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第三章 揺れる心が選ぶもの
16.躊躇いの温度
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視察を終えたあと、晴菜と奏汰は蔵から少し離れた高坂家の母屋へと移動した。広い庭を囲むように建つ黒瓦の日本家屋は、蔵とはまた違う歴史の重みが堆積したような静けさを纏っている。
通されたのは畳敷きの広い和室だった。遠くでツクツクボウシが鳴き、夏の午後がゆっくりと熱を帯びたまま溶けていくような空気感が満ちている。
「疲れたか?」
奏汰はそう口にして、座布団の上にどさりと腰を下ろした。仕事の顔を脱いだせいか、どこか素の彼に戻ったようにも見える。
「ちょっとだけ。だけど、……その、驚きました」
「何が」
即座に言葉を返され、晴菜は思わず失敗したと心の中で独り言ちた。こんなことをわざわざ口に出すつもりでもなかったし、驚いた、なんていう素直すぎる言葉が零れ落ちてしまったことに、自分でも動揺を隠せない。
彼の強引な振る舞いの奥に隠されていた、職人としての誇りと、逃げ場のない覚悟。それを突きつけられてしまったせいで、これまで頑なに守ってきた心の境界線が、足元からじわじわと崩れているのを感じる。
――認めたら……終わってしまう気がする。
体裁のため。そう言い訳をしていれば安全でいられる。
酒と向き合う真剣な横顔を見てしまったせいで、胸の奥が静かに疼く。
これはただの尊敬だ――バーメイドとして造り手へ興味を抱いただけだと、晴菜は自分に必死に言い聞かせた。
晴菜は奏汰の真横に置いてある座布団を手に取り、彼から少し距離を取ったところにそれを置いて腰を下ろす。
「……私、あなたのこと、『偉そうな人』だと思ってたので。こう、その……ちゃんと『社会人』してるんだなって」
「ははっ、正直だな」
思わず虚勢じみた言葉が晴菜の口からまろびでた。けれど奏汰は気を悪くすることもなく短く笑い、座布団の上で片膝を立てる。
「それに、意外でした。真面目に働いてて」
「恋人の前でカッコつけて何が悪い」
リラックスした様子で笑う彼の表情は、蔵で見せたあの鋭い氷のような眼差しとは対照的で――晴菜はまた鼓動が跳ねたように感じた。
「ま、酒蔵の息子なんて、外から見えるほど格好いいもんじゃないってこった。数字や戦略をこねくり回すだけじゃどうにもならねぇ場面ばかりだ。一度の狂いが酒を宝石にも泥水にも変える。一瞬でも気を抜けば味は死ぬんだ」
奏汰の瞳に、再び深い色が宿った。
「家の看板も、蔵で働く社員の人生も全部この肩に乗ってる。だからこそ、中途半端なもんを世に出すことだけは、死んでも許されねぇんだ」
真剣みを帯びたその声音は、ひどく重かった。晴菜は、知らず知らずのうちに呼吸を止めてしまう。
――この人、ずっと……踏ん張ってきたんだ。
傲慢で、強引で、すべてを手の内に収めていなければ気が済まない独裁者。そう思っていた。けれど、彼は少しでも息をつけば、家も、酒も、人も守れなくなると知っているのだ。
代々受け継がれてきたものを失わぬようがむしゃらに走るしか彼の道は残されておらず、重圧を悟られないために、わざと晴菜の前では尊大に振る舞うことで自分を鼓舞してきたのかもしれない。その考えに思い至った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
晴菜は膝の上で握りしめていた指を解き、少しだけ視線を落としてから静かに言葉を紡いだ。
「私……今日ここに来て良かったです」
「あん?」
予想外の言葉だったのか、奏汰は意外そうに眉を上げた。
「造る人の覚悟を、その熱を……肌で感じることができたから。それを届ける側にいる自分の仕事を……これまで以上に誇らしく思えたから。ありがとうございます」
晴菜がぽつりと呟くと、奏汰はぴたりと動きを止めた。
奏汰はゆっくりと俯き、しばらく何も言わなかった。畳に落ちた自分の影を見つめるように顔を伏せている。その沈黙がやけに長く感じられた。
庭から聞こえる蝉時雨だけが、二人の間の時間を埋めていく。じっと俯いたままの奏汰の横顔は、何を考えているのか読み取れない。
やがて短く息を吐いたのち、彼はゆっくりと顔を上げた。畳の上を這うように長い指が伸び、晴菜の指先に触れる。絡めるほどではない、けれど確かに逃がさない距離だった。
「……あんたは、やっぱりずるいな」
「えっ……?」
「あんたは……俺が一番欲しい言葉を、一番欲しいタイミングで投げてくる」
