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第四章 夜が終わる前に
21.邂逅
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新しいラウンジのグランドオープンを祝うレセプション会場は、しっかり冷房が効かせてあるはずなのに、どこか熱気に包まれていた。東雲色の絨毯を、天井から下がるシャンデリアの煌めく光が彩っている。
晴菜はバックヤードでベストの襟元を整え、小さく息を吐いた。松本がこの日のために新しく用意した黒を基調にしたシャツとグレーのベストは、ギャレットのカウンターに立つ時とはまた違う緊張感を連れてくる。
「衣笠、入り口。そろそろ始まんぞ。氷、もう一段細かく割っとけ」
「はい」
慣れた手つきで炭酸水のボトルを揃えていく松本が、低く鋭い声で言葉を紡ぐ。トレードマークともいえる無精ひげは綺麗に剃られており、松本も気合いを入れてきたのだと察して改めて気が引き締まる。
衝立の向こう側では受付が始まり、ドレスアップした招待客たちが次々と姿を現し始めていた。それを見遣った松本とともに、晴菜は設置された特設のバーカウンター内に立つ。
落ち着いた色味のドレスや上質なスーツを着こなす人々の姿を見るにつけ、晴菜は無意識に自分の立ち位置を測ってしまう。
――もし……このまま、奏汰と一緒にいるなら……
恐らく、いや、確実に。晴菜自身もこういう場に立つ場面が出てくる。今立っているスタッフ側ではなく、招待客側として、だ。
自分は――この華やかな世界に混ざり込んでいい人間なのだろうか。一介の勤め人である自分にその資格があるとはとても思えない。
とはいえ、奏汰が差し出す手を拒む勇気は今更残っていなかった。それでも、胸の中にあるざらりとした感覚が、どうしても消えてくれない。
――だめ。考え事しちゃ。この前みたいに、腕が落ちる。ここは仕事の場なのだから。
奏汰が京都に戻ってから、一週間が過ぎようとしていた。毎日連絡が来るわけではないが、完全に途切れることもなかった。
『今日は立て込んでいる』
『また連絡する』
『明日は朝から会議だ』
事務的な短い文面が、数日に一度、夜更けに届く。ただそれだけで、彼が今、どのような状況に置かれ、何をしているのかは分からなかった。
――まったくないよりは、ましなのだろうけれど……
あのお見合いの席で見た奏汰の兄は、一見とても穏やかそうな人物だった。言葉遣いも柔らかく、晴菜の緊張をほぐすような気遣いをみせていた。
けれど、ひとたび経営者の顔になればそれはまったく違うものになるのだろうことは、晴菜でも容易に想像できた。だからこそ、奏汰の短いメッセージの裏に、どれほどの圧力がかかっているのかを想像してしまう。
晴菜は大きく息を吐きながら、乱れていく思考を押しのけるようにカウンター内のグラスを整えていく。
「――始まるぞ」
松本が低く告げた直後、司会者の声がマイク越しに響き場内に拍手が起こる。
主催者の簡単な挨拶ののちに、形式ばった乾杯が続いた。グラスの触れ合う音が波のように広がり、そこから一気に空気が動き始める。
「シャンパン二つ」
「かしこまりました」
「ジントニック、ライム多めで」
「柑橘系のノンアルある?」
「はい、ございますよ」
レセプションが始まれば、感傷に浸る余裕などなかった。華やかな喧騒の中で次々と舞い込むオーダーをテンポよく松本とさばいていく。
今日は松本と二人体制なので、最低限の言葉だけで呼吸を合わせなければならない。動線が被らないよう、松本の動きを確認しながら、晴菜は黙々と手を動かしていた。
「すみません。おすすめをお願いできますか」
澄んだ声が晴菜の耳朶を打つ。視線を上げた晴菜は、思わず動きを止めた。
淡い桜色のドレスに身を包んだ女性が、そこにいた。その耳元には繊細なパールが控えめに主張している。
どこか見覚えのある目元をしていた。けれど目の前の彼女の瞳は柔らかいもので、晴菜は一瞬、戸惑いを覚える。
「はい。お好みはございますか。アルコールの強さや香りなど」
「強すぎないものだと助かります。あまりお酒は嗜んでこなかったので」
彼女は困ったように眉を下げながらゆるりと微笑んだ。その動作に合わせて、柔らかなシフォン素材のストールが揺れている。
「承知しました。少々お待ちください」
「お願いします」
晴菜がそう声を返すと、彼女は晴菜の左胸で鈍く光る真鍮の名札に視線を落とした。そこに刻まれた文字をなぞるように、じっと見つめている。
「苗字……きぬがさ、と読むの?」
彼女の問いに、一瞬、指先が止まった。それでも晴菜は、何事もなかったかのようにボトルを手に取る。
「はい。珍しい名字だとよく言われます」
「そう。たまにお世話になる京都の呉服屋さんも、衣笠さんと仰るの」
「え……」
偶然にしては出来過ぎている。けれど、家系を辿れば父方の実家は福寿酒店と同じく京都の歴史に根ざした老舗の呉服屋だ。こうした大きなパーティーに出席する、いわゆる上流階級の人物が「衣笠」の屋号を知っていたとしても、決して不自然なことではなかった。
晴菜は努めて平静を装い、カクテルグラスに手を伸ばしながら言葉を返した。
「それは奇遇ですね。父の実家が、京都で代々呉服屋を営んでおります。私自身は東京育ちなのですが」
それを聞いた瞬間、彼女の瞳がわずかに見開いた。その仕草の意味が掴めず、晴菜は思わず首を傾げた。
彼女は微笑んだまま、声をほんの少しだけ落とす。
「だから気になって。奏汰と、どういう関係なのか」
