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第一章 運命がずれた瞬間
3.海の味
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薄暗い照明が、カウンター席を艶やかに照らしている。かすかに流れるクールなジャズの旋律、磨かれたグラスのきらめき。ホテルの最上階にあるそこは、鎌倉の喧騒から切り離された静かな空間だった。
カウンターの奥で、黒いエプロンをしたバーテンダーが静かにシェーカーを振っていた。金属と氷が触れ合うリズミカルで澄んだ音が、やけに心地いい。それはバーテンダーである晴菜にとってひどく安心できる音だった。
「強めのやつを」
言葉通りに差し出されたのは、琥珀色に輝くストレートのシングルモルトだった。
晴菜は差し出されたグラスにゆっくりと口付ける。舌を焼くような強烈なアルコールが乾いた喉を通るたび、心の輪郭が曖昧になっていく。頭の中のゴチャゴチャした思考が、熱でどろどろに溶かされていくような感覚。
――これで……いいの。今日だけは、全部忘れたい……
二杯目のグラスを傾け始めた頃、数席離れた場所でグラスを傾けていた男性が、ふとこちらを見遣ったような気がした。
スーツのジャケットが無造作に椅子にかけられている。ワイシャツは第二ボタンまで外され少し緩められていた。
顔立ちは精悍で、切れ長の目が印象的だ。どこか場慣れしている様子は、一目でわかった。グラスの持ち方も、動作も、すべてが無駄なく洗練されている。
カウンターの端、窓に一番近い席に座っていた彼はグラスとジャケットを持って立ち上がり、晴菜の隣の席に移動してきた。彼のその視線は、晴菜がグラスを持つ手元に向けられていた。
「プロだな」
彼は晴菜の隣に座ると、すぐにそう口を開いた。そのバリトンのような声は低く、甘く響く。
「……え?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。彼が何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
「あんたがグラスを口元に運ぶ直前の仕草だよ」
「仕草……?」
晴菜は、自分が今しがた行った動作を頭の中で反芻したものの、さっぱりわからない。思わず首を傾げて彼を見つめた。
「そう。一見、ただグラスを傾けるための動作に見えたけど、あんた、無意識にグラスの表面を検分してたろ?」
彼は視線で、晴菜の持つグラスに訴えかける。
「カウンターのキャンドルに透かして、極小の欠けがないか確認してた。もちろん、指先で触覚的にもチェックしてたな。客として店のグラスの状態を気にする人間はいない。あれはカウンターの向こう側の人間がする動作だ」
その洞察力に、晴菜は思わず息を止めた。晴菜がこの四年で身につけた、もはや「癖」のような所作だった。欠けたグラスで客が怪我をしないように、汚れのないグラスで酒の味を損なわないように。バーテンダーとして、当たり前の動作。それを、この彼は正確に見抜いた。
「職業バレ……しちゃいましたね」
晴菜は小さく肩を竦めながらそう口にした。彼に指摘されるまで、自分が無意識にそんな動きをしていたことに気づかなかったからだ。やはり仕事柄の癖は隠せないものなのだろうか。
「元?」
彼は晴菜のグラスに自らのグラスをチンと合わせながら尋ねてくる。元、というのは「元バーテンダーか?」という意味だろう。
「……現役です。別の場所で」
迷った末に、晴菜は正直に答えた。隠すことでもない。それに、この精悍な男性の視線から逃れるのは、なぜだか難しい気がした。
彼は面白そうに、片方の口角を上げた。
「なるほど。現役か」
グラスを回しながら、彼はゆっくりと息を吐いた。
「……それで、そのシングルモルトを選んだ理由は?」
「理由?」
「現役バーメイドは、どんな理由で酒を選ぶのか気になった」
女性のバーテンダーは、正確にはバーメイドと言う。それを知っているのは業界に詳しい人間だ。晴菜は少しだけ警戒心を解き、彼を観察しながら言葉を探す。
「……ふふ、そんなふうに聞かれたの初めて」
「職業病でね。俺も酒を扱う仕事なんだ」
「へえ。じゃあ同業者ってことですね」
