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12.熾火に秘めた想いを焦がし、(千歳視点)
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幾度も思い出す。何度も何度も夢に見る。
『お前は失敗作だった』
初めての挫折を前に投げつけられた鋭い言葉は、僕の根幹までをも抉った。思い出したくない記憶ほど、覚えていたくない言葉ほど、深く刻み込まれる。記憶の奥底に沈殿した言葉はそれ以降、不意をついては僕の思考をかき乱していった。
僕は、両親にとっての失敗作。であれば、僕が生まれてきた意味はなんなのだろうか。
いつだって意思とは裏腹に動く心臓。死ぬのも死ねないのも、生きるのも生きないのも、心底どうでもいいと感じながら漫然と青年期を過ごした。
『大学を卒業したら証券会社のほうに入るといい。私がフィナンシャルグループの社長となる頃にノンバンクに出向という形を取る。若いころの私のようにたくさんの会社に出向し見聞を広めてなさい。それが景元に生まれてきた人間の定めだ』
『……』
俺が20歳になる時の夕食会の時、父はそう言った。何の理屈もなく、ただ当然のようにそうなるべきなのだ、と。父はステーキにフォークとナイフを入れながら、淀みなく。何もかもが確定事項のように、そう言った。
その時に、決めた。結婚は甘んじて受け入れよう。景元の一員として、最低限の責務は果たす。けれど、子どもを残す事だけはしない。
この世界に子どもを残すなんて、残酷なことはしたくない。僕のもとに生まれてきたところで、僕と同じように――都合の良い機械人形として扱われるだけなのだから。
◇ ◇ ◇
「……はぁ」
頭上にかざした小さなメモ紙をくしゃりと潰した。数え切れないほど何度も圧縮されたそれは、無数のシワを刻んでいる。
(……)
一月前。彼女と初めて夜をともにした。翌朝目覚めた時。ベッドサイドのテーブルの上に、宿泊に伴う料金全額と――『今までありがとう。楽しかったよ』と記されたメモ紙だけが残されていた。彼女の姿は、どこにも無かった。
「『楽しかった』、か……」
社長室の中央に置かれた応接テーブルのソファに寝転んだまま、もう暗記するほど見返したメモ紙の言葉を小さく自嘲気味に零した。伸ばしていた腕を下ろし、その腕で自分の顔を隠すように動かす。瞑った目の上に、ずっしりと自分の腕の重さがのしかかる。
真っ暗な視界の中に、彼女の憂いを帯びた笑顔が浮かぶ。
* * *
いつだって、無理をしたように笑うひとだった。
『マスター、大丈夫だって。私相手にそんな気起こすようなひとはいないから』
カラカラと微笑みながらも、『本当の自分』を押し込めていると一目でわかるひとだった。
彼女と出会ったのは、本当に偶然の出来事だった。注文した豆を受け取ろうと訪れた行きつけの喫茶店。そこに、彼女がいた。理由もわからなかったけれど、どうしてか彼女から目が離せなかった。気が付けば、彼女を送ると申し出ていた。
『いいの。私、もうこれからひとりで生きてくって決めたから』
ふっと息を吹きかければ消えてしまいそうなほどの儚い空気をその身に纏い、星屑が散らばる夜空を見上げる彼女の横顔に――衝撃で息が止まるかと思った。
この世の人間ではないのかもしれない、とさえ思った。儚さとともに凛とした佇まいを共存させて空を見上げた彼女は、僕がこれまで出会った人々とはまるで違っていた。
関東を地盤とする総合金融グループ……景元フィナンシャルグループの御曹司。そんな僕の周りでは、常に隠していてもその瞳の奥には様々な『欲』を宿した人間ばかりだった。祖父が興したグループへの人脈に繋がる欲を筆頭に、『あわよくば』を狙う人間ばかりで。淡々と交わすひとつの会話ですら、何かの裏がある。ずっとうんざりしていた。
