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11.掴みたいもの。辿り着きたい場所。
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パシャリ、パシャリとカメラのシャッター音が響く。取材時の相棒であるカメラマン・三浦が忙しなく個室内のテーブルの周りを動いていく。
「大学の時、演劇部に所属していて。自分は大道具やメイクなど裏方を担当していたのですが、いざメイクをして発表の場で舞台に立った時の演者の輝きに魅了された……というのがきっかけでしょうか」
「なるほど。それでRyuさんはメイクアップアーティストになろうと思われたのですね」
「はい。大学を中退して美容専門学校に通いたいと言った時、『好き勝手やるのと好きなことで生きていくのは違うし、夢を見るなら1000倍現実をみなさい』と親に言われました。要は反対されていたのですが、結局押し切って専門学校に進学しました」
苦笑したように頬を掻きながら眉を下げた目の前の男性。近年、コマーシャルやバラエティー番組、ドラマや雑誌広告などのメディア現場では名前を聞かない日はないといわれる、Ryuという名のメイクアップアーティスト。元々のセンスや感性の高さから業界内ではひそやかに名前が広まっているのだそう。インタビューのために会話を交わしたことからも理解できるが、彼はかなり人懐っこい。他人の懐にぽんと飛び込んでいける話術も天性の才能だろう。そのうえ、被施術者のコンプレックスをカバーするためのメイク技術にも長けており、端正な顔立ちも相まって人気急上昇中のメイクアップアーティストらしい。
そんな彼にインタビューを取り付けたのは、春先から編集部の中で立ちあがっていた『自分らしく生きる』というテーマの企画がきっかけだった。私が担当しているのはお洒落と暮らしを楽しむ大人の女性をターゲットにしたライフスタイルマガジン。人生100年時代とも言われている現代、結婚するしない・子どもを持つ持たない、そういった既存の価値観に囚われることなく自分のライフスタイルを模索している女性へ向けての企画だ。このインタビューは業界で活躍する複数名のインタビュー記事とともに、来月刊行の誌面を飾ることになっている。
彼の苦笑した表情を見つめながらちらりとテーブルの上に視線を落とす。記事に起こすためのボイスレコーダーがきちんと稼働をしていることを確認し、ボールペンを握り締めながらそっと視線を目の前の彼に戻した。
「RyuさんはCMやドラマなど仕事の幅がとても広いですよね。現場でお仕事をされる時、何を一番に気がけていらっしゃいますか?」
「そうですね……クライアントさんが、一番に何を求めているか、でしょうか。例えばテレビCM。バッグやアクセサリーが主役であれば、出演している俳優さんを商品以上に引き立たせてはいけません。クライアントさんがCMの世界観をどう表現したいのかを汲み取って、商品を引き立たせるためのメイクを出演される俳優さんに施さなければならない。ドラマであれば対照的に俳優さんを引き立たせなければいけません。自分は一介のメイクアップアーティストでしかありませんが、カメラさんや照明さん・音声さんがどこにライトを当てたいのか。それを常に考えています」
「なるほど」
「それから。自分はフリーランスで活動していますので、『次もRyuに依頼したい』と思ってもらえるような仕事内容であることはいつも気がけていますね。例えばバラエティー番組でご当地料理などを試食する内容である場合、出演される俳優さんは『綺麗に食べる』こと求められます。ですので、女性の出演者さんには食事の際に落ちにくいティントなどを使用したり。仕事内容に求められていることを汲み取った上で、自分のセンスをエッセンスとして取り入れる。それらを研究し、リピーターを積み重ねていくことも気がけていることのひとつでしょうか」
「……なるほど」
