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1巻
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面白がるような響きの声が聞こえて、陽菜乃は森野の手元を見た。
森野の手元でカバーのかかった文庫本が開かれている。
「わーっっ‼」
よりにもよって、今日は同じサイトからデビューした友人の本を持ってきて、通勤中に読んでいたのだ。陽菜乃の友人といえば、もちろんゴリゴリのTL作家である。
「『太腿は大きく開かれ抵抗する術を持たなかった。差し入れられた指はごく浅いところをそっと撫でる……』やけに詳しいな。やっぱり浅いところって気持ちいいの?」
本を閉じて陽菜乃に差し出しながら、森野は笑顔で尋ねる。
(なんで開くの⁉ なんで音読するの⁉ そして、なんで聞くのよーっ⁉)
「じゃあ、帰ろうか。カギをかけるから」
先ほど目にした本も、昼間に見たことも、何もなかったかのように森野は陽菜乃に声をかけた。
本を受け取った陽菜乃は、カバンをぎゅっと握ったまま顔を上げられなくて俯く。
視界には、立ち上がった森野の靴が入っていた。ぴかぴかに磨かれたウイングチップ。スーツやシャツやネクタイだけではなくて、森野は靴まで趣味がいいらしい。けれど、そんなことではなくて、陽菜乃には森野に聞いてみたいことがあったのだ。
「っも、森野係長っ……」
「ん? なに?」
その森野の優しい声に、そうっと陽菜乃は顔を上げる。陽菜乃を見て、立ち上がるのを待っている森野はとても優しい顔をしていた。ずっと陽菜乃が尊敬していた顔だ。
顔が……悔しいけれど圧倒的に顔が良い。その顔の良さについ呑まれそうになるが、どうしても聞いてみたいのだ。陽菜乃は意を決して口を開いた。
「その、森野係長はそういうことに慣れていらっしゃるんでしょうか?」
「そういうこと?」
「昼間のような、あの……あれ……」
「あ? セックス?」
(身も蓋もっ! 身も蓋もないのよっ!)
けれどそんなことを恥ずかしがっている場合ではない。戸惑った末に陽菜乃は頷く。
「まあ、慣れていないとは言わないね。どうしたの? さっきは『そんな人だなんて思いませんでした!』って半泣きになっていたでしょう? 俺、無理やりにする趣味はないよ」
描いたように綺麗な森野の眉根がすうっと寄っている。
そうだろう。昼間は恥ずかしかったとはいえ押しのけてしまって、先ほども警戒警報発令レベルの反応をしてしまったのだ。
「教えてほしいんです」
「なにを?」
「その……セックス……です」
「は?」
森野は目を見開いて、陽菜乃をまっすぐに見る。
「君がそんなことをなんの意図もなく頼むような人だとは思えないんだけど? どういう理由で?」
陽菜乃はぎゅっと膝の上で拳を握った。
「読まれましたよね? 先ほどの小説。ティーンズラブって分野の小説です」
「ティーンズラブ……どの辺が? あれR指定だろ。完全に指入ってたと思うんだが」
一般にはあまり知られていない分野だし、男性ならば知らないのはなおさらだろう。
「ティーンズラブっていうのは、ティーン向けに見える人物設定でありながら、成人向けのような具体的かつ直接的な性的表現が物語の中で展開される創作物なんです」
「うん?」
いきなりこんな説明をされて、なぜこんなことを言われるのか分からない森野は首を傾げているだけだ。それはそうだろう。
「ありていに言えば、少女漫画みたいな展開の、エッチもありのストーリーです」
「なるほど?」
「私、そういう小説を書いてます」
「もしかしてさっきの小説、君が……?」
「いえ! あれはデビューした友人が書いたもので! でも同じようなジャンルです。私はまだデビューはしていません。私には不足しているものがあるんです」
「何?」
「表現力、だそうです」
森野は陽菜乃の向かいの椅子に座って、ゆったりと足を組む。
「ふん?」
いつも相談に乗ってくれる上司としての態度で、森野は答えた。だから陽菜乃は警戒せずに話を進められたのだ。
「まあ、あの程度で悲鳴を上げていたくらいだから、そういう小説を書くにしては経験不足は否めないだろうね?」
真顔で肯定された。
「あ……あの程度って、どういうことですか? その、やっぱり倉庫でされてたみたいな……」
森野は少し考えるような様子になる。そして、陽菜乃に笑いかけた。その笑顔は決して爽やかなだけのものではなくて、とっても艶を含んでいて……色気のある笑みだった。
「それは取材? 取材なら受けても構わないよ。小島さんはお勉強したいってことだよね?」
ぱあぁっと陽菜乃の表情が明るくなる。
「はいっ! 取材です!」
取材。そう、これは取材だ。
陽菜乃には秘密がある。TL作家をしていることではなくて――今まで付き合ってきた人とそういうことにならなかった理由が。その秘密のせいで、陽菜乃は自信を失い、臆病になっていた。
だからこそ、気安く受けてくれた森野の態度に、つい安心してしまったのだ。
「じゃあ、金曜日はどうかな?」
「分かりました。よろしくお願い致します」
普通に研修を受けるかのように、ぺこりと頭を下げる陽菜乃に森野が苦笑する。
この時、陽菜乃は失念していたのだ。森野が悪いオトコだということを――
「じゃあ、金曜日、ゆっくり教えてあげる。セックスってどういうものかって」
陽菜乃の手を取って、森野は指先に軽くキスをした。
ぴくんっと陽菜乃の身体が揺れてしまう。その揺れは指先にまで響いただろう。
森野はわざと、見えるようにゆっくりと陽菜乃の指を口に含んで、舌を出し、指の間を舐めてきた。
それが陽菜乃の視界に入って、慌てて目を逸らす。
「っ……」
濡れた舌先が指をなぞる。舐めているのは指だけなのに、その光景はひどく淫靡だった。
胸の鼓動が大きく響くのを陽菜乃はどうすることもできず、ただ森野のされるがままになることしかできなかった。
森野は手を離して、陽菜乃に笑顔を向ける。
「じゃあ、帰ろうか」
陽菜乃は熱くなったままの身体で、こくりと頷いた。
家に帰って、その日倉庫で目にしたことを、陽菜乃はPCに打ち込んでいく。
そして、帰り際、森野に緩く指を舐められたことも。
――すごくドキドキした。
指を舌が這っていく感触は、初めてのものだった。
ただ舐められているだけではなくて、そこに視線が絡んだり、気持ちが入ることで一気に淫靡なものとなったのだ。背中がぞくぞくした。
倉庫では、キスをしながら触れられたりしている他人の姿を見て、興奮しなかったのかと聞かれた。
興奮なら……した。
濡れてしまった下着に触れられて、自分が思いの外感じてしまっていたことも分かった。
見ているだけでも感じてしまったのに、アレをしてくれる、というのだろうか?