晴菜はグラスを指先で軽く触りながら、探るように言葉を落とす。
バーテンダーは観察眼が命だ。客のわずかな視線の動き、指先の癖、呼吸の速さ。それらを汲み取ったうえで最高の酒と空間を提供する。
彼も晴菜と同じくバーテンダーなのかもしれない。けれど、どこか違和感があった。彼が身に纏う空気は、バーの現場で磨かれたモノではないような気がしたからだ。
「バーテンダーではないけど、まぁ、酒とは長いつきあいだ」
「その言い方、なんだか含みがありますね」
「そうか?」
彼は微かに笑って、グラスの縁に唇を寄せた。丸みを帯びた氷がカランと小さく鳴る。
「ソムリエ……とか?」
思考を巡らせながら、晴菜はまたひとつ問いを落とす。洗練されたいでたちと所作は、高級ホテルのレストランに勤めていると言われてもおかしくはなかったからだ。
彼はまたグラスを唇に運び、琥珀の液体をひと口だけ喉に流し込む。その動作は妙に滑らかで艶があった。
不意に――心臓が大きく鼓動を刻んだような気がした。
「まあ、そんなところ」
彼は短く笑った。核心に触れたと思わせておいて、わざと煙に巻くような笑い方だった。
「それで、俺の質問。そのシングルモルトを選んだ理由は? 気分? それとも味か?」
彼の問いに、晴菜はそっと視線を落としてグラスの中の琥珀色の液体をぼんやりと見つめた。液面がまるで炎のように揺れている。
「……強いのってオーダーしただけ」
彼は、晴菜の答えに小さく眉を上げた。
「強いの、ね。なるほど。逃げるときの選び方だ」
逃避で飲んでいる――それを言い当てられた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
「誰だって、弱い夜には度数の高い酒を選ぶ。酔うためじゃなく、鈍くしたいだけのときに」
「……鋭いですね」
「何だって酒が教えてくれる」
彼はグラスを軽く傾け、残り香を嗅ぐように目を細めた。
「そのモルト、原酒の一部は海沿いで熟成させてるんだ。潮風が樽に触れて、微かに塩の香りが移る」
「へえ……」
「人の痛みも似てるよ。そのモルトみたいに、時間が経てば味に変わる」
「……」
彼の言葉が、まるで自分の中に沈めていた痛みに触れたようだった。
忘れたかった。思い出を、名前を、声を。
でも――康介のぬくもりも、指先の感触も、まだ心のどこかに残っている。
強い酒で焼き尽くせると思っていたのに、香りの奥に滲む塩気が、逆に涙腺を刺激する。
晴菜はグラスを握る手に少し力を込め、込み上げてくる涙を振り払うように瞬きをした。
「あなた、ずいぶん詳しいのね。もしかして造り手側?」
話題をすり替えるように口の端に笑みを浮かべ、ゆっくりと首を傾げる。
「親の影響でね。物心つく頃から、香りを嗅げばなんの酒かわかる。香りは嘘をつかない」
彼の口元に浮かんだ微笑みはやけに穏やかで、どこか遠くを見ていた。
「香りは嘘をつかない……面白いこと言いますね」
「褒め言葉として受け取っておく」
ふっと笑い合う一瞬、胸の奥の重たさが少しだけ和らぐ。彼はそのままグラスを軽く揺らしながら晴菜を見遣った。
「あんた、何から逃げてきたんだ?」
氷が溶けてグラスの中で小さく鳴る音が、やけに遠くに聞こえる。バーの薄暗い照明が、その音をさらに曖昧なものにしていた。重厚なカウンター席に座る晴菜の隣で、男は再びグラスを揺らす。
彼は何も言わない。ただ、その目は静かに晴菜を見つめていた。
「男? 仕事? それとも――自分自身?」
その言葉に、胸の奥がどくんと鳴った。唇を噛みしめ、言葉を探すものの、喉の奥に張り付いて何も出てこない。
晴菜はただ、無言でグラスを置いた。
「全部……かな」
晴菜は小さく笑って誤魔化した。康介のこと、裏切られたこと、そして何よりも、その状況から逃げ出すことしかできなかった自分の弱さ――すべてをこの見知らぬ男に話す気にはなれなかった。
「いい逃げ方だと思うぞ」
「……え?」
彼が落としたのは晴菜にとって意外な言葉だった。低く響く声には、皮肉の色は微塵もない。
「酒に逃げるのは悪いことじゃない。壊れそうな夜をやり過ごすのに、酒はちゃんと役に立つ」
「……説得力、ありますね」
「言ったろ。長いつきあいだからな。それに、逃げ場所にしちゃ、ここは悪くないだろ。街の灯りが遠くて余計なものが何も入ってこない」