そんな時に出会ったのが彼女だった。傷つきながらも必死に自分の足で、自分だけの力で立ち上がろうと足掻いている。
いつだって誰かの助けを借りる、そんな思惑が渦巻く世界に生きてきた僕には、彼女のその姿がまぶしかった。そして――その姿に、強烈に惹かれた。
そんな男だけじゃない、あなたを見ている人間がいる……と、口に出してしまおうかと思った。けれど、フラれた事で男を信じられなくなったという彼女にそんな言葉を伝えることは出来なかった。何より、初対面の人間にそう言われたところで、彼女の猜疑心をさらに深くするだけだ、と……強引に自分を律した。
それでも、コップから溢れてぽたぽたと落ちていく想いを止めることは出来なかった。気が付けば、彼女の唇を強引に奪っていた。
『やよさんにこんな気を起こす男もいる、ってこと』
混乱し目を白黒させている彼女の表情を眺めていると、次第に彼女の瞳が湿っていく。その刹那、はっと小さく我に返った。僕と彼女は初対面なのだ。いい大人が不躾過ぎる。不快だったろうかと強烈に後悔した……が。
『どうせ慰めるなら、もっとちゃんと慰めてよ……』
思わぬ言葉に、どくりと心臓が跳ねた。
もう自覚するしかなかった。認めざるを得なかった。
何もかもを知らない彼女に。
僕は、――恋をしたのだ、と。
もうどうしようもなかった。
一度肌を重ねて、手放したくない、と……強く思った。
けれど、僕にはそんな資格はなかった。
『慰める』という大義名分のもとに彼女を抱いた。
出会うタイミングも、彼女を深く知るタイミングも、何もかもがあべこべになってしまった。
勇気を出して一歩を踏み出せばよかったのに、物わかりの良い大人を演じて一夜限りの男に徹した。そんな自分が嫌だった。
けれど、偶然にも2度目の邂逅を果たすことが出来た。まあ、偶然にも、というのは少し語弊がある。彼女に会えやしないかと、あの日以降、休日には必ずマスターの店に顔を出していたから。
その日の彼女は、また無理をしたような笑顔を浮かべていた。その表情でまた誰かにフラれたのかと察した。マスターに向かってぽつぽつと零す横顔を、焼けつくような想いで見ていた。
『またヤケ飲み?』
そんな言葉を放ちながら、彼女をふたたび慰めの夜へと誘った。胸の奥に灯った熾火に、身を焦がされるような想いを抱きながら。
その後、彼女は何度も男と付き合ってはフラれていた。あの日、ひとりで生きていく、と口にしていたのに。どうしてなのかと甚だ疑問だった。人間の心は変わっていくものだ、考えが変わって、結婚にこだわっているのか、とも思った。
やよさんはフラたことを話す際、相手の素行を責めるような愚痴は、絶対に零さなかった。こんな時、誰しもが大なり小なり相手の言動をあげつらって相手のせいにしたくなるもの。それをしない彼女の芯の強さを改めて感じた。
彼女があの店でマスターに愚痴を零している様子を眺めるたび、嫉妬が胸を焼くようだった。それを悟られたくなくて、ワザと知り合い以上の馴れ合いはしないようにした。
そのうち、心の中に小さな疑念を抱いてしまった。
彼女は、『マスターに想いを寄せている』のでは――――と。
誰かにフラれ、愚痴を聞いてもらう。彼女は本当のところ、マスターに慰めてほしいのではないか、と……そう、思ってしまった。
それなのに、彼女は僕との慰めの夜を断ることはしなかった。僕も拒むことが出来なかった。
そして、いつの頃からか、悟った。
僕は、マスターの代わりなのだ、と。
同時に、雁字搦めに彼女を縛りたいとも思った。そんな資格はないのだとわかっているけれど、僕は彼女が欲しかった。
いつだって無理したように笑う彼女の、弾けるような笑顔が見てみたい。そう思ってしまった。
