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05. 家族

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 最後の仕上げで少し形を崩してしまったオムライスに笑いながら、二人で食事をすませる。
 食器を洗って片付けてから、映画のDVDでも見ようという話になったのだけれど。

「諒也、どれにする?」
「遥香のおすすめは?」
「これぜんぶ静香のなんだよ。オレも見たことないの多いんだってば」

 リビングのテレビの横の棚に並べられたそれは、ほとんど静香が趣味で集めたものなのだった。静香の好みだからもちろん内容には偏りがある。基本的にはどんな映画でも観る静香だけれど、ホラー系やミステリー系は少ない。
 つまり。静香は血が苦手なのだ。
 スプラッタなんてとんでもない。
 一般的には、男性より女性の方が血には強いと言われているけれど、市村家にはその常識は通用しない。
 遥香もかなり弱い方だけれど、静香はその上をいく。自分の血は平気なクセに、他の人の血を見ると卒倒でもしそうなほどの大騒ぎになる。
 知則はというと、ざっくりと切ったような切り傷でも平気な顔で手当てできるくらいには強い。そういう意味では、三人の中では一番頼りになる。
 ちなみに言えば諒也もかなり平気な方である。

「アクション系も少ない?」
「あー、ほら怪我とかの描写があるから。それダメなんだよね。静香、オレより弱いもん」
「あ、そうだっけ」
「そうそう」

 レンタルやサブスクもあるのに、と友人に言われつつも買ってしまうらしく。静香のライブラリーは充実している。
 遥香は昔からそれに便乗していろいろな映画を見ている訳なのだが。
 本当は知っている。
 わざわざ買ってくるのは、人見知りのせいで映画館に行けない遥香のためだと。本当は遥香も諒也も気付いている。
 けれど、静香が何も言わないから、気付かないフリでそれに甘えるのだ。

「でも、オレと諒也でラブコメとかもどうよって思うけど」
「恥ずかしい?」
「うん。なんか照れる」

 笑いながらさらりと言って、ひとつの作品に目を止める。

「あ、これ……」

 そろりと手を伸ばした作品は、かなり古い作品で。
 でも。

「それ俺も見たことないやつだ」

 少しためらった指先のタイトルに、諒也が言うから。
 暗黙の了解と言うやつで、ふわりと笑った遥香はそのパッケージを取り出した。
 他愛もない会話を交わしながら見始めた映画が中盤を過ぎた頃だった。

「ただいまー」

 カチャンと鍵を開ける音がして、静香の声が響く。

「あ。静香帰ってきたね」

 言いながら遥香が振り返ったところで、静香の姿が見える。

「おかえり」
「お邪魔してます」

 二人で迎えると静香はもう一度、ただいま、と繰り返して。遥香たちが見ていた映画に気付いて一瞬だけ驚いた表情になる。

「随分と懐かしい映画見てるねー」
「って、静香のコレクションだよ?」
「そうよ。だって主演の俳優が好きなんだもの」
「そんな理由なの……」
「映画も好きよ。綺麗なストーリーだからね」
「そうだね……」

 ファンタジーで。
 切ない、ラブストーリー。
 結局、照れると言っていたラブコメよりももっと恥ずかしい作品をチョイスしてしまったという訳だ。

「いいから見てなさいよ。これから泣けるから。終わったら呼んでね」

 自身も映画好きだからか、映画鑑賞の邪魔になるようなことはマナー違反だというのが信条の静香は、それだけ言い置くと物音を立てないようにして素早く自室へ入ってしまう。
 そんな姉の厚意に甘えて。二人揃って最後まで映画を見てしまってから、静香の部屋のドアをノックした。

