな」
「……うん」
彼女はそう小さく頷くと、気恥ずかしそうに毛布で自分の白い素肌をそっと隠した。
「で?大きい姉さんは?」
「あのね。私に会って欲しい人がいるって」
「会って欲しい人……?」
「フィアンセ……?っていうのかな?そういう人だと思う」
私はその瞬間、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を感じた。
「今……なんて?」
「えっ?……今度会ってみて欲しいって。お父様からのご伝言らしいの。お父様の学部の後輩の方で、お父様と同じお医者様らしいの。まだ私……そんなこと、ぜんぜん考えられないのに」
「嫌だ……」
「えっ……?」
私は思わず、当惑した彼女を抱き寄せ、きつく抱き締めていた。
「あの……」
「君が他の男に抱かれるなんて……そんなことになったら……きっと僕は気が狂ってしまうに違いない……」
「えっ……?」
「君に許嫁?馬鹿な。許さないさ……。そんなこと、絶対に」
「あんっ……!!」
「君は僕だけのものだ……。誰にも触れさせたりなどしない……」
私はそう言うと、もうめちゃくちゃに彼女に口付けていた。
「やだ……あっ!!いやっ!!怖い……。怖いぃっ!!」
「愛してる。君だけを愛している……他に何もいらない……いらないんだ!!」
「いやあああああっ!!痛いっ!!」
私は悲鳴のような少女の声で、はっと我に還った。
見ると、彼女は小鳥のように小刻みに震え、私を怯えきった目で見上げていた。
「……すまなかった」
私は彼女から身体を離すと、ベッドに腰掛けた。
頭がガンガンと痛んだ。
頭だけではない、心もギシギシと軋むように痛んだ。
ただ私は彼女を愛しているだけなのに。
ただ、それだけなのに。
彼女を愛すれば愛するほど、私は私自身が怖くなる。
コワクナル。
「シャワーを浴びてきなさい。今日は……もう部屋に戻った方がいい。今日の僕はどうかしているんだ」
「嫌」
「えっ……?」
「このまま……もう一度……抱いて?私の部屋は肌寒くて嫌い。だから、私を暖めて」
そう白い腕を絡めてきた彼女に、私は優しく口付けた。
霧の街は今日もまた、氷雨と共に静かに私たちを包み込んでいた。
*
私はその日、いわゆる西海岸に位置するこの街の外れの小さな古びた教会にいた。
私の傍らには、彼女自身のように純白のウェディングドレスに身を包み、白いレースで包まれた少女がいた。
ステンドグラスからの七色の光を受け、佇む彼女のあまりの目映さに、あまりの可憐さに、私はしばらく言葉もなく彼女を見つめていた。
私は洗いざらしの白いシャツに、黒のGパンといったいつも通りの服装だったが。
そう、私は今、ある目的のためにここにいる。
少女と結婚するために。
決して彼女を誰にも渡さないために……。
無駄な足掻きだと言うことはよく解っている。
だが、当時の私には理屈や正論など、どんな意味も持っていなかった。
ただ、彼女を何らかの方法で自分のもとにつなぎとめておきたい。
ただ、その一心だったのだ。
そう。それが真っ向から神の意志に背く所行であったとしても。
見事に銀髪の神父は、声を上げた。
「困りましたな。このままでは、結婚式を挙げることはできません」
私は思わず、はっとして身体が硬くなるのを感じた。
まさか、神父は「知っている」のか?
本来ならば、許されないはずの婚姻だということが。
脇の下から冷たい汗が流れた。
私は自分からあえてその話題は出さないように務めながら、反論した。
「なぜです?こうして指輪も持参しています。それなのに……」
だが、神父の答えは意外なものだった。
「あなた方の結婚の証人が必要なのです」
「えっ……?」
私は自分の懸念が杞憂に終わったことで、ほっとしたが、同時に困ったことになったと思った。
こんな街外れに知り合いはいないし、第一、ここに来る途中も、人っ子一人見かけることもなかったから。
二人だけの事に頭を支配され、そのことに考えが及んでいなかった。
「証人……?そんな……」
私が途方に暮れると同時に、教会内に光が差し込んだ。
外の日差しが差し込む扉から、小さな影が現れた。
それは、一人の少年だった。
まさに、それは天の配剤だった。
「坊や。こっちに来てくれないか?」
私がそう声をかけると、少年はきょとんとした顔で私たちを見上げた。
「お願いだ」
少年は小さく頷くと、ゆっくりと私たちの方へと歩を進めた。
「いいかい?今から君は、僕と彼女の結婚の証人だ。いいね?」
少年は、理解したのかしていないのかわからないが、素直に頷いた。
「よろしいですね。神父様」
初老の司祭は、微笑みながら頷いた。
「私たちは夫婦として、順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、生涯、互いに愛と忠実を尽くすことを誓います」
誓い終わると、私たちは静かに指輪を交換し、誓いの口づけを交わすため、私は少女のレースをゆっくりとめくりあげた。
その時、教会を訪れて初めて、レースのカーテンに閉ざされていた少女の瞳を目の当たりにした。
その瞳は、黒真珠のように暗く揺れていた。
その面には、何の表情も浮かんでいなかった。
緊張しているのか、喜んでいるのか、それとも……?
私はあえて、全ての想いを断ち切るように、誓いの口づけを交わした。
その様子を少年は、興味深そうに見守っていた。
「ありがとう。坊や。これは今日のお礼だよ」
全ての儀式が滞りなく終了し、私がそう少年に50ドル金貨を握らせると、彼は嬉しそうににっこりと微笑みながら教会を後にした。
*
霧の街はその日、珍しく嵐だった。
そんな荒れ狂う雷鳴に後押しされるように、私の行為は加速していた。
骨董品のようなベッドの軋む音と、少女の上げる可愛らしい喘ぎ声。
「愛している……ずっと……ずっと君のことを……」
唸る豪雨は、野獣共の咆哮のようで、見慣れたはずの部屋は、まるで見も知らない暗い森の中を思わせた。
ここは深く暗い森の中、そう獣の住処。
それでいい。
誰も知らない、誰にも知られていない森の奥の奥。
そうこの国では、誰も私たちを「識らない」。
全てが赦される世界。
遠くで獣たちの咆哮がする。ここに理性のある人間という動物など、存在しない。
道徳も常識も何もかもない。
ここにあるのは、ただ互いを求め合う躰だけ。
己自身が獣になったかのような感覚に、理性が急速に低下していくのを感じた。
少女が愛しい、欲しい。
誰にも渡さない。この子は僕のものだ。
汗ばむ肌が吸い付くように互いを求める。加速する。
「あっ…すごい……ああんっ……」
「困った子だね。下の口をこんなに蜜でいっぱいにして……んっ……」
いやらしい音を立てて、少女を味わい尽くしていく。
「み、見ちゃだめ……だ……だめです……あっあ……はぁ、恥ずかしい……あっ……ああっ……や、やめないで……あ……ど、どうしたんですか?」
私はふいに少女から唇を離すと、窓の外に目を遣った。
「ほら。外の雷鳴をお聴き。神様も僕らのこと、お怒りなんだよ」
その刹那、一際大きな雷鳴が、部屋を震わせた。
「いやっ!!怖い!!雷怖い!!どうして神様が怒っているんです?……どうして……?どうしていけないの?仲良しなことは、良いことなのでしょう?」
「僕たちはね。大人になってしまったんだ」
「おとな?」
「そう。だたの仲の良かった、まだ幼かった『あの』僕らの関係にはもう戻れない。こうして……禁断の果実を口にしてしまったから」
「どういうことですか?それがいけないことなんですか?だって、私たち……愛し合っているだけなのに。どうして……?今日のあなたは、なんだか、怖い……」
「きっと、今夜で最後だ……」
そう。私はその夜、言い知れぬ激情の中に身を置いていた。
こうして彼女と肌を重ねることができるのも、今夜が最後になるかもしれなかったから。
ぽつりと漏らした私の言葉に、少女は泣き出しそうな顔を上げた。
「どうして? どうして、そんな悲しいこと……?」
「明日から新しい下宿人が増える。それはーーわかるだろう?」
「どうして?何がいけないんですか?私たち、仲良くしているの。仲良くすることは、何も悪いことじゃないわ」
「言っただろう?僕たちは赦されないんだ。だがね。僕はもうそんなこと、どうでもいいんだ。
君は永遠に僕のもの。僕だけのもの。他の誰にも渡しはしない……。
君が他の男に抱かれるなんて……そんなことになったら……きっと僕は気が狂ってしまうに違いない……」
「あっ……ああっ……あ……」
私はそう言うと、彼女の左手の薬指で光るリングに口付けた。
そして、彼女を抱きながら、文字通り、堕ちた。
その深い深い闇の世界へーー。
*
翌日、嵐の後の快晴に照らされた私たちの下宿は、にわかに賑やかさを増していた。
荷物を運ぶ運送業の男たちが、せわしなく階段を行き来している。
そう。今日から新たな下宿仲間が増えるのだ。
そして、その下宿する仲間は、私もよく知っている人物だった。
「お久しぶりです」
そうにこりともせずに顔を出したのは、左近風魔だった。
風魔は元々アリゾナの某大学の医学部に在籍しているが、ロングバケーションを契機にこちらの大学に一時的に籍を置くことにしたらしい。
私たちは久しぶりの再会を喜び合った。
「歓迎するよ。風魔。長旅ご苦労様。疲れただろう? 今、あの子がレモネードを作ってくれているんだ」
そう言っている側から、当の本人がレモネードを載せた盆を手に、奥から顔を出した。
彼女は笑顔をみせながら、風魔の前に冷たいレモネードを差し出す。
「良かった。風魔ちゃんが来てくれて、嬉しい。私、風魔ちゃんがいないと、淋しかった。だって、風魔ちゃんと私は一心同体ですもの。うふふ」
「僕が一緒だったのに、淋しかったのかい?」
「そんなこと、言わないで。ご存じでしょう? 私と風魔ちゃんは、特別なの」
「ああ。わかっていますよ。……ははは」
「相変わらずですね。私も仲の良いお二人に割って入るようで、恐縮ですが」
そう風魔はいつものように、やや呆れ気味に私たちを見つめていただけだった。
風魔の存在に関して、一点だけ問題があった。
それは……。
私は甘えるように唇を求める少女を制した。
「ダメだ。この下宿は壁が薄い。昨晩も言ったが……これからは、残念だが、頻繁に逢うことはできないだろう」
すると、彼女はちょっといたずらっぽい瞳を上げ、私から素早く眼鏡を奪った。
「大丈夫。風魔ちゃんは、早朝から解剖実習ですもの。夕方まで戻らないわ。私だって、風魔ちゃんに知られたら……でも、あなたが愛しいの」
彼女は伸びをすると、私の頭をかき抱き、私の唇を奪った。
風魔の不在。
この情報が私に安堵をもたらしたのか。
私は少女の唇を貪ってた。
やがて、少女の唇は私の首筋、そして彼女によって開かれたシャツの中へと進んでいく。
「あっ……」
滑り落ちる私のシャツ。
少女が私のベルトに手をかけた瞬間。
背後で何かが雪崩落ちるような音がした。
振り返ると、そこには大量の書物を抱えた(その大半は床の上だったが)風魔が、平生の彼女では珍しく、青ざめた表情で立っていた。
私たちのこの惨状を目撃したのだ。無理もない。
私たちは凍り付いたように互いに身動きさえできないまま、見つめ合っていた。
「風魔ちゃん……」
最初にその呪詛を解いたのは、少女の声だった。
だが、風魔は何も答えず、書物を床に投げ捨てると、さっと背を向け駆け出した。
「風魔ちゃん……!!」
半裸のまま風魔を追おうとした少女を制すると、私は慌てて傍らに落ちていたシャツを羽織り、風魔の後を追った。
「待ってくれ……!!待ってくれ、風魔……!!」
私は階段の前で追いついた風魔の腕を取ると、彼女を正面に向かせた。
「話を聞いてくれ。風魔。このことを……家には……」
「言えるはずないでしょう……!?」
振り向いた風魔は、今にも泣き出しそうな悲痛な表情を浮かべていた。
だが、それは本当に一瞬のことだった。風魔は、いつものような能面に戻ると、
「私は……あなた方の行為をとやかく言える立場ではない」
と俯いた。
「僕はね。風魔。生半可な気持ちであの子を抱いた訳ではない。……僕はあの子と『秘密結婚』をした」
「…………!?」
「確かに僕たちは決して許される間柄ではないだろう。それは、百も承知の上だ。だが、僕は、彼女ときちんとした契りを交わしておきたかったんだ」
「…………」
「そう。向こうでは、決して許されない……だから、せめて、こちらにいる間だけでも、僕はあの子を妻としていたい。風魔。許してくれないか。僕とあの子のことを。こちらにいる間だけでも……」
「できない……」
「……風魔」
「私にはできない」
「君も……祝福してはくれないのか。それは、僕と……あの子が……」
「……常識とか、道徳とか、そんな理由からではありません」
「じゃあ、どうして」
「言えません」
風魔はきっぱりと言い切ると、肩に置かれた私の手を振り払い、名の通り、風のように走り去っていた。
風魔がこの件で激情を表したのは、それっきりだった。
彼女は、それからも何事もなかったかのように私たちに接していた……。
私は安堵しながらも、どこか怖かった。
だが、そんな問題を吹き消すような別の問題は、すでに燻り出していたのだ。
*
霧の街は、今日も静かに濡れている。
傍らの灰皿には、草臥れた吸い殻が山のように積まれている。
私は下宿のけぶる自室で、タバコをふかしながら、ただ頭を抱えていた。
あの子が帰って来ない。
そして、彼女のゼミ仲間の証言。
「彼女なら、グレイン教授のところにいるみたいですよ」
グレイン教授は、宗教倫理学の権威で、少女のゼミの担当であった。
彼は男やもめの老紳士だった。
グレイン教授は年齢に似つかわしくなく、大変お洒落な人物で、いつも甘いオーデコロンを愛用していた。
キャンパスでは、二人が親しげに路地を歩く姿が度々目撃されているという。
あまりにも年齢が離れすぎている。
まして、二人は教員と教え子だ。
ありえない。ありえるはずがない。あって良いはずがない。
私はその日の昼下がり、大学のグレイン教授の部屋を訪ねた。
だが、不在だった。
「ひどい有様だな。せっかくの美丈夫が台無しじゃないか」
私は通りがかった友人の戯事を遮り、グレイン教授の行方を訪ねた。
返って来たのは、絶望的な答えだった。
「グレイン教授だったら、今日もあの子と一緒に帰ったようだぜ?仲が良いことだよな」
私は言い知れぬ虚無を抱いて、この下宿に戻った。
何本目なのかわからないタバコに火をつけようとした刹那。
ノックの音が響いた。
私の返答の後、ドアを開けたのは、風魔だった。
「あなたらしくもない惨状ですね」
そう能面は、傍らの台に何かを置くと、室内に入ってきた。
「君にはわからないだろう。僕は自分がこんなにも弱い存在だとは思わなかった。
あの子は今頃、グレイン教授の元で何をしているのだろう。何をしているか……決まりきっているな。
あの子はもう子供ではないんだ。
ああ、どんな顔であの子を待てばいい?あの子が帰ってきたら、どう振る舞えばいい?
わからない。何もわからないんだ」
「あなたはあなたの思うままにあの子と接すれば良いでしょう。これまでと同じように」
「これまでと……同じように?」
「そう。それ以外にあなたはどうしようと?そして、どうされたいのです?
あなたが取り戻したいのは、『今まで』の彼女との関係でしょう?
ならば、そうするより他に道はない。あの子をこれまで通り受け入れる。
それがあなたの取るべき道だ。たとえ、あの子が他の男性に抱かれていたとしても……ね」
私は言葉を無くしていた。
「あの子は良い意味でも悪い意味でも『無邪気』なんです。あなたもそのことはよくご存じのはずでしょう?」
思わず、風魔の肩を掴んでいた。
正面に現れた、流れるような黒髪。雪のような肌。そして、黒水晶のような瞳。
「やっぱり、君にはわからないんだな。人は人を愛すれば、強くなんてなれない。
少なくとも、僕は君のように冷静に考えることなんてできない。君は誰かを愛したことがないのか。
だから、そんな残酷なことが言えるんだ。お願いだ。僕を放っておいてくれないか。
今は……君を見ているのが辛い。この黒髪も、この瞳も、あの子のものじゃないんだから」
私はそう言うと、彼女の肩を離した。
どれくらい経ったのか(実際はほんの数秒だろう)。
「何もご存じないのは、あなたの方だ……」
風魔はそんな呟きを残して、私の部屋を後にしていた。
ふと振り返ると、ドアの近くの台には夕餉が置かれていた。
風魔は、こんな惨状の私のために夕食を作って持って来てくれたのだろう。
「風魔……」
私がそんな夕餉を見下ろしていると、階下で物音がした。
階段を上がってくる靴音。
それは紛れもなくあの子のものだった。
彼女は私の隣にある自室のドアを開け、その中に消えたようだった。
あの子の気配だけが、この石の壁から感じられる。
私はあれほどまでに会いたかったあの子に、会う勇気がなかった。
自分が彼女に対して、浅ましい醜態を晒してしまわないか。
ただ、それだけが気懸かりで。
眠ろう。
眠ってしまおう。
きっと、きっと明日になったら私も変わっているだろう。
だが、どうしようもなくあの子を求める衝動が、私を寝付けさせなかった。
*
「昨日は……すまなかった」
翌日、部屋を訪ね、そう声を落とした私に、風魔はいつもの能面で答えた。
「なぜ、あなたが謝るのです?私はあなたが言う通り、氷柱のような路傍の木石。誰かへの愛情など、微塵も感じたことなどない。あなたを諭す資格などない人間です」
「だが……」
「もうやめましょう。あの子も戻ったようですし、私は少し頭を冷やしたい。あとはお二人で解決なさって下さい」
私はそう言われても、やはりあの子に会う勇気がなかった。
だが、会いたくて会いたくて仕方がないのだ。
私は棚から、林檎酒を取り出した。
未知の味であるそれを含むと、想定通りのひどい吐き気と反転する世界。
たった一杯のシードルにノックアウトされた私は、ベッドに崩れ落ちた。
どれくらい時が経ったのか。
すでに暗色に染められた自室を、ふらふらとする足取りで後にした。
飲めないはずのアルコールの力を借りた私は、隣の部屋のドアノブを回していた。
いつもの通り、鍵はかかっていなかった。
あの子はそう言った面でも無邪気だった。
ベッドには、静かに眠る少女の姿があった。
目覚める気配はなかった。
私がそっと毛布に手を差し入れると、はっとした。
震えているのだ。
なぜ?
