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三 愛人達
五
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「……そろそろ手を離して頂けない?」
男性に手を握られる事には慣れているが、どうも彼が相手だと緊張する。自分の心の中まで見られてしまいそうで怖い。
「また明日も朝食を一緒にとろう。俺の家族も喜ぶ」
ぱっと話題が変わった。
……つまり、手を離すつもりはないってこと?
──図々しい人っ!
だけど、自分もこの手を離して欲しくないとアランシアは考え、一気に青ざめる。なんて事を。今、一瞬自分はなんてことを考えていたのだろうと心の中で叱責する。
ゼイヴァルから顔を背け、顔が赤くなっているのを誤魔化すが、それを理解してしまったらしいゼイヴァルは堪らず小さく笑みを溢した。
彼が、自分の手を握る指先に、少しだけ力が入る。
「来てくれるね?」
「……ええ。朝食、楽しみにしているわ」
なによ、食事ぐらい構わないわ、と心の中で呟く。
──そうよ。簡単にあたしを落とせるなんて思わないで!
安っぽい笑顔になんて騙されない。砂糖を撒き散らした言葉にも浮かれたりしない。
落とされるのはゼイヴァルの方だ。決してアランシアではない。
アランシアはにこやかな笑顔を浮かべる彼を睨み、いつまでも握ったままの彼の手を空いた手ではたく。
「すみません、暑かったもので」
にっこり微笑みながら嘘の謝罪をする。
ここは対面を気にしなくてはならない。たとえ王を足蹴にするアランシアでも、育つうちに覚えたマナーくらいはわかる。ここが自分の祖国なら平手打ちや足蹴を思う存分やってやれるのに。アランシアは少し故郷が懐かしくなった。
間抜けな父。可愛い妹と弟──私の全てがあそこにある。
用意される甘いチョコレートや魅力的で鮮やかなソテーやパテではなく祖国の特産品である香りの良い林檎(りんご)が好きだ。
たとえ味覚がわからなくても、林檎が放つ甘い爽やかな香りが好きなのだ。
毎日の様に食べていたあの林檎が食べたいな、と好物に胸を馳せていると、急に辺りが少し薄暗くなる。
雨でも降るのかと視線を動かした直後、頭上で小さなリップ音がなった。
何が起きたのかわからなくて、思考が停止した。いつの間にか彼は席を立ち、中腰になってアランシアの頭部に口付けをしていた。
しかし、それを鈍い頭が理解すると、今度は淡い桃色の頬を撫でられ、軽く顎を引かれて見上げれば、彼の顔が間近にあった。
髪の色と同じ金に近い小麦色の睫毛をしているかと思えば、彼の睫毛は茶色だった。
そんな事を考えて、彼の高い鼻が自分の鼻の横へ。──お互いの唇があと僅かな距離で合わさろうとしていた時。
くん、と誰かにアランシアの後ろ髪が引っ張られ、思わず振り返る。
「お兄をとっちゃダメ」
長いアランシアの金糸を掴んだのは、彼女の身長の半分にも満たないほど小柄な少年だ。
「え……っと」
大きな瞳からは今にも涙が溢れだしそうだ。
この子は誰だろうとアランシアが小さく首を傾げると、背後から怒声が飛んだ。
「ハリエット!!」
先程とは別人の様な冷たい態度に、アランシアは少しだけ恐怖した。やがて庭園から足元も気にせず全速力で駆けてくる中年の女が見えた。
女は頭上で結い上げた髪がぐしゃぐしゃになるのも構わず、細い華奢な体を精一杯動かしている。
ようやくアランシア達の元へたどり着いた時は息があがり、額にうっすらと汗を浮かべていた。
「ゼ、ゼイ、ヴァル……、王子様……っ」
「もう太子だ。太子と呼べ、ハリエット」
ハリエットと呼ばれた中年の女はやたらと背が高く、細い。病的なスタイルを持つ彼女は暫く深呼吸をした後、ゼイヴァルの指摘を受け入れた。
「……お呼びですか、ゼイヴァル王太子様」
「チェティットがなぜここにいる」
「申し訳ありません。目を離した隙に……」
ハリエットと呼ばれた女性が青ざめた表情になると、少年はゼイヴァルの服のすそを掴んだ。
「ハリエットを怒らないであげて。僕が悪いの」
おずおずとそう言うが、ゼイヴァルは厳しい表情のままハリエットに告げた。
「早く連れて行け」
「はい。ゼイヴァル王太子様」
ハリエットは幼い小さな手を引いて歩いて行く。チェティットと呼ばれた少年は何度も名残惜しそうに振り返るが、ゼイヴァルはそれを黙って見ていた。
「…………」
──この人、こんなに冷たい顔ができるのね。
アランシアはゼイヴァルの顔が直視できず、皿の上に乗った手付かずのケーキを見つめた。手持ち無沙汰でテーブルに置いてあったカップを手に取り、口にするが、もう冷めていて香りも飛んでいた。
──美味しくないわ。
あんなに穏やかで、少し甘かったあの空気は、もうすでに霧散してしまっていた。
男性に手を握られる事には慣れているが、どうも彼が相手だと緊張する。自分の心の中まで見られてしまいそうで怖い。
「また明日も朝食を一緒にとろう。俺の家族も喜ぶ」
ぱっと話題が変わった。
……つまり、手を離すつもりはないってこと?