「静香ー。終わったよ」
「はーい」

 行儀の良い返事をして部屋から出てきた静香は、帰ってきた時の通勤スタイルから、ラフなTシャツとジーンズに着替えていた。

「どう? 結構泣けたでしょ?」
「あー……、うん、まぁ」

 静香の問いかけに遥香は言葉を濁すけれど。

「泣いた泣いた。遥香が。静香さん、見てやってよ」

 面白がるように、諒也が暴露してしまう。

「諒也っ!」

 咎めるように遥香が名前を呼びつつ顔を静香から逸らす。
 だが。

「ふふふ、甘いわね」

 ちちち、と人差し指を振りながら静香はニヤリと笑う。

「遥香ガチ勢の私を舐めるな。さっきの一瞬でそんなのお見通しよ」
「なるほど、さすがガチ勢」

 諒也は納得したように頷くけれど、遥香は面白くない。

「なんだよガチ勢って……」
「まあ、いい映画だったということで」

 遥香の不満をさらりと流して静香が言う。

「ところで、二人ともお昼ご飯は食べたの?」
「うん。諒也が作ってくれた」

 遥香のその言葉に、キッチンの様子を確認してコップに麦茶を注いだ静香の顔色が変わる。

「諒也、あんた……」
「はい?」
「私にはその腕前を披露しようともしないくせに……」

 完全なる言いがかりである。

「いや、え? 静香さん?」

 別にそれは諒也が意図してのことではない。たまたま事情が重なったりして静香に手料理を振る舞ったことが無いだけなのだけれど。
 遥香からその料理の腕前を聞いている静香としては、諒也の料理を食べてみたいというのが本音なのだった。
 なにやら不穏になりつつある空気に、遥香の方がうろたえる。

「あのー、えっと……、そうだ! 今度もっと違う感じの映画とかも見たいなぁー、なんて……」
「医療ものとか怪我するようなシーンがある作品はダメよ……」

 私が無理、とボソボソと続けられ、遥香は言葉選びに失敗したことを悔やんだ。

「そんなに苦手なんだね……」

 ぼんやりと続けてしまった言葉に。
 静香が何ともいえない複雑な表情で遥香を見る。困ったような、呆れるような。それでいてどこか悲しそうで労るような。
 見つめられた遥香の方が居心地が悪くなってしまった。

「静香……?」
「私が血を見るのが苦手になった原因の、そもそもの張本人が何言ってるのよ」

 告げられたその内容を、一瞬理解できなかった。
 数秒かけて、ようやく脳が言葉の意味を解析する。

「…………えええっ?」

 驚き過ぎて思わず大きな声をあげてしまう遥香を、こちらも驚いた表情で静香が見つめ、そして苦笑して肩を竦めて見せる。

「そんなに驚くことないでしょう。あれだけの怪我よ。あの時までは、私だってそれなりに平気だったんだから」
「静香さん、それって……?」

 唯一話の見えない諒也が、控えめに声をかけると。静香は、ああそうか、と呟く。

「ここに引っ越してくる前のことだったから、諒也は知らなかったよね」
「…………」
「あのさ。想像してみてよ。いつも通りに学校行って帰ってきたら、家の中で、目の中に入れても痛くないほど可愛がってる弟が血溜まりの中に倒れてるのよ?」
「……っ!」

 さらりとなんでもない事のように語る静香の表情や声と、凄絶なまでの内容とのギャップに、諒也は息をのむ。
 想像しただけでも、その凄惨さに言葉を失った。

「まだ幼稚園に通い始めたばかりの小さな子なのよ。その遥香が血塗れで倒れててピクリとも動かないのよ? いくら私でも心臓止まるかと思ったし、トラウマにだってなるよ」

 その時のことを思い出したのか、静香の表情は固いものになっていく。

「それ……遥香……?」

 まだ少し信じられないような表情で、諒也が重ねて問う。

「そうよ。出血の原因は背中の大きな裂傷だった。事件か事故かって言われてたんだけど、結局は事故で片付けられちゃってね。家の中で、どうやったらあんな怪我ができるって言うのよ」