男は微かに笑い、グラスを軽く揺らした。琥珀の液面が照明を受けて、波のようにきらめく。
晴菜もつられてグラスを傾けた。心の奥で疼いていた何かが、少しだけ静まる。
「あなたのおすすめは?」
「そうだな……」
晴菜の問いに、彼は少し考え込むように視線を宙に泳がせたのち、手元のグラスを軽く叩いた。
「スモーキーで、塩気があるやつ。『海の記憶』みたいなやつかな」
その表現に、晴菜は思わず息を呑む。海――それは、すべてを洗い流してくれるような、あたたかな存在だ。
「……私、そういうの好きです」
「知ってる。さっきの選び方で、なんとなくわかった」
口の端に笑みを浮かべた彼は、晴菜をじっと見つめている。優越感に似た何かを含んだ笑みは、なぜか不快ではなかった。
ふと、彼が声を落として囁いた。
「酒の趣味が合う女には、最後まで付き合ってやる主義だ。あんたは?」
低く、甘い言葉に、晴菜の心臓が大きく跳ねた。グラスの中で溶け残った氷のように、胸の奥で冷えた何かがカラン、と音を立てる。
その「最後まで」が何を意味するか――この大人の空間で、濃密な空気感がわからないはずもなかった。
彼の言葉に、晴菜は目眩を覚える。今日の自分は、すべてを忘れたい、どうにでもなれ、という破滅的な気持ちで、この場所に来たのだ。それを見透かされたような気がした。
「……」
晴菜はじっと隣の男を見返す。彼のその鋭い視線は――晴菜の胸の奥にある深い翳りを確かに見抜いていた。
「……その主義、よく発動するんですか?」
声が震えているのを悟られないよう、晴菜は努めて冷静に問い返した。切れ長の黒い瞳は、どこか挑むように晴菜を見つめている。
「滅多に。今夜だけ例外」
挑発的な言葉と、熱を帯びた視線。男は静かに、けれども有無を言わせぬ力強さで、晴菜の選択肢を奪いにきている。晴菜は本能的に彼の危うさを感じた。
それでも――康介の裏切りで空っぽになった心と、どうしようもない自己嫌悪が、その危うくも熱い誘いに激しく惹かれていた。
「じゃあ……その例外に、乗ってみようかな」
グラスの向こうで、男の口元が微かに弧を描く。それは、獲物を捉えた獣のような、それでいてひどく魅力的な笑みだった。
「決まりだな」
理性は、とうに東京のカフェの片隅に置き去りにしてきた。
ほんの一瞬でも、康介のことを忘れられるなら。
彼の裏切りで深く抉られた心を麻痺させられるなら――それでよかった。
カウンターの奥で、黒いエプロンをしたバーテンダーが静かにシェーカーを振っていた。金属と氷が触れ合うリズミカルで澄んだ音が、やけに心地いい。それはバーテンダーである晴菜にとってひどく安心できる音だった。
「強めのやつを」
言葉通りに差し出されたのは、琥珀色に輝くストレートのシングルモルトだった。
晴菜は差し出されたグラスにゆっくりと口付ける。舌を焼くような強烈なアルコールが乾いた喉を通るたび、心の輪郭が曖昧になっていく。頭の中のゴチャゴチャした思考が、熱でどろどろに溶かされていくような感覚。
――これで……いいの。今日だけは、全部忘れたい……
二杯目のグラスを傾け始めた頃、数席離れた場所でグラスを傾けていた男性が、ふとこちらを見遣ったような気がした。
スーツのジャケットが無造作に椅子にかけられている。ワイシャツは第二ボタンまで外され少し緩められていた。
顔立ちは精悍で、切れ長の目が印象的だ。どこか場慣れしている様子は、一目でわかった。グラスの持ち方も、動作も、すべてが無駄なく洗練されている。
カウンターの端、窓に一番近い席に座っていた彼はグラスとジャケットを持って立ち上がり、晴菜の隣の席に移動してきた。彼のその視線は、晴菜がグラスを持つ手元に向けられていた。
「プロだな」
彼は晴菜の隣に座ると、すぐにそう口を開いた。そのバリトンのような声は低く、甘く響く。
「……え?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。彼が何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
「あんたがグラスを口元に運ぶ直前の仕草だよ」
「仕草……?」
晴菜は、自分が今しがた行った動作を頭の中で反芻したものの、さっぱりわからない。思わず首を傾げて彼を見つめた。
