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第二十五帖 零落③
長徳の政変・参
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その後は途切れ途切れに意識が戻ったり遠退いたりして、まるで夢の中の出来事のようだった。故に、どこから現実でどこからが夢なのか境目がはっきりしない。どれも現実のような気もするし、全て夢だったような気もする。
気がつけば、自分を抱き抱える隆家の姿。すっぽりと囲まれた腕の中から見上げた彼が、心配そうに覗き込んでいる。頭が痛くて、身体中が怠い。下腹の痛みも相変わらずシクシクと不快だ。
「気がついたか? 出来るだけ急いで戻っているところだ。少し熱が高いな。気づけなくて、すまなかったな。もうすぐ着くから。文壇に知らせは出しておいた。迎えに出ている筈だ」
囁くように優しく声をかける。気がつけば、額に塗れた布が当てられていた。ぼんやりとした頭で状況を整理する。途端に焦った。
「あ、あの。も、申し訳ございません! と、とんだ粗相を……」
慌てて起き上がろうともがく。身分の低い自分が、高貴な出の異性に抱き抱えられ看病されるなど飛んでもない事である。もし、流行り病で彼に移しでもしたら重罪に問われかねない。
「大人しくしていなさい。何を気にする事があるのか?」
「で、ですが……」
「いいから!」
彼はその腕に力を込め、そのままでいるようにたしなめた。更に抵抗しようとしたが、そう思っただけで体の力が入らない。先程体を動かそうとした事で、体力を使い果たしてしまったようだ。徐々に意識が遠のき、そのまま視界が真っ暗になった。
次に意識が戻ったのは、隆家に抱えられている自分を心配そうに覗き込む定子や清少納言、女房たちが周りを取り囲んでいた。そして、平伏さんばかりに頭を下げている母の姿。
「そのような! いけません、そのような事!」
紅が必死に懇願している。
「何の! 元々私はその期間だけ忌み事として女人を遠ざける習慣を馬鹿馬鹿しいと感じておったしな。全く気にならん。むしろ目出度い事ではないかとな」
かんらかんらと笑う彼。鳳仙花には全てがぼんやりして居て夢の中のように感じる。
「無理強いされたのではなく、隆家自らが申し出ているのだ。隆家に送って貰えれば安心であろう? 不服か?」
定子は紅に問いかける。
「め、滅相もございません! 隆家様に送って頂けるならこんな安心な事はございません」
紅は慌てて定子に頭を下げる。
「では隆家、宜しく頼むぞ」
「はい、姉上。紅殿もお任せください。むしろ鳳仙花殿が大人の女性になった時に立ち合えるなど、光栄に思いますぞ。とは言え、この事は内密に事を運ぶ故、安心なされよ」
……大人の女性? 私とうとう月のモノが来たの? だから、こんなに花の芯が不快なんだ。あれ? でも……
その部分に布のようなものがあてがわれている感触に気付きつつ、再び眠りに落ちた。
次に目を覚ました時は、自邸の入り口で保子が深々と頭を下げていた。周りを侍女達が取り囲んでいる。
「……これを、三つまみほど湯に溶かして飲ませると良い。痛みや熱に効くらしい」
隆家は和紙の包みを保子に手渡している。
「まぁ! これは何から何まで有り難き幸せに存じまする」
「何の! ゆっくり休ませてやってくれ」
「有難うございます」
保子はすっかり恐縮している。
……隆家様、私の家まで送ってくださったんだ。宮中では、血は穢れとし禁忌なのに……
ぼんやりとそう思うと、再び眠りに落ちた。次に目を覚ますと、手を握り締めて心配そうに覗き込んでいる保子の姿が目に映る。
「気がつかれましたか? では、薬湯をお飲みくださいませね。苦いですが、よく効きますよ。何せ隆家様から頂いた秘伝のものですからね」
と言いつつ、水で濡らした布を額にあてる。後方に控えていた侍女がいそいそと立ち去る。間もなく「失礼します。薬湯をお持ちしました」と室内に入り、保子に湯飲みを手渡した。聞きたい事は山ほどある。けれども頭は相変わらずボーッとしていて思考が働かない。
「あの……」
「いけません。今は体を休める事が先です」