 説明をする自分の言葉で当時の憤りが甦ってきたらしく、静香が片手で自分の髪をくしゃりと掴んだ。まるで、感情の昂りをおさえるかのように。
 当時の、担当した警察のいい加減さに腹が立った。
 遥香が一人で遊んでいる時に、誤ってどこかにぶつけて負った怪我だろうと言ったのだ。
 どこをどうしたら、そんな推測ができるのか。
 遥香のキズはかなり大きなもので、鋭利な刃物で切ったような鮮やかな切り口だったのだ。ぶつけたような怪我なんかじゃない。けれど遥香が倒れていた近くには刃物なんか無くて。
 面倒事になりそうな事件にはしたくない。
 そんな警察の思いが見えた気がした。
 そして何故か母はその場にいなくて。
 第一発見者で、事件であることを主張した静香は中学生。まともに取り合ってはもらえなかった。
 仮に本当に事件だったとしても、凶器も犯人も分からないまま未解決。
 既に事故として処理されている以上、警察が再捜査する可能性は無いに等しい。
 苛立ち。悔しさ。憤り。
 静香は俯いて瞳を閉じ、ゆっくりと吐息することで、そういったどうしようもないどこにもぶつけようのない想いを払拭する。
 次に顔を上げた静香は、いつもの彼女に戻っていて。笑って、言う。

「私、救急車に乗ったのなんてあの時だけだよ」
「えっ!」

 救急車、という単語に反応したのはなぜか遥香。

「遥香は意識なかったから覚えてないだろうけど。言わなかったっけ?」
「あ、えと……、聞いたのかもしれないけど……」

 少し考えればそれはそうだろうと思うのだが。
 血塗れの遥香を抱えて病院に駆け込むなんて、中学生だった静香にできるはずがない。
 しかも、話の流れからして警察沙汰だ。
 救急車を呼んだ事は容易に想像がつくだろう。
 それでも。遥香にとってはあまりにも非現実的に思える言葉の連続に、もはや思考が追いつかない。

「ケガしたのは覚えてるんだけど……なんていうか、その……前後に関しては記憶が曖昧というか……覚えてないと、いうか……」

 最後の方は、消え入りそうな声になってしまう。

「そっか。あの時の遥香は高熱も続いてたからね」

 優しく笑って。けれども、痛みを隠した声で静香は言葉を紡ぐ。

「なにより、覚えていたいことではないから、ね」

 忘れていられるなら、きっと、その方がいい。

「……静香もね」

 あんなこと覚えていなくていいよ、と。
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた遥香に、静香は曖昧に微笑んだ。

「さ。もうこの話は終わりね!」

 パチンと手を叩いて鳴らし、静香が会話に区切りをつける。

「今日は冷蔵庫の中のもの全部使って料理するからね! 心して食べなさいよ!」
「は?」
「本気で?」

 さっき確認した限りでは、そこそこの量の食材があったはずである。
 遥香と諒也が揃って声を上げるけれど、静香は少しも動じていなかった。

「明日から十日間も留守になるんだから、当然でしょ!」

 言い切る静香に、迷いは微塵もなかった。
 そして、無謀ともいえる宣言通り、冷蔵庫の中の食材を全て使い切った夕食時の食卓は、相当にぎやかなものになった。

「……静香。これ全部食べるの……?」

 テーブルに所狭しと並べられた料理の数々に、遥香は呆然と呟いた。
 サラダや煮物などもあるけれど、特に多いのは酒のつまみにもなるようなメニュー。揚げ出し豆腐や唐揚げなんて、居酒屋の定番メニューではないのか。遥香はよくは知らないけれど。
 諒也と、定時で帰宅した知則も、言葉をなくして立ち尽くしていた。
 言いたかったのは、きっと、遥香と同じセリフ。