その言葉から、この道に生きるRyuさんの覚悟を垣間見る。先ほど言われていた『夢を見るなら1000倍現実をみなさい』という親御さんの言葉を彼は忠実に自分の中に落とし込んでいるのだろう。そして、何よりもメイクアップという仕事が好きなのだ、と、彼の屈託のない笑顔からそんな想いがひしひしと伝わってくる。手元の取材用ノートに筆を走らせながら、胸の奥に込み上げてくる高揚感のような何かを噛み締める。
(……やっぱり、ライターって仕事。好き、だなぁ)
これまで知らなかった業種や人々に触れることで新たな価値観を得ることも多い。こうしたインタビューに出るたびに受ける刺激。自分の人生でも参考にしたい言葉や名言は多い。そういった点では、私も彼と同じなのだろう。
その後もRyuさんを取材するためのインタビューは順調に進んでいった。フリーランスでノマドチックに活動していた彼は、もうすぐ自分のお店を持つという。それを足がかりに、海外でも活躍したい――と。インタビューの終了間際、彼は和やかに笑った。
***
「鷹城。お疲れさま」
「うん。三浦もお疲れ」
アイスカフェオレが入ったプラスチックカップを合わせ、無事に取材を終えたことをお互いに労っていく。三浦は大学時代、写真部に所属しており、カメラマンを志して出版社に就職した。私たちはいわゆる『同期』という関係性だ。戦友のような彼女は、子どもが生まれたことをきっかけに出版社を退職してフリーカメラマンへの道を羽ばたいていった。とはいうものの、古巣と完全に縁が切れたわけではない。三浦自身も他の出版社と取引をしつつ、以前と変わらずこうして私とも組んでくれている。そんな私たちがともに取材を終えた時は、近くのカフェに入りプチ慰労会を開きつつ、今後のスケジュールの摺り合わせを行っていくのが恒例行事になっていた。
「今回の写真は編集して今週末にはデータ送付するよ」
「了解。あ、そうだ。三浦、来月の平日。この辺りで空いている日ってある?」
「来月? ちょっと待って……」
私が指した手帳の日付に三浦が目を瞬かせた。彼女の艶のある茶髪がさらりと揺れる。
(……独立…)
揺れ動く髪を眺め、カップに口をつけながら心の中で小さくその単語を反芻する。
ちょうど一月前。千歳との関係に終止符を打った、あの日。マスターに独立を目指してはどうかと提案された。こうしてフリーランスで活動している三浦の姿を目の前にすると、独立を目指すというぼんやりした単語が急に現実味を帯びてくるような気がする。
独立というたった四文字の単語だけれど、そこに含まれる責任の重みも大きい。組織で動いている現状とは違い、自分で営業して仕事を掴んで来なければならない。当然、今主に担当しているライフスタイル系の分野とは違う、ビジネス系やアウトドアなどの分野の取材も引き受けていかなければならないだろう。
(う~ん……)
ぐらぐら、ゆらゆら。錆びたシーソーのように、不確かな考えが左右に揺れ動いていく。
結局私は、いつだって自分が楽な方向に逃げて生きてきた。千歳との関係を5年も断ち切れなかったことも、正面を切って千歳と決別することができなかったことも、何もかも――私の意志が弱いからだ。
(……変わりたい)
変わらなければならない思っている。私もいい加減、心地よいぬるま湯に浸かっている現状から抜け出さなければ。そんな思いで薄氷上の関係を自分で崩したのだ。
私自身が変わらなければ、私が抱えている『子どもが欲しい』というありふれた小さな願いは叶えられない。そして――千歳にも。顔向け出来ない。
「ん~、この週だとね……こっちが空いてる」
「おっけ。その日で取材のアポ取ってみるね。カフェ……というか、喫茶店を取材する予定なんだ」
先日マスターに頼み込んで取材を受けてもらうことになった。ここ1ヶ月宙ぶらりんだったその日程がようやく固まりそうで、ほっと胸を撫でおろす。短く切った髪を耳にかけ、三浦が空いているといった日付の欄に軽く走り書きをした。
その後も次の取材に関する話をしたり、他愛のない世間話をしたりと言葉を交わしていくと、不意に、ブーッと鈍い音がした。テーブルに視線を落とすと、私のスマートフォンが震えている。ディスプレイに表示されているのは、自社の電話番号だった。
取材に出ているときにこうして電話がかかってくることなんて、基本的には無いことだ。何かトラブルがあったのだろうか。
「三浦、ごめん。ちょっと電話取るね」