あの夜。マスターと彼女が連絡を取っている、と知った、あの瞬間。嫉妬で焼き切れそうだった。僕と彼女が、後腐れのない、割り切った関係であることなんて頭から吹っ飛んでいた。
我に返ったのは、限界を迎え気を失い無反応になってしまった彼女の――僕の所有痕が散らばる背中を視界に映した時、だった。けれど、僕は満たされていた。彼女の思考の中を僕の中で埋めつくせた、と……そう思えた気がした。
ひとり、部屋に取り残された翌朝を迎えるまでは。
* * *
「……はぁ」
結局。彼女には逃げられてしまった。苗字すら知らない、どの街に住んでいるのかも、何を生業にしているのかも知らなかった。彼女を探して手に入れたいという想いだけが募るものの、手がかりがない。詰みだ。
マスターならば彼女の連絡先を知っている。彼に聞く、という選択肢もあったが、やよさんが想いを寄せている相手に、と思うとその選択は絶対にしたくなかった。
ふたたび大きなため息を吐きだすと同時に、コンコンと扉がノックされる。「どうぞ」と声を上げる前に扉が開かれた。
「おはようございます。社長、今日の予定についてですが……って、千歳。お前なんっつぅ恰好してんだ」
秘書の千紘が手に持った資料に視線を落としながら扉を開いて丁寧語で僕に問いかけてくる。が、応接用のソファに寝そべったままの僕の姿を認め、呆れたような声色と口調を切り替えた。
「朝っぱらからうるさいよ、千紘……」
「俺以外の人間に見られたらどうするつもりだったんだ」
カチャリと扉を閉め眉根を寄せながらこちらに歩み寄ってくる。従兄弟にあたる彼はひとつ年上という事もあり幼いころからともに過ごした、唯一心を許せる相手だった。
「ノックして返事を待たずに扉をあけるの、この会社で千紘以外はいないから大丈夫だって」
寝そべらせていた身体を腹筋を使って起こし、ガシガシと頭を掻いた。
景元証券株式会社。僕は現在、ここの社長に据えられている。大学を卒業してはじめに入社したこの会社は従兄弟の靏田千紘が先んじて入社していた。彼は景元の分家筋。直系である僕をこうして補佐したいと自ら買って出てくれたらしい。仕事の時は役職の差から丁寧語で話すけれど、こうしてふたりきりの時は幼いころと同じように砕けた口調で会話をしてくれる。それらの距離感を含め、僕は千紘のことを文字通り信頼している。
僕の屁理屈にふたたびため息をついた彼が、応接テーブルの上に散らばる『釣書』と記されたいくつもの封筒を認め、思いっきり苦笑いを浮かべた。
「あぁ、なるほど。おじいさまにそろそろ結婚しろといわれたわけだな」
「……」
自分でも苦虫を嚙み潰したような表情になったのを認識する。
ちょうど昨日。景元フィナンシャルグループを取りまとめる祖父に呼び出された。告げられた言葉に驚くことは無かった。齢30にもなろうかというのにも関わらず、交際している人間や婚約者がいるわけでもない孫が心配なのだろうと思う。兄たちが次々と結婚して子どもを授かっていく中、三十路に差し掛かる年齢まで自由にさせてくれていることの方が驚きだった。
「年貢の納め時だと思ってるよ。まぁ、好きな人がいるわけでもないし、おじいさまが選んだ適当なひとと結婚するさ」
心にもない事を口にしながら散らばった釣書をテーブルのわきによけた。そのまま寝そべった際に崩れた身だしなみを整える。
千紘に全幅の信頼を置いているとはいえ、やよさんとのことを零したことは一度もなかった。彼は学生時代から真面目を体現し、清廉潔白に生きてきた人間だ。セフレ関係だとかいう話を持ち出せるような相手ではない。
祖父が選んだ相手なら、誰でもいい。今は素直にそう思う。だって、本当に欲しいひとは手に入らなかったのだから。
「で? 今日の予定の話でしょ?」
思考の中からやよさんの笑顔を追い出し、己の秘書に視線を向ける。
「……ま、お前がそう決めたのなら、俺は反対しないさ」