(――ん?)
そうしてふと気づく。陽菜乃は知識だけはやたらある。エッチなコミックスも、小説も、シチュエーションボイスもなんならアダルトビデオも、小説を書くために相当見た。
(取材させてくれるなんて機会、そんなにないんじゃ……)
この際もう、リクエストとかしてみるのはどうなんだろうか? こういうシチュエーションはどうですか? とか。
今書いているのはS系上司の出てくるオフィスものだ。陽菜乃はパソコンの前に座って、小説のサイトを開く。倉庫でのあのシチュエーションはぴったりで、ちらっと見た……いや、むしろ割とガン見に近かったあのシーンを書くために、陽菜乃は何度も何度も繰り返し思い出し、文字に起こしていった。
甘くねだるような声も、濡れたような音も――陽菜乃は無意識ではあったけれど、何度もなぞるようにあの時の出来事を思い返していたのだ。
気づいたら真夜中になっていて、小説を一気に書き上げていた。普段ではありえないほどの文字数を書いていたのだ。それをゆっくりと読み返し、誤字脱字がないか陽菜乃は確認した。
後日もう一度確認して、読んでいて分からないところがないかなど、落ち着いて第三者目線で見られるようになってからまた直す。それからサイトに上げるのだ。サイトに上げてからも編集を続けて、これでよしとなったら、ようやく公開予約をいれるようにしている。
それでも、リアルのインパクトはとても強くて、表現ひとつ取っても、今までとは全く違うように感じた。
(早く読者さんに届けたいな)
見ただけでこれだけたくさん書けるのなら、実際に取材なんてさせてもらったら、もっといっぱい書けちゃうのかも、とうきうきする。
そのリアルのインパクトがどれほどのものか、実際に経験していない陽菜乃は分かっていなかった。「セックスを教えてください」とはどういうことなのか。
「あ、小島さん」
「はい」
「これ、対応をお願いしたいです」
相変わらず、昼間の森野は眼鏡姿も相まって、とても真面目そうに見える。
あの後は、特に何ということもなく日々過ぎていった。あの時のことは夢だったのだろうか? と思うくらいだ。
目の前の真面目そうな係長が女性に倉庫に連れ込まれたあと、陽菜乃にも……えっちなことを教えてくれる、といったあれは。
森野はクリアファイルに入った資料を陽菜乃に手渡した。
あの時の妖艶な姿はどこにもない。強いて言うならウェブ上にはある。あの時のことを陽菜乃は小説として公開したのだから。
小説がなければ夢だったのでは? と思うような出来事だし、そんなことを教えてくれる、というのも信じがたいことだ。
(しかも小説は好評だったし……)
ものすごくいい評価がたくさん付いてしまった。
「よく確認してくださいね」
「はい」
森野に言われて、返事をした陽菜乃は席に戻り、受け取ったクリアファイルの書類を確認しページをめくる。その手が止まった。付箋にメッセージアプリのIDが書いてあったからだ。
『後で連絡するから、登録しておいて』
一瞬、顔がかあっと熱くなった。陽菜乃が顔を赤くしていたって誰も気にするものではないだろう、とは思いつつも、周りを見回して、誰も気づいていないことを確認する。
案の定みんな、自分の仕事に手一杯で、陽菜乃の様子に気づいた人はいないようだった。
陽菜乃がホッと胸を撫で下ろした時、当の森野と目が合ってしまった。森野はくすっ、と訳知りな雰囲気で笑う。
一瞬だけ漏れ出た色気。きっと誰も気づいていない。その秘密めいたやり取りに、陽菜乃の心臓がどきんと音を立てた。色気は、森野がモニターに顔を戻した途端に消えてしまった。
(あ、普通に戻った)
普段はきっとこんな感じだったから気づかなかったのだろう。
陽菜乃は付箋を剥がして、スマートフォンのケースの内側にぺたっと貼り付けておく。
夢でもなかったし、森野も忘れてもいなくて、あの約束はまだ生きていたらしい。
こんなことにまで律儀な森野は、やはりいい人だと陽菜乃は思う。
昼休憩の時に、休憩室でお弁当を食べながら、先ほどの付箋に書かれたIDをアプリに登録し、森野にメッセージを送る。
『よろしくお願いします』
すると割とすぐ既読がついた。
『こちらこそ』
それに陽菜乃はペコリとおじぎをしているスタンプを送っておく。
休憩室の窓から見えるお日様がやけにキラキラして見えた。
そして約束の金曜日がやってきたのである。
この日は特に問題なく仕事も進んだ。定時を回ったことを腕時計で確認して、陽菜乃は席を立つ。