奏汰の口元は僅かに緩んでいた。その言葉に、晴菜の胸が小さく跳ねる。
――卑怯だ。
いつもは強引に振り回してばかりのくせに、時折、触れたら火傷しそうなほどの熱量と純粋さを交じらせて接してくる。
これ以上踏み込めば、もう元の場所には戻れない。
けれど、晴菜の心の天秤は、もう均衡を保てなくなっていた。胸の奥が、じわりと疼いた。
息を詰めたその刹那、障子の外から何かが近づいてくる気配がした。畳に落ちた静けさを破るように、廊下を進む規則正しい足音が響く。
「入るわよ」
凛とした、けれどどこか険呑な響きを孕んだ女性の声が障子越しに響く。と同時に断りもなく障子が開かれ、和服姿の女性が姿を現した。
年は五十代前半だろうか。一目で仕立ての良さが分かる紫色の着物を身に纏っている。髪は一筋の乱れもなく隙なく結い上げ、切れ長の瞳には他者を寄せ付けない冷徹さが滲んでいた。
「……麗奈さん。どうしてここに」
奏汰が低く名を呼ぶ。その声音には、隠し切れない露骨な警戒が滲んでいた。晴菜を庇うようにして、わずかに身体を前に出す。
「時東家へ嫁がれた方が、何の御用です」
「あら。確かに私は時東に嫁ぎましたけれども、亡くなった父の墓参りくらいはしますわよ。彼岸も近いですし。それに、実家が恋しくなることもありますもの」
麗奈と呼ばれた女性は、手に持った扇子を弄びながら優雅に室内へと歩みを進めた。
「……そうでしたか。それは失礼いたしました」
「弟の稔から視察が終わったと聞きましたから、少しお話に参りましたの」
麗奈はそう言って晴菜へと視線を移した。値踏みするような、遠慮のない冷たい瞳だった。
「こちらは?」
「俺の恋人です」
奏汰の力強い返答に、麗奈は「まぁ」と短く吐息を漏らした。麗奈は奏汰に半分隠れるような形の晴菜を、品定めするように頭の先から爪先まで見据えていく。その視線は、まるで綺麗な庭園に紛れ込んだ虫でも見るかのような、蔑んだものだった。
「兄も公認の上、見合いでご縁をいただきました。京都の歴史のある酒屋のご親戚です」
奏汰はやけに『公認』という言葉を強調したように感じられた。晴菜には奏汰のその意図が掴めず、彼と麗奈を交互に見遣るしか出来なかった。
彼の言葉に、麗奈はあからさまに眉をひそめて大きくため息を吐いた。
「奏汰、あなた何を考えているの? わたくしの娘との婚約のお話は?」
詰問とも言える麗奈の口ぶりに、一瞬、晴菜の世界が傾いた気がした。
通されたのは畳敷きの広い和室だった。遠くでツクツクボウシが鳴き、夏の午後がゆっくりと熱を帯びたまま溶けていくような空気感が満ちている。
「疲れたか?」
奏汰はそう口にして、座布団の上にどさりと腰を下ろした。仕事の顔を脱いだせいか、どこか素の彼に戻ったようにも見える。
「ちょっとだけ。だけど、……その、驚きました」
「何が」
即座に言葉を返され、晴菜は思わず失敗したと心の中で独り言ちた。こんなことをわざわざ口に出すつもりでもなかったし、驚いた、なんていう素直すぎる言葉が零れ落ちてしまったことに、自分でも動揺を隠せない。
彼の強引な振る舞いの奥に隠されていた、職人としての誇りと、逃げ場のない覚悟。それを突きつけられてしまったせいで、これまで頑なに守ってきた心の境界線が、足元からじわじわと崩れているのを感じる。
――認めたら……終わってしまう気がする。
体裁のため。そう言い訳をしていれば安全でいられる。
酒と向き合う真剣な横顔を見てしまったせいで、胸の奥が静かに疼く。
これはただの尊敬だ――バーメイドとして造り手へ興味を抱いただけだと、晴菜は自分に必死に言い聞かせた。
晴菜は奏汰の真横に置いてある座布団を手に取り、彼から少し距離を取ったところにそれを置いて腰を下ろす。
「……私、あなたのこと、『偉そうな人』だと思ってたので。こう、その……ちゃんと『社会人』してるんだなって」
「ははっ、正直だな」
思わず虚勢じみた言葉が晴菜の口からまろびでた。けれど奏汰は気を悪くすることもなく短く笑い、座布団の上で片膝を立てる。
「それに、意外でした。真面目に働いてて」
「恋人の前でカッコつけて何が悪い」
リラックスした様子で笑う彼の表情は、蔵で見せたあの鋭い氷のような眼差しとは対照的で――晴菜はまた鼓動が跳ねたように感じた。
「ま、酒蔵の息子なんて、外から見えるほど格好いいもんじゃないってこった。数字や戦略をこねくり回すだけじゃどうにもならねぇ場面ばかりだ。一度の狂いが酒を宝石にも泥水にも変える。一瞬でも気を抜けば味は死ぬんだ」
奏汰の瞳に、再び深い色が宿った。