彼女は起きているのか?
今、私がこうしてここにいることをちゃんと、わかっているのか。
では、どうして眠ったふりをしている?
何も答えない?
私のことが怖いのか?
私のことが嫌いになったのか?
もう君の心はあの老紳士のもとにあるのか。
猛烈な吐き気と頭痛が私を襲った。
ショックとアルコールの洗礼。
私はクラクラとする頭で、彼女の寝台のそばにしゃがみ込んでいた。
寝台で人形のように目を閉じた少女。
あの老人が、この流れるような黒髪に触れ、この雪のような肌に触れて、この身体を抱いたというのか。
嘘だ。そんなこと。
奪い返したい。
どんなことをしても。
私は痛む頭を振り、寝台に滑り込むと、眠ったふりをし続ける彼女の首筋にキスをした。
びくりと震えた細い肩。
そこにかかるワンピースの肩紐を、ゆっくりと下ろす。
ガンガンと痛む頭。
目を開けていられなかった。
だが、私はその白い乳房に口付けた。
溢れる少女の吐息。
若い私の方が、君を満足させられるはず、させてみせる。
そんな想いを込めながら。
ひとつになった瞬間、少女の黒水晶のような瞳から、そっと一筋の涙が落ちた。
君は僕だけのものだ。
この唇も肌も君を構成するすべては……僕だけの……。
君を奪う者は……どんな人間も……。
……許さない……。
「ちぃ……僕は……君を愛して……」
*
翌朝、二日酔いの私はまったく使い物にならず、一日自室のベッドで横になっていた。
やけに階下の部屋が騒がしいのが、痛む頭を抱えた私には、堪らなく不快だった。
一昨晩、取り戻せたあの子との関係は、まだ「身体」だけだった。
話をしなければならない。そして、取り戻さなければならない。
あの子の全てを……。
私は彼女の自室のドアをノックした。
ドアが開くのと同時に、何かが私の胸に飛び込んできた。
それは、目を真っ赤にして泣きはらした少女だった。
「昨日、お部屋のノックをしても、お返事してくださらなかったから、私、寂しかったの。不安だったの」
昨日の私は階下の音のあまりの煩さに閉口し、睡眠薬を飲んでいたので、気がつかなかったのだろう。
昨日、彼女が私を訪ねてくれていたという事実は、私を幾分安堵させた。
「それに、風魔ちゃんも急にアリゾナに帰るって、昨日出て行ってしまったし」
私は驚いて声を上げていた。
「風魔が……? どうしてそんな急に……?」
「わかりません……私、寂しいの。風魔ちゃんがいなくなって、あなたまでいなくなったらって。怖かったの。心がすごく凍えるみたいに寒い……温めてください」
私はそう唇をせがむ少女を制した。
「話があるんだ。ずっと君が帰って来るのを待っていた。どうして、何の連絡もくれなかったんだい?」
「そんな。ほんの数日、グレイン教授のところにお泊まりしていただけですよ?どうしたんです?」
その無邪気な答えに、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
グレイン教授との不義。
私は本当のところ、やはりありえるはずがないだろうと、心のどこかでは信じていた。
常識的にありえない。
ありえるはずがない。
そう、結局のところは単なる噂話である可能性の方に賭けていたから。
私は愚かな妄想に身を浸し、自らその世界で彷徨っていたにすぎない。
だが、その根底が、いきなり音を立てて崩れ去っていた。
「君は本当に、教授のところにいたのか?」
少女はきょとんとした顔で私を見上げた。
彼女の肩を掴んだ両手は震えていた。
「僕と君は結婚したはずじゃないか?どうしてそんな……」
「私、グレイン教授と仲良くしているだけよ?どうして?どうして、いけないの?」
私は、その瞬間。
「あの日」と同じだと思った。
「仲が良いことは、とても良いことだって、いつも教えてくれていたじゃない?」
「それは……」
言い淀む私の唇を少女は塞いだ。
「やめなさい……!!まだ話は終わっていない……!!」
「寒い。寒いの。温めて……」
「やっ……!!ダメだ。離しなさい!!まだ……まだ……話が……」
「好きよ。あなたが好き……抱いて。ねぇ。抱いて……」
私はそのまま、彼女のベッドに押し倒されていた。
グレイン教授の残り香がそっと薫った。
済し崩し的に行われたいや、行ってしまった行為の後、私は半裸のまま、天井にかかった蜘蛛の巣を見上げていた。
彼女に残された、付けた覚えのない痕と甘いオーデコロンの香り。
傍らの少女は、これからも「無邪気」にグレイン教授と「仲良く」することだろう。
そんなこと、耐えられない。
許せない。許せるはずがない。赦されるはずがない。
私は衝動的に彼女の細い首に手を伸ばしていた。
静かに横たわるこの細く白い首筋を縊りあげれば、この子を永遠に私のものに……。
私のものに……。
その刻。
少女が小さく寝返りを打った。
私はその瞬間、崩れていた。
そして、シーツに突っ伏したまま、哭いた。
できるはずがない。
私にこの子を失う選択肢など。
それならば、別の選択肢が必要だ。
別の選択肢。
それはーーーーー。
*
The San Francisco Examiner 2008年5月7日付け(日本語訳)ーー新聞の切り抜き抜粋(第一審甲第20号証)
6日早朝。自宅からーー大学教授スミス・グレイン氏(69)の遺体が発見された。
氏の死因は、薬物による中毒死。他殺、自殺の両面から捜査が行われている。
尚、氏は宗教倫理の権威でありーーーー
*
その晩。一人の青年が愛車に滑り込んだところだった。
彼はいつものようにキーを取り出すと、エンジンを掛けた。
その時だった。
コンコンという窓ガラスを叩くような音がしたのは。
彼が音のした方に顔を向けると、そこには黒光りする毛皮をまとった一人の少女が不安げな顔をして立っていた。
彼はその少女の顔を改めて、一瞬にして硬直した。
この少女の顔を知らない人間が、この日本に果たして存在するのだろうか?
毎日ブラウン管を通して観ていたその顔が、今、目の前にあるのだ。
彼は目の前で起きている現実がにわかに信じられなかった。
「あ……き、君は……」
「あの……助けて……助けて下さい」
「た、助ける?」
自分がか?と彼は思わず自分の顔を指さしていた。
そもそも何から彼女を「助ければ」良いのか。
彼がそう様々な思いを巡らせていると、少女が切羽詰まった声で悲鳴のように言った。
「お願い!!乗せて!!」
彼は慌ててドアのキーを開け、少女を迎え入れた。
「追われているんです」
「追われている……?君が?」
少女は彼の目を見つめながら、ただ頷いた。
その時、少女の背後のガラスに数名の影が揺れた。
あれが、彼女が追われているという相手なのだろう。
彼は、咄嗟に一計を案じた。というよりは、気がついたら身体が動いていた。
少女の小さな悲鳴と共に、助手席が倒れ、彼は少女の上に覆い被さっていた。
「あの……」
「しっ……。黙って」
やがて、影の気配が感じられた。
その瞬間、息が止まった。
一秒、三秒……?いや、もっと長い間か、はたまた短い時間だったのか、
「ちっ。なんだよ、見せつけやがって」
という投げやりな男の声の後、人の気配がなくなった。
「……もう大丈夫みたいだね。なんとかやり過ごせたみたいだ。驚かしてすまなかった。……えっ?」
今度は彼の方が驚きの声を上げる番だった。
少女が彼に抱き付いてきたのだ。
「あ、あの……君……」
彼はある事実に気がついて、思わず赤面した。
少女が纏う毛皮の下は、なぜか下着姿だったのだ。
彼の鼓動は再び高鳴った。
彼は慌てて彼女から身体を離すと、小さく咳払いをした。
「怖い……怖いんです」
「怖い……?」
彼はできることなら、詳しい事情は尋ねないようにしようと考えていた。
プライベートを追及するのは、彼の本位ではなかった。
だが、それも時と場合によるだろう。
彼はそう思い直し、優しく尋ねた。
「何が怖いんだい?」
「言えません……」
「さっきの男たち?」
「うん。でも……」
「その後ろに……誰かいるんだね?」
少女は、はっとして顔を上げると、泣き出しそうな顔で頷いた。
それで、彼は全てを悟った気がした。
『あの噂』はきっと真実なのだろうと。
「私……もう嫌なんです。誰かに救い出して欲しくて。……あなただったらきっと……」
「えっ?」
今回のことは、単なる行きずりの行動だったのではないのか。
当惑する彼の名を少女は遠慮がちに、「さん」付けで小さく呼んだ。
実のところ、彼と少女はこの晩が初対面ではなかった。
数週間前の某パーティで二人は顔を合わせて名乗り合っていた。
彼は一瞬で少女に瞳を奪われた。
あの瞬間、確かに彼女は自分を見つめていた。
その瞳には、自分と同じようなある種の温かみが感じられた。
それは、気のせいなどではなかったのだ。
「あのパーティで……僕のこと……覚えていてくれたの?」
少女は、力強く頷いた。
「あなたなら、きっと私を救ってくれる……そう思ったから、ここに来たんです。……あなただから……」
「僕だから……?」
もう少女は言葉にならないようだった。
彼はきつく拳を握り締めた。
「お願いします……!!私を助けて下さい」
そう続けて自分の名を呼ばれた瞬間、彼は彼女を抱き締めていた。
彼は全てを覚悟した。
例え、あの人物を敵に回したとしても、例え、この身体がバラバラにされようとも、もう決して、君を離さないと。
*
それは、東京の街に珍しく雪の降り積もった晩のことだった。
不動充は、深夜自宅マンションの駐車場に車を止めると、深々と降り続く雪の中を歩き出した。
「このマンションの唯一の欠陥は、駐車場が外にあることだな」
彼は誰ともなくそう呟くと、白い息を吐きながら、歩を進めた。
サングラス越しに、不動は目を細めた。
古ぼけた街灯の下に、何かがあった。
近づくと、黒猫が蹲っているようだった。
やけに大きな猫だ。
不動の脳裏には、そんな月並みな感想が掠めた。
だが、次の瞬間、彼はようやく異変に気がついた。
黒い毛並みから微かに覗き、月夜の雪に反射してきらきらと輝いていたのは、紛れもなく白い肌だったから。
抱き上げてみると、それは一人の少女だった。
長く黒い髪が零れ、紙のように蒼白な顔が露わになった。
まるで人形のようだと不動は感じた。
それほどまでに少女は精巧な整った顔立ちをしていた。
手袋を外し、頬に手をやると、既に氷のように冷たかった。
先程、彼が少女を猫か何かだと感じた理由がすぐにわかった。
少女はどういう訳か黒い光沢のある毛皮を着ていたのだ。
不動は少女から雪を払ってやっていたが、やがて、はっとして手を止めた。
毛皮のコートの中が、下着姿だったからだった。
彼はしっかりとコートの前を合わせ、その白いレースに包まれた素肌を遮ると、少女の身体を抱き上げた。
取り敢えず、彼は少女を自分の寝室のベッドに横たえた。
雪にまみれたコートは微かに霜を帯び、冷たかった。
このままこのコートを着せていては、かえって少女の体温は奪われていく。
とは言え、一人暮らしの自分に彼女に着せるような衣服などない。
深夜に衣服を調達できるような店もない。
彼はふと思い当たって、クローゼットの奥をまさぐった。
不動は一瞬ためらった後、白い袋の中から女物の衣服を取り出した。
それは妻の遺品だった。
彼はその中から桃色の寝具を取り出すと、寝室へと戻った。
少女の身体を抱き上げ、コートを脱がせると、先程目にした白いレースの下着が顔を出す。
余程長期間、あの雪の中に埋もれていたのか、白いレース一面にもしっとりと霜が降りていた。
不動は少し思案した後、少女から下着も脱がせることにした。
ブラのホックを外す瞬間、少女が悩ましげに小さく吐息を漏らしたので、彼ははっとしてまた手を止めた。
彼は素早く生まれたままの状態になった彼女に寝具をかけると、再びクローゼットの前に行き、同じように妻の遺品から下着を選び出すと、苦心して少女に着せた。
パジャマを着せ、布団をかける頃には、少女を連れ込んで既に二時間が経過していた。
彼は慣れない作業によってかいた額の汗をぬぐうと、一息つく間もなく、電話を手にした。
だが、彼がかけたのは、警察でも病院でもなかった。
*
「で。電話であなたが話されていたのが、こちらのお嬢さんですか」
不動は無言でただ肯定するように顎を引いた。
「まさか、女性を拾ってくるとは……あなたもなかなか因果な方ですねぇ。まして、こんなにもお美しい女性を」
そう言うと、簡単な診察を終えた医師――乃木庸司はすやすやと眠る少女の手を毛布の中に仕舞った。
「拾うも何も仕方があるまい。放っておいてマンションの目の前で凍死されても寝覚めが悪いだろう」
「ま、あなたにしては珍しく……善意に駆られての行動ということですね。実に愉快だ」
「愉快がるのは勝手だが……この少女。どうなんだ」
「軽い打撲痕などは見られますが、見たところ、凍傷の気もないですし……発熱も今のところない。命に別状ないでしょう」
「そうか……」
「気になるようでしたら、私の病院にお連れして精密検査を」
「いや、それには及ばないだろう。お前の診断を信じる」
乃木医師は、ふっと口元に笑みを浮かべると、恭しく礼をした。
「さて……これから、どうされるおつもりです?」
「さあてな。これから追々考えるさ。夜は長い」
そう言うと、不動は大きく伸びをして少女を振り返った。
無邪気に寝息を立てるあどけなさを残すその顔を。
*
鳥ーー2015年4月15日18時03分 不動充自宅マンション
ーーーー『退院おめでとう。今日からお前をここに置くことにした。どの部屋も、好きに使ってくれてかまわない』
ーーーー『は、はい……』
ーーーー『ただし、条件がある』
ーーーー『条件……ですか?』
ーーーー『そうだ。買い物以外で外に出ることは、俺の許可無しには許さん。誰かがこのマンションを訪ねてきても、絶対にドアを開けるな。それと、テレビや新聞を見ることも許さない。守れるか?』
ーーーー『……はい。不動さん』
わたしは今まで、アルバイトの件以外で不動さんとの約束を破ったことはありません。
でも……。
ーー『愛してる。君だけを愛している。あの頃も……今も変わらずに』
ーー『いやああああっ!!不動さああああああああああん!!』
ーー『うあっ……!?』
毎朝、新聞は不動さんが読んだ後は、どこかに処分されてしまいます。
残された手段は、テレビです。
もし、あの男の人が死んでしまっているのなら、きっと、ニュースになっていることでしょう。
あの男の人がどうなったのか。
わたしはいてもたってもいられませんでした。
「不動さん……ごめんなさい」
わたしはそう不動さんに謝ると、テレビのスイッチを入れました。
「こちらは、先日行われた池袋駅前での選挙演説の様子です。いや?。すごい人ですね。やはり、目玉である高城一輝氏効果でしょうかね」
わたしは、思わずテレビの画面に釘付けになっていました。
今、テレビで演説をしている男性。
彼こそ、あの男の人に違いありません。
「あの人……生きてた……良かった……良かった……」
ーーーー『ちぃ……』
柔らかな光の中で、そうわたしを呼ぶ声……。
それはあの綺麗な顔をした男の人?
あなたは……だあれ?
「あの人は……高城……一輝?……一輝……兄様?うっ!!」
どうしたのでしょう。
頭が割れるように痛い……。
カラダの震えも止まりません。
わたしのカラダ……おかしい?