「ん、いーよ」
彼女がこくんと頷いたのを確認し、応答ボタンをタップした。
『鷹城、ごめん! お願いがあるんだけど』
私が声を発する前に電話口から響いたのは編集長の上ずったような声。私の予想通り、何かがあったのだろう。オフィスに戻る準備をしたほうがいいだろうか、そんなことを頭の片隅で考えながらスマートフォンを肩に挟み、ぱっと荷物を纏め始める。
「どうされました?」
『西沢の娘さんが遊んでいるときにケガしちゃったらしい。大したケガではないらしいのだけど、学童から呼び出しがあってね。西沢さんが受け持ってくれていた取材、もし行けるなら代わりに行ってきて欲しいの。今から都内に行ける?』
名前が上がったのは、数年前に育休から復帰した一期上の先輩。お子さんが今年小学校に入学した。フルタイム勤務の彼女は子どもを学童保育に預けている、という話はちらりと聞いていた。
私はこの後、オフィスに帰って先ほどのRyuさんのインタビューから文章起こしをするだけの予定にしている。取材の代打を引き受ける時間的余裕はある。……けれど。
(……どうしよう)
思わず荷物を纏める手を止め、視線を彷徨わせながらなんと返答しようか逡巡する。西沢先輩はビジネス系の月刊誌を担当している。対して私は、これまでライフスタイルマガジン系の仕事しか経験してこなかった。そんな私に、果たしてビジネス系の取材が務まるのだろうか。
唐突に投げられた大役を前に、心の奥にじわりと不安感が滲んでいく。本音を言えば、逃げ出したいという言葉しか浮かんでこない。ビジネスに関する知識を全く持ち合わせていない、だから代打は引き受けられない、と断ってしまおうか。そんな考えが脳裏をよぎった、ものの。
(楽な方に……逃げるのは、)
変わらなければ。楽な方向に逃げるのは、もう終わりにしなければ。こうした小さな出来事をこつこつ積み上げて、自分の自信にしていけばいい。そうして、少しずつ変わっていければいい。
この代打の取材を担当することでまた新たな刺激を受けるかもしれない。独立への糧に出来るかもしれない。可能性は無限大、だ。
伏せた視線をあげ、荷物を纏める作業を再開した。
「都内のどこですか?」
私のその言葉に――電話口の編集長の声が大きく弾んだ。
「大学の時、演劇部に所属していて。自分は大道具やメイクなど裏方を担当していたのですが、いざメイクをして発表の場で舞台に立った時の演者の輝きに魅了された……というのがきっかけでしょうか」
「なるほど。それでRyuさんはメイクアップアーティストになろうと思われたのですね」
「はい。大学を中退して美容専門学校に通いたいと言った時、『好き勝手やるのと好きなことで生きていくのは違うし、夢を見るなら1000倍現実をみなさい』と親に言われました。要は反対されていたのですが、結局押し切って専門学校に進学しました」
苦笑したように頬を掻きながら眉を下げた目の前の男性。近年、コマーシャルやバラエティー番組、ドラマや雑誌広告などのメディア現場では名前を聞かない日はないといわれる、Ryuという名のメイクアップアーティスト。元々のセンスや感性の高さから業界内ではひそやかに名前が広まっているのだそう。インタビューのために会話を交わしたことからも理解できるが、彼はかなり人懐っこい。他人の懐にぽんと飛び込んでいける話術も天性の才能だろう。そのうえ、被施術者のコンプレックスをカバーするためのメイク技術にも長けており、端正な顔立ちも相まって人気急上昇中のメイクアップアーティストらしい。
そんな彼にインタビューを取り付けたのは、春先から編集部の中で立ちあがっていた『自分らしく生きる』というテーマの企画がきっかけだった。私が担当しているのはお洒落と暮らしを楽しむ大人の女性をターゲットにしたライフスタイルマガジン。人生100年時代とも言われている現代、結婚するしない・子どもを持つ持たない、そういった既存の価値観に囚われることなく自分のライフスタイルを模索している女性へ向けての企画だ。このインタビューは業界で活躍する複数名のインタビュー記事とともに、来月刊行の誌面を飾ることになっている。