「いやー、別に。食べきれなければタッパーに詰めて諒也に持たせる」

 あっけらかんと無責任なことを言い出す静香に、遥香はそっとため息をついた。

「なんだそれ……」

 呆れたように言うけれど、これが静香なんだとどこかで納得もしている。

「まあまあ。それはいいとして、食べよ!」

 静香が微笑みながら促すのに三人が抗えるはずもなく。
 示されたそれぞれの席に、おとなしく座った。

「では、いただきます」
「いただきまーす」

 そして。
 食事が始まってしまえば、意外に食べてしまうもので。
 少食気味とはいえ遥香も、そして諒也も食べ盛りの高校生。加えて知則だって男性であるのだから、それなりには食べる。
 いろいろな話をしながら、盛り上がれば箸も進む。
 静香が作った大量の料理を着実にたいらげつつあった。

「本当に冷蔵庫の中のもの全部使ったんだ?」

 昼間の経緯を聞いた知則が、思わずといったように確認しているのを、やっぱりそう思うよなぁなどと他人事のように遥香は聞いていた。

「うん」

 あっさり頷く静香に知則は苦笑した。

「遥香くんと諒也くんに使ってもらえばいいのに」
「ダメ。十日間はここ立入禁止だからね」
「えっ、なんで?」

 自分の家なのに、と遥香が抗議の声を上げると。

「こんなに長い期間離れるの初めてだから心配だし。それに……」

 そこで躊躇うように言葉を区切り、静香は一瞬だけ遥香か視線を逸らす。

「また、あんなことがないとも……限らないし……」

 力なく漏らされた静香の言葉に、彼女が思い浮かべているであろう光景を想像して遥香は息をのんだ。
 昼間、諒也に話したあの怪我のこと。
 あんなこと、そうそうあるものじゃない。
 それでも真剣に言い募る静香の様子に、あのことが、遥香が思っていたよりもずっと深く静香の心にも影を落としていたことを知った。

「……わかった」

 おとなしく遥香が頷くと。静香は満足したような表情で、今度は諒也に向き直る。

「諒也は、毎日遥香に張り付いていなさい!」

 ビシリと指を突き付けながら、有無を言わさない命令口調で言い放つ。

「張り付けって……。言われればやるけど……」

 投げられた言葉に戸惑いながら諒也が遥香に視線を向けると、遥香は唖然とした表情でポツリと呟いた。

「……オレの人権と意思は……?」

 静香の深い想いに感動したところだったのに。あの、じんわりと暖かい気持ちが、なんだか虚しいものに思えてくる。

「まあ、それだけ遥香くんのことが心配なんだろうけど……静香もあんまりむちゃくちゃ言わないで……」

 宥めるように困ったように知則が言うから。

「さて。諒也、先に風呂入っちゃいなよ」

 遥香が話の方向をあからさまに変えようとして。諒也はそれに気付いて乗ってやる。

「ああ、そうだな」

 諒也が頷くのを見ると、遥香はふわりと笑った。

「じゃあ、用意してくるから。ちょっと待ってて」

 言い置いて、ぱたぱたと忙しなく動き始める遥香を見送りながら、静香はほのぼのと笑った。

「……甘やかしてるねぇ」
「遥香が?」

 微笑しながら諒也が聞くと、楽しそうな声が返される。

「どっちも」

 くすくす笑う静香を眺めながら、よく言う……と諒也は苦笑した。

「静香さんと知則さんもね。遥香にはベタ甘なくせに」

 静香と知則は、切り返された諒也の言葉を否定も肯定もせずに、ただ曖昧に微笑んで見せる。
 短い沈黙が、流れた。
 そして、おもむろに。

「……諒也」

 さっきまでより少しだけかたい声で名前を呼ばれて。諒也はまっすぐに静香の視線を受け止める。

「あのね……」

 続けようとした静香の言葉は、遥香が戻ってくる気配であっけなく中断される。

「そろそろ大丈夫だよ。バスタオルはいつものとこ」

 それまでの雰囲気を払拭してしまう遥香の綺麗な声に、諒也は微笑んだ。

「ありがとう。じゃ、失礼して」

 遥香がいる場所では話の続きはないと直感で察した諒也は、静香と知則に目礼してそのまま席を離れた。
 諒也と入れ違うように戻ってきた遥香はテーブルを挟んで静香と向かいあって座り、少し上目遣いに姉の顔を睨んだ。