彼は困ったように眉をさげ、それでも複雑そうに吐息を零し――今日の予定を、淡々と口にしていった。
『お前は失敗作だった』
初めての挫折を前に投げつけられた鋭い言葉は、僕の根幹までをも抉った。思い出したくない記憶ほど、覚えていたくない言葉ほど、深く刻み込まれる。記憶の奥底に沈殿した言葉はそれ以降、不意をついては僕の思考をかき乱していった。
僕は、両親にとっての失敗作。であれば、僕が生まれてきた意味はなんなのだろうか。
いつだって意思とは裏腹に動く心臓。死ぬのも死ねないのも、生きるのも生きないのも、心底どうでもいいと感じながら漫然と青年期を過ごした。
『大学を卒業したら証券会社のほうに入るといい。私がフィナンシャルグループの社長となる頃にノンバンクに出向という形を取る。若いころの私のようにたくさんの会社に出向し見聞を広めてなさい。それが景元に生まれてきた人間の定めだ』
『……』
俺が20歳になる時の夕食会の時、父はそう言った。何の理屈もなく、ただ当然のようにそうなるべきなのだ、と。父はステーキにフォークとナイフを入れながら、淀みなく。何もかもが確定事項のように、そう言った。
その時に、決めた。結婚は甘んじて受け入れよう。景元の一員として、最低限の責務は果たす。けれど、子どもを残す事だけはしない。
この世界に子どもを残すなんて、残酷なことはしたくない。僕のもとに生まれてきたところで、僕と同じように――都合の良い機械人形として扱われるだけなのだから。
◇ ◇ ◇
「……はぁ」
頭上にかざした小さなメモ紙をくしゃりと潰した。数え切れないほど何度も圧縮されたそれは、無数のシワを刻んでいる。
(……)
一月前。彼女と初めて夜をともにした。翌朝目覚めた時。ベッドサイドのテーブルの上に、宿泊に伴う料金全額と――『今までありがとう。楽しかったよ』と記されたメモ紙だけが残されていた。彼女の姿は、どこにも無かった。
「『楽しかった』、か……」
社長室の中央に置かれた応接テーブルのソファに寝転んだまま、もう暗記するほど見返したメモ紙の言葉を小さく自嘲気味に零した。伸ばしていた腕を下ろし、その腕で自分の顔を隠すように動かす。瞑った目の上に、ずっしりと自分の腕の重さがのしかかる。
真っ暗な視界の中に、彼女の憂いを帯びた笑顔が浮かぶ。
* * *
いつだって、無理をしたように笑うひとだった。
『マスター、大丈夫だって。私相手にそんな気起こすようなひとはいないから』
カラカラと微笑みながらも、『本当の自分』を押し込めていると一目でわかるひとだった。
彼女と出会ったのは、本当に偶然の出来事だった。注文した豆を受け取ろうと訪れた行きつけの喫茶店。そこに、彼女がいた。理由もわからなかったけれど、どうしてか彼女から目が離せなかった。気が付けば、彼女を送ると申し出ていた。
『いいの。私、もうこれからひとりで生きてくって決めたから』
ふっと息を吹きかければ消えてしまいそうなほどの儚い空気をその身に纏い、星屑が散らばる夜空を見上げる彼女の横顔に――衝撃で息が止まるかと思った。
この世の人間ではないのかもしれない、とさえ思った。儚さとともに凛とした佇まいを共存させて空を見上げた彼女は、僕がこれまで出会った人々とはまるで違っていた。
関東を地盤とする総合金融グループ……景元フィナンシャルグループの御曹司。そんな僕の周りでは、常に隠していてもその瞳の奥には様々な『欲』を宿した人間ばかりだった。祖父が興したグループへの人脈に繋がる欲を筆頭に、『あわよくば』を狙う人間ばかりで。淡々と交わすひとつの会話ですら、何かの裏がある。ずっとうんざりしていた。
そんな時に出会ったのが彼女だった。傷つきながらも必死に自分の足で、自分だけの力で立ち上がろうと足掻いている。