話しかけようとする鳳仙花を、保子は厳しく制した。
「大人の仲間入りを果たしたのですから、月のモノの処置方法はお体が回してからお教え致しますから。まだお熱が高いのです。次に目が覚めたら、何か軽いものをお持ちしますね。さ、薬湯を」
そう言って、サッとやってきた侍女とともに鳳仙花を抱き起す。そして湯飲みを鳳仙花に手渡すと、右手を添えて補助しながら口元へと運んだ。ゆっくりと口に含む。苦い! 思わず顔を顰めるも、そのまま一気に飲みほした。隆家や定子、母、保子、そして女房たちの厚意を無駄にしたくなかった。そのまま支えられて再び横たわる。そのまま泥のような眠りに落ちて行った。
……私、一生忘れない。あの夢見たいな時間の事。あの時間、隆家様は私だけの為に時間を割いて下さり、忌み事として避けれられる事も、進んで付き添って下さった。もしこの先とても辛い事があっても、この事を思い出して勇気を貰うんだ……
鳳仙花はそう秘密の日記に記す。あれから三日三晩朦朧と夢と現を彷徨った。四日目の昼頃にしっかりと意識を取り戻し、五日目には起き上がり、ふらつきながらも立って歩けるようにまで回復した
「頂いた薬がよく効いたみたいで本当に良かった。お初の月のモノと熱の病が重なってしまって。重くったら命を落としかねませんでしたからね。……さぁ、これで赤子も出来ますし。来年裳着の儀を迎えたら立派な大人の女性ですね」
保子は嬉しそうに目を細めた。
「赤子かぁ。全然しっくり来ないけどなぁ。これから月一で、宮中の専用の離れか里帰りなのかぁ」
「まぁまぁ、八日間(※①)はゆっくり休めると思えば宜しいんじゃないですか? さて、月のモノの時は単衣に着替えて楽な格好で過ごします。で、この白い布をつけます(※②)。それでも血が流れるようであれば、ソコに直接蓋をするような感じで綿や古布、またはこんにゃくのお粉を使うと良いですよ」
「こんにゃくのお粉?」
「ええ、水分に触れますと固まる性質を利用するのです」
「ふーん。女って色々面倒ね」
「またそのような事……」
「はいはい、人には言いません、て」
「……ところで、気になる殿方は出来ませんの?」
「え?」
唐突の問いかけに一瞬言の葉が詰まる。瞬時に、思い浮かぶは隆家の姿。微かに若草の香りがした気がした。馬鹿げた妄想だとすぐに打ち消す。続いて思い浮かぶは実光の姿だった。しかし、顔がぼんやりとしている。ほんのひと時の出会いだったのだと改めて思う。
「うーん、もしかして? て思う方は一瞬現れたけど、泡沫の夢で終わったわねぇ」
正直に答えた。昔から勘の鋭い保子の事隠してもすぐに見破るだろう。
「さようでございましたか。本当にご縁がありましたらまた出会えるものですし。そうでないならお相手は他にいる、という事でしょう」
保子が軽く流してくれた事に安堵しながら、一番気になる事を聞いてみる。
「あれから、伊周様と隆家様のお噂は?」
侍女の何人かが宮仕えの男と恋中にある為、噂話や情報には事欠かない。
「……鳳仙花様をこちらに送り届けられたその日の午後、道長様の従者と隆家様の従者それぞれ十数名の睨み合いから始まったと聞きます。最近は物騒ですからね、揃いも揃って荒くれどもだったらしいですよ。お二人は参内した帰りに、偶然鉢合わせしたんだとか」
鳳仙花は今、保子の他に二人の侍女を従え、沐浴中であった。
通常、貴族の女房達が髪を洗う場合は沐浴と同様、占いで判断する。しかし月のモノの時は穢れを祓う事が優先となるのでその例には当てはまらない。通常では、日が悪い日に沐浴や洗髪をすると、悪霊に取り憑かれる、運が落ちる等と信じられていた。その為沐浴や洗髪は、一ヶ月に一度だったり、数か月に一度だったりという事が普通であった。鳳仙花は占い等には関係なく、本音を言えば毎日でも沐浴をしたかった。髪を洗うのに一日係り、完全に乾かすのには三日ほど要する上に侍女たちの手を借りねばならない。それ故に無理な事ではあったが。
貴族達の邸や宮中には沐浴する場所を『風呂殿』、湯をはる場所…入浴目的よりは主に禊みそぎの為に行水する『湯殿』の二つが別に設けられている。まず、湯釜の上に簀の子を置き、お湯を沸かす。その湯の中に薬草を入れて楽しむ事もある。そして湯気を部屋に充満させる。簀の子の上に布を敷き、湯帷子と呼ばれる単衣を着てその上に座る。汗をかいたら部屋を出て、体の垢や汚れや木の葉、主に笹で軽く拭く。最後にぬるま湯、または水で体をすすぐ。