「で? お姉サマは何を企んでるのかな?」
「企んでるだなんて人聞きが悪い。別になにも!」
「……静香」

 ここまできても聞き出せないとなると、これはもう遥香関係だとしか思えない。遥香はそっとため息をついた。

「信用はしてるけど念押ししとく。変なこと諒也に吹き込まないでよね」
「なに? 言われちゃ困ることでもあるの?」

 くすくす笑う静香は、いつもよりテンションが高い。

「それこそ、別に何も無いけど」

 はぁ、と。今度こそ深いため息をついた。
 本当に、諒也に知られてダメなことなんてない。あくまでも静香が知っている範囲では。
 だから特に心配はしていないけれど。

「あんまり諒也の負担になるようなことは言わないでよね」

 それだけは、本当に。
 静香は本当にブラコンである。シスコンである遥香が言うのもなんだけれど、下手をすると夫である知則よりも遥香を優先するほどなのだ。
 その静香が、遥香のそばを十日間も離れるのだ。諒也にどんな無茶ぶりをするのか、それが心配だった。

「オレだって、もう小さな子供じゃないんだから」
「ふふふ。私にとってはいつまでも可愛い弟のままよ」
「…………。知則さんも何か言って」

 もはや何を言っても静香にはかなわないのは知っている。だからこそ知則に助け舟を求めたのに。

「いや無理」

 あっさりと返されて遥香は少しだけ凹んだ。

「知則さん……」

 どんよりと名前を呼べば。

「だってね。何よりも遥香くんを優先するのが静香で、そんな静香だから結婚しようと思ったんだから」

 にこにこと人のいい顔で微笑みながら知則が言うから、遥香はもうどうしようもない。
 本当に、この人たちは。どれだけ遥香を甘やかせば気が済むのだ。
 それから少しして、スッキリした顔で風呂から出てきた諒也と入れ替わりに静香と知則をまとめて風呂場へと送り込み、遥香はぐったりとリビングのソファに倒れ込むように座った。

「遥香? 大丈夫か?」

 遥香の隣に座り、訝しげな表情で諒也が聞く。

「なんでもない……平気……」
「いや……今更だけどさ。知則さん……」
「うん?」

 本気で諒也が言う意味がわからずに首を傾げる遥香だが、そういえば、と合点がいった。
 そうだ、遥香は知則のことが好きだった。諒也の前で泣いたではないか。
 だからこそ、諒也は遥香の気持ちを気にかけてくれているのだろう。
 けれど遥香は、それこそ諒也に申し訳なくなる。

「大丈夫だよ。オレ、結構したたかだからね」

 にこりと笑う。
 強かもいい所だ。なにしろもう別の人を好きなのだから。
 それが誰とは言えないけれど。

「遥香が、そう言うなら……」

 少し納得のいかないような表情で、でも柔らかく笑って。諒也はくしゃりと遥香の髪を撫でた。
 その手が、風呂上がりのせいだけではなく暖かくて。優しくて。
 それが嬉しくて、遥香はまた笑った。
 この瞬間がずっと続けばいい。
 そんな風にさえ思ってしまう。
 それが叶わないことなど分かっているけれど。
 静香と知則が揃ってリビングに戻ってきた時、遥香と諒也は他愛もない会話をしていて。諒也は、そこで静香に捕まった。
 順番ということで風呂へ送り出された遥香が戻ってきた時も、諒也は静香の話し相手になっていた。
 話し相手というより、話を聞かされている、という方が近いけれど。