「まるでアイドル歌手のような人気ですねぇ。同じく国民的アイドルのクリス君は、彼のこと、どう思います?」
「そうですね。高城先生って、素敵ですよね。僕もすごく憧れちゃいます。僕、好きです。彼のこと……そう。憎らしいくらいに……」
「えっ?クリス君?」
「あはは。すみません。冗談ですよ」
「クリスさん……不動さんの事務所の人……うっ!!」
片方の瞳が、わたしの好きなエメラルドみたいに綺麗な人。
ーーーー『クリス。今日からうちで預かることになった雪だ』
ーーーー『あ、あのう。はじめまして。雪です』
ーーーー『雪?雪って、君の本名なの?』
ーーーー『い、いいえ。私、名前がわからないんです。だから、不動さんにつけてもらったんです』
ーーーー『へえ。名前がわからない……か。じゃあ、自分がどこの誰だかもわからないって訳?』
ーーーー『は、はい』
ーーーー『そうか。じゃあ、僕とおんなじだね』
ーーーー『えっ?』
ーーーー『SnowWhite』
ーーーー『えっ?す、スノーホワイト?』
ーーーー『そ。よろしくね。白雪姫』
「クリスさん……」
ーーーー『おいで。千鶴……』
「えっ……?」
ーーーー『千鶴。しばらく会わないうちに、随分レデイになったな』
ーーーー『父さん。いけませんよ。いつまでも千鶴を子供扱いしては』
ーーーー『うふふ……そうですわ。千鶴、もうコドモではありませんのよ?』
そう微笑むのは、わたし?
それとも、「千鶴」?
「千鶴……?それは誰?い、いや……怖い……ふ……不動さん……助けて……」
「さて、次の話題に移りましょう。総選挙と同じく巷の話題をさらっていることと言えば、やっぱりコレですよね。じゃじゃんっ!芸能プロダクション社長・不動充氏の保険金殺人疑惑。おっと、クリス君とこの事務所だよね。マズかったかな?」
その瞬間、息が詰まりました。
殺人ーー?
不動さんがーー殺人犯?
「嘘……そんなこと……不動さんは優しい人で……」
どうしよう。
身体が……カラダが……。
ーーーー『雪さん。記憶を失われた後遺症として、これから、もしかしたら、気持ちが不安定になったり、フラッシュバックと呼ばれる現象があなたを襲うかもしれません。その時は、慌てずに私にご連絡下さい。必ずですよ?』
「先生……乃木先生に電話しなくちゃ……」
わたしはふらふらとする頭を抱えながら、電話に向かいました。
わたしはふわふわとする頭で、必死に電話の傍にあった不動さんの住所録から乃木先生の電話番号を探し出すと、その番号に電話をかけました。
「乃木先生……センセイ……」
「はい。乃木医院です。……その声は、雪さんですか?」
「先生……わたし……わたし……」
「雪さん?どうかされたのですか?」
わたしは電話をしながら、背後のテレビに気を取られていました。
「やっぱ、マズかったかな~?このネタ」
「別にかまいませんよ。そんなの事実無根なんですからね」
「ほんとにほんと?」
「当たり前じゃないですか。僕、怒りますよ。もう」
「今日はさ。この辺りの真実を所属アイドルのクリス君に聞きたかったりした訳なんだよね?。愛妻に巨額の保険金をかけて殺すなんて、えげつないですよねぇ?クリス君」
「もう。僕、もう知りませんよ?」
「あっ……痛い……頭が……」
「雪さん?聞こえていますか?私の声が」
「センセイ……助けて下さい。……不動さんが……わたし、コワイ……」
わたしは、一体、何を信じればよいのでしょうか。
「雪さん!?どうされました?雪さん……!?雪さん!?」
*
鳥ーー2015年4月15日18時58分 TTV楽屋
「ひどいじゃないですか。あの話題にするなんて、僕、打ち合わせではぜんぜん聞いてなんていませんでしたよ?」
そう言うと、クリスは頬をぷっと膨らませた。傍の男は、そんなクリスを必死で宥めながら、
「そんなに怒らないでよ~。クリス君。俺もね、ディレクターから言われて仕方なかったんだよ~」
と猫なで声を出した。先ほどの番組の司会者である。
「僕、許しませんからね」
「ははは!!ごめんごめん。次は君の写真集の宣伝いっぱいするからさ。許して。ね?」
「もう。仕方がないですねぇ」
「クリス君のそういう優しいとこ、俺、好きだよ。じゃ、また来週ね!!」
そう逃げ出すように司会者が楽屋を後にすると、クリスは
「……許すはずないでしょう。不動さんを侮辱する輩は僕が許さない……」
と、冷徹な瞳でその背中を見つめていた。
「あ、あのうクリスさん」
馴染みの女性マネージャーが、恐る恐るという感じで声をかけてきた。
明らかに不機嫌なクリスに対しての遠慮がちな態度。
クリスはそのうんざりするほど卑屈な様子に、吐き捨てるように答えた。
「なんだい?マネージャーさん。今日はもうオフでしょう?僕、帰っていいね?」
「それが……お客様です」
「客?僕に断りもなしに勝手に通すのやめてもらえる?いつから君、そんなに偉くなったの?」
「ご、ごめんなさい。でも、その……お客様がお客様なので……」
そうしどろもどろになる彼女の様子に、ようやくクリスは異変を感じた。
「えっ?誰?」
「邪魔するぜ。トップアイドルの楽屋ってのは、やっぱり豪勢なものなんだな」
そうどやどやと入り込んで来たのは、見知らぬ男たちだった。
その先頭に立っているのは、大久保だった。
だが、当然のことながら、クリスはその名を知らない。
「なんです?あなたたちは……」
「不動充には、その昔、世話になった者でね」
「不動さんに?」
「あいつが裁判で俺を有罪にしなければ、俺の前途ってやつもまともだったんだけどよお?」
「裁判……?有罪?何を言っているんだ?あんたっ!?うあっ!?何するんだ?」
「おい、そこのマネージャーのお嬢ちゃんも混ざるか?」
「ひっ!!……ご、ごめんなさい……クリスさん。お、お疲れ様でした!!」
そう言うと、マネージャーは転げるように楽屋から逃げ出した。
「おいっ!!待てよ!!どういうことだよ!?やだっ!!離して!!」
「細い手首だねぇ。坊や。騒ぐとあんた自身のためにならないよ?ほら。誰が来るかわからないだろう?」
「くっ!!」
「これくらい、なんてことないだろう?どうせ、仕事もらうためって名目で、枕とかもやってるんだろう?」
「不動さんはそんなこと、僕にさせたりしないっ!!」
「社長さんを信頼しきってるって訳か?気に入らねぇ」
そう言うと、大久保はクリスの衣装に手をかけた。
「いやあっ!!やめてっ!!」
「やっぱり、アイドルってのは伊達じゃないな。良いカラダしてるじゃねぇか」
「やっ……嫌だっ……」
抵抗するクリスに容赦ない洗礼が浴びせられる。
「うっ!!げほっ!!」
「おとなしくしてろよ。その綺麗な顔に傷つけたくなかったらな」
「うっ……くっ……」
クリスは抵抗をやめた。今の自分の身体は大切な「商品」なのだ。
不動にとっての大切な。
最もこの「商品」に傷つかないためには、どうすればいいのか。
だから、クリスは自分から身体を開いた。
「自分で脱ぐからーー」
そう男たちを制し、自ら衣装を脱ぎ捨てたクリスの身体を目にした男たちは、にやにやと嫌な笑みを浮かべた。
どの目にも淫らな欲情が見て取れる。
変わらない。これまで自分を取り巻いてきたどの人間たちとも。
そう、不動以外の人間は、自分を性の捌け口の「道具」や「商品」としか見ていないのだから。
不動だけが自分を「クリス」として見てくれる。
だから、自分は不動のために「商品」でいられるのだ。
クリスはふっと涙ぐんでいた。
だが、すぐにその涙を飲み込んだ。
こんな見ず知らずの男たちのために自分が涙を流すなんて、プライドが許さなかった。
そう、今や自分は「あの頃」の自分ではないのだ。
芸能界という名の居場所でスターダムを極めた存在なのだ。
ここはステージだ。その大きな鏡に映る自分。
不動が愛してくれるこの躰。
どう?僕、綺麗だろう?
クリスはそう心の中で声を上げると、ポージングを取った。
クリスの目には、もう男たちの姿など写っていなかった。
クリスは笑いかけた。
こいつらはただの「客」ーー「客体」なのだ。
あくまでも、「主体」ーー主導権を握るのは、この僕なんだからと。
クリスが誘いかけるように、振り返ると、男たちは彼を奪い合った。
「アイドルとやれるってのは、なかなかいいな。プレミア感が違うねぇ?」
そう言うと、大久保はクリスの胸の飾りをつまみ上げた。
鋭い痛みがクリスの脳天に響く。
「やっ!!ああっ!!ああっ!!」
クリスは一方の男に突き上げられながら、別の男たちの愛撫の洗礼を受けていた。
彼のありとあらゆるパーツが男たちに汚されていく。
これは現実なんかじゃない。
ドラマだ。虚像なのだ。
こんなの現実じゃない……。
クリスは喘ぎながら、必死に現実を否定した。
「ああっ?上の口が暇そうだな。さぼってないで、ちゃんと俺のしゃぶれよ」
大久保はそう言うと、クリスの髪を掴んで引き寄せ、そそり勃つ己自身を咥えさせた。
クリスは大久保のそれを執拗に舐めた。この上なく、愛おしそうに。
「なかなかうまいじゃないか。おっと。最後までちゃんと処理してくれよ。その可愛いお口で」
これはドラマだ。自分は今、男たちに陵辱される「役」を演じているのだ。
完璧に演じきらなければならないんだ。
「さてと。そろそろ俺からも、くれてやるか。どけ」
クリスの中から男の気配が消えた。支柱を失い、クリスは腰を落とした。
だが、それは束の間の休息だった。
次の瞬間には、大久保が捻じ込んで来た。
「…………………!!」
「どうだ?イくか?」
大久保は、楽屋の畳に叩きつけるように腰を落とした。
「ああっ!!」
痛みでクリスの意識が飛びかけた。
「男の中ってのは、こんな感じなのか?悪くないねぇ」
「うっ…い…いたい……」
「さあ、鳴けよ。泣けよ。お前は不動の大事なタレントさんなんだろう?おら。泣けよ。叫べよ」
「いやあああっ!!いたああいっ!!」
その容赦のない行為に、クリスの中の扉が開く。
それは、封印したはずの過去の地獄絵図。
大久保のせせら笑う顔が、「父親」に重なる。
ーーーー『許して下さい!!お父様!!お父様!!』
戸籍もなく、ただ「あの家」に囚われていた自分。
あの頃の自分は「囚人」だった。
「嫌だ……嫌だ…やめて、お願い。やめて、『お父様』」
「あの家」で、何度その言葉を繰り返し、泣いていたかしれない。
戻りたくなんてない。絶対に。
だが。
今の自分も変わらないのかもしれない。
「クリス」という「商品名」を与えられ、マスコミの監視下に置かれ、台本の通りに笑い、こうして見ず知らずの男たちに辱められても、「商品」の品質を保つため、抵抗さえできないのだから。
今の自分は、芸能界という華やかな牢獄に囲われたーー囚人のまま。
「うっ……うあ……許して……許して……」
「なんだ?」
「もう戻りたくなんてないんだ……あんな地獄みたいな時代には……不動さん……僕には……あなたしか……いない……それでいいんだ。だって、あなたしかいらないんだから……」
そう、違うんだ。
不動さん。あなたがいれば、あなたがいる。ただ、それだけで、ここは牢獄ではなくなる。
「ああ……不動さん……不動さん……」
「あん?こいつ、何言ってんだ?気でも触れたか?」
「んっ……あっ……ああっ……いやっ……そんなに突かないでっ!!あっ!!あっ!!あっ!!」
「すごいな。こりゃ、下手な女よりずっといいぜ?」
「おい、早くこっちに回せよ」
クリスは男たちに弄ばれながら、荒い息でつぶやいた。
その瞳に残酷な光を湛えて。
「こんな現実、いらない……」
*
月ーー2015年4月15日19時27分 社会民政党本部
片桐智哉は、T大時代からの甲賀明美の二年後輩である。
英国生まれで、中学まで向こうで育ち、祖父が英国人のためか、日本人離れした整った顔立ちに金髪がトレードマークで、政界内ではやや浮いた容姿の青年だった。
明美の後輩ということは、同時に高城一輝の後輩でもある訳で、明美、一輝の両名に後輩として可愛がられてきた。
だが、智哉にとって、それは良い意味の思い出ばかりを残した訳ではなかった。
なぜなら、智哉は学生時代から明美のことを愛しており、同時に明美は一輝を愛していたから……。
三人は言わば、先輩後輩であり、「三角関係」だったのだ。
一番智哉が気懸かりなのは、一輝の気持ちが見えないことだった。
一輝は間違いなく明美に対して第一級の信頼を寄せている。
それは、二人がライバル政党に所属し、切磋琢磨している現在も変わらない。
だが、それは明美が期待するような「恋愛感情」とは違う。
いや、明美も一輝も互いに恐れていると言った方が正しいのか。
色恋沙汰により、この三人の関係が壊れることが。
明美も一輝もそのことを知りつつ「逃げている」のだ。
だが、智哉はもうそんな歯がゆい関係は終わりにしたかった。
智哉は一輝に対して宣戦布告してでも、明美に自分の想いを告げたかった。
例え、それが一輝との関係を断絶することになろうとも。
だから、あの晩の光景は、智哉にとって何よりの衝撃だった。
長年の想いの蓄積が爆発した、思いあまっての行動だったのだろう。
振り返った明美の涙に濡れた顔が、智哉の脳裏からは離れなかった。
あの時、どうして自分はあの場に飛び出して、彼女を慰めることができなかったのか。
『あなたを守りたい』。
その一言が言えなかったのか。
自分の不甲斐なさに、智哉は唇を噛んだ。
「どうされました?明美さん」
智哉は、学生時代から明美を親愛の意味を込めてファーストネームで呼んでいた。
それは、彼が大学卒業後、政治家となった明美を秘書として支える立場になった現在も変わらない。
それが、英国帰りの彼らしいやり方であったのと同時に、明美に対しての自分の職務を越えた本当の親愛の意味も密かに含んでという、智哉の精一杯の気持ちからでもあった。
ただ、明美はそのことには気がついていないようだった。
それが、智哉にはありがたいと同時に、もの哀しかった。
こんなにも近くにいるのに、明美が自分の気持ちに気がつかないのは、それだけ彼女が高城に想いを寄せている結果な気がして。
「ううん。何でもないの。いやね。あたしとしたことが……ぼうっとしちゃって」
「大丈夫ですか?熱……あるんじゃないですか?」
「平気よ。ちょっと考え事していただけなのよ……。あっ」
智哉はそっと明美の額に自分の手を当てていた。
「ほら。やっぱり……熱ありますよ」
「やだ……大丈夫よ。大袈裟なんだから……本当に何でもないったら。これくらいの熱。なんでも……」
「強がるのはあなたの悪い癖ですよ。明美さん」
「あのね。あたしは大丈夫だったら!!」
「さ、座って下さい。今、いいもの作ってあげますから。たまには秘書の言うことも聞くモノですよ。甲賀先生」
そう微笑むと、秘書は立ち上がろうとした担当議員を椅子に押し戻した。
明美はぷっと頬を膨らませた。
だが、秘書の運んできたものの良い香りに、思わず釣られていた。
「何?それ」
「ホットレモネードです」
そう答えると、秘書は明美の前に湯気の立つカップを置いた。
「あ、ありがと。……あちっ!!」
「そんなに慌てなくてもレモネードは逃げませんよ」
子供っぽいところがある彼女に、智哉はふっと微笑む。彼はそんな明美が一番好きだった。
「おいしい……」
「でしょう?よく僕の母も僕が熱を出した時は、こうしてレモネードを作ってくれたものです」
明美の様子を満足げに見つめると、智哉は自分の分のレモネードに口付けた。
「……ねえ、智哉君。君があたしの秘書になってくれて、どれくらいだっけ?」
明美は人心地ついたのか、急に別の話題をふってきた。その瞳は何かに思いを馳せるような様子だ。
「四年です。僕は大学を卒業してすぐ明美さんの秘書になったのですから」
「そっか。そうだよね。あたしが初当選してからだから、もうそんなになるんだね」
「ええ。早いものですね。時の流れは」
「そうだね。大学か。政治サークル楽しかったな。智哉君もあの頃はなかなかの論客だったよね。それでさ。よく、一輝君とやりあってたっけ。……そっか。彼もいたんだよね。あの頃から……なんか、変わってないね。今もあの頃と……ただ違うのは、彼があたしの『敵』になっちゃったこと……」
そう言うと、明美はカップにそっと視線を落とした。
「明美さん……」
「あはは。ごめん。なんか、センチになってるね。あたし」
明美はそう快活に笑ったが、長い付き合いの秘書には、それがカラ元気だということがすぐにわかった。
「一輝」の名前が出たことで、智哉の中に言い知れぬ何かが沸き起こっていた。
それは、紛れもない「嫉妬」だった。
こんなに側にいるのに、いつもあなたを見守っているのに。
どうしてあなたの目はいつも彼を追っているのだろう。
あんな穢れた男を。
思わず彼は拳を握りしめていた。
そんな想いが滲み出るかのように、自然と口調が強くなっていた。
「そんな顔はあなたには相応しくない。あなたは太陽のようにいつも明るく笑っていなくては駄目です」
いつもにも増して真剣な様子の秘書の異変に気がついたのか、明美も笑顔を消したまま、ただ、「智哉君……」と秘書の名を呼んだだけだった。
事務所のドアが勢いよく開いたのは、その時だった。
「あら~?お二人さん、なんかいい雰囲気ね。お邪魔しちゃった?」
「えっ!?あ、幹事長!!」
彼女は、天瀬京香。政治家歴20年のベテランで、社会民政党幹事長にして、元党首。
その年齢にしては、背丈が高く、強気そうで端正なエキゾチックな顔立ちと一歩も引かない姿勢から、「鋼の女」と呼ばれる元祖・美人政治家である。
懐が深く、見た目とは裏腹なおおらかな性格で、彼女の人柄を慕う者は多い。
現在は、党首の座を若手の甲賀明美に譲り、自らは幹事長として、明美を支える立場として活躍しており、明美
は彼女を先輩政治家として尊敬すると当時に、第二の母として慕っていた。
「ちょっと~。明美。どうしたの?不抜けた顔して。風邪でもひいたの?大事な選挙戦の真っ最中よ?しっかりなさい。今はあなたが党首なんだから」
