ヒロト、走る!

神野翔子

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ヒロト、走る!

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「くっそ!」

 今朝もあいつに抜かれた。

 あいつは音もなく俺の後ろに近づいては、追い抜きざまに風だけをぶつけ、矢のようなスピードで追い抜いていく。派手な配色をほどこしたロードバイク、チネリヴィゴレッリだ。

 いつかあいつと並んでやると誓いながら毎朝バッソヴァイパーで通学する俺は、偏差値が極普通の高校に通う二年の坂崎宏人。

 家から時速五十キロで十五分も走れば校門に到着する。教員用駐輪場に停められているあの派手なチネリが、俺の担任立川史哉のものだ。


 今日も立川に負けたと肩を落としながら教室に入ると、最後列窓側の席から沢村紀花が手を振ってきた。彼女は俺の大事な幼なじみだ。なにせ幼稚園のころから十四年間同じクラスをキープしている俺たちだ。こんな奇跡の幼なじみなど、日本中探してもいないだろう。

 紀花の漆黒のショートボブが、開け放たれた窓からの秋の風に揺れている。小さいころから変わらない笑顔が可愛い。

 俺が紀花をこんな気持ちで見ていることなど、彼女は知っちゃいないだろう。そんなことは十四年間おくびにも出したことはない。

 その笑顔に応えて俺も席に着いた。場所は彼女の斜め前。悪くない。

 気がかりなのは、紀花の隣りの田村悠介という男だ。特別とは無縁のこの高校に、なぜ偏差値七十超えのこいつがいるのか聞いた事がある。 彼はこう答えた。

「家から一番近い学校を選んだだけ」

 しかもこの悠介という男、顔もいい。男のくせに肌が透き通るように白くて、目も鼻も口も計算されたような位置にある。男の俺が見ても綺麗だ。俺が悠介に勝っているのはたぶん身長くらいだ。だがそれも数センチ。俺は一年の春休みから五センチ伸びて、今百八十五はある。しかし内心、もう伸びないでくれと願っている。

 この頭も顔もいい悠介が紀花の隣りにいる。授業中も小さな声でお喋りしているのが俺の耳にも届くとちょっとイラっとはするが、悠介はいいやつだ。親切丁寧に勉強も教えてくれるしとっつきやすい。


 今年同じクラスになったこの悠介と、紀花と、俺の隣りの我が校きっての情報通佐々木あずみの四人は、ほとんどいつも一緒にすごしている。高校二年の今が一番楽しいかもしれない。


 担任が入ってきた。あいつだ。派手色ロードバイクの立川史哉だ。臨時で担任持ちの数学教師。こいつもかなり変わりもんだ。歳はたしか俺らの十個上、二十七歳だったと思う。

 去年の二学期に代替の数学教師としてやってきた。毎日白いシャツに黒の細いパンツ。足元は黒のコンバースだ。胸ポケットにタバコが入っているのが透けて見える。内緒だが、一度先輩の家で吸ったことがあるLUCKY-STRIKEだ。

 立川は背だって高いし顔は良いくせに、ほとんど笑わない上に生徒と無駄な話は絶対にしない。まあその理由は、情報屋のあずみに聞いて俺は知っているが。女子の中には、あの冷たそうな目と表情がクールで素敵などと言っているのも多い。

 ふと紀花は立川をどう見ているのだろうって考えたりもするが、俺は自転車であいつを負かすまで、立川がイケメンだとは認めない。ザクザクと切られた長髪を左手でかき上げ、そのまま右肩をつかむのがあいつの癖だ。

 その癖がどういう意味なのか知っているのはたぶん俺だけだろう。


 二時間目が終わった。教室の入り口から甲高い声が聞こえた。

「ゆーーすけーー!」

 また来た。F組の小竹優梨愛だ。制服の短いスカートから惜しげもなくまっすぐな脚を見せている。正直すげえ綺麗な子だとは思う。優梨愛はしょっちゅうこのG組に来ては悠介を呼び出す。悠介狙いなのが見え見えだ。

 俺はこの優梨愛って女を警戒している。それは、優梨愛の紀花を見る目だ。悠介の隣りの席で仲良くしている紀花を、あの女は良く思っていないはずだ。俺の勘は鋭い。

 優梨愛に呼ばれてしぶしぶ席を立つ悠介だが、いかにも迷惑そうな顔をしている。嫌なら嫌で追い払えばいいのに、根が優しい悠介にはそれができないのだ。

 戻ってきた悠介に聞いた。

「なんの用だった?」

「用なんかないよ。ただ今度図書室で一緒に勉強しようよとかさ」

 悠介はため息をついた。秀才美男子のしんどいところだろう。でも、悪いが俺には関係のない話だ。適当にかまってやればいいだけだ。


 二学期に入ってもうひと月経った。

 文化祭の実行委員決めが行われたが、役員会だの委員会だの、そういう堅っ苦しい役どころが大の苦手の俺は、幸運にも見事に逃れた。でもそういうのが嫌いじゃない紀花は委員になったみたいだ。

 あいつはそういうところが妙に生真面目でだめだ。そんな仕事を引き受けちまったら、放課後俺と遊ぶ時間がなくなるじゃないか。

 今日も委員会だとか言って、俺の誘いを断って行ってしまった。つまんねえ。F組の実行委員にはあの優梨愛と、悠介に次ぐイケメンで通っている楠木ってやつがいる。

 そういえば以前、情報屋のあずみに聞いたことがある。一年の時悠介にふられた優梨愛が、その後彼女に言い寄っていった楠木とつきあったって話。あれはどうなったんだろう。まだ関係は続いているんだろうか。