沐浴を終えた鳳仙花は、いよいよ髪を洗うところだ。保子と侍女たちが三人係りで丁寧に『ゆすり』と呼ばれ米のとぎ汁ををつけて地肌から髪のさきまで丁寧に髪を洗っていく。その後、子供の背丈ほどの高さの厨子の上に褥しとねを敷く。そこに髪を載せるのだ。
「それで、どうなったの?」
急き込んで問う。先が気になった。
「何でも、道長様の従者の中でひときわ屈強な者がいて、まぁ道長様の随身でしょうね。で、その者が『邪魔だ! 道長様の邪魔盾する奴は許さん!』と怒鳴ったそうな。負け地と隆家様の従者も抵抗し、殴り合い掴み合いの大乱闘に発展したそうです。従者が蔑まれる事は主の恥でもありますからね。互いに負ける訳にはいかなかったのでしょう。弓矢を持ち出したところで、検非違使が止めに入ったとか」
「まさに、合戦ね……」
「その通りです。お互いの従者は瀕死の重傷を負う者が殆どとか」
……隆家様は、命がけで伊周様を守るおつもりなんだ……
桜花のように散り際は潔くありたい、そう言った彼の声が甦る。
「でも、隆家様の従者が一方的に因縁をつけてやむなく抵抗しただけ、とお上に報告がいっているようですねぇ」
「なるほどね」
……さすが、抜け目ない道長様ですこと。でも、隆家様はそんな事で引き下がる方ではないわ……
鳳仙花は予感がした。それは確信に近いものであった。体を侍女たちに丁寧に拭かれ、これから髪を乾かしに向かう。 風通しをよくする為に御簾が上げられた。御簾を開けても中が見えないように、予め屏風で中を囲ってある。火桶で薫物を焚き、その火に炙る事で、髪への香り付けと乾かす事を目的とした。
更に、布で優しく丁寧に拭き取って行く。その後縁側に移動し、横になる。そこで自然の風に晒しながら髪の下に細長い簀子をあてる。その後侍従たちは左右に分かれ、大きな扇で仰ぎ、髪全体に風を当てながら乾かすのだ。
ここまでで、もう既に日は傾いている。
それからおよそ半月後の八月二日。秋とは言えまだまだ残暑が厳しい時だった。隆家の従者は、あの時の傷が元で亡くなった者が数名出たようである。その日、道長の従者達は一条邸に集められ酒宴が開かれていた。ほろ酔い気分で外に出た道長の随身に矢が放たれ、即死した。
翌日、すぐ隆家の仕業だと勘付いた道長は隆家に「我の随身を射殺した奴を差し出せ!」と迫るも、「従者同士の喧嘩等我は知らぬわ!」とひょうひょうとかわしたという。検非違使も動かざるを得なかったが、証拠がない故にどうしようもなかった。怒り狂った道長は「事件が明るみに出て解決するまでは隆家、貴様の参内を禁ずる!」と宣言した。それしか制裁の方法が無かったのである。
この日を境に、伊周は益々強気で道長に接した。道長の至らぬ部分を事細かに指摘し、伊周の存在が優秀である事、政に向いてるのは自分であるという事を世に知らしめたのである。道長の影は、道隆が関白だったのように存在感を無くしていった。
それらの事は、いつものように仕事を通して鳳仙花の耳に届く。
……道長様は執念深い御方。このまま大人しくしている筈ないわ。何か恐ろしい事を企んで、影から何かやらかしそうで怖い。気をつけて、隆家様、伊周様……
鳳仙花は二人の事が心配でならなかった。
鳳仙花が心配する通り、道長はふつふつと怒りを溜め込みながら、虎視眈々と伊周に復讐する機会を狙っていた。完全に失脚させるつもりだった。隆家の事は、苦手ではあるものの何処かに不思議と惹かれる部分があった。伊周には必ず龍家がついている。故に伊周の失脚は隆家の失脚でもあった。しかし、隆家だけは頃合いをみて救い出し、復帰させるつもりでいた。敵に回せば恐ろしいが、味方に引き入れられたらどれほど心強いか。その秘策を探し出すため内密に、優秀な陰陽師を探させていた。
そして白羽の矢が当たったのが、かの安倍晴明である。
(※①)この時代は、月経は穢れであるという発想から、宮中の女房達はこの期間が来ると専用の離れ、または里で八日間過ごした。月経が終わり、髪を始めとした全身を綺麗に洗浄してから宮中に戻るのである。
