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133.

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「う……ん」


 意識が浮上して、声をもらせば喉に絡みつくのがわかった。
 目を開けて、なんだろう何かしたっけ。そう瞳は思考を巡らせて、昨日の事を思い出した。


「~~~~っ!」


 音がしそうなほど一気に赤面した瞳は思わず頭を抱えた。
 昨日『仕事』から戻って、すぐさま円に身体の隅々まで綺麗に洗われ、行為にふけった。もはやアスモデウスの感触すら思い出せない。いや、思い出したくもないが。
 夕方というには早い時間に帰宅したというのに、夕食を食べた記憶すらない。完全に記憶が飛んでいる。
 しかも瞳の身体はいつものように拭き清められていた。
 どれだけマメなんだ、と。隣で眠る王子さま顔を見やった。
 付き合い始める前から『ああ、コイツはオレを抱きたいんだな』と感じていた。告白された時は曖昧だったそれは、日光で確信に変わった。だからこそ瞳は覚悟を決めて抱かれる側になった。男としての矜恃がないわけではない。別に相手が円だったらどちらでも良かった。
 逆に言えば、瞳は円でなければ嫌なのだ。
 だからなのだろうか。円に抱かれるようになってから、瞳は今までに増して他者からの性的な意味合いを込めた接触を嫌悪するようになった。
 今までは軽く受け流すことができたことですら、今は気持ちが悪い。
 責任転嫁をするつもりはない。だが、円のせいだと、思わずにいられない。


(こんなこと、普通は言われても困るだろ……)


 正直、瞳自身も『重い』としか思わない。


「ほんと、バカだよなぁ……」


 ギシギシと軋む身体を動かし、こんなめんどくさい男に捕まった王子さまの額に、キスを落としてやる。


「お前。めんどくさいのに捕まったな」


 苦笑しながら思わず瞳が言えば。
 瞳の身体に回されていた腕に力が入って抱きしめられる。


「うわっ!」
「聞き捨てならないんだけど」
「円?」
「捕まえたのは俺のほうだよ」


 おかえし、と言わんばかりに円が瞳の額にキスをする。


「式神にまで嫉妬するようなめんどくさい男でごめん」
「え?」
「……昨日さ。『仕事』に行く時に玄武に抱き上げられてたろ?」
「ん? ああ、あれか」
「あれでちょっと嫉妬した」
「……は?」
「俺だけの特権じゃないんだな、って」
「いや、待て。あれは最短ルートで行くための手段であって霊力の温存にもなるし……」
「うん、理屈では分かってるんだけどさ」


 コツリ、と円が瞳の肩に額をあてる。


「やっぱり、ちょっとね……」
「円……」


 ふっ、と吐息で笑い、瞳はトントンと円の背中を叩いた。


「円。顔あげて」
「……やだ。いま情けない顔してる」
「いいから、ほら」


 瞳が再度促せば、円はそろりと顔をあげる。そんな円の頬を両手で包んで、瞳は円に触れるだけのキスを送った。
 円は驚いて、キスをされた唇に触れた。


「オレからこんなことするのは、円だけだよ……」


 安心させるために言ったはずなのに、気が付いたら、瞳は円に組み敷かれていた。


「……あれ?」
「瞳……。それ、煽ってる?」


 するり、と瞳の肌を撫でてくる円の手に熱が灯り始めるのを感じて、慌てて押しのける。


「ちが……っ! 待って、やだ! 今はダメ!」
「……わかった。今は、、、ね」
「あ……っ」


 瞳の左手にキスを落としていたずらっぽく笑う円に、瞳は失敗した、と思うのだ。後でどんなことになるのかと思ったら不安しか覚えない。
 そんな瞳の心を知ってか知らずか。円はスっと瞳の上から離れて着替えを準備してくれる。


