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7.踏み出す勇気を持てたなら
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「5年、かぁ……」
カウンターに上半身を寝そべらせるように伸ばし、ゆっくりとマスターの言葉を反芻した。千歳と出会ってしまったあの日の記憶は不思議と鮮明に思い出せる。5年という歳月が嘘のように思えてしまうのは、私が心の隙間に千歳のことを引き入れてしまったから――なのだろうか。
「早ぇなぁ。道理で俺も歳取るわけだな……」
視界の端でマスターが自嘲気味に肩を竦めふたたびケトルの電源をパチンと入れていく様子を眺めながら、フォーカスの合わない視界の中でぼんやりとこの5年間の追憶に耽る。
あのファーストコンタクトの日、以降。改めて仕事に打ち込むようになった。自分の志を見つめ直し、せめて一人でも胸を張って堂々と歩いていける日々を重ねていきたい、そんな思いで。
大学時代、演劇部に所属し裏方を請け負っていた私は「舞台で演じる人たち」の滾るような熱い想いに触れ、そんな人たちの声なき声を綴る職に就きたい――そんな経験からライターになりたいという夢を抱いた。就職先を出版社に狙いを定め、就活に励んだ。その希望も叶い雑誌編集部門のライターとして社会人生活を歩み始めたものの、この職業はどうしても締切に追われハードワークになりやすい。不規則な生活、ミスが許されないプレッシャー、不得意分野でもわかりやすく読者に伝えるための文章力を磨きつづけなければならない難しさ、繰り返されるリテイクの厳しさ。けれど、これまで知らなかった業種や人々に触れることで新たな価値観を得ることも多く、刺激的でやりがいを感じていた。
新人の頃はスポンジのように成長出来ても、中堅的立ち位置になれば二歩進んで一歩下がるような、じれったいほどの速度でしか成長出来ない。それも私の『やさぐれ感』に拍車をかけていたように思う。初心に返り、ある種怠惰に日々を過ごしてきた自分を公私ともに見つめ直したことが功を奏したのか、そうでないのかはわからない。けれどもあの日を境に私ひとりに任される仕事も増えた。会社での1日のスケジュールをこなし、夜遅くまで録音した音声を聞きながら雑誌に載せる文章を綴る。リテイクにもめげることなく食らいつき、半年後――チーフ、という役職を授かった。
そして、新たに出会ったカメラマンの男性から想いを告げられた。私はモテるタイプではないとわかっていたし、3人目の彼にフラれて以降――千歳くんに慰めて貰った夜以降もずっとフリーだった。断る理由もなかったため、付き合ってみる事にした……けれど。
「……好きな人がいるのなら、正直に言ってくれた方がよかったよ」
数日もしないうちにその言葉をぽつりと零して、彼は私の元から去っていった。訳が、わからなかった。
私は気が付けばマスターの店に足を運んでいた。心の奥底に『聞いてほしい』とか、そういった感情があったのかもしれない。半年振りだというのに、それでも彼は暖かく迎えてくれた。……けれども。
奇しくもその日は――土曜日、で。先客としてカウンター席に座っていた千歳と2度目の邂逅を果たし、閉店まで他愛もない会話を3人で交わした。そして前回同様、退店後に「またヤケ飲み?」と図星を突かれ。
気が付けば――流されるようにふたたび身体を重ねてしまっていた。
そして、その夜。前回と同じホテルを千歳と一緒に出て、駐車場までともに歩き、夜の帳に溶け込んでいく千歳の背中を見て、ハッと気が付いた。
先日フラれた彼は――カメラマン、という職業だからこそ。想いを切り取って、他人の心を揺さぶり、感情を動かす写真を撮ることが出来る豊かな感性を研ぎ澄ませてきたからこそ。私が心の奥底で誰を見ているのか、察してしまったのだろう。
私は彼に、一度きりの相手だったはずの千歳の事を重ねてしまっていた。千歳の『何か』を知ってるわけでもないのに。だというのに――千歳ならこんな時どうするだろう、千歳ならこんな時なんと答えてくれるだろう。彼と一緒にいる時にそんな事ばかり考えてしまっていた、ということに。ようやく、気がついた。
この関係は薄氷上の関係に過ぎなくて。どちらかが足を動かしてしまえば、パキンと音を立てて壊れてしまう。そんな無情な関係にも関わらず、名前と年齢しか知らない千歳にのめり込んでしまっている『私』がいた。
初めて千歳と身体を重ねた日。土曜日にマスターの店を訪れている、と、彼は口にしていた。その言葉が私の心の中のどこかに棘のように残っていたのだ。こうして示し合わせるように土曜日に来店したのも、彼に『慰められる』ことを期待してしまっていた、から。