──図々しい人っ!
だけど、自分もこの手を離して欲しくないとアランシアは考え、一気に青ざめる。なんて事を。今、一瞬自分はなんてことを考えていたのだろうと心の中で叱責する。
ゼイヴァルから顔を背け、顔が赤くなっているのを誤魔化すが、それを理解してしまったらしいゼイヴァルは堪らず小さく笑みを溢した。
彼が、自分の手を握る指先に、少しだけ力が入る。
「来てくれるね?」
「……ええ。朝食、楽しみにしているわ」
なによ、食事ぐらい構わないわ、と心の中で呟く。
──そうよ。簡単にあたしを落とせるなんて思わないで!
安っぽい笑顔になんて騙されない。砂糖を撒き散らした言葉にも浮かれたりしない。
落とされるのはゼイヴァルの方だ。決してアランシアではない。
アランシアはにこやかな笑顔を浮かべる彼を睨み、いつまでも握ったままの彼の手を空いた手ではたく。
「すみません、暑かったもので」
にっこり微笑みながら嘘の謝罪をする。
ここは対面を気にしなくてはならない。たとえ王を足蹴にするアランシアでも、育つうちに覚えたマナーくらいはわかる。ここが自分の祖国なら平手打ちや足蹴を思う存分やってやれるのに。アランシアは少し故郷が懐かしくなった。
間抜けな父。可愛い妹と弟──私の全てがあそこにある。
用意される甘いチョコレートや魅力的で鮮やかなソテーやパテではなく祖国の特産品である香りの良い林檎(りんご)が好きだ。
たとえ味覚がわからなくても、林檎が放つ甘い爽やかな香りが好きなのだ。
毎日の様に食べていたあの林檎が食べたいな、と好物に胸を馳せていると、急に辺りが少し薄暗くなる。
雨でも降るのかと視線を動かした直後、頭上で小さなリップ音がなった。
何が起きたのかわからなくて、思考が停止した。いつの間にか彼は席を立ち、中腰になってアランシアの頭部に口付けをしていた。
しかし、それを鈍い頭が理解すると、今度は淡い桃色の頬を撫でられ、軽く顎を引かれて見上げれば、彼の顔が間近にあった。
髪の色と同じ金に近い小麦色の睫毛をしているかと思えば、彼の睫毛は茶色だった。
そんな事を考えて、彼の高い鼻が自分の鼻の横へ。──お互いの唇があと僅かな距離で合わさろうとしていた時。
くん、と誰かにアランシアの後ろ髪が引っ張られ、思わず振り返る。
「お兄をとっちゃダメ」
長いアランシアの金糸を掴んだのは、彼女の身長の半分にも満たないほど小柄な少年だ。
「え……っと」
大きな瞳からは今にも涙が溢れだしそうだ。
この子は誰だろうとアランシアが小さく首を傾げると、背後から怒声が飛んだ。
「ハリエット!!」
先程とは別人の様な冷たい態度に、アランシアは少しだけ恐怖した。やがて庭園から足元も気にせず全速力で駆けてくる中年の女が見えた。
女は頭上で結い上げた髪がぐしゃぐしゃになるのも構わず、細い華奢な体を精一杯動かしている。
ようやくアランシア達の元へたどり着いた時は息があがり、額にうっすらと汗を浮かべていた。
「ゼ、ゼイ、ヴァル……、王子様……っ」
「もう太子だ。太子と呼べ、ハリエット」
ハリエットと呼ばれた中年の女はやたらと背が高く、細い。病的なスタイルを持つ彼女は暫く深呼吸をした後、ゼイヴァルの指摘を受け入れた。
「……お呼びですか、ゼイヴァル王太子様」
「チェティットがなぜここにいる」
「申し訳ありません。目を離した隙に……」
ハリエットと呼ばれた女性が青ざめた表情になると、少年はゼイヴァルの服のすそを掴んだ。
「ハリエットを怒らないであげて。僕が悪いの」
おずおずとそう言うが、ゼイヴァルは厳しい表情のままハリエットに告げた。
「早く連れて行け」
「はい。ゼイヴァル王太子様」
ハリエットは幼い小さな手を引いて歩いて行く。チェティットと呼ばれた少年は何度も名残惜しそうに振り返るが、ゼイヴァルはそれを黙って見ていた。
「…………」
──この人、こんなに冷たい顔ができるのね。
アランシアはゼイヴァルの顔が直視できず、皿の上に乗った手付かずのケーキを見つめた。手持ち無沙汰でテーブルに置いてあったカップを手に取り、口にするが、もう冷めていて香りも飛んでいた。
──美味しくないわ。
あんなに穏やかで、少し甘かったあの空気は、もうすでに霧散してしまっていた。
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