(※②)後の世に言われる「月経ふんどし」である。
気がつけば、自分を抱き抱える隆家の姿。すっぽりと囲まれた腕の中から見上げた彼が、心配そうに覗き込んでいる。頭が痛くて、身体中が怠い。下腹の痛みも相変わらずシクシクと不快だ。
「気がついたか? 出来るだけ急いで戻っているところだ。少し熱が高いな。気づけなくて、すまなかったな。もうすぐ着くから。文壇に知らせは出しておいた。迎えに出ている筈だ」
囁くように優しく声をかける。気がつけば、額に塗れた布が当てられていた。ぼんやりとした頭で状況を整理する。途端に焦った。
「あ、あの。も、申し訳ございません! と、とんだ粗相を……」
慌てて起き上がろうともがく。身分の低い自分が、高貴な出の異性に抱き抱えられ看病されるなど飛んでもない事である。もし、流行り病で彼に移しでもしたら重罪に問われかねない。
「大人しくしていなさい。何を気にする事があるのか?」
「で、ですが……」
「いいから!」
彼はその腕に力を込め、そのままでいるようにたしなめた。更に抵抗しようとしたが、そう思っただけで体の力が入らない。先程体を動かそうとした事で、体力を使い果たしてしまったようだ。徐々に意識が遠のき、そのまま視界が真っ暗になった。
次に意識が戻ったのは、隆家に抱えられている自分を心配そうに覗き込む定子や清少納言、女房たちが周りを取り囲んでいた。そして、平伏さんばかりに頭を下げている母の姿。
「そのような! いけません、そのような事!」
紅が必死に懇願している。
「何の! 元々私はその期間だけ忌み事として女人を遠ざける習慣を馬鹿馬鹿しいと感じておったしな。全く気にならん。むしろ目出度い事ではないかとな」
かんらかんらと笑う彼。鳳仙花には全てがぼんやりして居て夢の中のように感じる。
「無理強いされたのではなく、隆家自らが申し出ているのだ。隆家に送って貰えれば安心であろう? 不服か?」
定子は紅に問いかける。
「め、滅相もございません! 隆家様に送って頂けるならこんな安心な事はございません」
紅は慌てて定子に頭を下げる。
「では隆家、宜しく頼むぞ」
「はい、姉上。紅殿もお任せください。むしろ鳳仙花殿が大人の女性になった時に立ち合えるなど、光栄に思いますぞ。とは言え、この事は内密に事を運ぶ故、安心なされよ」
……大人の女性? 私とうとう月のモノが来たの? だから、こんなに花の芯が不快なんだ。あれ? でも……
その部分に布のようなものがあてがわれている感触に気付きつつ、再び眠りに落ちた。
次に目を覚ました時は、自邸の入り口で保子が深々と頭を下げていた。周りを侍女達が取り囲んでいる。
「……これを、三つまみほど湯に溶かして飲ませると良い。痛みや熱に効くらしい」
隆家は和紙の包みを保子に手渡している。
「まぁ! これは何から何まで有り難き幸せに存じまする」
「何の! ゆっくり休ませてやってくれ」
「有難うございます」
保子はすっかり恐縮している。
……隆家様、私の家まで送ってくださったんだ。宮中では、血は穢れとし禁忌なのに……
ぼんやりとそう思うと、再び眠りに落ちた。次に目を覚ますと、手を握り締めて心配そうに覗き込んでいる保子の姿が目に映る。
「気がつかれましたか? では、薬湯をお飲みくださいませね。苦いですが、よく効きますよ。何せ隆家様から頂いた秘伝のものですからね」
と言いつつ、水で濡らした布を額にあてる。後方に控えていた侍女がいそいそと立ち去る。間もなく「失礼します。薬湯をお持ちしました」と室内に入り、保子に湯飲みを手渡した。聞きたい事は山ほどある。けれども頭は相変わらずボーッとしていて思考が働かない。
「あの……」
「いけません。今は体を休める事が先です」
話しかけようとする鳳仙花を、保子は厳しく制した。
「大人の仲間入りを果たしたのですから、月のモノの処置方法はお体が回してからお教え致しますから。まだお熱が高いのです。次に目が覚めたら、何か軽いものをお持ちしますね。さ、薬湯を」
そう言って、サッとやってきた侍女とともに鳳仙花を抱き起す。そして湯飲みを鳳仙花に手渡すと、右手を添えて補助しながら口元へと運んだ。ゆっくりと口に含む。苦い! 思わず顔を顰めるも、そのまま一気に飲みほした。隆家や定子、母、保子、そして女房たちの厚意を無駄にしたくなかった。そのまま支えられて再び横たわる。そのまま泥のような眠りに落ちて行った。