彼の苦笑した表情を見つめながらちらりとテーブルの上に視線を落とす。記事に起こすためのボイスレコーダーがきちんと稼働をしていることを確認し、ボールペンを握り締めながらそっと視線を目の前の彼に戻した。
「RyuさんはCMやドラマなど仕事の幅がとても広いですよね。現場でお仕事をされる時、何を一番に気がけていらっしゃいますか?」
「そうですね……クライアントさんが、一番に何を求めているか、でしょうか。例えばテレビCM。バッグやアクセサリーが主役であれば、出演している俳優さんを商品以上に引き立たせてはいけません。クライアントさんがCMの世界観をどう表現したいのかを汲み取って、商品を引き立たせるためのメイクを出演される俳優さんに施さなければならない。ドラマであれば対照的に俳優さんを引き立たせなければいけません。自分は一介のメイクアップアーティストでしかありませんが、カメラさんや照明さん・音声さんがどこにライトを当てたいのか。それを常に考えています」
「なるほど」
「それから。自分はフリーランスで活動していますので、『次もRyuに依頼したい』と思ってもらえるような仕事内容であることはいつも気がけていますね。例えばバラエティー番組でご当地料理などを試食する内容である場合、出演される俳優さんは『綺麗に食べる』こと求められます。ですので、女性の出演者さんには食事の際に落ちにくいティントなどを使用したり。仕事内容に求められていることを汲み取った上で、自分のセンスをエッセンスとして取り入れる。それらを研究し、リピーターを積み重ねていくことも気がけていることのひとつでしょうか」
「……なるほど」
その言葉から、この道に生きるRyuさんの覚悟を垣間見る。先ほど言われていた『夢を見るなら1000倍現実をみなさい』という親御さんの言葉を彼は忠実に自分の中に落とし込んでいるのだろう。そして、何よりもメイクアップという仕事が好きなのだ、と、彼の屈託のない笑顔からそんな想いがひしひしと伝わってくる。手元の取材用ノートに筆を走らせながら、胸の奥に込み上げてくる高揚感のような何かを噛み締める。
(……やっぱり、ライターって仕事。好き、だなぁ)
これまで知らなかった業種や人々に触れることで新たな価値観を得ることも多い。こうしたインタビューに出るたびに受ける刺激。自分の人生でも参考にしたい言葉や名言は多い。そういった点では、私も彼と同じなのだろう。
その後もRyuさんを取材するためのインタビューは順調に進んでいった。フリーランスでノマドチックに活動していた彼は、もうすぐ自分のお店を持つという。それを足がかりに、海外でも活躍したい――と。インタビューの終了間際、彼は和やかに笑った。
***
「鷹城。お疲れさま」
「うん。三浦もお疲れ」
アイスカフェオレが入ったプラスチックカップを合わせ、無事に取材を終えたことをお互いに労っていく。三浦は大学時代、写真部に所属しており、カメラマンを志して出版社に就職した。私たちはいわゆる『同期』という関係性だ。戦友のような彼女は、子どもが生まれたことをきっかけに出版社を退職してフリーカメラマンへの道を羽ばたいていった。とはいうものの、古巣と完全に縁が切れたわけではない。三浦自身も他の出版社と取引をしつつ、以前と変わらずこうして私とも組んでくれている。そんな私たちがともに取材を終えた時は、近くのカフェに入りプチ慰労会を開きつつ、今後のスケジュールの摺り合わせを行っていくのが恒例行事になっていた。
「今回の写真は編集して今週末にはデータ送付するよ」
「了解。あ、そうだ。三浦、来月の平日。この辺りで空いている日ってある?」
「来月? ちょっと待って……」
私が指した手帳の日付に三浦が目を瞬かせた。彼女の艶のある茶髪がさらりと揺れる。
(……独立…)
揺れ動く髪を眺め、カップに口をつけながら心の中で小さくその単語を反芻する。
ちょうど一月前。千歳との関係に終止符を打った、あの日。マスターに独立を目指してはどうかと提案された。こうしてフリーランスで活動している三浦の姿を目の前にすると、独立を目指すというぼんやりした単語が急に現実味を帯びてくるような気がする。