 そんなことを考えながら俺は、相当似つかわしくない図書室で紀花を待つことにした。実行委員会は、図書室の並びの生徒会室で行われている。

 図書室の自習スペースは、意外と勉強する生徒で埋まっている。ここはいつもこうなのか? 普段足を踏み入れない俺は、図書室がこんなに人気があるのを初めて知った。かなり居心地が悪い。周りに溶け込むために、俺はリュックからイヤフォンを出してスマホで音楽を聴き、英語の教科書を開いた。


 もうどれくらい経ったのだろう。委員会は終わっていてもおかしくない時間だ。俺は図書室を出て生徒会室に向かった。ちょうど生徒会室のドアが開け放たれ、ばらばらと生徒たちが帰って行く。

 知った顔を見つけて聞いた。

「なあ、紀花は?」

 そいつは首をかしげ、知らないと答えた。優梨愛も誰かと喋りながら廊下を歩いている。中をのぞくと、残っているのは先生と生徒会長だけで紀花はいない。もう帰ったのか? おかしい。俺は紀花に言ったはずだ。図書室で待ってるから一緒に帰ろうぜって。

 二年で生徒会長のH組のやつに聞いてみた。

「G組の沢村紀花、帰ったのか?」

 すると生徒会長は、一瞬どうだったかなという顔をしてから言った。

「そういえば先に楠木と二人で出ていったけどな」

 その言葉に俺は嫌な予感がした。俺の鋭い勘が先に行く優梨愛の後を追えと言った。俺は肩のリュックを放り投げ、通用口までの廊下と階段をロードバイクで走るほどのスピードで走った。そして二階の階段の踊り場で優梨愛をつかまえた。

「おいっ! おまえ、紀花と楠木、知らねえか?」

 優梨愛の目が一瞬泳いだのを俺は見逃さなかった。考える前に手が出ていた。俺は優梨愛のブラウスの襟元をつかみ怒鳴った。

「おまえ、知ってんだろ! 紀花と楠木だよっ!」

 相手が女だろうが美人だろうが、俺の勘は力を緩めさせなかった。恐怖のまなざしで俺を見る優梨愛の口がかすかに動いた。

「し……資料室で……」


 生徒会室の奥側にある、ほとんど誰も立ち入らない資料室だ。俺は優梨愛の言葉を最後まで聞かず、つかんでいた襟元を突き放すと、今降りてきた階段を駆け上った。そして薄暗い資料室まで全速力で走った。ロードバイクに乗ってりゃ心肺能力も上がるってもんだ。たぶん脚は陸上部の連中にも負けない。


 資料室のドアを俺は勢いよくガラリと開けた。普段使われていない部屋の埃っぽい空気が舞う。そこには、床に散らばった古い資料のファイルと長机。そしてその上には上半身を仰向けに押し付けられた紀花に覆いかぶさる楠木がいた。優梨愛からの指令だろう。声も出せずにいる紀花の目からは涙がぼろぼろとこぼれていた。

 俺は声を出すより先に、俺に目を向けた楠木に飛びかかった。紀花から引っ剥がしたヤツを床に投げ飛ばし、その上に馬乗りになった。

「おまえっ! 紀花になにをした」

 楠木は口元を歪め、ふっと鼻で笑った。俺はヤツの学ランの襟元を締め上げ拳を振り上げた。とその時、声がした。

「おいっ!」

 振り向くとそこには、片手をポケットに突っ込んだ白シャツの立川が立っていた。おそらく放課後の校内の見回りかなにかだろう。立川はいつもの冷たい目で俺と楠木を見た。表情から立川の感情は読めない。怒っているのか?

 近づいてきた立川が俺の振りかざした右腕をつかんだ。すごい力だ。身長はあるが、この細い身体のどこにこんな力があるんだ。ああ、そうか。ほぼ毎日ロードバイクの下ハンをつかんで走っているのだ。腕力と握力は半端なく鍛えられているはずだ。立川は俺の右腕をギリギリとねじ上げ、同時に左手で楠木を引き起こした。すげえ馬鹿力だ。立川は表情一つ、声色一つ変えずに聞いてきた。

「おまえら、なにやってんだ? 委員会はとっくに終わっている。紀花はなんでここにいて泣いてるんだ?」

 黙秘している楠木に代わって、俺が全部説明してやった。それは紀花の制服の乱れと床に散らばったファイルが証明してくれた。

 それを聞いた立川はふんと鼻を鳴らし、一度紀花を見てから俺を向いた。そして一言だけ言った。

「やれよ」

 一瞬俺は耳を疑った。これは一体なにを意味する言葉なのか。

「やれよ。紀花のためにだよ」

 立川は、つかんでいた楠木を壁際に放ると同時に俺の振りかざした右腕を解放した。そして俺はその拳を思いっきり楠木の左っ面に見舞ってやった。吹っ飛んだ楠木の身体がスチール製の棚にぶつかり大きな音を立てた。


 翌朝、俺の真っ赤なバッソヴァイパーは絶好調な走りを見せた。よし、これなら立川の派手なチネリヴィゴレッリに勝てそうだ。と思ったその時、ぶわっと風圧が俺を襲い、この長いストレートでまたもやあいつに千切られた。
 それでも俺は気持ちがよくて、スッと尻をサドルから上げると、はるか先を走る立川のチネリを追った。



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