そう言うと、前党首は明美の鼻先に人差し指を突きつけた。
「すみません。ちょっと風邪気味なんです」
「ほんとにそれだけ?」
「えっ?」
「国民改新党のこと。気になるの?」
やっぱり、『師匠』には敵わない。
明美は心の中でぺろっと舌を出すと、観念したように肯定の返事をした。
前党首は「困ったものね?」と前置きすると、言った。
「確かに、あたしたち社会民政党は、あなたの同級生のおかげで押され気味だけど、負ける気なんてしないわ。あたしたちにはあたしたちの戦い方がある。議席の数は問題じゃないのよ。大切なのは、どんな仕事をやれるかってことなの。ね?そうだ!!景気づけに今夜、もつ鍋でも食べにいきましょ。あたしが奢ったげるから。風邪なんか、吹っ飛ぶわよ」
「ほんとですか?やった?!!」
もつ鍋が大好物の明美は思わず、ガッツポーズをしていた。
前党首はそんな明美の様子に満足げに頷くと、急にいたずらっぽい表情を向けた。
「ま。あなたが国民改新党のこと、気に掛けるのは、他にも理由がありそうだけど」
「えっ!?な、何言ってるんですか?からかわないで下さいよ!!もう!!」
「あれ~?あたしは何にも具体的なことなんて言ってないけど?明美は何に対してからかわれたって思ったのかしら?もしかして、同級生の君のことだったりするのかしら~?」
「うっ。は、はめましたね……」
「あははっ!!明美、あんたはやっぱり若いわね。いいのよ。あんたのそういうとこ、これからも大切にね。あたしには、もう取り戻したくても戻せないもんだからさ」
明美と智哉は急にしんとして、顔を見合わせた。
「あのね。その哀れむような目、やめてもらえる?こっちだって、あんたよりはちょ~っと上だけど、まだまだ若い気でいるんだからさ。あんたに党首の座は譲ったけど、まだまだ負けないわよ。じゃ、また夜にね。智哉。明美のこと、頼んだよ」
そうウインクすると、前党首はまた勢いよくドアを開け、事務所を後にした。
急に静けさを取り戻した室内。
「ねえ、智哉君。あたし、そんなにひどい顔、してたかな?」
「ひどい……というか、元気はないって感じですね。そんな顔では、有権者の方の不安を煽ってしまうと思います。だから、幹事長もご心配なさってあんなことを……」
「君にも京香さんにも、やっぱり敵わないわね。……確かに、気になって仕方がないのよ。彼のこと」
「一輝先輩のこと……ですか?」
「……うん。そうだ。君、一輝君の留学先でも一緒だったんだけっけ。彼さ、どんな感じだった?イギリスでも相変わらずだった?」
その質問に智哉は、はっとして思わず目をそらした。
「どうしてそんなこと、聞くんです?」
「ただの興味本位。彼、日本では昔から、ある意味有名人だったでしょう?だから、誰も知り合いのいないイギリスで、どんな感じだったんだろうって……」
「どうしてですか?明美さん。彼は……彼は政敵ですよ。そんな相手のこと、気に掛けている場合ではないと思います」
「あたしだって、そう思う。今は選挙戦真っ最中だもの。頭ではわかっているのよ。でもね……彼のこと、考えてしまうのよ」
そう言うと、明美は珍しくため息をついた。
彼女は明らかにペースを乱している。いや、乱されている。
智哉は、あえて知らないふりを装い、軽いノリで明美に問いかけた。
「好きなんですか?彼のこと」
「えっ?や、やだ。そんなんじゃないわよ。京香さんも君もなんか勘違いしてる。あたしはただ、彼は昔からの腐れ縁だから……」
明美は可哀想なほどに狼狽し、耳たぶまで顔を真っ赤に染めると必死に両手を振った。
この上なく、初心で可愛らしい先輩。
穢れない彼女。
なのに、あの男は。
まだ熱いカップを握りしめる。
智哉の瞳に冷たい光が宿った。
「僕は……認めません」
「えっ?」
「彼はあなたには相応しくない」
智哉はレモネードに視線を落としたまま、独り言のように続けた。
「彼は穢れている……」
「えっ?…何?何のことを言っているの?君、何か彼のこと……知っているの?」
智哉ははっとして、明美の顔を見た。そこには、言いようのない懸念が渦巻いていた。
今度慌てるのは、智哉の番だった。
「い、いえ……すみません。忘れて下さい」
「智哉君?」
「あ、明美さん。時間です。演説会場に向いましょう。今、車出してきますから。あと、明美さん。僕、明日御厨先生のところに行って、風邪薬と栄養剤もらってきますから」
「御厨のオジサンとこ?もうっ!!これくらい平気だったら!!大袈裟なの!!」
「いけません。今は大切な時なのですから。何度でも言いますが、秘書の言い分も聞くものですよ」
智哉はそう言うと、車を回すため駐車場へと向かった。事務所を後にする背中を、
「もう……心配性なんだから」
という明美の声が追いかけた。
歩を進める智哉は、キッと正面を見据えたまま、繰り返し呟いていた。
「相応しくない。あの男はあなたには相応しくないんだ。……決して、決して……あんな男にあなたは渡さない。絶対に……」
*
鳥ーー2015年4月15日19時46分 TTV楽屋
クリスは男たちの去った楽屋で、その大きな鏡に自分の顔や身体を写し、ふっと笑みを漏らした。
どこも怪我をしている様子はない。
抵抗しなかったおかげで、衣装も無事だった。
ただ、そこにあるのは男たちに付けられた無数のキスマーク。
彼はまた笑った。
こんなものはすぐに消えるだろうから。
「商品」を守りきったことに、クリスは微かな満足感を覚えていた。
クリスはスマホを取り出すと、不動の元にかけた。
ワンコールで聞き慣れた愛おしい声。
「俺だ」
「ねえ。不動さん。今すぐ会いたいんだ。今、テレビ局なんだ。迎えに来てくれるでしょう?」
「悪い。今は無理だ」
「どうして?今夜は不動さん、僕の部屋来てくれる約束だったじゃない」
「雪が倒れたらしい」
Snow White……?
不動の口から溢れた「キーワード」に、クリスの瞳で冷酷な光が宿る。
「そんなの乃木先生に任せておけばいいじゃないか。不動さんが行ったって、できることなんて何もないじゃない」
「悪い。クリス。急いでいるんだ。切るぞ」
「不動さん!!僕、ずっと待っているからね。不動さんが来てくれるまで……何時になっても……ずっと、ずっと」
不動の声は耳障りな電子音に変わっていた。
「不動さん……SnowWhite……僕より、あの子のために……渡さない。渡すもんか。僕には不動さんしかいないんだから……」
*
鳥ーー2015年4月15日20時15分 乃木医院
診察室で不動充と乃木医師は向かい合っていた。
問題の雪は、別室ですやすやと眠っていた。
「雪は大丈夫なのか?」
「ええ。軽いフラッシュバックに襲われ、混乱してしまったようですね。特に心配を要するほどの症状でもありません」
「そうか……」
「不動さん。……雪さんのことですがね。先日、彼女の記憶喪失の原因を探るため、彼女の脳の検査を行いました。その結果、軽い打撲痕が見つかりました。記憶喪失の原因は、頭部に受けた打撃によるショック性のものだと推測されます。ですが……」
「どうした」
「あなたにお伝えするべきなのか……正直、ためらっていることがあるのです」
「ためらう?なぜだ」
「あなたはあの少女に対して、特別な感情をお持ちではないかと」
「特別?馬鹿な。雪は子供だぞ」
そう不動はサングラスを指で上げた。
「そうですか。あなたならそうおっしゃるだろうと考えていました。……今はあなたの言い分をそのまま飲むことにしましょう。ですが、彼女は私の患者です。守秘義務がある」
「守秘義務……方便だな。お前の言い分もわからないでもない。確かに俺と雪は赤の他人だ。俺という信頼に値しない男には、あの少女の健康上の秘密を聞く権利はない。だがな。今の雪の保護者はこの俺だ」
「あなたは『保護者』として彼女のことを知る権利がある……ということですね。でも、やはりこの話は、彼女の真の身内にも聞いて頂くべき内容です」
「雪は身元がわからないんだぞ。どうする気だ」
「あと一か月。この間に彼女の身元がわからないようでしたら、あなたを真の保護者として、そして、私は主治医として、お伝えしましょう。きっと」
*
鳥ーー2015年4月15日21時02分 クリス自宅マンション
渋谷の高層マンションの最上階。
その一人では広すぎる部屋の一室で、クリスはベッドに突っ伏していた。
その時、鼓膜が微かに音を捉えた。それは間違いなく、鍵の開く音だった。
「不動……さん?」
クリスは合鍵を持つただ一人の人物、その愛する男の名を呟くと、部屋を飛び出した。
リビングに着くと、
「悪い。遅くなったな」
と愛する男がサングラス越しに微笑んでいた。
クリスはその胸に飛び込んでいた。
「不動さん!!やっぱり来てくれたんだね?僕、信じていたよ。信じてた。僕には不動さんしかいないように、不動さんには僕しかいないんだからね」
「クリス……」
「不動さん。抱いて」
「ああ。シャワー浴びてくる」
「いらない。今のままの不動さんに抱いて欲しいんだよ」
異変を察したらしい不動が、心配げに自分の名を呼んだ。
だが、クリスは聞こえなかったふりをして、彼を寝室へと誘った。
「ねえ、来て。不動さん」
ベッドからのクリスの誘いに、不動は黒のトレンチコートを脱ぎ捨てると彼を抱き締めた。
「あっ……不動さん。もっと強く、強く抱いてよ。……落ち着くんだ。不動さんの匂い……ねえ。もうすぐやるんでしょう?」
「ああ」
「莉奈、きっとうまくやってくれるよ。楽しみだね。僕、あいつが泣いても叫んでも、絶対に許さないんだ。不動さんの苦しみ。不動さんの怒り。不動さんの悲しみ。全部全部あいつに思い知らせてやるんだから」
「クリス?どうした?」
「でもね、不動さん。今は僕のことだけ考えて。今は僕のことだけ愛して。ね?不動さん。お願いだから」
「クリス。何があった?」
「いいんだ。あなたは何も知らなくていい。今、こうして僕を抱いてくれるだけでいいんだ。不動さん……愛してる。あなただけを愛してる」
*
月ーー2015年4月16日18時37分 高城家
「わかった……おいで」
そう降り注いだ先輩の声に顔を上げると、真剣な眼差しの先輩が、私を導くように手を差し伸べていた。
先輩は、今、私を受け入れようとしているのか?
本当に?
情けない話だが、私はまた泣き出してしまっていた。
これは、優しさか哀れみか、それとも……?
そんなこと、もうどうでも良かった。
私の告白を聞いて、彼が私に手を差し伸べてくれた。
他に何を望むというのだろう。
だが、私は自分の震える指先を差し出すのを躊躇った。
この手を握ってしまったら、もう後戻りできない。
今までの二人の関係は、本当に壊れてしまうかもしれない。
怖い…堪らなく、恐い……。
一刻の激情に任せて告げたこの禁忌が、私から永遠に彼を奪ってしまう。
そんな気がして。
もしかしたら、この手を取った瞬間、先輩は私の前から消えてしまうかもしれない。
だが、私の熱い身体は、もはや彼を求めて止まないのだ。
彼が欲しくて欲しくて堪らないのだ。
私は本当に意気地のない人間で、最低だ。
きつく目を閉じたまま、恐る恐る彼の方に手を伸ばした。
私の指先が、先輩の指先と触れ合った瞬間、彼は私の手を取り、抱き寄せた。
「僕のせいで、辛い思いをさせた……」
彼はそう言うと、私の髪を優しく撫でた。
優しく僕を包んだ先輩のぬくもり。
あの男に重ねた幻影ではなくて、本当の先輩の……。
決して、夢幻ではない先輩の……。
私は、幼子が甘えるように彼の胸に顔を埋めた。
私を優しくベッドに横たえると、先輩は私の衣服を脱がせた。
「先輩……僕、嬉しいです。本当に…本当に先輩が……」
「古館君。もう少し力を抜いてごらん?」
「は、はい……あのう。先輩……」
「大丈夫。心配しないで。僕に任せて」
「先輩……あっ!!」
「いけない。古館君。声を上げたら気づかれる……」
「で……でも……そんなこと……無理……」
「じゃあ、こうしていよう」
えっ?とゆるゆると顔を上げた私の唇は、優しく塞がれていた。
それは、私にとって初めてのキスだった。
スネークとの悪夢の中、確かにあの男は執拗に私の身体を弄んだが、なぜか唇だけはその餌食とはなっていなかった。
神様がひとつだけ、たったひとつだけ私に慈悲を与えてくれたのかもしれない。
せめてファーストキスがあなたで……良かった。
「……んっ……先輩……」
求め続けた先輩の唇は、この上なく甘く切ない味がした。
*
月明かりの差し込む寝台では、小鳥のように震える古舘和己のシャツのボタンを、高城一輝はゆっくりとひとつひとつ外していく。
「は、恥ずかしいです……僕……」
そう呟くと、和己は顔を背けた。
まだ成熟しきっていないような彼の白い身体は、未完成のオブジェのように、どこか危うげな儚さがあった。
そこに埋め尽くされた無残な痕。
当初、花びらのように美しかったそれは、今や変色し、彼の身に起こった悲劇を伝える残像となっていた。
後輩の滑らかな肌を埋め尽くすこの残響は、一輝にとって罪の証しだった。
巻き込んではならないはずの後輩を、巻き込んでしまった自分自身の罪への。
そのひとつひとつが、一輝を非難するように波打つ。
一輝はほうっと長い息を吐くと、決意したようにその肌に口付けた。
感じた事のない刺激に「あっ……」と声を上げ、身悶えた後輩の手をしっかりと握り締める。
そのひとつひとつに優しく口付けていく。
ーーーー浄化して欲しい。
そんな後輩の願いに答えるために。
その度に、和己は小さく声を上げた。
その可愛らしい声は、次第にボリュームを上げていく。
「いけない。古館君。声を上げたら気づかれる……」
「で……でも……そんなこと……無理……」
彼は涙ぐみながら、一輝を見上げた。
無理と言いながらも、必死に声を押し殺そうとしている後輩の姿は、ひどくいじらしい。
「じゃあ、こうしていよう」
一輝は和己の声を封じるように、口付けた。
「んっ……」
ゆっくりと舌を絡めようとしたが、和己は勝手がわからないのだろう。一輝の舌には和己の歯が当たり、痛みが走った。
だが、一輝にはそんな和己が可愛らしく思われた。
同時に、この純粋な後輩を本当に自分が抱いてもいいのか。
この行為が本当に和己を救うことになるのか。
そんな迷いが去来する。
一輝はそんな想いを振り払うかのように、再び舌を絡めた。
和己もまたそれに従うように自分の舌を絡める。
一輝の指先に力が篭っていく。
「あ…んっ……」
和己が薄っすらと目を開けた。
自分を映す後輩の瞳には、今までとは違う何かが宿っていた。
そんな瞳を見据えながら、一輝は思う。
恐らく、今の自分の瞳も変わっているのだろう。
「先輩」「後輩」という今までの関係ではない視線をクロスさせると、二人は一層激しく唇を求めあった。
「んっ……んんっ……」
『お前のことは、俺が守る』
一輝は、はっとして唇を離していた。
見下ろすと、突然止まった行為に、不安げな眼差しで自分を見上げる後輩の姿があった。
「せ、先輩……?」
まだ夢現を漂うような和己が、不安げな声を上げた。
「駄目だ……これ以上は……できない」
一輝はそう顔を背けると、和己から身体を離した。
「辛くてたまらない。君を傷つけてしまうことがわかっているから。まるで、心が……軋むようなんだ」
そうベッドに腰掛けた一輝を、そっと身体を起こし和己は見上げた。
「先輩……あなたが愛しているのは……僕じゃないんですね」
「すまない……」
「いいんです。わかってました。僕……ずっと。だって、あなただけ見ていたから」
「古館君……」
和己は微笑んだ。
「一度だけの我が儘だって言ったじゃないですか。今だけ。今夜だけ僕を愛して下さい。
そうしたら、僕、あなたの全てを忘れることができるから。今のこの時間を僕に下さい。
僕、傷ついたっていいんです。ただ、この僕の穢された全てを浄化して欲しい。
そして、僕をあなたにあげたいんです。僕はそれだけで、救われる。それだけでいいんです。
あなたの心が欲しいなんて、言わないから」
「だが、古舘君……」
和己は一輝の反論を指で制した。
「先輩……僕は嫌だ。あなたに浄化してもらえなければ、この先、僕はこの穢れた身体のままで生きていくことなんてできない。僕はあなたに今抱いてもらえないなら……」
和己は微笑んだまま、言った。
「この場で舌を噛み切って死にます」
一輝は絶句した。
和己は微笑んだまま、静かに涙を流した。
「ねえ、先輩。今だけ僕を愛して下さい」
そして、幼子がしゃくりあげるように、
「ごめんなさい。先輩。でも、お願い。先輩。僕を助けて……!!」
と泣き崩れた。
「わかった……もらうよ。古舘君……」
一輝は和己の肩を抱き寄せると、再び口付けた。
*
私は卑怯だ。
私はベッドサイドの自分の上着で光るバッジを見遣った。
今の私はこのバッチに相応しくない浅ましい男だ。
でも、今はどんなに罵られたっていい。蔑まれたっていい。
あなたに浄化して欲しい。
あなたに触れて欲しい。
あなたが欲しい。
「あ……先輩。ここも……触って……舐めて…お願い…そして、キスして……」
スネークに触れられたところ、全てを触って、舐めて、キスして欲しい。
そのひとつひとつが、浄化されていくから。
あなたの指先で、唇で、舌で私は生まれ変わることができる。
私の穢れた全てを、消去して欲しい。
彼は私の懇願に答えるように、そこに細い指先で触れ、舐め上げ、口付けた。
ああ、熱い……。
全身が、あなたが触れたところが熱い。
加速していくその行為。
どんどん熱を帯びていく私は、普段は感じられない先輩の激しさに翻弄された。
「ああん……先輩!先輩!めちゃくちゃにして……僕をめちゃくちゃに……し……て……。忘れさせて」
やがて、先輩は私をうつ伏せで寝台に横たえた。そして、私の腰くびれに両手を添えた。
「あ……先輩……」
「古舘君。僕もこちら側からは経験がない。……つらい思いをさせてしまったら、すまない」
「えっ……?」
先輩の初めてが……私……?