夜の闇に滲んで消えていった背中の名残りに、思わず乾いた笑いが零れた。千歳には長い時間をかけてすり減った私の心の悲鳴までが寸分違わず伝わっていた前例もある。この感情も、千歳には伝わっているだろう、と……漠然とそう思った。
もう開き直ってしまおう。あろうことか、そんな風に思ってしまった。欺瞞だとわかっていても、私は既に自分の行動を制御出来なくなってしまっていた。
誰かにフラれるたび土曜日を狙ってあの店を訪れ、先に来店していた千歳とマスターにフラれた愚痴を零す。時には私が先に来店することもあった。そんな日は千歳が訪れるのを待ちつつマスターに愚痴を零す。そうして――
『僕じゃなくて……この前フラれたひと、とか』
初めに抱かれた時の言葉の証のように、目隠しをされながら彼に抱かれるようになった。
『だ~から。彼女なんていないって。いたら他の女なんて絶対に抱いたりしないから』
千歳のその言葉を、都合の良いように解釈した。――彼に彼女ができるまで甘えさせてもらおう、と。そんな自分が嫌だった。
フラれたあとでないと、千歳に抱いてもらえない。そんなバカげた考えが私を大きく支配していた。止めなければと思うのに、止められなかった。
慰めの時間を過ごしては我に返り、インターネットでセフレ関係を止める方法を探した。マイナスを補うだけの存在に苦しむひとたちは意外とたくさんいて――沼に嵌まる、というのはこういう事なのだろうかと感じた。
気が付けば5年の歳月が過ぎ、私は『千歳に慰めて』もらうために意図的に失恋を重ねるようになっていた。24歳だった彼も29歳となったけれど、彼女が出来たなんていう話は一度もされたことがなかった。それもずるずると甘えてきてしまった理由の一つでもあるだろう。
お互いの為にどこかでこの関係を終わらせなければならないというのも、十分理解している。私のほうが年上なのだから、私が終わりを切り出すべきなのだ。
(……今日)
今夜。この関係を終わらせよう。年齢も釣り合っていない、価値観も合っていない。なにより想いが通じ合っていない彼と私。億が一の可能性で千歳がこの関係を終わらせることを渋ったとて、将来的に子どもを望む私と子どもを望まない彼の願いは平行線で交わることはない。私たちに明るい未来は用意されていない。若い彼にはたくさんの可能性がある。こんな枷のような関係から解放してあげなければ。
覚悟を決めるかのようにぐっと唇を噛むと、先ほどマスターが電源を入れたケトルが甲高い音を立てた。
「さっきも言ったが、ちょっと頭を冷やしたらどうだ。例えば、仕事で独立を目指してみるとか」
「……独立?」
考えてもいなかった単語に目を瞬かせる。寝そべらせるようにカウンターに預けていた上半身をそっと起こした。マスターがコーヒーを淹れる準備を進めながら小さく頷く。
「ん。フリーランスでライターをやっていく、っつうのはどうだ?」
「う~ん……」
私もライターの端くれだ。いつかは独立して、自社雑誌だけでなくいろんな媒体に寄稿出来るような存在になってみたい、という願望が無いわけではない……けれど。
正直、会社員でいるほうが都合がいい。これからの将来を見据えると、やはり産休や育休などの保障がきちんとしているところに所属していたい。何より、独立して大きな何かを成し遂げたい、なんて、今の私には大層な目標もない。
眉根を寄せ考え込んだ私の表情に苦笑いを浮かべたマスターが、ふたたびカウンター内から腕を伸ばし私の髪をくしゃりと撫でた。
「やよい。大切な答えはすぐには出せねぇもんだ。焦るな。急いては事を仕損じる、っつうだろう?」
「……うん」
「遠回りしたっていい。お前が死ぬときに、これでよかったと思える人生だったらそれでいいじゃねぇか」
「ん……」
マスターが私に向けている、沁み入るような眼差し。私よりも20年近くの歳月を生きてきた彼からの言葉は自然と胸に溶け込んで、私の身体の一部になるような気がした。
(……独立、か…)
入社して10年以上が経ち、その中で数名の先輩が独立してフリーライターへの道を羽ばたいていった。とはいうものの、古巣と完全に縁が切れたわけでもなく時折そんな先輩たちが顔を出しに来たりすることもある。私もその背中を追いかけてみる、というのも、確かに一つの選択肢だ。
「マスター。ちょっとお願いがあって」
「なんだなんだ、改まって」