ちらりと森野の方を見てみると、まだ仕事が残っているようで、書類を片手に少し難しそうな顔をしていた。
席を立った陽菜乃はスマートフォンを確認する。森野からメッセージが入っていたのだ。
アプリを確認すると、ホテルのURLが貼られている。タップするとホテルの案内を見ることができた。
(――あ、すごくちゃんとしたホテルだ)
何か特別な時や旅行でもないかぎり使わないようなホテルだった。森野の名前で予約してあるから先に入っていて、というメッセージである。
(なんか、慣れてない? そりゃ慣れてるか……。大人の男の人なんだものね)
まだ仕事中の森野は、陽菜乃を見て胸ポケットに手をやった。その手にはスマートフォンが握られている。パタパタっと画面に触れてなにか文字を打っている様子なのが分かる。
『ごめん。少し遅くなるから、先に行っていて』
陽菜乃もその場で返信する。
『了解です』
そして、少し考えてもう一文追加で送った。
『素敵なホテルを予約していただいて、ありがとうございます』
一瞬、森野が微笑んだように見えた。
陽菜乃はホテルに向かい、フロントで予約の名前を告げる。
フロントの男性はにこやかに陽菜乃にカードキーを差し出してくれた。
「お部屋は二十五階です。エレベーターでカードキーをかざしてから階数ボタンを押してください」
陽菜乃はカードキーをもらって、改めてホテル内を見る。ロビーはモダンでシックな内装で、つややかな石張りの床に黒の革張りのソファが置いてあり、落ち着いた雰囲気だ。ロビーに使われているライティングもキラキラとしたものではなく、ややアンダーで落ち着いている。置いてあるオブジェや花もシンプルでシックだ。
(大人の逢い引きにはすごくいい)
会社でも森野は派手ではないけれど、ひとつひとつの仕事をきちんとこなしていく人だ。冷静に考えてみると、森野は取引先ともトラブルを起こすようなことはほとんどない。
すごく、きちんとした人なのに。
(ギャップがすごい……)
仕事中は目立つこともなく、淡々と真面目にこなしているくせして、プライベートはこんなふうに慣れた様子で女性をエスコートして、相手によってはSにもなれる。
あの眼鏡に隠されているけれど、素顔はとても麗しくて。しかも女性にスマート。
陽菜乃の森野への興味は尽きなかった。
森野がリザーブしてくれたのは二十五階の部屋で、カードキーをエレベーターのパネルにかざさないと階数ボタンの押せない部屋だ。これはエグゼクティブフロアではないのだろうか。
そんな部屋をリザーブするなんて、慣れているとか、慣れていないとかの問題なのだろうか? 経験のない陽菜乃にはよく分からない。ただとてもスマートだということは分かった。
そして、ロビーの高級感を見た陽菜乃はふと不安になる。
(お部屋代、割り勘だったらどうしよう……)
財布の中身を考えてみた。ちょっと心もとない気がする。ATMでお金を下ろしてきた方がいいんだろうか?
「あの、すみません。この辺りにコンビニはありますか?」
フロントの男性は陽菜乃の質問に親切に答えてくれた。ホテルから歩いて五分ほどの場所にあるらしい。ついでに飲み物などの買い物もしておきたくて、陽菜乃はコンビニに向かうことにする。
ATMでお金を下ろすことができた陽菜乃は、ようやく安心した。
(これで割り勘でも大丈夫)
そして目に入ったのは衛生用品の棚だ。その前で陽菜乃は足を止める。
(買っておいた方がいいのかしら?)
その棚を陽菜乃はじーっと見つめた。
(いや、なんか森野係長慣れていそうだったし、自分で用意するかも)
でも用意するのもマナーだと、どこかで読んだ気もする。
(使用期限とかあるのかしら……。それに用意って、いくつ用意したらいいの?)
陽菜乃は、ハッとした。
(いつも絶倫想定で書いているくせに、何回するのか分からないわ)
それではリアリティがないと言われるわけだと、自分のリサーチの甘さにため息が出る。
それよりも、今日、今どうするかだ。
陽菜乃はとりあえず目立った白い箱を手に取ってみた。
表面には『人生が変わる! 〇・〇二ミリ』と書いてある。
『人生が変わる! 〇・〇二ミリ』。なにやら深い。人生が変わるらしい。
陽菜乃は人生が変わるほどのセンセーショナルさは求めていない。そっとそのパッケージを棚に戻す。コンビニとはいえ、かなり種類が豊富だ。
『SUPER GOKUATSU もはやなにも感じない』
(もはやなにも……)
パッケージの語彙力がすごい。陽菜乃は首を傾げる。
(感じなきゃダメじゃない?)