こんなに幸福なことがあるだろうか。
確かに私は女ではない。だから、どんなに望んでも、彼の本当の意味での初めてを貰うことはできない。
だが、私は男であることで別の初めてを貰うことができるのだ。
「行くよ。……古舘君…」
「あっ……ああ……!!」
先輩を受け入れ、思わず仰け反った私の背中に、彼は優しく口付けた。
あんなに嫌だった行為が……こんなに……こんなに。
涙でぼやけて何も見えなくなった。
このまま彼の中に溶けて消えてしまいそうだった。
いや、このままあなたに溶けて消えてしまいたい。
「痛くない?古館君……」
「い、いたい……でも、嬉しいです……」
「……ふるだて…く…ん」
「僕、……先輩とひとつになれたんですね」
先輩は私の言葉に答えるように、私の手を強く握り締めた。
「……動かすよ。古舘君……」
「あっ……ひ……あっ!!あっ!!せ、先輩!!先輩!!」
ああ、痛い……!!そして、熱い……!!
でも……。
「先輩……すご…い…きもち……い……い」
「古舘君……」
「ねぇ……もっと……強く、抱いて……」
私の懇願通り、先輩は私を強く抱き締めてくれた。
一層深く入り込む彼。
「あっ……ああっ……いい……せんぱ……」
私は幸せだった。
私は今、先輩のものになったのだ。
ずっと見続けていた夢が、今、確かに現実となっていた。
「古舘君……僕はもうこんなに奥まで君を知ってしまった……」
「僕、嬉しいです。あなたに知ってもらえて……」
「古舘君……すまない……出る!!」
やっ!!熱い……!!
先輩の熱い血潮が私に溢れた。
脳天まで痺れるような感覚。
私の様々なものが弾け飛んだ。
いらない。
もう何もいらない。
あなた以外ーー
「あっ!!ああん!好き!あなただけなんだ!ああっ!ああ!」
私は泣き叫んだ。
こんなに嬉しいのに。
こんなに痛いのに。
こんなに繋がっているのに。
こんなに愛しているのに。
この一時が終われば、私とあなたは……。
私は泣きじゃくっていた。
私を見下ろす漆黒の瞳。
ああ、そんなに哀しい目をしないで。
私は馬鹿だ。
あなたを困らせてばかりだ。
強くならなくては、もうあなたにそんな瞳をさせないように。
でも、今だけはーー。
「忘れ……させて………」
何もかも全てを。
そして。
あなたとのこの一夜も。
意識が飛びかけた私の脚に、何かが触れた。
まだ夢の中を泳ぐ私の脚を、先輩が掴んでいた。
「何……?何をするの?先輩……」
先輩は、私の脚を開かせると、無様なまでに反応し続けている私自身にそっと手を差し伸べた。
「やっ!!ダメ、先輩!!そんなとこ……キタナい……」
「……僕は今夜、君の全てを浄化するんだろう?……んっ……」
そこは、その指先で触れてくれるだけで、十分だったのに。
ダメだ。そんなところにキスしたら、先輩の唇が穢れてしまう。
あなたのその唇は、多くの人を導く言葉を紡いできた。
そして、これからも人々の希望となる言葉を放つはずの唇なのだ。
それなのに、こんな……こんなことに使っちゃダメなんだ……。
だが、先輩は私の制止を振り切り、滴る蜜を舐め上げていく。
ーーーー君の全てを浄化する…
ああ、この人はこんなにも責任を感じて……。
ごめんなさい……。
ごめんなさい……!!
私はぺちゃぺちゃと音を立てて私を舐める彼の髪を撫でながら(私はもうどうして良いかわからなかった)、無意味な謝罪を繰り返していた。
その時だった。
あっと声を上げる間もなく、己の熱いものが迸った。
それは、先輩の顔をしどどに濡らしていた。
彼は放心したように、動きを止めていた。
しまった……!!
私は羞恥心で先輩の顔を見ることができなかった。
本当に先輩を汚してしまった。
穢してしまった。
私は悪戯を見咎められた子供のように、泣きじゃくりながら大きく頭を振ると、彼から目を逸らしていた。
どれくらい経ったのか、私は自分を呼ぶ先輩の声に、彼を見下ろした。
そこにいたのは、窓から差し込む月夜に照らされ、キラキラとまるで寒天質な照明をまとった先輩だった。
彼は不思議そうにそのぬらぬらとした粘液に塗れた両手を見つめていたが、やがてそれをぺろりと舐めた。
そして、その視線をゆっくりと私に向けた。
「古舘君……気持ち良かった?」
その理性を失ったかのように鈍く光る白痴の瞳は、どこか儚げなそれでいて、倒錯的な耽美ささえ感じさせた。
それはまるで、闇に朱く浮かび上がる、夜桜のように。
なんて……綺麗……。
そんな先輩の艶かしさに、私の中の何かが疼き始めた。
たった今、達したはずのそれは、再び熱い何かを滾らせていく。
「ね、先輩もちゃんと脱いで……」
私は自分だけでなく、先輩にも気持ちよくなって欲しかった。
彼の寝具を脱がせるのも、もどかしい気持ちだった。
露わになった先輩の白い肌。
私の身代わりとなった彼に付けられた傷跡。
それは、私の傷だ。
私はその傷跡に口付けた。
「あっ……古舘君」
「先輩の傷は、僕が癒してあげます。ね?先輩……んっ……」
私たちは、文字通り、互いの傷を舐め合った。
私は先輩を真似て、優しく彼の胸を吸い上げた。
先輩は私の肌から唇を離すと、小さく吐息を漏らした。
彼の白い胸にほんのりと色付いたのは、私自身の愛撫で咲いた初めての華だった。
なんて……綺麗……。
私はそれからは、もう夢中で彼に愛撫していた。
彼の悩ましげな吐息が、私を後押しする。
やや上気して、ほんのり桜色に染まる肌。
私の咲かせた花びらが、華麗に咲き誇る肌。
あまりの眩さに目眩がした。
やっぱりあなたは「桜」だ。
あの桜。
あの満開の桜なのだ。
なんて……綺麗……。
咲き誇る首筋、肩、胸、背中、そしてーー。
ーーーー『あなたはここで、私を受け入れるのです』
先輩。あなたも、ここで、私を。
私は先輩のなだらかな丘陵を撫でた。
「先輩……僕の……本当の初めて……あなたにあげます……だから、もらって下さい」
私は彼の背中に顔を埋めた。そう。私自身も一緒にーー。
「あっ……!!ああっ!!」
仰け反る先輩の手をしっかりと握りしめた。
彼の背中がガクガクと震える。
私が先輩を感じさせているのか?
夢みたい……。
どうか、このまま覚めないで……。
「あ……古舘く……」
彼は私を飲み込んでいく。受け入れていく。知りたい。もっとあなたの奥がーー。
「先輩……気持ちいいですか?僕の……」
「あっ……ああっ……」
「先輩の中……暖かい……あ、で、でも、これ、どうすれば……」
「ゆっくりでいいから、動かしてごらん……」
「えっ……あ、あの。僕の腰をですか?」
「そうだ……あっ……ああっ……」
私の運動に即して、波打つ彼の滑らかな背中。
そんな彼の背中に、そっと頬を寄せる。
私の下で必死に声を押し殺して、吐息を漏らす彼が堪らなく愛おしかった。
「あ。ヤダ……また出ちゃう……どうしよう……」
「いいよ……古舘君…」
「えっ……?」
「僕の中に出して……いい」
「そんな……僕、先輩のこと、これ以上、汚せません」
「いいから。おいで……」
そう言うと、先輩は後手で私の腰に触れた。
「あ……だ、ダメ……」
「今夜の僕は、君の全てを受け入れる。そうだろう?」
「先輩……」
私は溢れ出る涙と共に、熱いそれを先輩に注いだ。
彼は悩ましげに喘ぐと、シーツをきつく握り締めた。
私はそんな彼の手を自分の手で包み込んだ。
そして、その背中を抱き締めた。
頬を通して感じられる、暖かい先輩の体温、鼓動。
私の全ては今、あなたのもの。
あなたの全ても今、私のもの。
これ以上、何もいりません。
今、この一時だけを、永遠にさせて欲しい。
全てを閉じ込めて欲しい。
あなたのその手で……。
行為の後、先輩は私を優しく抱き締め、そのまま二人は眠りに落ちていた。
明日目覚めたら、私はもう何もあなたに求めてはいけない。
ただの先輩後輩。
ただ、それだけになる。
何も哀しむ必要などない。
今夜のこの温もりが、私の中での永遠になるのだから。
「……先輩。それでも僕はあなたを……」
瞼に白い光が差した。
ゆっくりと瞳を上げる。
どれくらいそうしていたのか。
カーテンを閉め忘れた部屋に徐々に満ちて行く、閃光。
それは、夢の終わりの合図だった。
私は自分に巻きつく高城の腕をそっと解いた。
幸い、彼は深い眠りの中にいるらしく、目を覚まさなかった。
今、彼が目覚めたら。その私の大好きな漆黒の瞳が開かれ、私を見つめたら。
そして、その柔らかな唇が私の名を呼んだら。
私はここを永遠に出ていくことができなくなる。
約束を守れなくなる。
そして……確実に自分が保てなくなる。
一晩だけの我儘。彼はそれを受け入れ、私の全てを優しく包み込んでくれた。
今度は、私がその約束を守る番。それが、私の最後のプライドなのだ。
「先輩……すみません。僕、帰ります」
私は自分の身支度を整え、眠る彼の髪をそっと撫でると、夢の残像を振り切るように部屋を後にした。
*
私の足は自然と自分の城へと向いていた。
今まで目にしたことのない、早朝のビル街は、まるで知らない街のように思われた。
だが、今の私にはその光景は相応しい気がした。
私はそう、今度こそ新しい自分に再生するのだ。
「あの人」に浄化されたこの身体と、「あの人」を断ち切ったこの心で。
古ぼけた事務所のドアに鍵を差し込んだ瞬間、私は異変に気がついた。
鍵が、かかっていない?
まさか、またあいつらに!?
私は思わず、転がるように事務所内に入っていた。
「ふ、ふあ~い。おはようございます。古館法律事務所は今日も通常営業です……って、所長?」
「結菜……?」
寝ぼけ眼をこすりつつ、私を見上げる結菜の姿に、どっと脱力した。
「やだ。あたし、所長待ってて寝ちゃってたんだね。乙女として不覚……所長こそ、朝帰り?もう心配してたんだからね?」
「ああ……悪い」
「何~?朝っぱらから腑抜けたような顔して。もしかして、女の子にでも振られた?あはは」
結菜はそう屈託無く笑うと、大きく背伸びした。
「へえ~?よくわかったな」
「えっ?嘘……」
彼女はなぜだかひどくショックを受けているようだった。私はなんだか愉快になって、
「フラれたよ。綺麗さっぱりね」
と外国人のようにオーバーに首をすくめてみせた。
「所長……」
結菜が絶句したように私を見つめていた。そんなにこのリアクションは、おかしかったのか。
確かに、私がやっても、ぜんぜん様にならないだろう。
それにしても、随分失礼な話だ。
どうしたんだよと軽口を叩こうとした私は、はっとして自分の口を手で覆っていた。
私の頬にはまた熱いものが流れていたから。
「愛してた……愛していたのに……僕は……」
「やだ……泣かないでよ。本当に?本当に……所長、好きな人いたの?」
私は手の甲で、必死に涙を拭うと、
「馬鹿にするなよ。僕だって……そういう相手の一人や二人いたっていいだろ?」
と結菜を睨んでいた。
また結菜に八つ当たりか。
本当に私という男は……この姿形のまま、女々しいことこの上ない。
いつもそんな時、どやしつけてくれるはずの結菜は、私から視線を逸らし、小さく、
「そ、そうだよね。……ごめん」
と言っただけだった。
「結菜……?」
彼女の細い肩は、小さく震えているようだった。
どうしたんだよと私が今度こそ、口にしようとした瞬間、先回りしたように結菜は、声を上げた。
「よ~しっ!!わかった。今日は飲もう?あたしが気の済むまで付き合ったげるから」
「えっ……」
「こんな時は、一晩飲んでぜ?んぶ忘れちゃえばいいのよ。今日は臨時休業決定!!だいたい、こ~んなふぬけた状態の所長、恥ずかしくって、お客様の前に出せないわよ。ほら。決まったら、さっさとお酒買ってくるの。男の子でしょ?」
そう結菜はいつものように朗らかに笑った。
見慣れた所内。
ふと目に留まるデスクに置かれた「所長・古舘和己」という大げさなプレート。
戻れる。
私はここでやっていける。
そう感じた。
私は胸に手を当て、深呼吸すると、
「……ああ。わかった。今日はとことん付き合ってもらうことにするよ」
と笑った。
*
鳥ーー2015年4月16日7時35分 乃木医院
わたしが目覚めると、そこにはお医者様がいらっしゃいました。
まだ頭がふわふわとします。
「お目覚めになられましたか。ご気分はいかがですか?」
「……もう大丈夫です」
「そうですか。……急にフラッシュバックに襲われて、怖かったでしょう?」
わたしは小さく頷きました。
「何か、気に掛かることでもおありですか?」
わたしははっとしました。
「フラッシュバックに襲われたということは、何かそれを誘発する事柄があったはずです。それは、不動さんのことですね?」
やっぱり、先生には敵いませんね。
わたしは正直に答えることにしました。
不動さんとの約束を破ってしまったことも。
「……はい。……先生。不動さんは、悪い人なのでしょうか」
「テレビ、ご覧になられたのですね?」
「……はい。わたし、不動さんとの約束を破りました。悪い子です。でも、不動さん、どうしてわたしにテレビを見たり新聞を読んだりすることを禁止したんでしょうか。それは、不動さんにやましいことがあるからなのではないですか?」
先生は、悲しげな目でわたしを見ていました。
わたしは話しながら、不安で悲しくて、胸が潰れてしまいそうでした。
わたしにとって不動さんは、今の全てだったからです。
もし、不動さんが「悪い人」だったら、わたしは、生きていけません。
「わたし、わたし……不安で、どうしたらいいのか、わからなくて……」
「雪さん。今、あなたが側で目にし、あなたが感じている彼の姿が偽りのない彼の姿です。あなたの目に彼はどう映っているのですか?」
「確かに、不動さん。あまりお話しては下さいませんけど、いつも私のこと、気遣って下さって、とても暖かい方だと思います」
「でしたら、何も心配はいらないでしょう?違いますか?」
先生は、そう細い目を細めて微笑みました。
「そうですね。私、馬鹿ですね。一番信頼できるのは、テレビや新聞ではなくて、自分で感じたことのはずなのに……」
「あなただけではありません。そして、不動さんのことだけではありませんよ。この世の中のあらゆることが、間違ったイメージの偏見に閉じ込められて、残念な結果を生んでいる。そういうことは思いの外、多いものです。悲しむべきことですがね。でも、誰も責められるべきでもない。哀しいすれ違いが生じているだけなのですから」
「そう……ですね。難しくて、よくわかりませんが、きっと、そうなんだと思います」
「ほんの少し、目先を変えたり、立ち止まってみるだけで、その過ちに気がつくこともできるはずなのですがね」
「……先生?」
「失礼。私ももしかしたら、同じ過ちを犯しているのかもしれない。そう、感じてしまいましてね」
「えっ?」
「そう。私も彼も……過去の遺恨に囚われ、大切なものが見えなくなっている……そうなのかもしれない」
「どうされたんですか?先生」
「申し訳ありません。雪さん。今日の診察はお終いです。もう退院してもかまいませんよ。またお会いしましょう」
そうわたしの質問を先生が遮った瞬間、ドアが開いて不動さんが顔を出しました。
「おや。タイミングが良いですね」
わたしは不動さんの顔を見て、とてもほっとしたのですが、同時に申し訳なさでいっぱいになりました。
わたしは不動さんの約束を破ったばかりか、こうして倒れてしまって、またご迷惑をおかけしてしまいました。
わたしは本当に駄目な子です。
「お前の話は終わったのか?」
「ええ。暇を告げたところですよ。では」
そう先生が立ち去ってしまうと、不動さんと二人きり。わたしは泣き出しそうになってしまいました。
「具合は大丈夫か?」
いつものようにサングラス越しの優しい眼差し。
わたしはそれを目にしただけで、涙がこぼれそうになりました。
この人が悪い人なはずありません。
こんなに優しい瞳を持った不動さんなのですから。
「はい。もう退院しても大丈夫だって先生にも言って頂けました」
「そうか」
「不動さん。ごめんなさい。わたし、不動さんとの約束、また破りました」
「そのことか。もういい」
「でも……」
「もういいと言っているだろう」
「……ごめんなさい」
俯くわたしに不動さんの声が降ってきます。
「テレビ見たのか」
「……はい」
「お前も俺を疑うか?」
「えっ?」
わたしは思わず顔を上げていました。
不動さんの声がすごくすごく哀しそうだったからです。
「お前も俺が人殺しだと言うか?」
「どうして?どうしてそんな哀しいことを言うんですか?私、不動さんを信じています。世界中の人が不動さんのことを疑っていたとしても、私は不動さんのこと、信じています」
「雪……もう少し、早くお前に出会っていたかったものだな」
「えっ……?」
「回り出した輪は止められない……。そうだ。俺は悪魔になる。あいつのために……それが俺の誓いだ」
「不動……さん?」
わたしの耳からは、その時不動さんが口にした言葉が、いつまでも離れませんでした。
「高城一輝……俺は、お前を許さない」
*
華ーー2015年4月16日10時24分 TTV報道局
人のまばらな報道局。
惚けたように使用済みの書類をシュレッダーにかける(なんで俺がこんなことまで……)俺の脳内では、あいつのセリフがエンドレスリピートしていた。
『わからないのか?……君の行為は……迷惑なんだ』
どんどん量産されていくこの木っ端微塵の紙くずみたいに、俺の脳内はこのセリフで埋め尽くされていた。
あいつにとって、俺は……やっぱり、迷惑なのか。
あいつと俺の距離は遠すぎる。
いや、俺はただ、あいつとの約束を守っただけだ。
迷惑も何も、あいつはあのままにしておいたら、確実に……。
俺がなんとか自分の行動を正当化しようと無駄な努力を払っていると、
「ちょっと~遠山颯人~。あんた、何アホ面さらしてぼさっとしとるん?」
と、今宮明日香が、相変わらず俺をフルネームで呼び捨てにして仁王立ちしていた。
「あ?なんだよ。アラレ」
「誰がアラレやねん。……定番のツッコミはさておき、あんたには、早速、うちの専属カメラマンとして、気張ってもらわなあかんな」
例の賭けの件か。まだ覚えてたのかよ。アラレ。
「ほな。芸能プロダクション社長・不動充について、ち?っとばかり、うちからレクチャーしたるから、ありがたくお聞き」
「へいへ~い」
俺はシュレッダー予定の書類の束を空き段ボールに放り投げると、自席の椅子に落ち着いた。
「とは言え、不動充は、一年前から芸能プロダクションを立ち上げたってことしかわかっとらん。謎の多い男やね。
で、不動充の前妻は、不動月夜。旧姓・篠宮。苗字聞けばわかるやろうけど、元華族の超が付くお嬢様やで。
そんでな、元々、高城剛三の公設第一秘書だったらしいわ。
これがまた、神々しいまでに綺麗な美女だったらしゅうてな。政界では、ちょっとした有名人だったらしいわ」
「へえ~。で?その月夜って不動のカミさんが不幸にも命を落としたって訳だな?保険金掛けられて」
「ま、平たく言ってまえば、そういうこっちゃね。しかし、芸能プロダクションの社長に元華族出身の美人政治家秘書。何の接点もないやろうに……どないして二人は知り合うたんやろなあ。その辺りもさっぱりわからへん。まして、保険金殺人やで……」
「なあ。事件発生は一年前なんだろう?なんで今頃うちの女王がその事件に目をつけたんだ?」
俺の問いに、アラレのメガネの奥の瞳が光った。
俺はそんな時、いつも思う。こいつも、腐っても記者なんだなと。
「こっからは、うちの憶測やけど、総選挙絡みやないかと思うとる」
「総選挙?」
「そや。この月夜はん。今、総選挙で大活躍中の高城一輝の元恋人言う噂があんねん。美男美女。理想のカップリングやな」
「なんだとっ!?」
俺は思わず、椅子を蹴って立ち上がっていた。
あいつに恋人がいただと……!?