「――!」
彼の名前がその口から出た瞬間、晴菜は持っていたマドラーを危うく落としそうになる。
晴菜はようやく――この女性が誰なのかを、理解した。
晴菜はバックヤードでベストの襟元を整え、小さく息を吐いた。松本がこの日のために新しく用意した黒を基調にしたシャツとグレーのベストは、ギャレットのカウンターに立つ時とはまた違う緊張感を連れてくる。
「衣笠、入り口。そろそろ始まんぞ。氷、もう一段細かく割っとけ」
「はい」
慣れた手つきで炭酸水のボトルを揃えていく松本が、低く鋭い声で言葉を紡ぐ。トレードマークともいえる無精ひげは綺麗に剃られており、松本も気合いを入れてきたのだと察して改めて気が引き締まる。
衝立の向こう側では受付が始まり、ドレスアップした招待客たちが次々と姿を現し始めていた。それを見遣った松本とともに、晴菜は設置された特設のバーカウンター内に立つ。
落ち着いた色味のドレスや上質なスーツを着こなす人々の姿を見るにつけ、晴菜は無意識に自分の立ち位置を測ってしまう。
――もし……このまま、奏汰と一緒にいるなら……
恐らく、いや、確実に。晴菜自身もこういう場に立つ場面が出てくる。今立っているスタッフ側ではなく、招待客側として、だ。
自分は――この華やかな世界に混ざり込んでいい人間なのだろうか。一介の勤め人である自分にその資格があるとはとても思えない。
とはいえ、奏汰が差し出す手を拒む勇気は今更残っていなかった。それでも、胸の中にあるざらりとした感覚が、どうしても消えてくれない。
――だめ。考え事しちゃ。この前みたいに、腕が落ちる。ここは仕事の場なのだから。
奏汰が京都に戻ってから、一週間が過ぎようとしていた。毎日連絡が来るわけではないが、完全に途切れることもなかった。
『今日は立て込んでいる』
『また連絡する』
『明日は朝から会議だ』
事務的な短い文面が、数日に一度、夜更けに届く。ただそれだけで、彼が今、どのような状況に置かれ、何をしているのかは分からなかった。
――まったくないよりは、ましなのだろうけれど……
あのお見合いの席で見た奏汰の兄は、一見とても穏やかそうな人物だった。言葉遣いも柔らかく、晴菜の緊張をほぐすような気遣いをみせていた。
けれど、ひとたび経営者の顔になればそれはまったく違うものになるのだろうことは、晴菜でも容易に想像できた。だからこそ、奏汰の短いメッセージの裏に、どれほどの圧力がかかっているのかを想像してしまう。
晴菜は大きく息を吐きながら、乱れていく思考を押しのけるようにカウンター内のグラスを整えていく。
「――始まるぞ」
松本が低く告げた直後、司会者の声がマイク越しに響き場内に拍手が起こる。
主催者の簡単な挨拶ののちに、形式ばった乾杯が続いた。グラスの触れ合う音が波のように広がり、そこから一気に空気が動き始める。
「シャンパン二つ」
「かしこまりました」
「ジントニック、ライム多めで」
「柑橘系のノンアルある?」
「はい、ございますよ」
レセプションが始まれば、感傷に浸る余裕などなかった。華やかな喧騒の中で次々と舞い込むオーダーをテンポよく松本とさばいていく。
今日は松本と二人体制なので、最低限の言葉だけで呼吸を合わせなければならない。動線が被らないよう、松本の動きを確認しながら、晴菜は黙々と手を動かしていた。
「すみません。おすすめをお願いできますか」
澄んだ声が晴菜の耳朶を打つ。視線を上げた晴菜は、思わず動きを止めた。
淡い桜色のドレスに身を包んだ女性が、そこにいた。その耳元には繊細なパールが控えめに主張している。
どこか見覚えのある目元をしていた。けれど目の前の彼女の瞳は柔らかいもので、晴菜は一瞬、戸惑いを覚える。
「はい。お好みはございますか。アルコールの強さや香りなど」
「強すぎないものだと助かります。あまりお酒は嗜んでこなかったので」
彼女は困ったように眉を下げながらゆるりと微笑んだ。その動作に合わせて、柔らかなシフォン素材のストールが揺れている。
「承知しました。少々お待ちください」
「お願いします」
晴菜がそう声を返すと、彼女は晴菜の左胸で鈍く光る真鍮の名札に視線を落とした。そこに刻まれた文字をなぞるように、じっと見つめている。
「苗字……きぬがさ、と読むの?」
彼女の問いに、一瞬、指先が止まった。それでも晴菜は、何事もなかったかのようにボトルを手に取る。
「はい。珍しい名字だとよく言われます」
「そう。たまにお世話になる京都の呉服屋さんも、衣笠さんと仰るの」
「え……」
偶然にしては出来過ぎている。けれど、家系を辿れば父方の実家は福寿酒店と同じく京都の歴史に根ざした老舗の呉服屋だ。こうした大きなパーティーに出席する、いわゆる上流階級の人物が「衣笠」の屋号を知っていたとしても、決して不自然なことではなかった。
晴菜は努めて平静を装い、カクテルグラスに手を伸ばしながら言葉を返した。
「それは奇遇ですね。父の実家が、京都で代々呉服屋を営んでおります。私自身は東京育ちなのですが」
それを聞いた瞬間、彼女の瞳がわずかに見開いた。その仕草の意味が掴めず、晴菜は思わず首を傾げた。
彼女は微笑んだまま、声をほんの少しだけ落とす。
「だから気になって。奏汰と、どういう関係なのか」
「――!」
彼の名前がその口から出た瞬間、晴菜は持っていたマドラーを危うく落としそうになる。
晴菜はようやく――この女性が誰なのかを、理解した。
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