そして、パッケージ裏面の説明書きを見て、陽菜乃はさらに衝撃を受ける。
(そっか! 皆が皆、長持ちするわけじゃないんだわ! すごい! 深すぎる! コンドーム!)
隣を通り過ぎた男性がぎょっとしていた。うら若くて、そこそこ可愛らしい風情の女性が衛生用品の棚の前で、コンドームの箱裏の説明書きを食い入るように見つめているのだ。
それは引く。
しかし、その種類の多さは陽菜乃を戸惑わせるばかりだ。
(どうしよう……)
こればかりは店員さんに聞くわけにもいかないことは、さすがの陽菜乃も理解している。
結局、陽菜乃は黒くてスタイリッシュなパッケージのものを選んだ。まさかのジャケ買いである。
ホテルに戻り、エレベーターに向かうと、とんと肩を叩かれた。
綺麗な顔の森野が微笑んでいる。
「小島さん、見つけちゃった」
「あ、森野係長。お疲れ様です」
森野は苦笑した。
「仕事中みたいだな。何? コンビニ? 買い物行ったの?」
「はい」
慣れた様子でエレベーターを操作した森野が階数ボタンを押す。
「持つよ」
自然に陽菜乃の手から袋を受け取るのも、とてもスマートなのだ。
「何買ったの? デザートとか?」
「あ、飲み物です」
衛生用品は紙袋に入れてくれたので、陽菜乃のカバンの中に入っている。森野が持ってくれた袋にはペットボトル飲料しか入っていない。
「飲み物だけならホテル内にもベンダーがあっただろうに」
「いえ……他にも」
森野はいたずらっぽい顔で陽菜乃をわざと覗き込んで、きゅっと手を握った。
「もしかして、スキンとか?」
(ば、ばれたっ!)
「大事なことだよね」
優しい声だった。森野の声はトーンも響きも、陽菜乃の耳に心地よく聞こえる。高すぎも、低すぎもしない声の持ち主なのだ。けれどこんな時は普段の仕事の時とは微妙に違う甘さを含んでいる。少しひそやかな響きは、二人の距離感のせいもあるのかもしれなかった。
しかも陽菜乃がコンドームを買いに行ったことをからかうでもなく、大事なことだと言ったのだ。陽菜乃はその瞬間、優しくそう言ってくれた森野の言葉に胸がいっぱいになった。恥ずかしいことではなくて、大事なこと。握っていてくれていたその手を陽菜乃は握り返す。
するとその手を軽く引かれて頬にキスされた。
「ごめん、部屋まで我慢できなかった。そんなふうに握り返すから」
苦笑気味に微笑まれて、陽菜乃の胸はきゅんとする。
もともと整った森野の顔だが、こんな笑顔を仕事中はあまり見たことはない。作った笑顔ではなくて、自然な表情だ。
こんな森野だから、身を任せてもいいと思えたのかもしれない。急に恥ずかしいような気がして、陽菜乃は森野の顔が見られなくなって、俯いてしまった。それでもつい盗み見たくなってしまう。
(本当に顔が綺麗なのよね)
近くで見ると森野は白くて綺麗な肌をしていて、焦茶色の瞳は長いまつ毛に彩られている。綺麗な二重の持ち主で、甘さのある優しい顔立ち。
見惚れそうになっていると、エレベーターが二十五階に到着し、森野にリードされて部屋の中に入る。
緊張していた陽菜乃の耳には、カードキーでロックが空くカチャ……という音さえやけに響いたような気がした。
部屋の中はインテリアもモダンで、正面の大きな窓からは夜景が綺麗に見える。何層にも重なるビルと高層階からの奥行のある景色は、キラキラと星屑を散りばめたようだった。
「すごい……素敵……」
「小島さん、何か食べた?」
「いえ。コンビニに行っただけです」
「お腹すいたよね? 下のラウンジで軽く何か食べる?」
そう言ってくれたけれど、陽菜乃はつい自分の格好を見てしまう。引くくらい地味だ。
「ん?」
「そんなホテルのラウンジに行けるような格好で来てないんですけど」
「じゃあ、ルームサービスを頼もうか」
森野は陽菜乃にルームサービスのメニューを手渡してくれる。
「なんでも好きなのを頼んで。コース料理でもいいよ」
優しい表情だ。陽菜乃はじっと森野を見つめた。
「どうしたの?」
「森野係長、どうしてそんなに優しいんですか?」
「優しいかな?」
「はい。とっても」
まだ立ったままだった陽菜乃の手を引いて、ベッドに腰掛けさせてくれる。
森野もその横に座った。
その近くなった距離に、陽菜乃はまた胸がドキドキしてくるのを感じた。横に並んでいるから、綺麗な顔が見えないだけまだ救いだ。真横で肩が触れあいそうな距離。何だか爽やかないい匂いがするし、その香りだけで鼓動が大きくなりそうだ。
「宮沢賢治の注文の多い料理店って知ってる?」
そう耳元で囁かれた。
もちろん知っている。二人の狩人が山の中で迷った時に『西洋料理店』を見つけて、店に入る。『当店は注文の多い料理店だ』と書かれており、二人は、それは「客からの注文が多いから、料理が出てくるまでに手間取るのだろう」と解釈した。店に言われるがままに準備をしてゆくと、それは二人を料理の食材として食べるための下準備だった、という話だ。
(それはつまり……?)
