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8.世界を瞳に閉じ込めて
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コツコツとヒールの音を鳴らしながらいつもの駐車場への道を歩いた。ふと空を見上げ、茜色の空に浮かぶ白んだ月を眺める。
(……今夜)
全部全部、終わらせる。私もいい加減、心地よいぬるま湯に浸かっている現状から抜け出さなければ。そうしなければ、私が抱えている『子どもが欲しい』というありふれた小さな願いは叶えられない。
千歳も、きっと。私に『ちゃんと慰めて』と言わせてしまった責任とか、そういう罪悪感のようなものを抱いているからこそ、こうした関係を断ち切れないと思っているのだろう。だから――私から終わりを言い出さなければならないのだ。
ぐっと唇を噛み、改めて自分にそう言い聞かせる。鉛のような足を必死に動かしていくと――いつものように。千歳は、いつもの駐車場の壁面にもたれかかって。いつものように淡い光を放つスマートフォンを操作していた。
いつの頃からか。こうして私が土曜日を狙ってあの喫茶店を訪れ、千歳が先に退店して。ここで私を待っているのが、私たちの不文律になっていた。
「遅かったね?」
ぼんやりとした電灯の明かりに照らされた彼の表情は、相変わらず何を考えているのかさっぱり読めない。……けれど。
薄暗い中でも鮮明に伝わってくる、私を射抜く熱を帯びた視線。
この視線に絡め取られてはいけない、と。そう、わかっているのに。
「……ちょっとね。マスターと話し込んじゃって」
「ふぅん」
肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握り締め、困ったような笑顔を作る。もたれかかっていた壁面から身体を起こし、興味がなさそうにスタスタとこちらへ歩みを進める千歳。ゆっくりと近づいてくる影とすれ違う。鼻腔をくすぐったのは、いつもと同じ――森林を連想させる爽やかな香り。
「……」
私と入れ違うように駐車場の出入り口へと向かう千歳に、そっと視線を向ける。ぼんやりとした空間に、彼の背中の輪郭が溶け込んでいく。
いつもと違うのは、私の――胸に秘めた拙い覚悟だけ。
「……? やよさん、どうしたの?」
足を止め、くるりとこちらを振り返った千歳が小首を傾げて目を瞬かせた。こうして合流した後にホテルに入るのが、いつもの流れ。暗黙の了解ともいうべき行為。千歳は私が先ほどから一歩も動かないことを疑問に思ったのだろう。
「…………」
こんな不毛な関係は、終わらせなければ。そう思うのに。
「……ごめん。仕事のこと、ちょっと考えてたから」
小さく肩を竦めて、戯けたような口調で笑みを浮かべた。千歳がいつものように私に向けている、熱っぽい視線の名残を振り払うことは――この期に及んでも。どうしてもできなかった。
「あぁ、なるほどね。さっきもマスターと話してたもんね。忙しいんだっけ、今」
「……うん。もう中堅って立場だからねぇ。いろいろ大変なんだよね」
終わらせなければ、と思えば思うほど、意思に反して動く、私の足。コツコツと鳴る、ヒールの音。あっという間に立ち止まっていた千歳の隣まで、来てしまった。
「なるほど。今回は忙しさにかまけて連絡不精だった、それが性格の不一致と言われてフラれた……ってところ?」
「……ん。ま、そんなとこ、かな」
あの店でのマスターとの会話と、先ほどの私の言葉から千歳が推測を滔々と並べ立てていく。本当の理由ではないのだけれど、さもそれが本当のことであるかのように淡々と言葉を交わす。
(最後に。……最後に――綺麗な思い出を、もう一度だけ)
心の中で自分に言い訳をしながら。頭上に輝く星屑のヒカリを浴びて――必死に、笑顔を貼り付けた。
***
ぼんやりと覚醒しきれない思考の渦の中で、浴室から響くシャワーの水音を聴いていた。耳鳴りのように絶え間なく響くその音は、木々の梢を鳴らすような物憂げな雨音にも思えた。ざぁざぁとしたその水音が私の思考をさらに深いところまで落としていく。
(……流されて、しまった)
終わらせる、と、心に決めたのに。結局、半年前と変わらず。最後に綺麗な思い出を、と訳のわからない言い訳を自分にして――今夜も。千歳と身体を重ねてしまった。