「そう。一見、ただグラスを傾けるための動作に見えたけど、あんた、無意識にグラスの表面を検分してたろ?」
彼は視線で、晴菜の持つグラスに訴えかける。
「カウンターのキャンドルに透かして、極小の欠けがないか確認してた。もちろん、指先で触覚的にもチェックしてたな。客として店のグラスの状態を気にする人間はいない。あれはカウンターの向こう側の人間がする動作だ」
その洞察力に、晴菜は思わず息を止めた。晴菜がこの四年で身につけた、もはや「癖」のような所作だった。欠けたグラスで客が怪我をしないように、汚れのないグラスで酒の味を損なわないように。バーテンダーとして、当たり前の動作。それを、この彼は正確に見抜いた。
「職業バレ……しちゃいましたね」
晴菜は小さく肩を竦めながらそう口にした。彼に指摘されるまで、自分が無意識にそんな動きをしていたことに気づかなかったからだ。やはり仕事柄の癖は隠せないものなのだろうか。
「元?」
彼は晴菜のグラスに自らのグラスをチンと合わせながら尋ねてくる。元、というのは「元バーテンダーか?」という意味だろう。
「……現役です。別の場所で」
迷った末に、晴菜は正直に答えた。隠すことでもない。それに、この精悍な男性の視線から逃れるのは、なぜだか難しい気がした。
彼は面白そうに、片方の口角を上げた。
「なるほど。現役か」
グラスを回しながら、彼はゆっくりと息を吐いた。
「……それで、そのシングルモルトを選んだ理由は?」
「理由?」
「現役バーメイドは、どんな理由で酒を選ぶのか気になった」
女性のバーテンダーは、正確にはバーメイドと言う。それを知っているのは業界に詳しい人間だ。晴菜は少しだけ警戒心を解き、彼を観察しながら言葉を探す。
「……ふふ、そんなふうに聞かれたの初めて」
「職業病でね。俺も酒を扱う仕事なんだ」
「へえ。じゃあ同業者ってことですね」
晴菜はグラスを指先で軽く触りながら、探るように言葉を落とす。
バーテンダーは観察眼が命だ。客のわずかな視線の動き、指先の癖、呼吸の速さ。それらを汲み取ったうえで最高の酒と空間を提供する。
彼も晴菜と同じくバーテンダーなのかもしれない。けれど、どこか違和感があった。彼が身に纏う空気は、バーの現場で磨かれたモノではないような気がしたからだ。
「バーテンダーではないけど、まぁ、酒とは長いつきあいだ」
「その言い方、なんだか含みがありますね」
「そうか?」
彼は微かに笑って、グラスの縁に唇を寄せた。丸みを帯びた氷がカランと小さく鳴る。
「ソムリエ……とか?」
思考を巡らせながら、晴菜はまたひとつ問いを落とす。洗練されたいでたちと所作は、高級ホテルのレストランに勤めていると言われてもおかしくはなかったからだ。
彼はまたグラスを唇に運び、琥珀の液体をひと口だけ喉に流し込む。その動作は妙に滑らかで艶があった。
不意に――心臓が大きく鼓動を刻んだような気がした。
「まあ、そんなところ」
彼は短く笑った。核心に触れたと思わせておいて、わざと煙に巻くような笑い方だった。
「それで、俺の質問。そのシングルモルトを選んだ理由は? 気分? それとも味か?」
彼の問いに、晴菜はそっと視線を落としてグラスの中の琥珀色の液体をぼんやりと見つめた。液面がまるで炎のように揺れている。
「……強いのってオーダーしただけ」
彼は、晴菜の答えに小さく眉を上げた。
「強いの、ね。なるほど。逃げるときの選び方だ」
逃避で飲んでいる――それを言い当てられた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
「誰だって、弱い夜には度数の高い酒を選ぶ。酔うためじゃなく、鈍くしたいだけのときに」
「……鋭いですね」
「何だって酒が教えてくれる」
彼はグラスを軽く傾け、残り香を嗅ぐように目を細めた。
「そのモルト、原酒の一部は海沿いで熟成させてるんだ。潮風が樽に触れて、微かに塩の香りが移る」
「へえ……」
「人の痛みも似てるよ。そのモルトみたいに、時間が経てば味に変わる」
「……」
彼の言葉が、まるで自分の中に沈めていた痛みに触れたようだった。
忘れたかった。思い出を、名前を、声を。
でも――康介のぬくもりも、指先の感触も、まだ心のどこかに残っている。
強い酒で焼き尽くせると思っていたのに、香りの奥に滲む塩気が、逆に涙腺を刺激する。