いつだって誰かの助けを借りる、そんな思惑が渦巻く世界に生きてきた僕には、彼女のその姿がまぶしかった。そして――その姿に、強烈に惹かれた。
そんな男だけじゃない、あなたを見ている人間がいる……と、口に出してしまおうかと思った。けれど、フラれた事で男を信じられなくなったという彼女にそんな言葉を伝えることは出来なかった。何より、初対面の人間にそう言われたところで、彼女の猜疑心をさらに深くするだけだ、と……強引に自分を律した。
それでも、コップから溢れてぽたぽたと落ちていく想いを止めることは出来なかった。気が付けば、彼女の唇を強引に奪っていた。
『やよさんにこんな気を起こす男もいる、ってこと』
混乱し目を白黒させている彼女の表情を眺めていると、次第に彼女の瞳が湿っていく。その刹那、はっと小さく我に返った。僕と彼女は初対面なのだ。いい大人が不躾過ぎる。不快だったろうかと強烈に後悔した……が。
『どうせ慰めるなら、もっとちゃんと慰めてよ……』
思わぬ言葉に、どくりと心臓が跳ねた。
もう自覚するしかなかった。認めざるを得なかった。
何もかもを知らない彼女に。
僕は、――恋をしたのだ、と。
もうどうしようもなかった。
一度肌を重ねて、手放したくない、と……強く思った。
けれど、僕にはそんな資格はなかった。
『慰める』という大義名分のもとに彼女を抱いた。
出会うタイミングも、彼女を深く知るタイミングも、何もかもがあべこべになってしまった。
勇気を出して一歩を踏み出せばよかったのに、物わかりの良い大人を演じて一夜限りの男に徹した。そんな自分が嫌だった。
けれど、偶然にも2度目の邂逅を果たすことが出来た。まあ、偶然にも、というのは少し語弊がある。彼女に会えやしないかと、あの日以降、休日には必ずマスターの店に顔を出していたから。
その日の彼女は、また無理をしたような笑顔を浮かべていた。その表情でまた誰かにフラれたのかと察した。マスターに向かってぽつぽつと零す横顔を、焼けつくような想いで見ていた。
『またヤケ飲み?』
そんな言葉を放ちながら、彼女をふたたび慰めの夜へと誘った。胸の奥に灯った熾火に、身を焦がされるような想いを抱きながら。
その後、彼女は何度も男と付き合ってはフラれていた。あの日、ひとりで生きていく、と口にしていたのに。どうしてなのかと甚だ疑問だった。人間の心は変わっていくものだ、考えが変わって、結婚にこだわっているのか、とも思った。
やよさんはフラたことを話す際、相手の素行を責めるような愚痴は、絶対に零さなかった。こんな時、誰しもが大なり小なり相手の言動をあげつらって相手のせいにしたくなるもの。それをしない彼女の芯の強さを改めて感じた。
彼女があの店でマスターに愚痴を零している様子を眺めるたび、嫉妬が胸を焼くようだった。それを悟られたくなくて、ワザと知り合い以上の馴れ合いはしないようにした。
そのうち、心の中に小さな疑念を抱いてしまった。
彼女は、『マスターに想いを寄せている』のでは――――と。
誰かにフラれ、愚痴を聞いてもらう。彼女は本当のところ、マスターに慰めてほしいのではないか、と……そう、思ってしまった。
それなのに、彼女は僕との慰めの夜を断ることはしなかった。僕も拒むことが出来なかった。
そして、いつの頃からか、悟った。
僕は、マスターの代わりなのだ、と。
同時に、雁字搦めに彼女を縛りたいとも思った。そんな資格はないのだとわかっているけれど、僕は彼女が欲しかった。
いつだって無理したように笑う彼女の、弾けるような笑顔が見てみたい。そう思ってしまった。
あの夜。マスターと彼女が連絡を取っている、と知った、あの瞬間。嫉妬で焼き切れそうだった。僕と彼女が、後腐れのない、割り切った関係であることなんて頭から吹っ飛んでいた。