へっ?突っ込む論点が違うってな。わかってるよ。だいたい、なんで俺はこんなに動揺してんのよ。
案の定、アラレのツッコミも炸裂する。
「はあ?なんであんたがそないにいきり立つ必要があんの?」
「あ?い、いや、何でもない……で?」
「続けるで?ま、父親の公設秘書やからな。二人が親密でも別におかしなことはないやろ。ただ、問題はこっからや。月夜が結婚して不動月夜になった後も付き合いがあったらしいから、いわゆる、不倫関係って奴ってこっちゃ」
「何っ!?」
あいつと不倫……一番結びつかないキーワードじゃねぇか……。
だが、俺はふとあの晩の高城のことを思い出した。
あの淋しげな瞳は、そんな苦しい胸中を暗に表していたのかもしれない。
「ま、聖人君子と呼ばれる高城一輝やからな。あくまで憶測の域は出とらん。下手に報道したら、名誉毀損で逆にこちらが訴えられるのがオチやからな。うちの仲間内の芸能記者連中も、手を出しとらんテリトリーや。
火中の栗を拾うような勇気のある輩はおらんってこっちゃな。うちとしては、不動の保険金殺人疑惑と併せて、狙いたいネタやねん。正直、女王のお誘いは、願ってもない申し出やったんよ。
『報道ワイドスクープ』お墨付きであの高城一輝に迫れるんやもんね」
「お前、あのイケメン政治家に憧れていたって訳じゃないのかよ?」
「それとこれとは別や~♪」
そう言うと、アラレはにんまりとした笑みを見せた。
「さいでっか」
「しっかし、相手の不動月夜は今や鬼籍や。インタビューもできへん。死人に口なしってとこやな。ここだけの話やけど、スキャンダルの発覚を恐れた高城一輝が邪魔になった月夜を葬った。そんな噂も流れとるんよ」
「おいっ!!出鱈目言うな!!あいつは……あいつはそんな奴じゃ……」
俺はまた椅子を蹴って立ち上がっていた。
可哀想なのは、俺の椅子だよな。アラレの視線が刺さる。
「は?あんた、高城一輝本人を知っとるような口ぶりやね?」
「い、いや……俺は……政治家に知り合いなんていない。ただ、なんとなく……なんとなくだ」
「ま、あんたの言いたいこともわかるけどな。今の日本国民に高城一輝は殺人者です~って言うてもだ~れも信用せんやろ。だいたいな。誰も直接手下したなんて言うてないやん。天下の高城一輝やで。そういう汚れ仕事を引き受ける組織も当然、存在しとるやろう。なあ?」
「なあ?って、あのなあ……」
「せっかくやから、高城一輝についても教えといたるわ。元々高城家は名門中の名門やからね。高城一輝の兄弟、全員各界で大活躍中やで」
「各界?」
「うん。一輝は四人兄弟の長男やね。下は大学教授が二人。医学博士と薬学博士やったかな?残りの一人は、いわゆるジャーナリストやね。みんな高城一輝に負けへん美人揃いやから、そら話題性抜群やで。ま、大学教授の二人は日本におらんらしいから、意味ないけど。ま、とにかく。あんたはうちの専属カメラマンなんやから、うちの指示通り、バッチリカメラ回してや!!」
俺はそう気合十分のアラレに向かって、盛大なため息をついた。
*
月ーー2015年4月16日11時43分 都内某所
武藤健二は、昨日の高城の第一秘書・楠美香子との打ち合わせの内容を反芻しながら、小走りに歩いていた。
今日の午後から健二は正式に高城の事務所で業務を開始する。
自分に務まるのか、そんな一抹の不安は過るが、自分を信じてくれた高城や、何より瑠璃香のためにも自分は頑張らなくてはならない。
そう自分を奮い立たせて、アパートを出た。
事務所の最寄りは「永田町駅」。そんな美香子の手書きのメモを確認すると、目的の駅まで自分を運ぶメトロの駅へ続く階段へと足を踏み入れようとした。
「よお。どこに出勤する気だ?ケンジ」
その声に、健二はびくりと肩を震わせた。
そして、恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、大久保やその配下の者たちだった。
あくまで榛原剛史の元で、彼の指示に従うだけだった健二は、彼らと直接口を効く機会はなかった。
「あ、皆さん……」
「ケンジ。てめぇ、こないだは、よくもやってくれたよな?」
「あ、あの……すみませんでした。でも、俺……俺、もうこの世界から足、洗いたいんです」
「足を洗うだあ?あははははは!!笑わせるぜ」
大久保と男たちは、爆発するように笑い声を上げた。
健二の背中に嫌な汗が流れる。
「てめぇなあ。そう簡単に問屋が卸すと思ったら、大間違いだぜ?」
「えっ?そ、そんな。俺、まだ、組に入れてもらえてないし……」
「はあ?さんざん榛原と組んでいろいろやっといて、組に入ってませんから今日からカタギになりますだあ?馬鹿野郎。てめぇだって、所詮、気取ったって、同じ穴のムジナなんだよ」
他の男が健二に近づくと、
「簡単に落とし前ってもんがつけられると思ってんのか?ああっ?」
と彼の襟首を掴んだ。
「や、やめて下さい……お、俺、もう……」
「ナマ言ってんじゃねぇよ。ああ?」
男は健二を突き飛ばした。
「うあっ!?」
健二は、道路へ派手に転倒した。
そんな彼の鳩尾に、熱い衝撃が走った。
「げほっ!?」
道路にうずくまる健二の身体の頭部、背部、腹部と至るところを男たちの攻撃が襲う。
「ほら。ケンジ。いいじゃねぇか。最後のご奉仕にサンドバックにな?ははは!!てめぇには、それがお似合いだよ!!」
大久保は、健二の元に歩を進めると、痛めつけられる彼を見下ろした。
「落とし前っつったら、やっぱり『指』だよな?」
唇の端から血を流しながら、健二は虚ろな目を上げた。
「ゆ、指?」
「一昔前だったら、切り落とされてたんだぜ?折られるだけなら、まだマシだろう?まずは一本目だ。そらよっと」
大久保は健二の左手を取ると、なんのためらいもなく、その小指を捻じ曲げた。
鈍い音がして、健二の指に激痛が走った。
「うあああああああああっ!?」
その頃、高城の事務所では、楠美香子が時計を何度も見上げていた。
「武藤君、まだかしら?」
御厨愛里沙も心配げに、
「ええ。携帯に連絡してみても、通じませんよ。初日から無断欠勤ですか?彼、そんな風に見えませんでしたけどね?」
と受話器を置いた。
「どうしたんでしょう……何かあったのかしら」
*
華ーー2015年4月16日13時10分 都内某所
消えないリフレインに悩まされながら、昼飯のための店を漁っていると、俺とは無縁な花屋の店先に、見知った顔を発見した。
「君は……雪ちゃんか?」
「あ、遠山さん!!」
不動雪はそう声を上げると、この花々に負けない可憐な笑顔を返した。
「この花屋で働いているのか?」
「はい。私、少しでも不動さんに恩返ししたくて……このお花屋さんでお世話になっているんです」
「そうか」
不動に恩返しか。
この子にとっては、不動はまさに恩人なのだろう。
だが、その不動が保険金殺人疑惑で世間を騒がせている。
そのことを知ったら、この子は一体、どう思うのだろうか。
「不動さん……たくさんテレビの取材とかに追いかけられているんですね」
「あ?ああ……そのようだな」
知ってしまっていたのか。
俺はなぜか、どうしようもなく胸が痛くなった。
この子にだけは、知られてはならない。
そんな気がしていたから。
「これ……どうぞ」
「えっ?」
俺の鼻先に、彼女自身のように可憐な赤いスイトピーが差し出された。
「遠山さん、約束、守って下さっているんですね」
「約束?」
「はい。あの、初めてお会いした日、私、言いましたよね。私のこと、秘密にしておいて欲しいって。
きっと、私が不動さんの居候だって知られたら、テレビの人たちに放っておかれるはずないですもの。
でも、今、私は静かに暮らしています。それは、遠山さんがちゃんと私との約束、守ってくれているって証拠なのでしょう?だから、そのお礼です」
「ああ、まあな」
「ありがとうございます。私、本当に感謝しているんです。今の私、不動さんとお医者様の先生と遠山さんしかいないから」
「お医者様?」
「はい。不動さんのお友達のお医者さんです。とても優しい方です」
「そうか。良かったな」
俺がそう微笑み返すと、彼女は
「……あの、今日、うちに来ませんか?」
と上目遣いで言った。
「えっ?」
「今日、不動さん、お泊まりで帰って来ないんです。不動さんがいたら、誰かを呼んだことがバレたら叱られてしまいますが、今日なら、お礼にごちそう作って遠山さんのこと、お招きできますから。私、お料理得意なんですよ。遠山さんのお口に合うかわかりませんけど」
そう言うと、雪は頬を染めた。
「って、それはマンションに二人っきりってことか?……おいおい」
俺はこの子にとって、人畜無害な存在なんだろうか?
いや、この子にとっては、俺も不動もその医者も、世界中の男全員が「いいひと」にしか見えていないのだろう。
「ありがたい話だが、そいつはまたの機会にしようぜ?」
「そうですか?何かきちんとお礼がしたかったのに。……残念です」
しょんぼりした少女の顔を見ると、なんだか「惜しいことした」って感じだが。
いや、これでいいんだ。これで。
最近、俺、自分の理性に自信が持てなくなってきたからな。
あいつのせいで……。
あいつ……今、何してんだろうか。
「遠山さん?」
「あ?ああ、悪い。なんでもないんだ。じゃ、俺は行くぜ」
「はい。また来て下さいね。私、待ってますから」
「ああ。じゃあな」
無邪気な笑顔をバックに、あのリフレインが木霊する。
『わからないのか?……君の行為は……迷惑なんだ』
「あいつ……くそっ……あの馬鹿。なんだって、いきなりあんなこと……」
*
月ーー2015年4月16日13時45分 都内某所
「ケンジ……ケンジはどこだ?」
榛原剛史は、大久保たちに詰め寄っていた。
昼過ぎ頃、様子が気になり健二のアパートを訪ねてみたが、もぬけの殻だった。
あの議員のところにでも行ったのか?