……私、一生忘れない。あの夢見たいな時間の事。あの時間、隆家様は私だけの為に時間を割いて下さり、忌み事として避けれられる事も、進んで付き添って下さった。もしこの先とても辛い事があっても、この事を思い出して勇気を貰うんだ……
鳳仙花はそう秘密の日記に記す。あれから三日三晩朦朧と夢と現を彷徨った。四日目の昼頃にしっかりと意識を取り戻し、五日目には起き上がり、ふらつきながらも立って歩けるようにまで回復した
「頂いた薬がよく効いたみたいで本当に良かった。お初の月のモノと熱の病が重なってしまって。重くったら命を落としかねませんでしたからね。……さぁ、これで赤子も出来ますし。来年裳着の儀を迎えたら立派な大人の女性ですね」
保子は嬉しそうに目を細めた。
「赤子かぁ。全然しっくり来ないけどなぁ。これから月一で、宮中の専用の離れか里帰りなのかぁ」
「まぁまぁ、八日間(※①)はゆっくり休めると思えば宜しいんじゃないですか? さて、月のモノの時は単衣に着替えて楽な格好で過ごします。で、この白い布をつけます(※②)。それでも血が流れるようであれば、ソコに直接蓋をするような感じで綿や古布、またはこんにゃくのお粉を使うと良いですよ」
「こんにゃくのお粉?」
「ええ、水分に触れますと固まる性質を利用するのです」
「ふーん。女って色々面倒ね」
「またそのような事……」
「はいはい、人には言いません、て」
「……ところで、気になる殿方は出来ませんの?」
「え?」
唐突の問いかけに一瞬言の葉が詰まる。瞬時に、思い浮かぶは隆家の姿。微かに若草の香りがした気がした。馬鹿げた妄想だとすぐに打ち消す。続いて思い浮かぶは実光の姿だった。しかし、顔がぼんやりとしている。ほんのひと時の出会いだったのだと改めて思う。
「うーん、もしかして? て思う方は一瞬現れたけど、泡沫の夢で終わったわねぇ」
正直に答えた。昔から勘の鋭い保子の事隠してもすぐに見破るだろう。
「さようでございましたか。本当にご縁がありましたらまた出会えるものですし。そうでないならお相手は他にいる、という事でしょう」
保子が軽く流してくれた事に安堵しながら、一番気になる事を聞いてみる。
「あれから、伊周様と隆家様のお噂は?」
侍女の何人かが宮仕えの男と恋中にある為、噂話や情報には事欠かない。
「……鳳仙花様をこちらに送り届けられたその日の午後、道長様の従者と隆家様の従者それぞれ十数名の睨み合いから始まったと聞きます。最近は物騒ですからね、揃いも揃って荒くれどもだったらしいですよ。お二人は参内した帰りに、偶然鉢合わせしたんだとか」
鳳仙花は今、保子の他に二人の侍女を従え、沐浴中であった。
通常、貴族の女房達が髪を洗う場合は沐浴と同様、占いで判断する。しかし月のモノの時は穢れを祓う事が優先となるのでその例には当てはまらない。通常では、日が悪い日に沐浴や洗髪をすると、悪霊に取り憑かれる、運が落ちる等と信じられていた。その為沐浴や洗髪は、一ヶ月に一度だったり、数か月に一度だったりという事が普通であった。鳳仙花は占い等には関係なく、本音を言えば毎日でも沐浴をしたかった。髪を洗うのに一日係り、完全に乾かすのには三日ほど要する上に侍女たちの手を借りねばならない。それ故に無理な事ではあったが。
貴族達の邸や宮中には沐浴する場所を『風呂殿』、湯をはる場所…入浴目的よりは主に禊みそぎの為に行水する『湯殿』の二つが別に設けられている。まず、湯釜の上に簀の子を置き、お湯を沸かす。その湯の中に薬草を入れて楽しむ事もある。そして湯気を部屋に充満させる。簀の子の上に布を敷き、湯帷子と呼ばれる単衣を着てその上に座る。汗をかいたら部屋を出て、体の垢や汚れや木の葉、主に笹で軽く拭く。最後にぬるま湯、または水で体をすすぐ。
沐浴を終えた鳳仙花は、いよいよ髪を洗うところだ。保子と侍女たちが三人係りで丁寧に『ゆすり』と呼ばれ米のとぎ汁ををつけて地肌から髪のさきまで丁寧に髪を洗っていく。その後、子供の背丈ほどの高さの厨子の上に褥しとねを敷く。そこに髪を載せるのだ。