「あの……私食べられちゃうってことですか?」
だからルームサービスを? 栄養をつけて食材にされてしまうということ?
森野の手元でカバーのかかった文庫本が開かれている。
「わーっっ‼」
よりにもよって、今日は同じサイトからデビューした友人の本を持ってきて、通勤中に読んでいたのだ。陽菜乃の友人といえば、もちろんゴリゴリのTL作家である。
「『太腿は大きく開かれ抵抗する術を持たなかった。差し入れられた指はごく浅いところをそっと撫でる……』やけに詳しいな。やっぱり浅いところって気持ちいいの?」
本を閉じて陽菜乃に差し出しながら、森野は笑顔で尋ねる。
(なんで開くの⁉ なんで音読するの⁉ そして、なんで聞くのよーっ⁉)
「じゃあ、帰ろうか。カギをかけるから」
先ほど目にした本も、昼間に見たことも、何もなかったかのように森野は陽菜乃に声をかけた。
本を受け取った陽菜乃は、カバンをぎゅっと握ったまま顔を上げられなくて俯く。
視界には、立ち上がった森野の靴が入っていた。ぴかぴかに磨かれたウイングチップ。スーツやシャツやネクタイだけではなくて、森野は靴まで趣味がいいらしい。けれど、そんなことではなくて、陽菜乃には森野に聞いてみたいことがあったのだ。
「っも、森野係長っ……」
「ん? なに?」
その森野の優しい声に、そうっと陽菜乃は顔を上げる。陽菜乃を見て、立ち上がるのを待っている森野はとても優しい顔をしていた。ずっと陽菜乃が尊敬していた顔だ。
顔が……悔しいけれど圧倒的に顔が良い。その顔の良さについ呑まれそうになるが、どうしても聞いてみたいのだ。陽菜乃は意を決して口を開いた。
「その、森野係長はそういうことに慣れていらっしゃるんでしょうか?」
「そういうこと?」
「昼間のような、あの……あれ……」
「あ? セックス?」
(身も蓋もっ! 身も蓋もないのよっ!)
けれどそんなことを恥ずかしがっている場合ではない。戸惑った末に陽菜乃は頷く。
「まあ、慣れていないとは言わないね。どうしたの? さっきは『そんな人だなんて思いませんでした!』って半泣きになっていたでしょう? 俺、無理やりにする趣味はないよ」
描いたように綺麗な森野の眉根がすうっと寄っている。
そうだろう。昼間は恥ずかしかったとはいえ押しのけてしまって、先ほども警戒警報発令レベルの反応をしてしまったのだ。
「教えてほしいんです」
「なにを?」
「その……セックス……です」
「は?」
森野は目を見開いて、陽菜乃をまっすぐに見る。
「君がそんなことをなんの意図もなく頼むような人だとは思えないんだけど? どういう理由で?」
陽菜乃はぎゅっと膝の上で拳を握った。
「読まれましたよね? 先ほどの小説。ティーンズラブって分野の小説です」
「ティーンズラブ……どの辺が? あれR指定だろ。完全に指入ってたと思うんだが」
一般にはあまり知られていない分野だし、男性ならば知らないのはなおさらだろう。
「ティーンズラブっていうのは、ティーン向けに見える人物設定でありながら、成人向けのような具体的かつ直接的な性的表現が物語の中で展開される創作物なんです」
「うん?」
いきなりこんな説明をされて、なぜこんなことを言われるのか分からない森野は首を傾げているだけだ。それはそうだろう。
「ありていに言えば、少女漫画みたいな展開の、エッチもありのストーリーです」
「なるほど?」
「私、そういう小説を書いてます」
「もしかしてさっきの小説、君が……?」
「いえ! あれはデビューした友人が書いたもので! でも同じようなジャンルです。私はまだデビューはしていません。私には不足しているものがあるんです」
「何?」
「表現力、だそうです」
森野は陽菜乃の向かいの椅子に座って、ゆったりと足を組む。
「ふん?」
いつも相談に乗ってくれる上司としての態度で、森野は答えた。だから陽菜乃は警戒せずに話を進められたのだ。
「まあ、あの程度で悲鳴を上げていたくらいだから、そういう小説を書くにしては経験不足は否めないだろうね?」
真顔で肯定された。
「あ……あの程度って、どういうことですか? その、やっぱり倉庫でされてたみたいな……」
森野は少し考えるような様子になる。そして、陽菜乃に笑いかけた。その笑顔は決して爽やかなだけのものではなくて、とっても艶を含んでいて……色気のある笑みだった。
「それは取材? 取材なら受けても構わないよ。小島さんはお勉強したいってことだよね?」
ぱあぁっと陽菜乃の表情が明るくなる。
「はいっ! 取材です!」
取材。そう、これは取材だ。
陽菜乃には秘密がある。TL作家をしていることではなくて――今まで付き合ってきた人とそういうことにならなかった理由が。その秘密のせいで、陽菜乃は自信を失い、臆病になっていた。
だからこそ、気安く受けてくれた森野の態度に、つい安心してしまったのだ。
「じゃあ、金曜日はどうかな?」
「分かりました。よろしくお願い致します」
普通に研修を受けるかのように、ぺこりと頭を下げる陽菜乃に森野が苦笑する。
この時、陽菜乃は失念していたのだ。森野が悪いオトコだということを――
「じゃあ、金曜日、ゆっくり教えてあげる。セックスってどういうものかって」
