上 下
29 / 33
第五章 家族の物語

第26話 母さんの願い

しおりを挟む
 結局……僕が、僕のせいで母さんが死んだことに変わりはないじゃないか。

『…………結果としてはそうかもね。
 だけど過程が違う。
 お母さんはあなたを恨んでなんかいない。
 お母さんはただ————』

 セシリアの言葉をかき消すように母さんが叫んだ。

「出てきなさいっ!
 こっちは逃げも隠れもしないわ!」

 母さんがたどり着いたのは食堂だ。
 大きな食卓や暖炉がある我が家で一番広い部屋。
 そこで母さんは壁に飾られている剣を手に取って鞘から抜き放った。
 腕力がないから腰より上には構えられないのだろう。
 だけどその立ち姿は美しく、剣を持ち慣れていない淑女にできる構えではなかった。

 そんな母さんの背後に怨霊が現れる。

『ちくしょう…………調子に乗りやがって!
 このメス豚!
 成金のアバズレ!
 お前の息子は出来損ないっ!』

 口汚く母さんを罵る怨霊。
 その声は生きている人間には届かない————はずだった。

「アンタの方こそ調子に乗るんじゃないわよっ!
 この虫ケラっ!!」

 なんと母さんの剣が怨霊を捉えた。
 その刃は霊魂に触れることはなく虚しく空を斬るだけだったが母さんは怨霊を視認しその声を聴いていた。

『ど、どういうこと?』

 動揺する怨霊に母さんは苦悶の表情を抑え込むように嗤う。

「あはは、どうやら死にかけてるおかげで普段見えないものが見えちゃってるみたい。
 この調子なら死に別れた仲間たちともおしゃべりできちゃいそう」

 母さんの言葉は正しいと僕には分かる。
 身体から霊魂が離れかけていて輪郭がボケて見える。
 知覚が霊体のものに近づいた結果だろう。
 これは紛れもない奇跡……だけど、

『だからどうしたって!?
 お前の剣はボクに届かない!
 ジワジワと焼け死ぬのを見届けてやるよ!』
「はあ? まさか自分が勝ってるとでも?
 死にかけの私を直接殺すこともできないんでしょ。
 人に取り憑くしかできない虫ケラ以下のゴミ野郎!
 悔しかったら私にビンタのひとつでもしてみなさいよ、無能の役立たず!」

 僕が聞いたことのない母さんの罵詈雑言。
 それは確実に怨霊の怒りを煽ったようだ。

『フ……フフッ……まさか死にかけの抜け殻にここまでイラつかされるとは……
 分かったよ!
 お望み通りにしてやる!』

 怨霊は霧状の身体を拡げハエの群れがたかるように母さんを包み込んだ。

『お前の言ったとおりボクはお前に触れられない。
 だけど死にかけのお前の身体を乗っ取るくらいはできるぞ!』

 嘲笑いながら怨霊は母さんに取り憑いた。
 母さんの表情がみるみる邪悪なものになっていく。

「アハ、アハハ……
 なるほど、あの方が欲しがったわけだ。
 この身体、凄まじい力を秘めている。
 もったいないな!
 今からではどこまで絞り出してもこの屋敷の人間を皆殺しにするので手一杯だ!
 だがアリスタルフだけは絶対殺す!
 お前の身体を使ってなっ!!」

 結末を知っているのに腹が立って仕方なかった。
 母さんをこんなふうに貶めた怨霊を八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られる。
 だけどここは————の記憶の中。
 干渉することは、

「グアっ!?
 な……何を!?」

 突然、母さんに取り憑いた怨霊が苦しみ出し、無理やり引き摺られるように身体を動かされている。

「…………私の読み通りね。
 身体を乗っ取られたからって私の精神が上書きされるわけじゃない。
 身体を動かす権利を持つのは、意志力の強い方っ!!」

 勝ち誇るように声を上げる母さん。
 母さんの身体の中で怨霊と母さん自身が戦っている。

「バ、バカなっ!?
 今までたくさんの人間に取り憑いたけれどこんなことは」
「ハッ! 私を舐めないでよ!
 大怪我をして力を失い、欠けた臓腑では病弱にならざるを得なかったけれど、心までは弱っていない!!」