胸の中に去来するたくさんの感情。けじめをつけると決めたのに。何一つ変われない自分に対する、苛立ち。数多の感情が身体の奥底で綯交ぜになる。それらを投げ捨てるかのようにはぁっと大きく息を吐き出して、勢いよく身体にかかっている掛け布団を引きずり上げた。しゅるりと衣擦れの音が響く。
肉欲に塗れた情事の蜜音に我に返ったとて、千歳に抱いて欲しい、という自分の身勝手な欲望を押し留めることが出来なかった。35歳にもなる大人が、つくづく情けない。
頭のてっぺんまで隠す掛け布団が室内の照明を遮っている。ころんと身体を左に傾けた。薄暗い空間の中で膝を胸元まで引き寄せ、赤子のように身体を小さく丸める。
好きにならないように、でも、嫌われないように。ただただそんな会話を意識する。寂しさを払拭するために必死になって、そんな言葉ばかり繰り出して。だからこそ、いつも待ち合わせるあの場所で千歳と決別できなかったのだ。一夜を共にしただけの男にここまで入れ込んでしまっているなんて、いい大人が本当に情けない。
(……でも)
流されてしまった、けれど。これでよかったのかもしれない。先ほどの場で決定的な言葉を交わして千歳と決別してしまえば。いつの日にかあの店で鉢合わせたときにお互いに挙動不審になってしまって、マスターや他の常連さんに勘繰られてしまう可能性だって、ないわけじゃあない。
これからもう、土曜日にあの店に近寄らなければいい。彼も子どもではない。もうすぐ30代に足を踏み入れる、大人の男性。いつか、どこかのタイミングで。私が彼を避けているということは千歳にも伝わるだろうし、彼も察してくれるはず。
あの喫茶店の常連という共通点があるだけ。お互いに連絡先も知らない。苗字も知らない。何を生業にしているのか、どの街に住んでいるのか。お互いにそういったことを、全く知らない。
この関係は薄氷の上の関係。
慰めに身体を重ねるだけの、関係。
私がこれから一歩を踏み出すのだから。
パキンと音を立てて――すべてが、崩れ落ちていくだけ。
眦に滲む熱いものに気が付かないふりをして掛け布団を跳ねのけると同時に、ブーッと鈍い音がした。音の発生源は、ベッドわきのサイドテーブルに置いていた私の鞄の中、だった。バイブレーションのパターンからするに、メールの受信を報せるもの。一昨日行われた企画会議の議事録が回ってきたのだろうか。締め切りが近いわけでもあるまいし、こんな休日の夜に連絡しなくてもいいのに。そんなことをぼんやりと考えながら情事の余韻が残る気だるい身体を捩り、無造作に置かれた鞄の紐を半ば強引に引っ張った。ゴソゴソと中をまさぐって指先に当たったスマートフォンの感触を掴み取る。
鞄から引っ張り出したスマートフォンのディスプレイを明るくし、差出人を確認しようとして。そこに表示されていた名前に、大きく息を飲んだ。
「マ、スター!」
スマートフォンを握り締めたまま、勢いよく上半身を起こす。身体の奥に残る淫靡な感覚を振り払い、受信したメールを開封する。
『取材の件。日程のワガママを言わせて貰えるなら、出来れば店休日に合わせてもらえると助かる。営業日に取材受けてると機会損失に繋がる可能性もある。こちらの都合ばかり通るわけではないだろうが、一考してくれるとありがたい。今後ともよろしく』
メールの本文に目を通し、ほぅ、と息を吐く。彼の申し出には腑に落ちるものがあった。マスターの本業は周辺のレストランに卸すためのコーヒー豆の販売。日中開いている喫茶店はそちらの顧客に繋げるためのオプション。喫茶店の営業時間をイレギュラーな取材対応に割いていれば、そちらの顧客を逃してしまう可能性も否めない。こちらは取材をさせてもらう側なのだ。それくらいの融通は利かせるべきだろう。
ガチャリと浴室の扉が開く音を遠くで聞きながら、ベッドの上にぺたりと座り込んだまま返信の文面を打ち込んでいく。
『ありがとう! 日程についてはスケジュールを確認してから改めて連絡を入れるね。店休日は平日だし、調整はつけやすいと思う』
そこまで打ち込んで、少しばかり逡巡する。私とマスターは店のオーナーとその常連客、という関係ではあるけれど、この話はあくまでもビジネス上のこと。砕けた文言よりもしっかりとした文面のほうが良いだろうか。
……とはいうものの、今更『お世話になっております』だなんて始まるメールは、あまりにも硬すぎやしないだろうか。なんだかんだ言いつつ、マスターはそういう形式ばったことは嫌がりそうな人種のような気がする。