陽菜乃の手を取って、森野は指先に軽くキスをした。
ぴくんっと陽菜乃の身体が揺れてしまう。その揺れは指先にまで響いただろう。
森野はわざと、見えるようにゆっくりと陽菜乃の指を口に含んで、舌を出し、指の間を舐めてきた。
それが陽菜乃の視界に入って、慌てて目を逸らす。
「っ……」
濡れた舌先が指をなぞる。舐めているのは指だけなのに、その光景はひどく淫靡だった。
胸の鼓動が大きく響くのを陽菜乃はどうすることもできず、ただ森野のされるがままになることしかできなかった。
森野は手を離して、陽菜乃に笑顔を向ける。
「じゃあ、帰ろうか」
陽菜乃は熱くなったままの身体で、こくりと頷いた。
家に帰って、その日倉庫で目にしたことを、陽菜乃はPCに打ち込んでいく。
そして、帰り際、森野に緩く指を舐められたことも。
――すごくドキドキした。
指を舌が這っていく感触は、初めてのものだった。
ただ舐められているだけではなくて、そこに視線が絡んだり、気持ちが入ることで一気に淫靡なものとなったのだ。背中がぞくぞくした。
倉庫では、キスをしながら触れられたりしている他人の姿を見て、興奮しなかったのかと聞かれた。
興奮なら……した。
濡れてしまった下着に触れられて、自分が思いの外感じてしまっていたことも分かった。
見ているだけでも感じてしまったのに、アレをしてくれる、というのだろうか?
(――ん?)
そうしてふと気づく。陽菜乃は知識だけはやたらある。エッチなコミックスも、小説も、シチュエーションボイスもなんならアダルトビデオも、小説を書くために相当見た。
(取材させてくれるなんて機会、そんなにないんじゃ……)
この際もう、リクエストとかしてみるのはどうなんだろうか? こういうシチュエーションはどうですか? とか。
今書いているのはS系上司の出てくるオフィスものだ。陽菜乃はパソコンの前に座って、小説のサイトを開く。倉庫でのあのシチュエーションはぴったりで、ちらっと見た……いや、むしろ割とガン見に近かったあのシーンを書くために、陽菜乃は何度も何度も繰り返し思い出し、文字に起こしていった。
甘くねだるような声も、濡れたような音も――陽菜乃は無意識ではあったけれど、何度もなぞるようにあの時の出来事を思い返していたのだ。
気づいたら真夜中になっていて、小説を一気に書き上げていた。普段ではありえないほどの文字数を書いていたのだ。それをゆっくりと読み返し、誤字脱字がないか陽菜乃は確認した。
後日もう一度確認して、読んでいて分からないところがないかなど、落ち着いて第三者目線で見られるようになってからまた直す。それからサイトに上げるのだ。サイトに上げてからも編集を続けて、これでよしとなったら、ようやく公開予約をいれるようにしている。
それでも、リアルのインパクトはとても強くて、表現ひとつ取っても、今までとは全く違うように感じた。
(早く読者さんに届けたいな)
見ただけでこれだけたくさん書けるのなら、実際に取材なんてさせてもらったら、もっといっぱい書けちゃうのかも、とうきうきする。
そのリアルのインパクトがどれほどのものか、実際に経験していない陽菜乃は分かっていなかった。「セックスを教えてください」とはどういうことなのか。
「あ、小島さん」
「はい」
「これ、対応をお願いしたいです」
相変わらず、昼間の森野は眼鏡姿も相まって、とても真面目そうに見える。
あの後は、特に何ということもなく日々過ぎていった。あの時のことは夢だったのだろうか? と思うくらいだ。
目の前の真面目そうな係長が女性に倉庫に連れ込まれたあと、陽菜乃にも……えっちなことを教えてくれる、といったあれは。
森野はクリアファイルに入った資料を陽菜乃に手渡した。
あの時の妖艶な姿はどこにもない。強いて言うならウェブ上にはある。あの時のことを陽菜乃は小説として公開したのだから。
小説がなければ夢だったのでは? と思うような出来事だし、そんなことを教えてくれる、というのも信じがたいことだ。
(しかも小説は好評だったし……)
ものすごくいい評価がたくさん付いてしまった。
「よく確認してくださいね」
「はい」
森野に言われて、返事をした陽菜乃は席に戻り、受け取ったクリアファイルの書類を確認しページをめくる。その手が止まった。付箋にメッセージアプリのIDが書いてあったからだ。
『後で連絡するから、登録しておいて』
一瞬、顔がかあっと熱くなった。陽菜乃が顔を赤くしていたって誰も気にするものではないだろう、とは思いつつも、周りを見回して、誰も気づいていないことを確認する。
案の定みんな、自分の仕事に手一杯で、陽菜乃の様子に気づいた人はいないようだった。
陽菜乃がホッと胸を撫で下ろした時、当の森野と目が合ってしまった。森野はくすっ、と訳知りな雰囲気で笑う。
一瞬だけ漏れ出た色気。きっと誰も気づいていない。その秘密めいたやり取りに、陽菜乃の心臓がどきんと音を立てた。色気は、森野がモニターに顔を戻した途端に消えてしまった。
(あ、普通に戻った)
普段はきっとこんな感じだったから気づかなかったのだろう。
陽菜乃は付箋を剥がして、スマートフォンのケースの内側にぺたっと貼り付けておく。