マスターがコーヒーポットを置き、サーバーからコーヒーカップに淹れたてのコーヒーを移しながら顔を上げた。驚いたように丸くなった琥珀色の瞳をじっと見据え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「このお店とマスターを取材させて欲しいの」
「んん? 俺を?」
「うん。今ね、『こだわり』っていうテーマの企画が出ていて」
「あぁ……なるほど、な」
その一言でマスターは私の「取材させて欲しい」の意味を一瞬で噛み砕いたのだろう。少しばかり渋い顔つきで考え込むように顎に手を当て、白髪混じりの髭を撫でていた。
無茶な申し出だとは理解している。この喫茶店は見ての通り規模も小さく、端から見ていても細く長く続けていきたいというマスターの願いが伝わってくる経営の仕方をしている。その上、開業20年近くになるけれどもこうした『取材』というものはこれまで積極的に受けてこなかったと聞いていた。断られること前提、だ。
顎から手を離したマスターが手を伸ばす。コトリ、と小さな音を立て、私の目の前に白いコーヒーカップが置かれた。複雑なブレンドの香りが鼻腔をくすぐっていく。
「……受けるにしても条件付きだが」
「受けてくれるなら何でも聞く」
断られると思っていた。快諾とは言えないけれど、承允を引き出せたことは御の字と言えよう。食いつくように身体を乗り出し、マスターの声に言葉を被せた。
「俺の顔、それから店の名前と住所を出さないこと」
紡がれたの言葉を飲み込み、ぴしりと身体が固まる。私が浮かべた絶望的な表情にマスターが困ったように吐息を吐き出し頬を掻いた。
店の名前、そして住所も掲載できないのであれば誌面に載せる意味の大半を失う。私が今担当しているのはお洒落と暮らしを楽しむ大人の女性をターゲットにしたライフスタイルマガジンの一面特集だ。読者層が固定していて、購入者の大半が誌面を深く読み込んでくれる。この喫茶店は今流行りの写真をメインとしたSNSのニーズにマッチしており、読者の心を掴みやすいはず。
そこまで考え、ある一点に考えが及んだ。すっと背筋を伸ばし、マスターの困ったような表情にゆっくりと問いを投げかける。
「……わかった。店内の写真は掲載しても?」
「まぁ、それくらいなら。俺はこの店を隠れ家みたいな喫茶店にしてぇって思ってるからな。表に出ちまって客が大挙したら、それこそ本業に支障が出る」
取材したい、という申し出を、マスター自身が納得し引き受けられる範囲で引き受けてくれた。それだけで十分だ。謝意とともに頭を下げると、穏やかに目尻を下げたマスターがスマートフォンに手を伸ばし、ふっと私の前に差し出していく。
「ん。連絡先」
数ヶ月に一度訪れる常連になったとて、私はマスターの連絡先を知らない。取材にあたっての詳しい話はあとでゆっくり詰めて行こう、というマスターの言外の意思を受け取り、口元が綻んでいく。
「……ありがとうございます、池野さん」
「その呼び名はやめてくれ。お前に苗字で呼ばれるとなんかくすぐってぇ」
西日が差し込む中。マスターの困ったような、それでいて揶揄うような笑い声が店内に反響して消えていった。
カウンターに上半身を寝そべらせるように伸ばし、ゆっくりとマスターの言葉を反芻した。千歳と出会ってしまったあの日の記憶は不思議と鮮明に思い出せる。5年という歳月が嘘のように思えてしまうのは、私が心の隙間に千歳のことを引き入れてしまったから――なのだろうか。
「早ぇなぁ。道理で俺も歳取るわけだな……」
視界の端でマスターが自嘲気味に肩を竦めふたたびケトルの電源をパチンと入れていく様子を眺めながら、フォーカスの合わない視界の中でぼんやりとこの5年間の追憶に耽る。
あのファーストコンタクトの日、以降。改めて仕事に打ち込むようになった。自分の志を見つめ直し、せめて一人でも胸を張って堂々と歩いていける日々を重ねていきたい、そんな思いで。
大学時代、演劇部に所属し裏方を請け負っていた私は「舞台で演じる人たち」の滾るような熱い想いに触れ、そんな人たちの声なき声を綴る職に就きたい――そんな経験からライターになりたいという夢を抱いた。就職先を出版社に狙いを定め、就活に励んだ。その希望も叶い雑誌編集部門のライターとして社会人生活を歩み始めたものの、この職業はどうしても締切に追われハードワークになりやすい。不規則な生活、ミスが許されないプレッシャー、不得意分野でもわかりやすく読者に伝えるための文章力を磨きつづけなければならない難しさ、繰り返されるリテイクの厳しさ。けれど、これまで知らなかった業種や人々に触れることで新たな価値観を得ることも多く、刺激的でやりがいを感じていた。