「家の看板も、蔵で働く社員の人生も全部この肩に乗ってる。だからこそ、中途半端なもんを世に出すことだけは、死んでも許されねぇんだ」
真剣みを帯びたその声音は、ひどく重かった。晴菜は、知らず知らずのうちに呼吸を止めてしまう。
――この人、ずっと……踏ん張ってきたんだ。
傲慢で、強引で、すべてを手の内に収めていなければ気が済まない独裁者。そう思っていた。けれど、彼は少しでも息をつけば、家も、酒も、人も守れなくなると知っているのだ。
代々受け継がれてきたものを失わぬようがむしゃらに走るしか彼の道は残されておらず、重圧を悟られないために、わざと晴菜の前では尊大に振る舞うことで自分を鼓舞してきたのかもしれない。その考えに思い至った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
晴菜は膝の上で握りしめていた指を解き、少しだけ視線を落としてから静かに言葉を紡いだ。
「私……今日ここに来て良かったです」
「あん?」
予想外の言葉だったのか、奏汰は意外そうに眉を上げた。
「造る人の覚悟を、その熱を……肌で感じることができたから。それを届ける側にいる自分の仕事を……これまで以上に誇らしく思えたから。ありがとうございます」
晴菜がぽつりと呟くと、奏汰はぴたりと動きを止めた。
奏汰はゆっくりと俯き、しばらく何も言わなかった。畳に落ちた自分の影を見つめるように顔を伏せている。その沈黙がやけに長く感じられた。
庭から聞こえる蝉時雨だけが、二人の間の時間を埋めていく。じっと俯いたままの奏汰の横顔は、何を考えているのか読み取れない。
やがて短く息を吐いたのち、彼はゆっくりと顔を上げた。畳の上を這うように長い指が伸び、晴菜の指先に触れる。絡めるほどではない、けれど確かに逃がさない距離だった。
「……あんたは、やっぱりずるいな」
「えっ……?」
「あんたは……俺が一番欲しい言葉を、一番欲しいタイミングで投げてくる」
奏汰の口元は僅かに緩んでいた。その言葉に、晴菜の胸が小さく跳ねる。
――卑怯だ。
いつもは強引に振り回してばかりのくせに、時折、触れたら火傷しそうなほどの熱量と純粋さを交じらせて接してくる。
これ以上踏み込めば、もう元の場所には戻れない。
けれど、晴菜の心の天秤は、もう均衡を保てなくなっていた。胸の奥が、じわりと疼いた。
息を詰めたその刹那、障子の外から何かが近づいてくる気配がした。畳に落ちた静けさを破るように、廊下を進む規則正しい足音が響く。
「入るわよ」
凛とした、けれどどこか険呑な響きを孕んだ女性の声が障子越しに響く。と同時に断りもなく障子が開かれ、和服姿の女性が姿を現した。
年は五十代前半だろうか。一目で仕立ての良さが分かる紫色の着物を身に纏っている。髪は一筋の乱れもなく隙なく結い上げ、切れ長の瞳には他者を寄せ付けない冷徹さが滲んでいた。
「……麗奈さん。どうしてここに」
奏汰が低く名を呼ぶ。その声音には、隠し切れない露骨な警戒が滲んでいた。晴菜を庇うようにして、わずかに身体を前に出す。
「時東家へ嫁がれた方が、何の御用です」
「あら。確かに私は時東に嫁ぎましたけれども、亡くなった父の墓参りくらいはしますわよ。彼岸も近いですし。それに、実家が恋しくなることもありますもの」
麗奈と呼ばれた女性は、手に持った扇子を弄びながら優雅に室内へと歩みを進めた。
「……そうでしたか。それは失礼いたしました」
「弟の稔から視察が終わったと聞きましたから、少しお話に参りましたの」
麗奈はそう言って晴菜へと視線を移した。値踏みするような、遠慮のない冷たい瞳だった。
「こちらは?」
「俺の恋人です」
奏汰の力強い返答に、麗奈は「まぁ」と短く吐息を漏らした。麗奈は奏汰に半分隠れるような形の晴菜を、品定めするように頭の先から爪先まで見据えていく。その視線は、まるで綺麗な庭園に紛れ込んだ虫でも見るかのような、蔑んだものだった。
「兄も公認の上、見合いでご縁をいただきました。京都の歴史のある酒屋のご親戚です」
奏汰はやけに『公認』という言葉を強調したように感じられた。晴菜には奏汰のその意図が掴めず、彼と麗奈を交互に見遣るしか出来なかった。
彼の言葉に、麗奈はあからさまに眉をひそめて大きくため息を吐いた。
「奏汰、あなた何を考えているの? わたくしの娘との婚約のお話は?」
詰問とも言える麗奈の口ぶりに、一瞬、晴菜の世界が傾いた気がした。
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