「それで、どうなったの?」
急き込んで問う。先が気になった。
「何でも、道長様の従者の中でひときわ屈強な者がいて、まぁ道長様の随身でしょうね。で、その者が『邪魔だ! 道長様の邪魔盾する奴は許さん!』と怒鳴ったそうな。負け地と隆家様の従者も抵抗し、殴り合い掴み合いの大乱闘に発展したそうです。従者が蔑まれる事は主の恥でもありますからね。互いに負ける訳にはいかなかったのでしょう。弓矢を持ち出したところで、検非違使が止めに入ったとか」
「まさに、合戦ね……」
「その通りです。お互いの従者は瀕死の重傷を負う者が殆どとか」
……隆家様は、命がけで伊周様を守るおつもりなんだ……
桜花のように散り際は潔くありたい、そう言った彼の声が甦る。
「でも、隆家様の従者が一方的に因縁をつけてやむなく抵抗しただけ、とお上に報告がいっているようですねぇ」
「なるほどね」
……さすが、抜け目ない道長様ですこと。でも、隆家様はそんな事で引き下がる方ではないわ……
鳳仙花は予感がした。それは確信に近いものであった。体を侍女たちに丁寧に拭かれ、これから髪を乾かしに向かう。 風通しをよくする為に御簾が上げられた。御簾を開けても中が見えないように、予め屏風で中を囲ってある。火桶で薫物を焚き、その火に炙る事で、髪への香り付けと乾かす事を目的とした。
更に、布で優しく丁寧に拭き取って行く。その後縁側に移動し、横になる。そこで自然の風に晒しながら髪の下に細長い簀子をあてる。その後侍従たちは左右に分かれ、大きな扇で仰ぎ、髪全体に風を当てながら乾かすのだ。
ここまでで、もう既に日は傾いている。
それからおよそ半月後の八月二日。秋とは言えまだまだ残暑が厳しい時だった。隆家の従者は、あの時の傷が元で亡くなった者が数名出たようである。その日、道長の従者達は一条邸に集められ酒宴が開かれていた。ほろ酔い気分で外に出た道長の随身に矢が放たれ、即死した。
翌日、すぐ隆家の仕業だと勘付いた道長は隆家に「我の随身を射殺した奴を差し出せ!」と迫るも、「従者同士の喧嘩等我は知らぬわ!」とひょうひょうとかわしたという。検非違使も動かざるを得なかったが、証拠がない故にどうしようもなかった。怒り狂った道長は「事件が明るみに出て解決するまでは隆家、貴様の参内を禁ずる!」と宣言した。それしか制裁の方法が無かったのである。
この日を境に、伊周は益々強気で道長に接した。道長の至らぬ部分を事細かに指摘し、伊周の存在が優秀である事、政に向いてるのは自分であるという事を世に知らしめたのである。道長の影は、道隆が関白だったのように存在感を無くしていった。
それらの事は、いつものように仕事を通して鳳仙花の耳に届く。
……道長様は執念深い御方。このまま大人しくしている筈ないわ。何か恐ろしい事を企んで、影から何かやらかしそうで怖い。気をつけて、隆家様、伊周様……
鳳仙花は二人の事が心配でならなかった。
鳳仙花が心配する通り、道長はふつふつと怒りを溜め込みながら、虎視眈々と伊周に復讐する機会を狙っていた。完全に失脚させるつもりだった。隆家の事は、苦手ではあるものの何処かに不思議と惹かれる部分があった。伊周には必ず龍家がついている。故に伊周の失脚は隆家の失脚でもあった。しかし、隆家だけは頃合いをみて救い出し、復帰させるつもりでいた。敵に回せば恐ろしいが、味方に引き入れられたらどれほど心強いか。その秘策を探し出すため内密に、優秀な陰陽師を探させていた。
そして白羽の矢が当たったのが、かの安倍晴明である。
(※①)この時代は、月経は穢れであるという発想から、宮中の女房達はこの期間が来ると専用の離れ、または里で八日間過ごした。月経が終わり、髪を始めとした全身を綺麗に洗浄してから宮中に戻るのである。
(※②)後の世に言われる「月経ふんどし」である。
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江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
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