新人の頃はスポンジのように成長出来ても、中堅的立ち位置になれば二歩進んで一歩下がるような、じれったいほどの速度でしか成長出来ない。それも私の『やさぐれ感』に拍車をかけていたように思う。初心に返り、ある種怠惰に日々を過ごしてきた自分を公私ともに見つめ直したことが功を奏したのか、そうでないのかはわからない。けれどもあの日を境に私ひとりに任される仕事も増えた。会社での1日のスケジュールをこなし、夜遅くまで録音した音声を聞きながら雑誌に載せる文章を綴る。リテイクにもめげることなく食らいつき、半年後――チーフ、という役職を授かった。
そして、新たに出会ったカメラマンの男性から想いを告げられた。私はモテるタイプではないとわかっていたし、3人目の彼にフラれて以降――千歳くんに慰めて貰った夜以降もずっとフリーだった。断る理由もなかったため、付き合ってみる事にした……けれど。
「……好きな人がいるのなら、正直に言ってくれた方がよかったよ」
数日もしないうちにその言葉をぽつりと零して、彼は私の元から去っていった。訳が、わからなかった。
私は気が付けばマスターの店に足を運んでいた。心の奥底に『聞いてほしい』とか、そういった感情があったのかもしれない。半年振りだというのに、それでも彼は暖かく迎えてくれた。……けれども。
奇しくもその日は――土曜日、で。先客としてカウンター席に座っていた千歳と2度目の邂逅を果たし、閉店まで他愛もない会話を3人で交わした。そして前回同様、退店後に「またヤケ飲み?」と図星を突かれ。
気が付けば――流されるようにふたたび身体を重ねてしまっていた。
そして、その夜。前回と同じホテルを千歳と一緒に出て、駐車場までともに歩き、夜の帳に溶け込んでいく千歳の背中を見て、ハッと気が付いた。
先日フラれた彼は――カメラマン、という職業だからこそ。想いを切り取って、他人の心を揺さぶり、感情を動かす写真を撮ることが出来る豊かな感性を研ぎ澄ませてきたからこそ。私が心の奥底で誰を見ているのか、察してしまったのだろう。
私は彼に、一度きりの相手だったはずの千歳の事を重ねてしまっていた。千歳の『何か』を知ってるわけでもないのに。だというのに――千歳ならこんな時どうするだろう、千歳ならこんな時なんと答えてくれるだろう。彼と一緒にいる時にそんな事ばかり考えてしまっていた、ということに。ようやく、気がついた。
この関係は薄氷上の関係に過ぎなくて。どちらかが足を動かしてしまえば、パキンと音を立てて壊れてしまう。そんな無情な関係にも関わらず、名前と年齢しか知らない千歳にのめり込んでしまっている『私』がいた。
初めて千歳と身体を重ねた日。土曜日にマスターの店を訪れている、と、彼は口にしていた。その言葉が私の心の中のどこかに棘のように残っていたのだ。こうして示し合わせるように土曜日に来店したのも、彼に『慰められる』ことを期待してしまっていた、から。
夜の闇に滲んで消えていった背中の名残りに、思わず乾いた笑いが零れた。千歳には長い時間をかけてすり減った私の心の悲鳴までが寸分違わず伝わっていた前例もある。この感情も、千歳には伝わっているだろう、と……漠然とそう思った。
もう開き直ってしまおう。あろうことか、そんな風に思ってしまった。欺瞞だとわかっていても、私は既に自分の行動を制御出来なくなってしまっていた。
誰かにフラれるたび土曜日を狙ってあの店を訪れ、先に来店していた千歳とマスターにフラれた愚痴を零す。時には私が先に来店することもあった。そんな日は千歳が訪れるのを待ちつつマスターに愚痴を零す。そうして――
『僕じゃなくて……この前フラれたひと、とか』
初めに抱かれた時の言葉の証のように、目隠しをされながら彼に抱かれるようになった。
『だ~から。彼女なんていないって。いたら他の女なんて絶対に抱いたりしないから』
千歳のその言葉を、都合の良いように解釈した。――彼に彼女ができるまで甘えさせてもらおう、と。そんな自分が嫌だった。
フラれたあとでないと、千歳に抱いてもらえない。そんなバカげた考えが私を大きく支配していた。止めなければと思うのに、止められなかった。
慰めの時間を過ごしては我に返り、インターネットでセフレ関係を止める方法を探した。マイナスを補うだけの存在に苦しむひとたちは意外とたくさんいて――沼に嵌まる、というのはこういう事なのだろうかと感じた。
気が付けば5年の歳月が過ぎ、私は『千歳に慰めて』もらうために意図的に失恋を重ねるようになっていた。24歳だった彼も29歳となったけれど、彼女が出来たなんていう話は一度もされたことがなかった。それもずるずると甘えてきてしまった理由の一つでもあるだろう。