晴菜はグラスを握る手に少し力を込め、込み上げてくる涙を振り払うように瞬きをした。
「あなた、ずいぶん詳しいのね。もしかして造り手側?」
話題をすり替えるように口の端に笑みを浮かべ、ゆっくりと首を傾げる。
「親の影響でね。物心つく頃から、香りを嗅げばなんの酒かわかる。香りは嘘をつかない」
彼の口元に浮かんだ微笑みはやけに穏やかで、どこか遠くを見ていた。
「香りは嘘をつかない……面白いこと言いますね」
「褒め言葉として受け取っておく」
ふっと笑い合う一瞬、胸の奥の重たさが少しだけ和らぐ。彼はそのままグラスを軽く揺らしながら晴菜を見遣った。
「あんた、何から逃げてきたんだ?」
氷が溶けてグラスの中で小さく鳴る音が、やけに遠くに聞こえる。バーの薄暗い照明が、その音をさらに曖昧なものにしていた。重厚なカウンター席に座る晴菜の隣で、男は再びグラスを揺らす。
彼は何も言わない。ただ、その目は静かに晴菜を見つめていた。
「男? 仕事? それとも――自分自身?」
その言葉に、胸の奥がどくんと鳴った。唇を噛みしめ、言葉を探すものの、喉の奥に張り付いて何も出てこない。
晴菜はただ、無言でグラスを置いた。
「全部……かな」
晴菜は小さく笑って誤魔化した。康介のこと、裏切られたこと、そして何よりも、その状況から逃げ出すことしかできなかった自分の弱さ――すべてをこの見知らぬ男に話す気にはなれなかった。
「いい逃げ方だと思うぞ」
「……え?」
彼が落としたのは晴菜にとって意外な言葉だった。低く響く声には、皮肉の色は微塵もない。
「酒に逃げるのは悪いことじゃない。壊れそうな夜をやり過ごすのに、酒はちゃんと役に立つ」
「……説得力、ありますね」
「言ったろ。長いつきあいだからな。それに、逃げ場所にしちゃ、ここは悪くないだろ。街の灯りが遠くて余計なものが何も入ってこない」
男は微かに笑い、グラスを軽く揺らした。琥珀の液面が照明を受けて、波のようにきらめく。
晴菜もつられてグラスを傾けた。心の奥で疼いていた何かが、少しだけ静まる。
「あなたのおすすめは?」
「そうだな……」
晴菜の問いに、彼は少し考え込むように視線を宙に泳がせたのち、手元のグラスを軽く叩いた。
「スモーキーで、塩気があるやつ。『海の記憶』みたいなやつかな」
その表現に、晴菜は思わず息を呑む。海――それは、すべてを洗い流してくれるような、あたたかな存在だ。
「……私、そういうの好きです」
「知ってる。さっきの選び方で、なんとなくわかった」
口の端に笑みを浮かべた彼は、晴菜をじっと見つめている。優越感に似た何かを含んだ笑みは、なぜか不快ではなかった。
ふと、彼が声を落として囁いた。
「酒の趣味が合う女には、最後まで付き合ってやる主義だ。あんたは?」
低く、甘い言葉に、晴菜の心臓が大きく跳ねた。グラスの中で溶け残った氷のように、胸の奥で冷えた何かがカラン、と音を立てる。
その「最後まで」が何を意味するか――この大人の空間で、濃密な空気感がわからないはずもなかった。
彼の言葉に、晴菜は目眩を覚える。今日の自分は、すべてを忘れたい、どうにでもなれ、という破滅的な気持ちで、この場所に来たのだ。それを見透かされたような気がした。
「……」
晴菜はじっと隣の男を見返す。彼のその鋭い視線は――晴菜の胸の奥にある深い翳りを確かに見抜いていた。
「……その主義、よく発動するんですか?」
声が震えているのを悟られないよう、晴菜は努めて冷静に問い返した。切れ長の黒い瞳は、どこか挑むように晴菜を見つめている。
「滅多に。今夜だけ例外」
挑発的な言葉と、熱を帯びた視線。男は静かに、けれども有無を言わせぬ力強さで、晴菜の選択肢を奪いにきている。晴菜は本能的に彼の危うさを感じた。
それでも――康介の裏切りで空っぽになった心と、どうしようもない自己嫌悪が、その危うくも熱い誘いに激しく惹かれていた。
「じゃあ……その例外に、乗ってみようかな」
グラスの向こうで、男の口元が微かに弧を描く。それは、獲物を捉えた獣のような、それでいてひどく魅力的な笑みだった。
「決まりだな」
理性は、とうに東京のカフェの片隅に置き去りにしてきた。
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