「着せてあげようか?」
「ばか。一人でできる」
「ん。じゃあ俺は朝食の準備してくるね」
「頼んだ」


 自分もササッと服を着た円は、瞳を残して部屋を出てキッチンに向かった。
 瞳はといえば、動くたびに痛む身体を叱咤しながら身支度を整える。そういえばスーツをクリーニングに出さなければと思い出し、浴室へ向かった。脱ぎ散らかされた服をクリーニング用と自宅洗濯に選別して洗濯機に放り込む。
 スーツを適当な袋に入れて、ダイニングへ足を向けた。


「あ。迎えに行こうと思ったのに」
「バカ言え。そこまで酷くない。大丈夫だ」
「もう出来るから。座ってて」
「ああ、ありがとう」


 使っていない方の椅子に袋を置いて、いつもの席に座ると、すぐにテーブルに朝食が並べられる。今朝は瞳の大好物のフレンチトーストだ。
 円も席に座るのを待って、二人で食べ始める。


「あー……。やっぱり円の料理さいこう」
「なに、どうしたの?」
「いや……。昨日の『現場』で食事が用意されてて」
「え」
「まあ、前に言ったと思うけど、『仕事』で食べる食事なんか食べた気がしないから嫌いなんだよ。できれば招待なんかされたくない」
「でも用意されてたんだ?」
「……残念なことにな」


 瞳は、はぁ、とため息をついた。


「作ってくれた人には申し訳ないけど、さっさと祓って帰りたいってのが本音」
「瞳だから言えるセリフだよね」


 さっさと祓うなんて、本当に瞳だから言えることだ。円はくすくすと笑う。


「そうだ。瞳、出かけられそう?」
「うん? とりあえず下にはおりるけど?」
「じゃあ、ゆっくり歩いて買い物行かない?」
「いいけど」
「あと、事務所の近くにカフェがあってさ。そこでランチしよう」
「……大晦日なのに営業してるのか?」
「ランチは大丈夫だって」
「確認済みかよ……」


 用意周到な円に、瞳はため息しか出ない。


「……だめ?」


 捨てられた子犬のような目で見られれば、瞳は拒否ができない。ぐ、と詰まって、渋々ながら頷いた。


「わかった……」


 答えれば、円がぱっと嬉しそうに笑うから、瞳は困ったように微笑んだ。
 それから少し休んで、管理人への差し入れとして餅を用意してから二人で連れ立って出かけた。
 管理人室は24時間体制で、3交替だという。何人で回しているのかは分からないけれど、休憩時間にでも食べてほしいと渡せば、かなり恐縮されてしまった。
 ゆったりと散歩気分で歩きながら、まずは円が言っていたカフェへと足を伸ばした。
 カフェは住宅街の中にこぢんまりと建っていた。


「ここはね、コーヒーソフトが美味しいらしいよ」
「へぇ?」
「律が言うんだから間違いない」
「ふは」


 たしかに紅茶党の律が言うほどなのだから間違いないだろう。二人はランチセットと噂のコーヒーソフトクリームをオーダーした。
 店内の座席数は少なく、すぐにいっぱいになってしまいそうだ。今はまだ時間帯がズレているせいか混雑はしていないが、長居は出来なさそうである。
 それでも店の雰囲気は良く、食事も美味しかった。
 店を出て、いつものスーパーへ向かう道をいつもよりゆっくり歩く。


「さすが律のオススメなだけあるな」
「コーヒーソフトって珍しいよな?」
「そうだね。チョコとかフルーツ系とかはよく見かけるけど」
「また行きたい、かな」
「うん、行こう」


 本当ならここで手でも繋ぎたいところだが、あいにく人目がある。するり、と指を触れ合わせるだけで我慢した。
 大晦日の昼下がり。覚悟はしていたが、スーパー内はやはり混雑していた。