お互いの為にどこかでこの関係を終わらせなければならないというのも、十分理解している。私のほうが年上なのだから、私が終わりを切り出すべきなのだ。
(……今日)
今夜。この関係を終わらせよう。年齢も釣り合っていない、価値観も合っていない。なにより想いが通じ合っていない彼と私。億が一の可能性で千歳がこの関係を終わらせることを渋ったとて、将来的に子どもを望む私と子どもを望まない彼の願いは平行線で交わることはない。私たちに明るい未来は用意されていない。若い彼にはたくさんの可能性がある。こんな枷のような関係から解放してあげなければ。
覚悟を決めるかのようにぐっと唇を噛むと、先ほどマスターが電源を入れたケトルが甲高い音を立てた。
「さっきも言ったが、ちょっと頭を冷やしたらどうだ。例えば、仕事で独立を目指してみるとか」
「……独立?」
考えてもいなかった単語に目を瞬かせる。寝そべらせるようにカウンターに預けていた上半身をそっと起こした。マスターがコーヒーを淹れる準備を進めながら小さく頷く。
「ん。フリーランスでライターをやっていく、っつうのはどうだ?」
「う~ん……」
私もライターの端くれだ。いつかは独立して、自社雑誌だけでなくいろんな媒体に寄稿出来るような存在になってみたい、という願望が無いわけではない……けれど。
正直、会社員でいるほうが都合がいい。これからの将来を見据えると、やはり産休や育休などの保障がきちんとしているところに所属していたい。何より、独立して大きな何かを成し遂げたい、なんて、今の私には大層な目標もない。
眉根を寄せ考え込んだ私の表情に苦笑いを浮かべたマスターが、ふたたびカウンター内から腕を伸ばし私の髪をくしゃりと撫でた。
「やよい。大切な答えはすぐには出せねぇもんだ。焦るな。急いては事を仕損じる、っつうだろう?」
「……うん」
「遠回りしたっていい。お前が死ぬときに、これでよかったと思える人生だったらそれでいいじゃねぇか」
「ん……」
マスターが私に向けている、沁み入るような眼差し。私よりも20年近くの歳月を生きてきた彼からの言葉は自然と胸に溶け込んで、私の身体の一部になるような気がした。
(……独立、か…)
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「なんだなんだ、改まって」
マスターがコーヒーポットを置き、サーバーからコーヒーカップに淹れたてのコーヒーを移しながら顔を上げた。驚いたように丸くなった琥珀色の瞳をじっと見据え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「このお店とマスターを取材させて欲しいの」
「んん? 俺を?」
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「あぁ……なるほど、な」
その一言でマスターは私の「取材させて欲しい」の意味を一瞬で噛み砕いたのだろう。少しばかり渋い顔つきで考え込むように顎に手を当て、白髪混じりの髭を撫でていた。
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顎から手を離したマスターが手を伸ばす。コトリ、と小さな音を立て、私の目の前に白いコーヒーカップが置かれた。複雑なブレンドの香りが鼻腔をくすぐっていく。
「……受けるにしても条件付きだが」
「受けてくれるなら何でも聞く」
断られると思っていた。快諾とは言えないけれど、承允を引き出せたことは御の字と言えよう。食いつくように身体を乗り出し、マスターの声に言葉を被せた。
「俺の顔、それから店の名前と住所を出さないこと」
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店の名前、そして住所も掲載できないのであれば誌面に載せる意味の大半を失う。私が今担当しているのはお洒落と暮らしを楽しむ大人の女性をターゲットにしたライフスタイルマガジンの一面特集だ。読者層が固定していて、購入者の大半が誌面を深く読み込んでくれる。この喫茶店は今流行りの写真をメインとしたSNSのニーズにマッチしており、読者の心を掴みやすいはず。
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数ヶ月に一度訪れる常連になったとて、私はマスターの連絡先を知らない。取材にあたっての詳しい話はあとでゆっくり詰めて行こう、というマスターの言外の意思を受け取り、口元が綻んでいく。
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