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第二話

出会いは夢のように……・その一

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 最寄り駅から徒歩8分程歩くと、道路を挟んで広大な薄畑《すすきばたけ》と林が左手側に見えてくる。薔子は左に曲がり林と薄畑の間にある小道を歩いていく。3分ほど歩くと、18世紀ヨーロッパ風の貴族邸にあるような鋼色はがねいろの門が見えて来る。門という門には赤やピンク、白の蔓薔薇つるばらが絡みつき一見お洒落だが、来る者を阻むように高く、また尖った門柱は槍ように鋭く先端が尖っていた。

 更に、門に囲まれた白い壁に青い屋根の邸が見えて来る。まさにビクトリアン王朝時代の貴族邸を思わせる外観だ。薔子は門に近づくと、バックからシルバーのカードを取り出し、インターホンあたりに翳す。すると門は滑らかに左右に開き始めた。完全に開くのを待ち、そのまま中に入っていく。門は自動的に閉まった。上品な甘さのある香りが漂ってくる。

 邸まで徒歩1分ほどかかりそうな程広い庭が広がる。地はよく手入れの行き届いた芝生だ。右手に水瓶を掲げた乙女像を中心にした噴水が心地良く水を噴射している。その周りを囲むようにして彩り豊かな、様々な種類の薔薇園が広がる。香りの正体はこれだ。

 白樺や椿、桜等の木と共に四季折々の花々がセンス良く配置されている。腕の良い庭師がいる事は容易に想像出来る。奥の方には、畑や果樹園、いくつかの温室の花園があるようだ。

 そう、ここは薔子の住む家。両親の芸能活動による収入がいかに莫大なのかを物語る。これが薔子意外の者なら、車で到着したと同時にメイドが数人出迎えに来るのだが……。

 玄関に近づくと、薔薇の手入れをしていた老人が薔子に気付いた。迷彩柄の作業服に身を包み、よく日焼けして赤銅色の肌、身長は高くは無いが細身の筋肉質の体型だ。白髪交じりの短髪、見るからに気の良いおじいちゃん、という感じだ。だが、落ち着いた焦げ茶色の瞳は強い意志の光と、思慮深さと誠実さの深みを秘めている。慌てて立ち上がると足早に彼女に近づいた。

「薔子嬢様、お帰りなさいませ」

 彼は被っていた野球帽を取ると、にこやかに声をかけた。

「ただ今、寺本さん。いつも気付くのは寺本さんだけよ」

 薔子も嬉しそうに答える。彼女も笑顔になるのか、とクラスメイトが見たら驚くに違いない。

「また、今日も気配を消してお帰りに」

 彼は親しげに話し掛ける。

「ええ。モブキャラな上に喪女の心得よ」
「えーと、脇役その他大勢にモテない地味な女の子、でしたかね?」
「まぁ、そんなとこ。だから目立たないよう、邪魔にならないように気配を消して歩くの。メイドさんたちも仕事沢山あるからね。モブキャラ喪女の相手は時間の無駄だろうしね」
「毎回そうおっしゃいますが、私には薔子嬢が遠慮し過ぎなようにしか思えませぬ」
「はははは、ありがと。そんな風に言ってくれるの、寺本しかいないから嬉しいわ」
「周りの見る目が無さ過ぎる……」

 彼は嘆かわしいと言うように肩をすくめた。二人のいつもの会話だ。彼は寺本俊史《てらもととしふみ》70歳。武永家専属庭師として30年のベテランである。

「後で薔子ハウスに行くわ」

 と告げると、

「承知致しました、ごゆっくり」

 彼は丁寧に頭を下げた。薔子ハウス、彼女専用の温室花園の事を示す。

 薔子は再びシルバーのカードを玄関のインターホンあたりに翳すと、微かにギギギと音を立ててチョコレート色のドアが開いた。

 中はホテルのロビーのようだ。天井が高い。豪華なシャンデリアが三つ程ある。大理石の床の上に、ボルドー色のカーペットが敷かれ、それは緩やかに螺旋を描く階段へと続いている。一階はキッチンや浴室、大広間があるようだ。

 薔子は殆ど足音を立てずに階段を上った。二階の一番奥の部屋が彼女の部屋なのである。途中、雑巾と水が入ったバケツを持ったメイドとすれ違う。深緑の長袖膝丈ワンピースに白いフリルのエプロンドレス姿だ。これが制服らしい。二十代半ばくらいでの大人しそうな女性だ。髪は後ろでしっかりと一つに束ねている。

「薔子お嬢様、お帰りなさいませ」

 薔子に気付くと慌てて声をかけ、頭を下げた。

「失礼致しました」
「ただ今。気配消してたんだから気付かなくて当たり前よ」

 恐縮している様子の彼女に薔子はさらりと答え、自室へと向かった。

 部屋の前に着いた。白いドアを開けて中に入る。ボルドー色のカーペットが敷き詰められた十六畳程の部屋だ。大きな出窓には、シクラメンの鉢植えと、ユニコーンに載った妖精のガラス製品が置かれている。出窓の下にはベッドがあり、壁沿いに木製の本棚がズラリと並べられていた。

 薔子は入り口近くに配置されている机の上に学生鞄を置くと、肩に下げていた黒のトートバッグをそのまま持ち、部屋を出た。

 これから薔子専用の温室の花園に向かうのである。 
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