独立というたった四文字の単語だけれど、そこに含まれる責任の重みも大きい。組織で動いている現状とは違い、自分で営業して仕事を掴んで来なければならない。当然、今主に担当しているライフスタイル系の分野とは違う、ビジネス系やアウトドアなどの分野の取材も引き受けていかなければならないだろう。
(う~ん……)
ぐらぐら、ゆらゆら。錆びたシーソーのように、不確かな考えが左右に揺れ動いていく。
結局私は、いつだって自分が楽な方向に逃げて生きてきた。千歳との関係を5年も断ち切れなかったことも、正面を切って千歳と決別することができなかったことも、何もかも――私の意志が弱いからだ。
(……変わりたい)
変わらなければならない思っている。私もいい加減、心地よいぬるま湯に浸かっている現状から抜け出さなければ。そんな思いで薄氷上の関係を自分で崩したのだ。
私自身が変わらなければ、私が抱えている『子どもが欲しい』というありふれた小さな願いは叶えられない。そして――千歳にも。顔向け出来ない。
「ん~、この週だとね……こっちが空いてる」
「おっけ。その日で取材のアポ取ってみるね。カフェ……というか、喫茶店を取材する予定なんだ」
先日マスターに頼み込んで取材を受けてもらうことになった。ここ1ヶ月宙ぶらりんだったその日程がようやく固まりそうで、ほっと胸を撫でおろす。短く切った髪を耳にかけ、三浦が空いているといった日付の欄に軽く走り書きをした。
その後も次の取材に関する話をしたり、他愛のない世間話をしたりと言葉を交わしていくと、不意に、ブーッと鈍い音がした。テーブルに視線を落とすと、私のスマートフォンが震えている。ディスプレイに表示されているのは、自社の電話番号だった。
取材に出ているときにこうして電話がかかってくることなんて、基本的には無いことだ。何かトラブルがあったのだろうか。
「三浦、ごめん。ちょっと電話取るね」
「ん、いーよ」
彼女がこくんと頷いたのを確認し、応答ボタンをタップした。
『鷹城、ごめん! お願いがあるんだけど』
私が声を発する前に電話口から響いたのは編集長の上ずったような声。私の予想通り、何かがあったのだろう。オフィスに戻る準備をしたほうがいいだろうか、そんなことを頭の片隅で考えながらスマートフォンを肩に挟み、ぱっと荷物を纏め始める。
「どうされました?」
『西沢の娘さんが遊んでいるときにケガしちゃったらしい。大したケガではないらしいのだけど、学童から呼び出しがあってね。西沢さんが受け持ってくれていた取材、もし行けるなら代わりに行ってきて欲しいの。今から都内に行ける?』
名前が上がったのは、数年前に育休から復帰した一期上の先輩。お子さんが今年小学校に入学した。フルタイム勤務の彼女は子どもを学童保育に預けている、という話はちらりと聞いていた。
私はこの後、オフィスに帰って先ほどのRyuさんのインタビューから文章起こしをするだけの予定にしている。取材の代打を引き受ける時間的余裕はある。……けれど。
(……どうしよう)
思わず荷物を纏める手を止め、視線を彷徨わせながらなんと返答しようか逡巡する。西沢先輩はビジネス系の月刊誌を担当している。対して私は、これまでライフスタイルマガジン系の仕事しか経験してこなかった。そんな私に、果たしてビジネス系の取材が務まるのだろうか。
唐突に投げられた大役を前に、心の奥にじわりと不安感が滲んでいく。本音を言えば、逃げ出したいという言葉しか浮かんでこない。ビジネスに関する知識を全く持ち合わせていない、だから代打は引き受けられない、と断ってしまおうか。そんな考えが脳裏をよぎった、ものの。
(楽な方に……逃げるのは、)
変わらなければ。楽な方向に逃げるのは、もう終わりにしなければ。こうした小さな出来事をこつこつ積み上げて、自分の自信にしていけばいい。そうして、少しずつ変わっていければいい。
この代打の取材を担当することでまた新たな刺激を受けるかもしれない。独立への糧に出来るかもしれない。可能性は無限大、だ。
伏せた視線をあげ、荷物を纏める作業を再開した。
「都内のどこですか?」
私のその言葉に――電話口の編集長の声が大きく弾んだ。
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