「んー、とりあえず。蕎麦とお正月用品……」
「年越しそば?」
「ん、そう。手っ取り早く天そばでいい?」
「いいよ」
「このタイミングだと、かき揚げはデカすぎるんだよなぁ……。無難ぶなんに海老かな」
「オレはどっちでも……。あ、でも海老は美味しそうだな。かき揚げ半分こするか?」
「半分ことか……。ちょっと瞳かわいすぎない?」
「は?」
「言い方!」
「え……」
「うん、わかった。じゃあ、かき揚げは半分ずつね。蕎麦はどのくらい食べる?」
「うーん、普通」
「普通……。そしたらコレかな。お正月用品はこの辺かなー?」
「あ、これ食べたい」
「いいよ、入れて」


 あっさりと許可されて、瞳はおや、と思う。いつもなら円の細かいチェックが入るのに、今日はスルーだ。そう考えてから、そうか年越しだからか、と思い至った。なんだか今更な特別感が出てきて、瞳は楽しくなる。
 今まで、『人』でありながらいわゆるまつりごととはほぼ無関係な生活を送ってきた瞳にとって、円との生活は楽しくて仕方がない。
 ただ無味乾燥な日々を送ってきた瞳に、活気を与えてくれた円には感謝しかない。


「ふふ」
「ん? どしたの、瞳?」
「なんでもない。なあ。円は何か欲しいものとか、してほしいこととかないのか?」
「んー、欲しいものなら手に入ってるし、してほしいことも今は特にないかな?」
「そうなのか?」


 瞳が首を傾げると、円はその瞳の耳元でひそりと囁いた。


「あとでゆっくり、ね」
「……っ!?」


 瞳がびくりと反応してバッと耳を押さえれば、円は楽しそうにくすくすと笑った。
 帰宅してすぐキッチンに入った円に申し訳なく思いながら、瞳はリビングで昨日の『仕事』の件の報告を受けたり指示を出したりしていた。
 『対象者』は無事に目覚めたこと。周りに他の悪魔の気配はなかったこと。『本家』の中の探れなかった部分は、天狐や空狐の『眼』をもってしても視えないということ。
 長期戦は覚悟の上だが、ここまで徹底されるのは予想外だった。
 瞳は『本家』の調査の続行と悪魔情報の収集を指示し、昨日のことを詫びれば逆に叱られた。もっと周りを頼ってほしい、と。式神たちだけではない、円のことも頼るべきだと叱られて、なんだか笑ってしまった。
 事後処理を完全に終わらせたらまた連絡がほしいと頼んで、瞳は『仕事』を終わらせる。
 円は相変わらずキッチンでなにやら作業中だった。
 いつもの生活も、ほんの少し気持ちが変わるだけで雰囲気も変わるものだな、と。瞳はしみじみと思う。
 起きた時はいつも通りだったはずなのに、少しだけ意識が変わったら途端にイベントらしい高揚感に包まれている。年越しが楽しみだなんて何年ぶりだろう。


「ふふふ」
「なに? さっきから……」
「いや。幸せだなと思って」


 こんな穏やかな気持ち、少し前の瞳には考えられなかっただろう。変えたのは円だ。円と、その周りの人たち。


「円」
「ん?」
「好きだよ」
「……そういうのはベッドで言って」
「やだよ。どうなるか分かるもん」
「カウンター越しじゃキスもできないじゃん……」
「うん」


 くすくすと笑う瞳を恨めしげに見やり、円は作業を続けるしかなかった。
 そうして明日の仕込みをして年越しそばを食べれば、もはや日付けが変わるのを待つだけだ。
 いつものようにリビングでくつろぎながらの時間は、何か特別に思えた。
 思い起こせば、例年通りな前半に比べて、円と知り合ってからの後半はイレギュラーばかりだった。あっという間だったな、などと振り返ってみる。
 円と出会えて良かった。


「瞳」
「うん?」
「煽った責任は、とってもらうからね?」
「……え?」
「俺、『あとで』って言ったよね? その分も含めて、ベッドで可愛がってあげる」
「ひ……」


 前言撤回。円と出会って、身が持たないと思うことが増えた。
 引きつった笑みを浮かべる瞳を、円は満面の笑みでふわりと抱き上げ、寝室へと消えた。
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