夢でもなかったし、森野も忘れてもいなくて、あの約束はまだ生きていたらしい。
こんなことにまで律儀な森野は、やはりいい人だと陽菜乃は思う。
昼休憩の時に、休憩室でお弁当を食べながら、先ほどの付箋に書かれたIDをアプリに登録し、森野にメッセージを送る。
『よろしくお願いします』
すると割とすぐ既読がついた。
『こちらこそ』
それに陽菜乃はペコリとおじぎをしているスタンプを送っておく。
休憩室の窓から見えるお日様がやけにキラキラして見えた。
そして約束の金曜日がやってきたのである。
この日は特に問題なく仕事も進んだ。定時を回ったことを腕時計で確認して、陽菜乃は席を立つ。
ちらりと森野の方を見てみると、まだ仕事が残っているようで、書類を片手に少し難しそうな顔をしていた。
席を立った陽菜乃はスマートフォンを確認する。森野からメッセージが入っていたのだ。
アプリを確認すると、ホテルのURLが貼られている。タップするとホテルの案内を見ることができた。
(――あ、すごくちゃんとしたホテルだ)
何か特別な時や旅行でもないかぎり使わないようなホテルだった。森野の名前で予約してあるから先に入っていて、というメッセージである。
(なんか、慣れてない? そりゃ慣れてるか……。大人の男の人なんだものね)
まだ仕事中の森野は、陽菜乃を見て胸ポケットに手をやった。その手にはスマートフォンが握られている。パタパタっと画面に触れてなにか文字を打っている様子なのが分かる。
『ごめん。少し遅くなるから、先に行っていて』
陽菜乃もその場で返信する。
『了解です』
そして、少し考えてもう一文追加で送った。
『素敵なホテルを予約していただいて、ありがとうございます』
一瞬、森野が微笑んだように見えた。
陽菜乃はホテルに向かい、フロントで予約の名前を告げる。
フロントの男性はにこやかに陽菜乃にカードキーを差し出してくれた。
「お部屋は二十五階です。エレベーターでカードキーをかざしてから階数ボタンを押してください」
陽菜乃はカードキーをもらって、改めてホテル内を見る。ロビーはモダンでシックな内装で、つややかな石張りの床に黒の革張りのソファが置いてあり、落ち着いた雰囲気だ。ロビーに使われているライティングもキラキラとしたものではなく、ややアンダーで落ち着いている。置いてあるオブジェや花もシンプルでシックだ。
(大人の逢い引きにはすごくいい)
会社でも森野は派手ではないけれど、ひとつひとつの仕事をきちんとこなしていく人だ。冷静に考えてみると、森野は取引先ともトラブルを起こすようなことはほとんどない。
すごく、きちんとした人なのに。
(ギャップがすごい……)
仕事中は目立つこともなく、淡々と真面目にこなしているくせして、プライベートはこんなふうに慣れた様子で女性をエスコートして、相手によってはSにもなれる。
あの眼鏡に隠されているけれど、素顔はとても麗しくて。しかも女性にスマート。
陽菜乃の森野への興味は尽きなかった。
森野がリザーブしてくれたのは二十五階の部屋で、カードキーをエレベーターのパネルにかざさないと階数ボタンの押せない部屋だ。これはエグゼクティブフロアではないのだろうか。
そんな部屋をリザーブするなんて、慣れているとか、慣れていないとかの問題なのだろうか? 経験のない陽菜乃にはよく分からない。ただとてもスマートだということは分かった。
そして、ロビーの高級感を見た陽菜乃はふと不安になる。
(お部屋代、割り勘だったらどうしよう……)
財布の中身を考えてみた。ちょっと心もとない気がする。ATMでお金を下ろしてきた方がいいんだろうか?
「あの、すみません。この辺りにコンビニはありますか?」
フロントの男性は陽菜乃の質問に親切に答えてくれた。ホテルから歩いて五分ほどの場所にあるらしい。ついでに飲み物などの買い物もしておきたくて、陽菜乃はコンビニに向かうことにする。
ATMでお金を下ろすことができた陽菜乃は、ようやく安心した。
(これで割り勘でも大丈夫)
そして目に入ったのは衛生用品の棚だ。その前で陽菜乃は足を止める。
(買っておいた方がいいのかしら?)
その棚を陽菜乃はじーっと見つめた。
(いや、なんか森野係長慣れていそうだったし、自分で用意するかも)
でも用意するのもマナーだと、どこかで読んだ気もする。
(使用期限とかあるのかしら……。それに用意って、いくつ用意したらいいの?)
陽菜乃は、ハッとした。
(いつも絶倫想定で書いているくせに、何回するのか分からないわ)
それではリアリティがないと言われるわけだと、自分のリサーチの甘さにため息が出る。
それよりも、今日、今どうするかだ。
陽菜乃はとりあえず目立った白い箱を手に取ってみた。
表面には『人生が変わる! 〇・〇二ミリ』と書いてある。
『人生が変わる! 〇・〇二ミリ』。なにやら深い。人生が変わるらしい。
陽菜乃は人生が変わるほどのセンセーショナルさは求めていない。そっとそのパッケージを棚に戻す。コンビニとはいえ、かなり種類が豊富だ。
『SUPER GOKUATSU もはやなにも感じない』
(もはやなにも……)
パッケージの語彙力がすごい。陽菜乃は首を傾げる。
(感じなきゃダメじゃない?)