そんなことを延々と考えていると、ツンッと額をつつかれる感覚で勢いよく現実に引き戻された。
「眉間に皴寄ってるよ、やよさん。すごい顔してる」
気が付けば、くすくすと目を細めて笑みを浮かべた千歳が目の前にいた。濡れて束になった黒髪が妙に艶めかしく思え、ドクンと心臓が跳ねる。私の隣に千歳が腰かけると、ふかふかのベッドが深く沈んでいく。
僅かに生まれた風に乗せてふわりと薫るのは、千歳がいつも付けている香水の香りではなく、清潔さを感じさせる石鹸の香り。先にシャワーに行っていた千歳がこちらに戻って来たのだ。備え付けのガウンを羽織った彼とは対照的な、情事後の余韻を残した私。先ほど跳ねのけた掛け布団を慌てて引き寄せ身体を隠す。
「さっきから見てたら百面相してたよ。難しい顔してどうしたの?」
苦笑したような声色で投げかけられた問い。……こんな状況になっても。この関係を終わらせるつもりでいることを、千歳にはなんとなく悟られたくなかった。決定的な言葉で禍根を残すよりは――先ほど考えていたようにフェードアウトを狙ったほうがお互いにとって最適解のような気がする。脳内でひとりそう結論付け、動揺する心を押し込めながらいつもの調子でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ちょっとね。マスターにどう返事しようかなって」
「……マスター?」
驚いたような声が左側から落ちてくる。その声に合わせるように、こくんと小さく頷きながら胸元の掛け布団をふたたび引き上げた。
「うん。仕事で接点が出来たんだけど、いつもの調子で返事しそうになってね? そんな自分にちょっと呆れちゃって」
「……」
困ったような表情に見えるように、眉を下げて小さく肩を竦めた。目の前の千歳は、訝しげな表情をしているように思えた、けれど。
(もう……あと少しで、この関係も)
いつだって、身体を重ねるのは一度だけ。私に目隠しをしながら、彼は私を慰めるために一晩に一度だけ私を抱く。ここに泊まるということは絶対にない。これから私がシャワーを浴びて、一緒にこのホテルを出れば――崩れてしまう関係。
だから、もう。目の前に浮かぶ表情の意味を深く考えて、さっきの一言で嫌われただろうかと怯えることも、しなくていい。
友達同士でもあるまいし、やっぱり失礼になっちゃうよね、と……言葉を続けようとして。ギシリ、と。スプリングが――大きく軋む音がした。
(……今夜)
全部全部、終わらせる。私もいい加減、心地よいぬるま湯に浸かっている現状から抜け出さなければ。そうしなければ、私が抱えている『子どもが欲しい』というありふれた小さな願いは叶えられない。
千歳も、きっと。私に『ちゃんと慰めて』と言わせてしまった責任とか、そういう罪悪感のようなものを抱いているからこそ、こうした関係を断ち切れないと思っているのだろう。だから――私から終わりを言い出さなければならないのだ。
ぐっと唇を噛み、改めて自分にそう言い聞かせる。鉛のような足を必死に動かしていくと――いつものように。千歳は、いつもの駐車場の壁面にもたれかかって。いつものように淡い光を放つスマートフォンを操作していた。
いつの頃からか。こうして私が土曜日を狙ってあの喫茶店を訪れ、千歳が先に退店して。ここで私を待っているのが、私たちの不文律になっていた。
「遅かったね?」
ぼんやりとした電灯の明かりに照らされた彼の表情は、相変わらず何を考えているのかさっぱり読めない。……けれど。
薄暗い中でも鮮明に伝わってくる、私を射抜く熱を帯びた視線。
この視線に絡め取られてはいけない、と。そう、わかっているのに。
「……ちょっとね。マスターと話し込んじゃって」
「ふぅん」
肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握り締め、困ったような笑顔を作る。もたれかかっていた壁面から身体を起こし、興味がなさそうにスタスタとこちらへ歩みを進める千歳。ゆっくりと近づいてくる影とすれ違う。鼻腔をくすぐったのは、いつもと同じ――森林を連想させる爽やかな香り。
「……」
私と入れ違うように駐車場の出入り口へと向かう千歳に、そっと視線を向ける。ぼんやりとした空間に、彼の背中の輪郭が溶け込んでいく。
いつもと違うのは、私の――胸に秘めた拙い覚悟だけ。
「……? やよさん、どうしたの?」