 啖呵を切り、身体を炎の海に進めていく母さん。
 その狙いに気づいた怨霊は慌てて命乞いをする。

「わ、わかった!
 身体から出て行く!
 だからやめろ!」
「今さらもう遅いわよ!
 フワフワ宙に浮いてる時はダメージなかったみたいだけど、私の身体に憑いた状態で炎に焼かれてはどうなるかしらねぇっ!!」

 なんて強靭な意志だろう。
 怨霊を葬るために自ら取り憑かせ炎の海に飛び込む。
 僕にできるか?
 いや、できるわけがない。
 いったい何が母さんを突き動かしているんだ。

『そんなの決まってるじゃない』

 セシリアがポツリと呟いた瞬間、母さんが火の海に飛び込んだ。

「ギヤァアアアアアアアアアアアッ!!!」

 怨霊が母さんの声帯を使って悲鳴を上げる。
 僕は耳を塞ぎたくなった。
 しかし、母さんの心の声が脳内に響く。

(……殺させない……絶対にリスタは殺させない!
 だって、あの子には未来があるもの。
 今まではコイツに怯え続けていたけれど大丈夫。
 この屋敷を離れて環境が変わればきっと強くなれる。
 私とヴァーリ様の子供だもの。
 そうなればヴァーリ様もアレクも認めてくれるわ。
 私がいなくたって、家族は幸せになれる。
 だからっ!!)

「お前はっ!! ここで死ねえええええええええっ!!」

 自らの身体を焼ける床に叩きつけ殺していく。
 その凄絶さは目を覆いたくなるものだったけれど、僕は真っ直ぐに見つめた。

 だって母さんが、命懸けで成そうとしていることだから。

 しかし、無情にも怨霊は母さんの体から抜け出した。
 生命力が尽きかけて押さえ込もうとする母さんの意志が弱まったからだ。

『あ、危なかった……
 ちくしょう……こんなところでボクは消えるわけにはいかないんだ!
 この借りは返す!
 必ずお前の家族を無茶苦茶にしてやる!!』

 捨て台詞を残し逃げ去った怨霊に母さんは舌打ちをして横たわった。

(最後の最後にミスっちゃった……
 情けないなぁ。
 何もできていないじゃない。
 悔しい)

 母さんの後悔の念が伝わってくる。
 事実、この後にあの怨霊は父さんに取り憑いて残った兄さんとの関係も壊した。
 母さんは失敗したんだ。

 悔しく滲むような母さんの声。
 しかし、突如それは涙を拭うように強さを取り戻すと、祈りの言葉に変わった。

(神様……どうかお願いです。
 どんな形でもいいですから私にチャンスをください。
 家族を、せめてリスタを守らせてください。
 育てさせてください。
 願わくば、強い身体で。
 この弱い身体ではあの子に優しくすることはできても強く鍛え上げることが出来なかった。
 生き方を導くことができなかった。
 若かりし日の強かった私の姿であの子を育てたい。
 それが叶うなら私はなんだってします。
 お願いです、私をリスタのそばに————)


 お母さぁんっ!!


 僕は叫んだ。
 その声が届くことはない。

 セシリアの言葉の意味が分かった。
 母さんの死は僕一人が抱え込んでいいような安いものじゃない。
 無償で最上の愛を、僕に捧げて命尽き果てるまで戦い抜いた末の死だ。

 生者が死者を悼み、死者は生者に願いを懸ける。
 そんな光景を何度も見てきたのに、自分のそばにいる人のことを全然見ていなかった。

 お母さん……ごめんなさい。
 僕は今まであなたの想いをこれっぽっちも知らずにいた。
 やり切れない思いを復讐に託そうとしていた。
 そんなこと、あなたは望んでいなかったのに……

 これからは————今からは違う。
 あなたが想ってくれた僕を大切にするよ。
 そして強くなる。

 あなたの想いに応えるために……
しおりを挟む

処理中です...