そう思い、遠目で奴の事務所を張り込んでみたが、そこに健二の姿はなかった。
剛史の中で嫌な予感がしたのは、その時だった。
彼は弾かれたように走り出すと、こうして大久保を問い詰めていた。
「知らねぇよ。あんな腰抜け」
「そうだ。ケンジなんざ輩の名前、聞いたこともねぇなあ?」
剛史は、自分の「同僚」たちを睨め回した。
「嘘つけ。ケンジのこと、知ってるんだろう?……大久保さん。ケンジのこと、知ってるんでしょう?」
「ああ、さっき会ったばかりだぜ。あいつ、カタギになるって血迷ったことほざいてな」
「カタギに……あいつ……」
剛史は思わず、拳を握り締めていた。
ガキの頃から、どこか押しの弱かった健二。
流されるようにこの世界に入ってしまった健二。
そんな健二が、今、自分の意思でその道から抜け出そうとしている。
剛史は、言い知れぬ熱いものが込み上げてくるのを抑えることができなかった。
「だから、落とし前つけてやったって訳だよ。榛原」
「落とし前?おいっ!!ケンジはまだこの組の人間でも何でもねぇじゃねぇか!!」
「馬鹿か?てめぇは。何年ここで飯喰ってっんだ?足洗うって奴は、それ相当の落とし前つけんのが筋ってもんだろうが」
「何した?ケンジに何しやがった?」
「そんなに知りたきゃ、てめぇの目で見てこい。この裏のゴミ捨て場だ」
「なんだとっ!?馬鹿野郎!!てめぇらのやってることは、落とし前じゃねぇ!!どけ!!」
剛史は思わず、格上の大久保にそんな口を叩いていた。
「やれやれ榛原。お前、どうした?あんな三下一人のためにお前が血相変えるとはな」
「うるせぇよ!!黙ってどけ!!」
「わかったよ。後はお前の好きにすればいい。ま、どうせ、あいつもあんなにボコられて、まともに生きられるか怪しいがな」
そうせせら笑った大久保が道を開けると、剛史は裏口へと駆け出した。
「ケンジ!!ケンジ!!いるか?おいっ!!」
「うっ……ううっ……」
「……!!ケンジ?ケンジか!?」
そこには、大量のゴミ袋に埋もれるように、無残な健二の姿があった。
「ケンジっ!?おい!!しっかりしろ!!」
「あ……兄貴ぃ……俺……げほっ……」
「ケンジ。しっかりしろっ!!死んだりしたら、許さねぇからな!!」
剛史は健二に肩を貸すと、よろよろと歩き出した。
近くの診療所に健二を連れ込むと、剛史は医師に噛みつくように迫った。
「なあ、先生。ケンジ助かるよな?な?」
明らかにその筋のものと思われる相手と患者に、内心、厄介なことになったと感じているのだろう。
医師は顔を逸らしながら、
「正直にお話します。……武藤さん。今夜が峠ですね」
と答えた。
「峠……!?ケンジ、助からないんですか!?」
「あとは、ご本人の生命力次第ということですわ。では」
「そんな……」
医師が消えたドアは、無常な音を立てて閉じた。
取り残された剛史は、ベッドの傍の椅子に崩れるように腰掛けた。
心電図の不快な電子音だけが、その場に響いていた。
「ケンジ。お前はガキの頃から俺の側で俺を助けてくれていたよな。俺がはみ出したら、お前まで一緒に道連れにしちまって……俺な。それだけはお前に詫び入れなきゃならねぇって思ってた」
剛史は深くうなだれたまま、意識を無くした健二の手を取った。
その複数の指には、痛々しく包帯が巻かれている。
『君はこんなところに居ちゃいけない!!』
「本当は俺が言わなくちゃいけない言葉だったな……なあ、ケンジ」
『先輩は心臓が悪いんです!!』
「高城……一輝。あいつ……あいつ……」
*
月ーー2015年4月16日17時02分 御厨医院
夕暮れの御厨医院。
そこでは、甲賀明美の第一秘書・片桐智哉が丁度、御厨院長から処方された薬を受け取っているところだった。
「はい。これが、甲賀明美さん用の風邪薬。御厨スペシャルってなあに?」
「ははは。それは、明美さん用に御厨先生が行って下さる特別処方らしいですよ。なんでも、しつこい風邪でもすぐに吹っ飛ぶとか……ありがとうございます。……新しい看護婦さんですか?」
「ま、そんなところね。うふふ……」
そう言うと、新米事務員・桃瀬莉奈は微笑んだ。
「なんだか、あなたのこと、どこかで……」
「詮索は無用よ。……お大事に」
その頃、医院の玄関ホールでは、御厨院長と医師・乃木庸司が立ち話をしていた。
御厨は午後の休診時間に乃木の訪問を受け、院長室で話し込んだ後、乃木を送るためにここに来ていた。
乃木とは、数年前に学会で出会ってから、互いに経営する医院が比較的近いこともあり、よく行き来する間柄だった。
「今日も有意義なお話ができて光栄ですよ。御厨院長」
「いや、私も君と話をする機会に恵まれて幸いだね。君と私は昔から不思議と意見がよく合う」
「乃木先生、もうお帰りになるんですか?一緒にご飯でもって思ったのに」
乃木の来訪を知って慌てて駆けつけた御厨芳樹が、残念そうに声を上げた。
「芳樹さん。それは嬉しいお誘いですが……またの機会にいたしましょう」
「今度、絶対ですからね」
「ええ。……おや。新しい看護婦さんですか?」
「はじめまして」
莉奈は乃木に対して、ごく自然に初対面の挨拶を行った。
「あ、彼女はなんとトップグラビ……むぐっ!?」
そう切り出そうとした甥っ子の口を塞ぎながら、御厨は答えた。
「彼女は私の遠い親戚の子でね。学校が長期休暇だというので、手伝ってもらっているんだ」
「そうですか。実にお美しい方ですね」
乃木はレンズ越しの細い目をますます細めた。
「そりゃ、そうですよ!!彼女は僕の心の恋人で、トップグラ……うぐうっ!!」
「どうされました?」
「……いや、何でもないんだよ。こら、芳樹。若いお嬢さんに関してあまりペラペラ男が話すものではないぞ」
「では、私はこれで」
「こちらの方、嬉しいこと言って下さったから、サービスに玄関までお送りして来るわ」
莉奈はそう言うと、受付のカウンターから出て、乃木と共に歩き出した。
「ああ、頼んだよ」
乃木と莉奈が玄関を出て行くと、御厨はようやく芳樹の口元から手を離した。
「……ぷっは~!!……ひどいな!!オジサン!!せっかく乃木先生にも莉奈ちゃんの魅力を教えてあげようって思ったのに」
「やれやれ。お前がいては、彼女のことがあっという間に世間に知れてしまうぞ」
「あ、ごめん……僕、嬉しくって、つい……」
「彼女のことを本当に想うなら、今はそっとしておいてやることが大切だ」
「そう……だね。ありがとう。おじさん。僕、彼女に何かしてあげたいって思っているんだけど、何していいのか、よくわからなくって……」
「ま、無理もないだろう。お前だって、まだまだ半人前なんだ。ま、焦らず、ゆっくり考えてみることだ」
「うん……」
外に出て乃木と二人きりになると、莉奈は仮面を外した。
「芳樹君はあなたのファンのようですねぇ」
「まあね。このアタシはトップグラビアアイドルだから、こうしてファンとかち合うっていうのも覚悟してたけど。あいつ、とにかくウザイのよね。アタシのやることなすこと、逐次監視してるっていうか……やりにくくて仕方がないわ」
「でも、言い換えれば、彼はあなたの言いなりな訳です。うまく利用することもできるのではありませんか?」
「……ま、それはそうなんだけど。そういうの、なんか気が進まないわ」
「ご自分を純粋に応援してくれるファンのことを利用することなどできない」
「えっ……?」
「違いますか?」
「べ、別にアタシはそんなんじゃ……ただ、あいつ、なんていうか……とにかくやりにくいのよ!!もうっ!!あ~っ!!イライラするっ!!」
「……よろしいのではありませんか?あなたは自然体のままで」
「……えっ?」
「言われたでしょう。不動さんに『できるだけ嘘はつくな』と」
「えっ?ええ……」
「何もかも嘘で塗り固めては身動きが取れなくなってしまう。あなたも下手な作意など持たずに、彼に接すればいいでしょう」
「わかってるわよ……」
「総選挙まで日がありません。あなたにはあなたの役割を速やかに遂行して頂かなくてはならない。そう。高城一輝が殺人者であるという証拠をあなたには掴んで頂かなくてはならないのですから」
「わかってるってば!!」
「期待していますよ。では」
だが、二人は気がついていなかったのである。もうひとつの人影に。
「一輝先輩が殺人……?……今の人たちは、一体何を……?何を……?」
そう呟くと、もうひとつの影ーー片桐智哉は乃木が愛車で去り、それを見送った莉奈が玄関ホールに消えるまで、その場で息を詰めて立ち尽くしていた。
*
月ーー2015年4月16日20時00分 都内某所
時間通りに指定した部屋に現れた相手に、榛原剛史は声をかけた。
「急に呼び出して……悪かったな」
「どうしたんだい?今日は随分、優しいじゃないか」
そう微笑んだ相手ーー高城は一輝、このカーテンの隙間から差し込む月光に溶けて、消えてしまいそうな儚さを感じさせた。
こうしてすぐに手が届くような距離にいるのに、なんだかひどく遠いところにいるような。
それはやはり、今の自分があの事実を知ったからなのか。
「……ケンジのこと、どうする気なんだ?」
まだ健二の身に起こった。いや、自分の世界が起こしてしまったことについて、剛史は相手に伝えられていなかった。
自分の口からは、とても言えることではなかった。
心の底から健二のことを信じているであろう、目の前の男には。
「武藤君のことか。武藤君にはこれから更正してもらえるように尽力するつもりだ。彼なら立派に期待に答えてくれると思う。
もう二度と君のいる世界に彼は返さない。それとも君はそれを邪魔するのか?」
幾分、非難めいた鋭い眼差し。
透き通るように澄んだ眼差し。
全ての闇を消し去るようなその強い光。
今の俺にとって、その瞳はーー。
眩しすぎる。
剛史はそれを避けるように視線を外すと、答えた。
「馬鹿言え。ケンジが決めたことだ。俺には関係ない」
「榛原君……」
「あいつは命がけで足抜けを選んだんだ。俺はそれを止める権利なんてありゃしねぇさ。俺はな。あいつとは違って、本当の半端もんだよ」
「榛原君?」
「生憎、俺はケンジのようにあの世界から足を洗う気はサラサラない。だが、ケンジの件ではあんたに借りができちまった」
剛史はよれよれの背広の内ポケットから、何かを取り出した。
「それは……」
「あの晩のあんたの醜態のネガだよ」
そう言うと、剛史は素早くベッドサイドのライターを取り、ネガを灰皿に入れ、火をつけた。
ネガは琥珀色に揺らめくと、ゆっくりと溶け出した。
「安心しな。複製はない。これで、あんたは自由だ」
「榛原君……」
「ただ、もう一度。もう一度だけ許して欲しい」
「えっ?」
「あんたを抱きたい気分なんだ。……あんたが欲しい。上手く説明できねぇが……ただ、あんたが欲しい」
そう真剣な眼差しで訴える剛史に、一輝は答えた。
「わかった。……シャワーを浴びてきたい。いいだろう?」
「ああ」
バスルームに消えた高城の背中を見送りながら、剛史はそっと呟いた。
「今夜で最後だ。詩織……悪い。今夜だけ。今夜だけ、お前のこと、忘れさせてくれ」
やがて、バスルームから出てきた高城の身体を、そっとベッドに横たえる。
ベッドサイドの照明を受け、浮かびあがる洗いざらしの髪や、熱を帯びて火照ったその湿り気を湛えた肌が、剛史を素直に高揚させる。
剛史はその黒く揺蕩う髪にそっと触れると、優しくキスをした。
そして、そこから覗く、白い耳たぶを甘噛みする。
「あっ……今夜は本当に……ずいぶん……優しいんだね」
考えてみれば、この男はこの華奢な身体で自分たちに立ち向かってきたのだ。
己の病と闘いながら。
「離したくない……あんたを……」
「榛原君……」
「だがな、あんたを自由にする。それが俺の落とし前だ」
そう言うと、剛史は一輝の首筋に唇を移した。
何かを訴えるように、刻み込むように強く吸い上げる。
「……あっ……榛原君……はぁんっ……あ……」
唇を下降させていく剛史の視界に、白い胸が入った。
この胸の中で息づいている。
心臓という命綱が。
剛史はそこに口付けた。
びくりと反応する一輝の指先を強く握り締める。
死ぬな。死なないでくれ。
俺の前から消えないでくれ。
そんな想いを刻みながら。
彼は必死に口付けていた。
何度も、何度も。
その度に、一輝の濡れた唇から吐息が漏れる。
「は、はいばら…く……」
自分の名を呼ぶ唇を封じると、剛史は己自身を一輝の中へ押し込めた。
もし、己に流れる生命という名のエネルギーをくれてやることができるなら。
この熱いものと一緒に注ぎ込んでやりたい。
「あっ……ぁあっ……ああっ!!」
こんなはみ出し者の自分よりも、この男の方がどれだけこの世界にとって、価値があるのか。
それなのに、神って奴はやっぱりいないのか?
剛史は、あの死にかけた日のことを思い出していた。
あの日、自分は死んだ。
それなのに、こうして生きている。屍のように闇の世界で生きている。
今の自分は、なんなのか。
こんな自分、くれてやる。いくらでもくれてやる。
俺のこのパルスを、溢れ出すパトスを、いくらでも。
だから、どうかーー。
「ああっ!!やっ!!ダメっ!!これ以上……はいらな……」
優しくしてやりたいのに、高まる衝動に歯止めが効かない。
その激しさに耐えきれず、声を上げる一輝を剛史はきつく抱きしめた。
「好きだ。あんたが……あんたのことが……」
「んあっ……榛原君……すまない……僕は……」
「何も言うな。わかってる。俺みたいな半端ものをあんたが気にかける必要なんてない。こうやってあんたを抱いている。ただそれだけで、今の俺には十分なんだ」
「……すまない……すまない。榛原君……」
そう今にも泣き出しそうな顔で繰り返す一輝の唇をそっと塞ぐと、剛史はこの上なく優しく彼の背中を抱き締めた。
*
華ーー2015年4月16日22時45分 都内某バー
「いらっしゃいませ~。って、なんだ。あんただったの。颯人」
俺が来店すると、幼馴染のウェイトレスは、あからさまに落胆の声を上げた。
「だから、お前は毎回毎回、客に向ってなんだよ。その口の利き方は」
「だから、そんな偉そうな口叩くのは、溜め込んでるツケ、ぜ~んぶ払ってからにしてよね」
給料日前の俺にその一言は、深く突き刺さる。
「うっ……可愛くねぇ奴……」
俺たちのいつも通りの問答を静かに傍観していたマスターが、声をかけてきた。
「おい。颯人」
「どうした?マスター」
「いるぞ。天然記念物が」
「は?」
「そうだ。颯人~♪遠い親戚?の綺麗なお兄さん、ご来店中~だよ?」
と、幼馴染はぽーっと頬を染めた。こいつ、ほんと現金な奴……んっ?
「って、おい。まさか……」
カウンターには、鳴り止まないリフレインの相手ーー紛れもなく、高城一輝が座っていた。
「高城!?」
「なんだ。遠山君か」
「なんだ。じゃないだろ?何してんだよ。こんなとこで。あ~あ。またビールか。よっぽど気に入ったみたいだな。下戸のくせに……」
「何をしていようと、僕の勝手だろう」
高城は俺の方を見もしないで、グラスのビールに口付けようとした。
俺は慌ててそれを遮った。
「あのなあ……お前は天下の政治家先生なんだろ?だったら、こんな寂れたとこじゃなくて、政治家らしく、もっといい店で飲むとかあるだろう」
「颯人。お前、言わせておけばなあ……」
マスターはサングラスの上の額に青筋を立てた。
「あ、わりぃ」
「政治家らしい?イコール僕らしいってことかい?はっ。笑わせないでくれ。僕らしさなんて、今の僕には微塵も残されてなどいない」
「高城?お前、何言い出してるんだ?ほら。帰るぞ。またギターかき鳴らされても、今度こそフォローしきれねぇぞ」
俺が腕を取ると、高城はそれを邪険に振り払った。
「離せ。僕は帰らない」
「高城。お前なあ……いいかげんに……」
そう言いかけた俺を、初めて高城はまともに見つめた。
「なぜだ」
「えっ……?」
「なぜ君は僕の前に現れたんだ」
俺の中でエンドレスリピートするその冷たい眼差し。
「君さえいなければ……僕は一人で戦ってこれたのに……」
「高城?」
「君のせいで僕は自分の弱さに気がついてしまった……どうしてくれる?」
「お、おい……そんなむちゃくちゃなこと……」
「僕は君が憎い……いや、こうして言葉通り、君を憎めたら……楽だったんだろうな」
そう視線を落とすと、彼は風のように俺をすり抜け、そのままバーを後にした。
「おっ!?おいっ!!待てよ!!帰らないんじゃなかったのかよ!!」
「こ~ら!!颯人。無銭飲食~!!警察呼ぶわよ!!」
「馬鹿!!見りゃわかるだろ!!取り込み中だ!!ツケにしといてくれ!!」
「あんたのツケなんて、あてになんないわよ!!べ~っだ!!」
「待て。これ、見ろよ」
「あ。ひ~ふ~み~よ?……五万円?今の綺麗なお兄さん置いてったの!?ちょっと、やだ!!多すぎだよ~!!」
「あの馬鹿……」
俺は昔馴染たちの狼狽を横目で見ながら、外へ飛び出した。
高城の華奢な背中は、遥か前方を歩いていた。
奴の背中は、街頭のまばらな夜の街に、今にも溶けて消え入りそうだった。
俺は軽く舌打ちすると、走り出した。
「高城!!待てってば。お前は耳がねぇのか!!コラっ!!」
追いついた俺が思わず、奴の二の腕を掴んだ瞬間。
高城は俺を睨め上げた。
頭上の街頭が、スポットライトのように高城の顔を照らす。
美人だから、睨まれると妙な迫力がある。
「痛いじゃないか」
「あ、悪い……」
「言っただろう。僕には関わらないでくれ。迷惑なんだ」
「あんた、さっき言ったよな。何をしようと自分の勝手だって。だったら、俺だって言わせてもらう。俺があんたに関わるのだって、俺の勝手だ。違うか」
「君は何もわかっていない。僕が……あんな姿を君に見られて……どんな気持ちになったのかも……」
「えっ?」
「君だけは巻き込みたくなかったのに……」
「高城?」
なんて悲痛な目をするんだ?