足を止め、くるりとこちらを振り返った千歳が小首を傾げて目を瞬かせた。こうして合流した後にホテルに入るのが、いつもの流れ。暗黙の了解ともいうべき行為。千歳は私が先ほどから一歩も動かないことを疑問に思ったのだろう。
「…………」
こんな不毛な関係は、終わらせなければ。そう思うのに。
「……ごめん。仕事のこと、ちょっと考えてたから」
小さく肩を竦めて、戯けたような口調で笑みを浮かべた。千歳がいつものように私に向けている、熱っぽい視線の名残を振り払うことは――この期に及んでも。どうしてもできなかった。
「あぁ、なるほどね。さっきもマスターと話してたもんね。忙しいんだっけ、今」
「……うん。もう中堅って立場だからねぇ。いろいろ大変なんだよね」
終わらせなければ、と思えば思うほど、意思に反して動く、私の足。コツコツと鳴る、ヒールの音。あっという間に立ち止まっていた千歳の隣まで、来てしまった。
「なるほど。今回は忙しさにかまけて連絡不精だった、それが性格の不一致と言われてフラれた……ってところ?」
「……ん。ま、そんなとこ、かな」
あの店でのマスターとの会話と、先ほどの私の言葉から千歳が推測を滔々と並べ立てていく。本当の理由ではないのだけれど、さもそれが本当のことであるかのように淡々と言葉を交わす。
(最後に。……最後に――綺麗な思い出を、もう一度だけ)
心の中で自分に言い訳をしながら。頭上に輝く星屑のヒカリを浴びて――必死に、笑顔を貼り付けた。
***
ぼんやりと覚醒しきれない思考の渦の中で、浴室から響くシャワーの水音を聴いていた。耳鳴りのように絶え間なく響くその音は、木々の梢を鳴らすような物憂げな雨音にも思えた。ざぁざぁとしたその水音が私の思考をさらに深いところまで落としていく。
(……流されて、しまった)
終わらせる、と、心に決めたのに。結局、半年前と変わらず。最後に綺麗な思い出を、と訳のわからない言い訳を自分にして――今夜も。千歳と身体を重ねてしまった。
胸の中に去来するたくさんの感情。けじめをつけると決めたのに。何一つ変われない自分に対する、苛立ち。数多の感情が身体の奥底で綯交ぜになる。それらを投げ捨てるかのようにはぁっと大きく息を吐き出して、勢いよく身体にかかっている掛け布団を引きずり上げた。しゅるりと衣擦れの音が響く。
肉欲に塗れた情事の蜜音に我に返ったとて、千歳に抱いて欲しい、という自分の身勝手な欲望を押し留めることが出来なかった。35歳にもなる大人が、つくづく情けない。
頭のてっぺんまで隠す掛け布団が室内の照明を遮っている。ころんと身体を左に傾けた。薄暗い空間の中で膝を胸元まで引き寄せ、赤子のように身体を小さく丸める。
好きにならないように、でも、嫌われないように。ただただそんな会話を意識する。寂しさを払拭するために必死になって、そんな言葉ばかり繰り出して。だからこそ、いつも待ち合わせるあの場所で千歳と決別できなかったのだ。一夜を共にしただけの男にここまで入れ込んでしまっているなんて、いい大人が本当に情けない。
(……でも)
流されてしまった、けれど。これでよかったのかもしれない。先ほどの場で決定的な言葉を交わして千歳と決別してしまえば。いつの日にかあの店で鉢合わせたときにお互いに挙動不審になってしまって、マスターや他の常連さんに勘繰られてしまう可能性だって、ないわけじゃあない。
これからもう、土曜日にあの店に近寄らなければいい。彼も子どもではない。もうすぐ30代に足を踏み入れる、大人の男性。いつか、どこかのタイミングで。私が彼を避けているということは千歳にも伝わるだろうし、彼も察してくれるはず。
あの喫茶店の常連という共通点があるだけ。お互いに連絡先も知らない。苗字も知らない。何を生業にしているのか、どの街に住んでいるのか。お互いにそういったことを、全く知らない。
この関係は薄氷の上の関係。
慰めに身体を重ねるだけの、関係。
私がこれから一歩を踏み出すのだから。
パキンと音を立てて――すべてが、崩れ落ちていくだけ。
眦に滲む熱いものに気が付かないふりをして掛け布団を跳ねのけると同時に、ブーッと鈍い音がした。音の発生源は、ベッドわきのサイドテーブルに置いていた私の鞄の中、だった。バイブレーションのパターンからするに、メールの受信を報せるもの。一昨日行われた企画会議の議事録が回ってきたのだろうか。締め切りが近いわけでもあるまいし、こんな休日の夜に連絡しなくてもいいのに。そんなことをぼんやりと考えながら情事の余韻が残る気だるい身体を捩り、無造作に置かれた鞄の紐を半ば強引に引っ張った。ゴソゴソと中をまさぐって指先に当たったスマートフォンの感触を掴み取る。