我に返ったのは、限界を迎え気を失い無反応になってしまった彼女の――僕の所有痕が散らばる背中を視界に映した時、だった。けれど、僕は満たされていた。彼女の思考の中を僕の中で埋めつくせた、と……そう思えた気がした。
ひとり、部屋に取り残された翌朝を迎えるまでは。
* * *
「……はぁ」
結局。彼女には逃げられてしまった。苗字すら知らない、どの街に住んでいるのかも、何を生業にしているのかも知らなかった。彼女を探して手に入れたいという想いだけが募るものの、手がかりがない。詰みだ。
マスターならば彼女の連絡先を知っている。彼に聞く、という選択肢もあったが、やよさんが想いを寄せている相手に、と思うとその選択は絶対にしたくなかった。
ふたたび大きなため息を吐きだすと同時に、コンコンと扉がノックされる。「どうぞ」と声を上げる前に扉が開かれた。
「おはようございます。社長、今日の予定についてですが……って、千歳。お前なんっつぅ恰好してんだ」
秘書の千紘が手に持った資料に視線を落としながら扉を開いて丁寧語で僕に問いかけてくる。が、応接用のソファに寝そべったままの僕の姿を認め、呆れたような声色と口調を切り替えた。
「朝っぱらからうるさいよ、千紘……」
「俺以外の人間に見られたらどうするつもりだったんだ」
カチャリと扉を閉め眉根を寄せながらこちらに歩み寄ってくる。従兄弟にあたる彼はひとつ年上という事もあり幼いころからともに過ごした、唯一心を許せる相手だった。
「ノックして返事を待たずに扉をあけるの、この会社で千紘以外はいないから大丈夫だって」
寝そべらせていた身体を腹筋を使って起こし、ガシガシと頭を掻いた。
景元証券株式会社。僕は現在、ここの社長に据えられている。大学を卒業してはじめに入社したこの会社は従兄弟の靏田千紘が先んじて入社していた。彼は景元の分家筋。直系である僕をこうして補佐したいと自ら買って出てくれたらしい。仕事の時は役職の差から丁寧語で話すけれど、こうしてふたりきりの時は幼いころと同じように砕けた口調で会話をしてくれる。それらの距離感を含め、僕は千紘のことを文字通り信頼している。
僕の屁理屈にふたたびため息をついた彼が、応接テーブルの上に散らばる『釣書』と記されたいくつもの封筒を認め、思いっきり苦笑いを浮かべた。
「あぁ、なるほど。おじいさまにそろそろ結婚しろといわれたわけだな」
「……」
自分でも苦虫を嚙み潰したような表情になったのを認識する。
ちょうど昨日。景元フィナンシャルグループを取りまとめる祖父に呼び出された。告げられた言葉に驚くことは無かった。齢30にもなろうかというのにも関わらず、交際している人間や婚約者がいるわけでもない孫が心配なのだろうと思う。兄たちが次々と結婚して子どもを授かっていく中、三十路に差し掛かる年齢まで自由にさせてくれていることの方が驚きだった。
「年貢の納め時だと思ってるよ。まぁ、好きな人がいるわけでもないし、おじいさまが選んだ適当なひとと結婚するさ」
心にもない事を口にしながら散らばった釣書をテーブルのわきによけた。そのまま寝そべった際に崩れた身だしなみを整える。
千紘に全幅の信頼を置いているとはいえ、やよさんとのことを零したことは一度もなかった。彼は学生時代から真面目を体現し、清廉潔白に生きてきた人間だ。セフレ関係だとかいう話を持ち出せるような相手ではない。
祖父が選んだ相手なら、誰でもいい。今は素直にそう思う。だって、本当に欲しいひとは手に入らなかったのだから。
「で? 今日の予定の話でしょ?」
思考の中からやよさんの笑顔を追い出し、己の秘書に視線を向ける。
「……ま、お前がそう決めたのなら、俺は反対しないさ」
彼は困ったように眉をさげ、それでも複雑そうに吐息を零し――今日の予定を、淡々と口にしていった。
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