「ねえ……オレ、先に寝るよ?」

 遥香は眠りが浅いのだ。せめて十分な睡眠時間を確保しないと昼間が辛い。
 そう、遠回しに訴えるけれど。

「うん、おやすみ。あとで諒也も解放してあげるから」
「……今じゃないんだ」
「ちょっとね」

 意味ありげに静香が微笑むけれど、それ以上は何も言う気がないのだと察すると、遥香は諦めて微苦笑を浮かべる。

「……おやすみ」

 吐息とともに、ささやくように言う。

「おやすみ、遥香」
「おやすみなさい」

 就寝の挨拶を交わし、遥香は自室へと向かった。
 一人で眠るには広すぎる、セミダブルのベッド。
 遥香の部屋のそれは、一人で眠ることを怖がった遥香のため、静香が用意したもの。
 彼女は、毎日何かに怯える弟を守るように抱きしめて眠りについた。
 さすがに、遥香が小学校の高学年になる頃には部屋を別にしたけれど。
 その頃から時折諒也が泊まりに来るようになり、二人は一緒に眠った。
 別に、人肌が恋しい訳じゃなかった。
 諒也だから、安心した。
 遥香の、一人目。
 本当は、遥香はそれほど人見知りが激しい訳ではなかったのだ。
 変わったのは、ケガをしてから。
 静香がトラウマになったと言う、あの背中のキズを負ってからだった。
 入院していた間のことは覚えていない。
 けれど、退院してから。
 静香以外の全ての人に対して、今までのように接することができなくなっていた。
 他人がこわくて、こわくて。普通に話すことさえ難しい。
 そうなる前は人見知りなんかした事がなくて。それどころか、どちらかと言えば明るく人懐っこい性格だったのに。
 まだ幼かったけれど、自分自身のその変化にショックを受けたことを、ハッキリと覚えている。
 どうして、と。なぜこんなふうになってしまったのだろうか、と。
 怖い思いをした家でこれ以上生活させる訳にはいかない、と。静香が主張して押し切って引っ越してきたここで、諒也に出会った。
 初めて会った諒也と、遥香はなぜだか普通に話せた。
 それが純粋に嬉しかった。
 人見知りというより人を怖がるようになった遥香が、初対面から緊張せずに話せた、諒也は一人目。
 今は、好きな人。
 遥香はもぞもぞとベッドに潜り込んで、そっとため息をついた。

「このままじゃダメだよなぁ、やっぱり」

 エアコンの効かせすぎで、涼しいというより肌寒いような部屋の中。遥香は毛布にくるまって身体を丸め、瞳を閉じる。
 部屋の明かりは落としたけれど、ベッドサイドのナイトランプはつけたままで。
 今まで、何度も考えては克服しようとして挫折を繰り返してきた。
 努力が足りないと言われてしまえば、それまでだけど。
 この人見知りを、本気でなんとかしないと。このまま、諒也や静香、知則に甘えるばかりではいられない。
 そう、考えて。
 やがて、うとうとし始めた頃、部屋のドアが開いて、そろりと諒也が入ってきた。
 ただでさえ部屋に入ってくる人の気配には特に敏感な遥香だ。まだ眠っていなかったこともあって、ゆるりとまぶたを上げた。
 ベッドに近付いてきて、何度か瞬きを繰り返す遥香を見た諒也は、心なしか申し訳なさそうな顔をする。

「……悪い、起こした?」

 諒也がささやくように問うのに、遥香は眠気を堪えきれないままでふわりと微笑んだ。

「まだ、寝てないよ……」

 眠気のせいか少し掠れた声で言い、遥香は諒也をベッドの中に招き入れた。
 隣にある諒也のぬくもりに、ほっとする。

「遥香?」

 優しい声が、心地よかった。
 遥香は、そのあたたかい肩に擦り寄り、安心したように吐息して。そのまま、ゆっくりと眠りに落ちてゆく。
 穏やかな寝息が繰り返されるのに気付いた諒也は、そっと遥香の顔を覗き込む。頬にかかった綺麗な黒髪を指先で優しく払ってやっても、目を覚ます気配はなかった。

「そんな、無邪気に信用されてもな……」

 諒也を信用し、安心しきって眠る遥香。
 ほんの少し苦しそうに自嘲するみたいに落とされた言葉に、遥香は気付くはずもなくて。
 翌朝、二人は寄り添って眠っているところを、上機嫌の静香に起こされることになる。
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