鞄から引っ張り出したスマートフォンのディスプレイを明るくし、差出人を確認しようとして。そこに表示されていた名前に、大きく息を飲んだ。
「マ、スター!」
スマートフォンを握り締めたまま、勢いよく上半身を起こす。身体の奥に残る淫靡な感覚を振り払い、受信したメールを開封する。
『取材の件。日程のワガママを言わせて貰えるなら、出来れば店休日に合わせてもらえると助かる。営業日に取材受けてると機会損失に繋がる可能性もある。こちらの都合ばかり通るわけではないだろうが、一考してくれるとありがたい。今後ともよろしく』
メールの本文に目を通し、ほぅ、と息を吐く。彼の申し出には腑に落ちるものがあった。マスターの本業は周辺のレストランに卸すためのコーヒー豆の販売。日中開いている喫茶店はそちらの顧客に繋げるためのオプション。喫茶店の営業時間をイレギュラーな取材対応に割いていれば、そちらの顧客を逃してしまう可能性も否めない。こちらは取材をさせてもらう側なのだ。それくらいの融通は利かせるべきだろう。
ガチャリと浴室の扉が開く音を遠くで聞きながら、ベッドの上にぺたりと座り込んだまま返信の文面を打ち込んでいく。
『ありがとう! 日程についてはスケジュールを確認してから改めて連絡を入れるね。店休日は平日だし、調整はつけやすいと思う』
そこまで打ち込んで、少しばかり逡巡する。私とマスターは店のオーナーとその常連客、という関係ではあるけれど、この話はあくまでもビジネス上のこと。砕けた文言よりもしっかりとした文面のほうが良いだろうか。
……とはいうものの、今更『お世話になっております』だなんて始まるメールは、あまりにも硬すぎやしないだろうか。なんだかんだ言いつつ、マスターはそういう形式ばったことは嫌がりそうな人種のような気がする。
そんなことを延々と考えていると、ツンッと額をつつかれる感覚で勢いよく現実に引き戻された。
「眉間に皴寄ってるよ、やよさん。すごい顔してる」
気が付けば、くすくすと目を細めて笑みを浮かべた千歳が目の前にいた。濡れて束になった黒髪が妙に艶めかしく思え、ドクンと心臓が跳ねる。私の隣に千歳が腰かけると、ふかふかのベッドが深く沈んでいく。
僅かに生まれた風に乗せてふわりと薫るのは、千歳がいつも付けている香水の香りではなく、清潔さを感じさせる石鹸の香り。先にシャワーに行っていた千歳がこちらに戻って来たのだ。備え付けのガウンを羽織った彼とは対照的な、情事後の余韻を残した私。先ほど跳ねのけた掛け布団を慌てて引き寄せ身体を隠す。
「さっきから見てたら百面相してたよ。難しい顔してどうしたの?」
苦笑したような声色で投げかけられた問い。……こんな状況になっても。この関係を終わらせるつもりでいることを、千歳にはなんとなく悟られたくなかった。決定的な言葉で禍根を残すよりは――先ほど考えていたようにフェードアウトを狙ったほうがお互いにとって最適解のような気がする。脳内でひとりそう結論付け、動揺する心を押し込めながらいつもの調子でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ちょっとね。マスターにどう返事しようかなって」
「……マスター?」
驚いたような声が左側から落ちてくる。その声に合わせるように、こくんと小さく頷きながら胸元の掛け布団をふたたび引き上げた。
「うん。仕事で接点が出来たんだけど、いつもの調子で返事しそうになってね? そんな自分にちょっと呆れちゃって」
「……」
困ったような表情に見えるように、眉を下げて小さく肩を竦めた。目の前の千歳は、訝しげな表情をしているように思えた、けれど。
(もう……あと少しで、この関係も)
いつだって、身体を重ねるのは一度だけ。私に目隠しをしながら、彼は私を慰めるために一晩に一度だけ私を抱く。ここに泊まるということは絶対にない。これから私がシャワーを浴びて、一緒にこのホテルを出れば――崩れてしまう関係。
だから、もう。目の前に浮かぶ表情の意味を深く考えて、さっきの一言で嫌われただろうかと怯えることも、しなくていい。
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