こいつに一体、何があったというのだろう……。
俺の中の何かが疼く。
「僕は怖い。また自分の失敗で、誰かを失ってしまうんじゃないかと……君にもしものことがあったら……僕は……」
「あのな。高城。俺は過去のお前に何があったのかは知らない。だがな。たとえ、どんなことがあっても、どんな敵が現れても、俺はお前を守る。何度も言わせるなよ」
「遠山君……」
そう俺の名を口にした高城をまっすぐに見据え、俺は言っていた。
「あんたのことが好きだ。愛してる。……あんたの気持ちが知りたい」
不思議なくらい、あっさりと口に出していた。
実際、嘘偽りのない俺の正直な気持ち。
それがこれだったのだろう。
「遠山君……僕は……確かに他に愛している存在がいる」
「……そうか」
答えは、聞く前からわかっていた。
高城がいつも哀しげに俺を見上げ、何も答えなかったのは、俺以外に既に意中の相手が存在していたから。
当たり前か。
彼が俺と同じ想いを持っているはずなどない。
奴は閣僚経験まで持つ政治家先生で、俺はぺーぺーの報道カメラマン見習い。
こいつと俺の距離はありえないくらいに遠すぎる。
そんなこと、百も承知の上だった。
それでも俺は伝えたかった。
伝えずにはいられなかった。
ただ、お前を愛し、そして守り続けたいのだと。
「だがね。僕が愛した存在は、誰かに奪われてしまうんじゃないか……毎日怖くて怖くて……満ち足りたことなんて一度もなかった。だが、君と出会って君という存在を知って、君と過ごすようになって、とても気持ちが落ち着いていることに気がついたんだ」
「高城?」
「誰かに愛し愛されるということが、心の平穏をもたらしてくれるものだとしたら、その相手は、あの子じゃなくて、君なんだと思う」
「えっ……?」
そう当惑の声を上げた俺の目をまっすぐに見据えたまま、高城ははっきりと答えた。
「遠山君。僕も君を愛している」
どれくらいの時が経ったのか。
「嘘……だろ?」
俺はそう放心気味に答えることしかできなかった。
「こんなこと、嘘で言えるほど、僕は洒落モノじゃない」
高城は俺を見据えたまま、答えた。俺を映す漆黒の瞳に吸い込まれそうになる。
俺は高城の髪に手を伸ばした。
「高城……」
「はあ~はあ~っ!!やっと見つけた!!ちょっと、お兄さん!!これじゃ、お勘定多すぎだから!!ね?返すっ!!」
馴染みのダチは息を切らして、万札を俺たちの鼻先に突きつけた。
「この馬鹿が……よりによって、このタイミングかよ……」
俺は一気に脱力して、その場にしゃがみこんだ。
「何よ~。颯人。なんであんたが不機嫌なのよ」
何も知らないダチは、心底訳がわからないという風に、腕組みをした。
「ははは……それは迷惑料だよ。今日の分とこないだの分のね。チップとして受け取って欲しい」
「え?で、でも……」
「いいから、それ持って、とっとと帰れよ」
「な、何よ~!!人を邪魔モノみたいにさ。むかつく~!!」
「実際、邪魔もんなんだよ」
「何よ。あたしがいなくなったら何するつもりさ」
「あ?な、何するって、アレを……コレしてアレする訳でな」
「はあ?あんた、何顔赤くしてんの?意味わかんない」
「ははは。わかった。君の店で飲み直そう。五万円分。それなら、文句ないだろう?」
「何っ!?おいっ!!高城っ!!」
「お楽しみはまた後で。……だろう?遠山君?」
俺はお預け喰らった犬か!!
って、あのなあ。そういうことじゃない。
カラダとか理屈とか、そんなもん度外視で、ただ、あんたを守りたい。
とか言いながら、することはちゃんとする訳だが……って、だから、何言わせるんだ。
「やれやれ……今日はちゃんとしらふで帰って来れたな」
「君の部屋は落ち着くね。こじんまりしていて」
「それはイヤミか?先生」
「ははは。そうじゃないさ。本当に落ち着くんだ。君がいるからね」
「そういう殺し文句を言われちゃ、俺に勝ち目はないな」
俺はそう言うと、高城の顎を取った。
「あっ……もう少し、ゆっくりしてからにしないかい?せっかく落ち着いて……」
「あんたは制限時間付きの身の上だろう?選挙が相手じゃ、シンデレラよりタチが悪いぜ?」
「ははは……そうだね。うん……わかった。君の好きにしてくれてかまわない」
「しかし……こうも素直だと……逆に気持ち悪いな」
「そうかい?じゃあ、こんな感じならどうだい?」
そう俺に流し目を送ると、高城はいきなり俺の唇を奪った。
「……んっ……」
柔らかな唇の感触。なんとも言えない心地よさを感じながら、俺は反撃を開始した。
俺の反撃に、高城が小さく呻いた。
「……あっ……んっ……」
「……やられたら、倍返し。俺のじいちゃんの格言でな」
「んっ!!……君のおじいさんを……恨むよ……んっ…んんっ……」
互いの気持ちを確かめ合うように、そのまま俺たちは長い口付けを交わした。
唇を離すと、少し恥じらうような顔をした高城にぶつかった。
高城は俺を上目遣いで見上げると、そっと視線を逸らした。
ヤバイ……可愛い……。
だから、なんでお前はそんなに可愛いんだよ!!
ベッドに腰掛けると、そのまま高城を膝の上に乗せる。椅子にでもなった気分だ。
背を向ける奴の襟首から覗く頸だけで、俺のビートは最高潮に達していた。
背中から抱き締めたまま、ラフなストライプのシャツに手をかける。
今日はTシャツじゃないのか。
こんなボタンがいっぱいの服は、一言で言うと……面倒だ。
俺が紳士だったら、ひとつひとつのボタンをゆっくり外していきながら、「綺麗だよ」とか睦言を繰り出すんだろうが。
あいにく、相手は確かに掛け値無しに「綺麗」なのは間違いないが、野郎だし、俺は紳士とは程遠い、ただの青二才。
そんな訳で、シャツの合わせの部分に手を差し入れると、力任せに引きちぎった。
小さなボタンが四方に弾け飛んで、消えた。
「遠山君!!僕の帰りのことも考えてくれないと困る……こんなシャツじゃ、帰れないじゃないか」
「じゃあ、帰らなきゃいいんじゃないのか?」
「君はまたそんなことを……あっ……」
シャツを床に放ると、高城の背中に唇を滑り落とす。
思わずのけぞった彼のカラダを、背中から抱き締める。
手探りで肌をまさぐると、胸の突起に当たった。
小さく吐息を漏らした高城の顎を取ると、もう一方の手で胸の飾りを刺激した。
顎の方にやった指先は、やがて唇に触れた。高城がその指先を優しく噛んだ。そして、舌で転がした。
今リードしてるのは、俺の方だぜ?
俺はそんな高城の顎を再び取ると、そのイケナイ唇に口付けた。
「んっ……んあっ……」
この飾りの下で息づくものの生命活動を妨げないように、壊れ物でも扱うように、刺激しすぎないように優しく揉み込んでいく。
高城の身体ががくがくと震えた。
正面を向かせると、可愛らしく突起してきたそれを舐め上げた。
「やっ!!あぁっ!!」
高城は俺の頭を掻き抱くと、可愛らしい声を上げて、大きくカラダを反らせる。
やや長めの前髪がぱらりと溢れ、悩ましげな顔を隠した。
だが、そんな様子が堪らなくしどけない。
ちくしょう……堪らねぇ……。
だから、なんでお前は男のくせにそんなに「せくすぃー」なんだよ!!
そのままベッドに押し倒し、ベルトを引き抜き、ジーパンと下着を一気に脱がせる。我慢できない。まどろっこしいの嫌いだ。
露わになった脚を取ると、俺はその白い太腿にキスをした。
それだけで、奴のカラダはビクリと震えた。
その反応が嬉しくて、俺はそのまま愛撫を続けた。
「はぁん……はぁ……」
こいつは全身が性感帯なんだろう。俺にとってもだが。
だから、何でお前のカラダはこんなに感じやすいんだよ!!
うつ伏せにすると、高城は首だけこちら側に向けた。
やや不安げに揺れる瞳や、濡れた唇から漏れる吐息だけで、素直にそそられる。
お兄さん、頑張っちゃうぞ。
っと、病気のことを考えると、当然ながら、あまり激しい行為はマズイだろうと思う。
そうだ。頭ではわかってる。
でもなーー
吸い付く肌の感覚が、堪らない。
愛撫に力が籠もった。スピードが増す。
だから、なんでお前はこんな肌を持ってるんだよ!!
こんなカラダ相手にセーブするって、拷問だろう?
やべぇ……止まらねぇ……若さって奴に歯止めが効かなくなる。
「これ以上……ダメ……ああっ!!……壊れる……こわ……れ……ちゃう……」
悪い。高城。俺、壊れたお前も好きなんだ。俺の腕の中限定だけどな。
「君は……僕を……殺す気か……あっ!!ああっ!!」
若気の至りだ。骨は拾ってやる。耐えろ。高城。
「あっ……君は……僕を守ってくれるんじゃ……なかったの……か……やっ!!ああんっ!!」
苦しそうに(その何とも悩ましげな顔は、燃料投下以外の何物でもない。しかも、ガソリン級の)喘ぐ、高城にとって、やっぱり、今の俺はお前の「敵」か?
「……っ!!ほんと……お前の中って、気持ちいいよな……」
「何言い出すんだ君は……そんな……恥ずかしいこと……よく言えるな……」
「ほんとのことだから、仕方ないだろう?お前はどうなんだ?俺が中にいるご感想は?」
「……そんなこと、答えるとでも……思っているのか?」
「聞きたいね。模範的な回答を頼むよ。先生」
「やっ!!激しいっ……はげしすぎ…る……ああっ!!わかった……答える……僕も気持ちいいっ……君がいてくれて……気持ちい……い」
「はい。よくできました」
「……はぁん……あっ……あっ!!あっ!!ああんっ!!」
突き上げる度に、上がる可愛らしい声。
その口からは、意味のある言の葉が消えていた。
そして、その瞳からは、いつもの理知的な光が消えていた。
ダメだ。これ以上は、さすがに死ぬ。静まれ……鎮まれ……俺……一旦、休憩を挟もう。CMだ。
燃えたぎる激情を抑えるため、奴から視線を外し、(視界にこいつの姿があると、止まるものも止められない)必死の思いで身体を離した。
「高城。喉乾いただろう?水でも飲むか?今、持って来てやるからな。待ってろ……んっ?」
俺の手首が掴まれていた。
それは、高城の手だった。
「どうした?高城」
「やめ……ないで」
「へっ……?」
振り返った俺の目に映ったのはーー
こう、手をグーにしてだな、そんでもって、それを可愛いらし~い口元にやってて、おまけに上目遣いの潤んだ瞳だ。
んでもって、ほんのり上気した頬。
それで、男のくせにグロスでも塗ってんのか?ってくらい濡れた唇な訳だよ。
で。
その濡れた唇から溢れた甘い声が、俺の鼓膜に炸裂した。
「もっと……して」
あ~あ、あ~あ~。
この馬鹿……死にてぇのか!!
って、こないだもこんなノリじゃなかったか?
俺は頭を抱えた。
ダメだ。もうダメだな。
せっかく鎮火したはずだった俺の燻る残り火は、その顔と声だけで再炎上を始めた。
「頼むから、昇天するのは、カラダだけにしてくれよ?」
幼子のように俺を見つめたまま、小さく「うん」と答えた高城に、俺は無意味に「あ~あ、あ~あ!!ちくしょうっ!!」と声を上げると、リクエスト通り、フルボリュームで行為を再開した。
*
フルボリューム2ラウンド目を終え、息の上がった俺は、高城の身体を抱き寄せると、
「初めての晩も……こないだも、お前はいつも傷だらけだったな。今日のは……あの変態野郎か……」
と傷口に口付けた。激しくやらかしちまったにも関わらず、幸いなことに、高城の生命活動は平常通り維持されている。
「……あっ……痛いっ……全てが僕の咎の代償だ。……僕のために消えた命とあの子を抱いた背徳のね」
「高城?」
「一輝でいい。颯人。……名前で呼んで欲しい」
「わかったよ。一輝。お前にこんな辛い思いは決してさせない。俺がお前を守っていく。だから、もうそんな哀しそうな目はするな」
「……うん……あっ!!」
お前の痛みは、今や俺の痛みだ。
お前が血を流す時は、俺も共に傷ついていることだろう。
では、お前が死ぬ時は?
その時、俺は……。
「颯人……君の優しさは……何よりの薬だよ……」
「あんまり無茶するな?身体に悪いだろう?」
「君が……無茶をさせるんじゃないか……あっ……!!あっ!!やっ!!君は言っているそばから……!!ああっ!!ああんっ!!」
それは否定できないな。
惰性や欲望からじゃない。
性別や地位や名誉や生きてきた道のりも、全て俺たちの間には関係ない。
距離さえも軽く飛び越えてみせる。
そうだ。今なら心から言える。
一輝。お前を愛していると。
「思えば、こうして……本当に誰かに愛し愛されたことは……なかった気がする」
そう言うと、一輝はどこか遠い目をした。
「あの子を抱きながら、いつも不安でいっぱいだった。安らぎなんて……感じられなかった。だが、今は違う。君がいてくれるそれだけで、僕は……安心なんだ」
「一輝……」
「もう……思い残すことは……ない」
「馬鹿野郎!!本当に昇天すんなよ!?」
そうだ。俺を残して逝くなんて、絶対に許さない。
俺が絶対にお前を守ってみせる。
死神だろうと誰であろうと、指一本触れさせたりしない。
そう。絶対に……。
「おはよう……っと、まだおやすみか。……寝顔……かわいんだよな……ちっくしょうっ!!」
冷静になって考えてみると、俺はこいつと両想いになったということなのか?
ちょっと、待て。
相手は、あの高城一輝。
あの高城一輝だぞ?
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一番ありえない展開って奴じゃないのか?
だが、俺の隣には夢でも幻でもなく、高城一輝が眠っている。
「……んっ……」
「うっ!?」
高城の顔を見ることができない……。
ドキがムネムネ……。
って、俺はどこの乙女だ。
「……おはよう。颯人」
高城はそう言うと、朝日に溶けてしまいそうなほど可憐に(やっぱりこの表現しか思い付かねぇ)微笑んだ。
俺はそのまま次のラウンド(何ラウンド目か忘れた)に突入したい気分になったが、社会人の悲しさを噛み締めながら、そんな考えを必死に振り払った。
高城はちゃぶ台の前に陣取り、新聞を広げている。
一方の俺はと言えば、必死にフライパンの中の目玉焼きと格闘していた。
だから、どうして俺が新妻ポジションなんだ?
「できたぞ。ちゃぶ台の上、片付けてくれ。……なあ、一輝。飯の準備は交代制に……」
「やあ。美味しそうだね。ありがとう。颯人」
「うっ……」
負けだ。俺の負けだ。
そんな朝日よりも眩しい笑顔を見せられたら、俺は完敗だ。
「ん?今、何か言いかけたかい?」
「い、いや。何でもない……食おうぜ」
「うん?」
*
鳥ーー2015年4月17日0時52分 都内某ガレージ
世田谷区のガレージ。
そこは不動の昔の自宅だった。
そう。まだ彼のそばに妻がいた季節のーー。
「また、それを眺めていたのですか?」
乃木は琥珀の液体の注がれたグラスを不動の前に置くと、熱心に何かに視線を落とす彼に声をかけた。
それは、赤いカメオの嵌ったピンバッチだった。
「月夜が最期に握り締めていたピンバッチ……見誤るはずがない。これは俺が奴に贈ったものだ。全ての証拠が、あいつが……高城一輝が本ボシだと告げている」
不動の脳裏に妻の最後の電話の声が蘇る。
ーーーー『助けて……あなた……一輝君が……もう彼は私が知っている彼ではなくなってしまった……彼は悪魔……悪魔に魅入られ……うっ……ううっ……わたしは……彼に……殺される』
「一輝は当時、入閣前のデリケートな身体だった。あらゆるスキャンダルが奴にとっては許されないものだった。あいつの野望のためにな」
「野望のためですか……しかしね。私は未だに信じられないのですよ。あの青年が、あんなにも非情な行いをしたとは……」
不動はグラスの中身を一気に呷った。
「人間は己の野心のためなら、悪魔に魂を売る。俺はそんな人間を嫌というほど見続けてきた。騙されるな。……あいつは美しい悪魔だ」
*
月ーー2015年4月17日0時54分 都内某所
片桐智哉は、深夜のハイウェイを疾走していた。
行く宛もないドライブ。
もう休まないと明日(いや、もう今日か)の業務に差し支える。
だが、今自宅のベッドに潜り込んだとしても、一睡もできそうにないことを智哉はよくわかっていた。
静かな興奮が彼を包み込んでいた。
殺人……。
それはあの男ーー高城一輝とは一番結びつかないキーワード。
だが、同時に智哉は考える。
そうだ。「穢れた」あの男には、むしろそれは相応しい罪状なのではないかと。
なぜなら……。
智哉は、そっと留学時代に記憶を飛ばした。
一足先に留学をしていた高城。そして、その傍らにいた、世にも美しい少女。
ある日、彼は言った。
『僕は彼女と結婚したんだ』
智哉は、その一言に耳を疑った。
なぜなら、智哉は留学初日、他ならぬ彼の紹介で、その少女の素性を知っていたのだから。
空港に着いた初日、自分の下宿先よりも先に、何気なく先輩である高城の部屋を尋ねると、その少女が顔を出した。
ひどく戸惑う自分を、彼女は悪戯っぽい瞳で見つめていた。
そう。猫目石のような瞳で。
『先輩。この女性は?』
『ああ、彼女は僕の妹の千鶴だよ。ご挨拶なさい。千鶴』
『はい。お兄様。高城千鶴です。仲良くして下さいね』
高城は当惑する智哉におかまいなしで、そっと左手をかざしながら、自分の薬指を見つめていた。
そこには、銀に光るエンゲージリングがあった。
智哉は、冷水でも浴びせかけられたかのように、身体が震えるのを感じた。
「……狂いだろう。わかっている。だがね、僕は千鶴と約束を交わしておきたいんだ。例え、いつか破られる約束であろうとも、どんなに空しい足掻きであろうとも……」
そのエンゲージリングを愛おしそうに眺める瞳は。
その銀縁の眼鏡の奥の瞳が。
どこか、この世ではないどこかを見据える虚ろな瞳が。
あの日の少女と同じ猫目石のようだったから。
「彼は裁かれるべき男。……悪魔に魂を売った男。……そんな男に明美さんは決して渡さない……そうだ。許されるはずがない……あなたは穢れたエゴイストなのだから」
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