そして、パッケージ裏面の説明書きを見て、陽菜乃はさらに衝撃を受ける。
(そっか! 皆が皆、長持ちするわけじゃないんだわ! すごい! 深すぎる! コンドーム!)
隣を通り過ぎた男性がぎょっとしていた。うら若くて、そこそこ可愛らしい風情の女性が衛生用品の棚の前で、コンドームの箱裏の説明書きを食い入るように見つめているのだ。
それは引く。
しかし、その種類の多さは陽菜乃を戸惑わせるばかりだ。
(どうしよう……)
こればかりは店員さんに聞くわけにもいかないことは、さすがの陽菜乃も理解している。
結局、陽菜乃は黒くてスタイリッシュなパッケージのものを選んだ。まさかのジャケ買いである。
ホテルに戻り、エレベーターに向かうと、とんと肩を叩かれた。
綺麗な顔の森野が微笑んでいる。
「小島さん、見つけちゃった」
「あ、森野係長。お疲れ様です」
森野は苦笑した。
「仕事中みたいだな。何? コンビニ? 買い物行ったの?」
「はい」
慣れた様子でエレベーターを操作した森野が階数ボタンを押す。
「持つよ」
自然に陽菜乃の手から袋を受け取るのも、とてもスマートなのだ。
「何買ったの? デザートとか?」
「あ、飲み物です」
衛生用品は紙袋に入れてくれたので、陽菜乃のカバンの中に入っている。森野が持ってくれた袋にはペットボトル飲料しか入っていない。
「飲み物だけならホテル内にもベンダーがあっただろうに」
「いえ……他にも」
森野はいたずらっぽい顔で陽菜乃をわざと覗き込んで、きゅっと手を握った。
「もしかして、スキンとか?」
(ば、ばれたっ!)
「大事なことだよね」
優しい声だった。森野の声はトーンも響きも、陽菜乃の耳に心地よく聞こえる。高すぎも、低すぎもしない声の持ち主なのだ。けれどこんな時は普段の仕事の時とは微妙に違う甘さを含んでいる。少しひそやかな響きは、二人の距離感のせいもあるのかもしれなかった。
しかも陽菜乃がコンドームを買いに行ったことをからかうでもなく、大事なことだと言ったのだ。陽菜乃はその瞬間、優しくそう言ってくれた森野の言葉に胸がいっぱいになった。恥ずかしいことではなくて、大事なこと。握っていてくれていたその手を陽菜乃は握り返す。
するとその手を軽く引かれて頬にキスされた。
「ごめん、部屋まで我慢できなかった。そんなふうに握り返すから」
苦笑気味に微笑まれて、陽菜乃の胸はきゅんとする。
もともと整った森野の顔だが、こんな笑顔を仕事中はあまり見たことはない。作った笑顔ではなくて、自然な表情だ。
こんな森野だから、身を任せてもいいと思えたのかもしれない。急に恥ずかしいような気がして、陽菜乃は森野の顔が見られなくなって、俯いてしまった。それでもつい盗み見たくなってしまう。
(本当に顔が綺麗なのよね)
近くで見ると森野は白くて綺麗な肌をしていて、焦茶色の瞳は長いまつ毛に彩られている。綺麗な二重の持ち主で、甘さのある優しい顔立ち。
見惚れそうになっていると、エレベーターが二十五階に到着し、森野にリードされて部屋の中に入る。
緊張していた陽菜乃の耳には、カードキーでロックが空くカチャ……という音さえやけに響いたような気がした。
部屋の中はインテリアもモダンで、正面の大きな窓からは夜景が綺麗に見える。何層にも重なるビルと高層階からの奥行のある景色は、キラキラと星屑を散りばめたようだった。
「すごい……素敵……」
「小島さん、何か食べた?」
「いえ。コンビニに行っただけです」
「お腹すいたよね? 下のラウンジで軽く何か食べる?」
そう言ってくれたけれど、陽菜乃はつい自分の格好を見てしまう。引くくらい地味だ。
「ん?」
「そんなホテルのラウンジに行けるような格好で来てないんですけど」
「じゃあ、ルームサービスを頼もうか」
森野は陽菜乃にルームサービスのメニューを手渡してくれる。
「なんでも好きなのを頼んで。コース料理でもいいよ」
優しい表情だ。陽菜乃はじっと森野を見つめた。
「どうしたの?」
「森野係長、どうしてそんなに優しいんですか?」
「優しいかな?」
「はい。とっても」
まだ立ったままだった陽菜乃の手を引いて、ベッドに腰掛けさせてくれる。
森野もその横に座った。
その近くなった距離に、陽菜乃はまた胸がドキドキしてくるのを感じた。横に並んでいるから、綺麗な顔が見えないだけまだ救いだ。真横で肩が触れあいそうな距離。何だか爽やかないい匂いがするし、その香りだけで鼓動が大きくなりそうだ。
「宮沢賢治の注文の多い料理店って知ってる?」
そう耳元で囁かれた。
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(それはつまり……?)
「あの……私食べられちゃうってことですか?」
だからルームサービスを? 栄養をつけて食材にされてしまうということ?
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