50 / 276
本編・第二部
85
しおりを挟む
「はぁ…」
今日何度目のため息か、もうわからなかった。
総合職に転換して、初めて。大きなミスをやらかした。
小林くんが落としてきてくれた、丸永忠商社の通関に係る書類のミスに気が付いた時には、税関が閉まっている時間で。明日にならなければ、対処できないミスだった。
水野課長代理に、こってり絞られた。田邉部長にも、珍しく苦言を呈された。それで、こんな遅くになってしまった。
「初歩的なミス過ぎて笑いすら出てこない……」
とぼとぼと、背中を丸めながら更衣室を後にして、タイムカードを打刻してエレベーターに乗り込んだ。残業になったから、智さんに迎えに来てもらおうと思ったけれど。
……少し独りになりたかった。
ふたたび大きなため息をついて、小さく独り言ちる。
「………今日は定時で上がって、チョコ買いに行って帰る予定だったのになぁ……」
今日は2月13日。バレンタイン、前日。
料理が得意な智さんもちろん製菓も得意で。そんな智さんに手作りなんてあげられるわけもなく。近くのデパートに立ち寄って帰ることにしていたのに。デパートさえも閉まっている時間だった。
ちょっと飲み物を買って考えを纏めてから智さんに連絡しよう。そう考え、ぼんやりとオフィスビルの出入口にある自動販売機に佇んでいた。
「……や~っぱり、ここに居たね。知香ちゃん」
「…………片桐、さん」
飄々とした雰囲気をその身に纏わせながら、彼はへにゃりと笑った。
「だから俺言ったでしょ? 仕事抱え込みすぎたらダメだよって。2月に入る前も言ったよねぇ?」
「……すみません」
そういえば、この前……ホットレモンのペットボトルを差し入れされつつ、そんなことを言われていたような気がする。けれど、仕事を抱え込みすぎている、という自覚はなかったし、彼の言葉を素直に受け止める気には到底なれなかった。それ故に、なんとなく聞き逃してしまっていた。
「………知香ちゃん。知香ちゃんを口説いている俺の言葉は、信じられないかもしれないけどね? これから言うことは、通関部の同僚として話すことだ。いい?」
「……」
ヘーゼル色の瞳が真剣味を帯びて私を鋭く貫いていく。そして、彼の声が、一気に低くなった。
「君は仕事を抱え過ぎだ。独りで仕事をしているつもりか? それはあまりにも傲慢というものだ」
「っ……!」
鋭い指摘に身体が、固まる。そんな私の様子に、片桐さんの声が少し和らいだ。
「君は無意識のうちに仕事を抱え込んでいるんだ。きっと、水野課長代理か田邉部長にも言われただろう? 抱え込みが初歩的なミスに繋がった。……わかる?」
……当たり、だ。田邉部長にも、同じことを言われた。気まずくなって、ふっと目を逸らす。
「……抱え込んでいるつもりは、無かったのですが…」
「……うん。多分、そうだろうね。なんで、無意識に仕事を抱え込んでるか。自分でわかる?」
何故、無意識に仕事を抱え込んでいるか。今の私には……全く検討もつかなかった。無言のままでいると、片桐さんは静かに言葉を続けていく。
「小林くんが、成長してるから、だよ」
「……え?」
小林くん。目覚しい営業成績を叩き出していて……その様子があまりにも鬼気迫る勢いで。心配になっていた。
「小林くんが成長しているところをまざまざと見せつけられている。小林くんの負担にならないように、出来ることは知香ちゃんがやってあげたい。そして……確かに総合職になったのは知香ちゃんが後だ。だけど、通関部の先輩として、小林くんに負けたくない。それが……知香ちゃんの、深層心理」
「……負けたく、ない……」
……心配、という気持ちから……小林くんに負担をかけたくない、という気持ちは、確かに持っていた。けれど、負けたくない、という気持ちは……全く、自覚がなかった。
「それが、知香ちゃんが無意識に仕事を抱え込んでいる要因」
「……」
総合職になったから、今まで以上に頑張らなきゃ。そう考えていたのは確かだ。私はまだ、小林くんみたいに新規顧客を取得できていない。それが、少し悔しいと思っていた。その気持ちが……無意識に仕事を抱え込ませて、いたのか。
「通関部は、みんなで仕事回してるんだよ? 知香ちゃんがそれは1番わかってると思う。小林くんのことを思うならこそ、小林くんに回すのがいいんだ。仕事って、経験して覚えるのが1番の近道だから」
「……はい」
正論だ。ぐうの音も出ない。仕事は、経験して、記録して覚えていく。その経験の機会を……私が、小林くんと片桐さんから奪っていた。同僚として、有るまじき行為だ。喩えそれが、無意識だったとしても。
「小林くんが手が離せなさそうなら、俺に回したりしたらいいんだよ? ……それに気づけたら、もう知香ちゃんは大丈夫」
へにゃり、と。片桐さんが笑みを浮かべた。
「……でも、明日にならないと、ミスの対応が出来ないことは、別問題ですよね」
そう。ミスは、ミスだ。どんな理由があろうと。挽回できるのは、明日だ。だけど、本当に挽回できるのか。わからない。せっかく、小林くんが捕まえてきた、顧客。私のミスひとつで……また、翻意させてしまうかも。
「……知香ちゃんって、ブッティスト?」
唐突に、全く脈絡のないことを片桐さんに訊ねられる。この質問にどういう意図があるのか、と、困惑しながら返答する。
「え? ……ええと、特には。無宗教ですが」
「…………日本人って、不思議だよね~ぇ? 結婚する時は教会で神に誓って、死んだらお寺に行く。クリスマスもイースターやハロウィンもお祝いするのに、神社に初詣にも行くでしょ?」
まるで、節操がないよね、と言われているようで、居た堪れなくなった。思わずぺこりと頭を下げる。
「……すみません」
「いやいや、別に謝ることじゃないよ? でも、そういうミックスした考え方が出来るってことはさ、日本人ってみんな根本は神道なんじゃないかと思うんだよね、俺」
「……神道」
「そう。神道って、八百万の神の考え方だからね。俺、大学は宗教学専攻だったから神道も勉強したんだ」
八百万の神。そう言われれば、イエス様だって神様のひとりと認識して、違和感なく受け入れられる。まぁ、イエス・キリストは正確には神ではないけれど、近いものとして捉えるなら、確かに大半の日本人には八百万の神の考え方が土台にあるからこそ、他の宗教のイベントを楽しむことができるのだろう。明日のバレンタインだって、もとはキリスト教の習慣だから。
「……確かにそうですね」
私の肯定の言葉に「そうでしょ?」と小さく呟いた片桐さんが少し考え込んで、軽いウインクをしながら彼が私に向き直った。
「まぁ、俺は当たり前だけどクリスチャンなんだ。だから、ちょっとだけキリスト教のアドバイス」
「……アドバイス?」
「そう。マタイによる福音書6章25節から34節に書かれていること」
「ふく、いんしょ……」
私の復唱に「そう」、と片桐さんが頷いた。
「俺は、この考え方に助けられたことがあるから、もう暗唱できるんだ。ちょっと長くなるけど、いい?」
「……はい」
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」
「……」
耳馴染みのない言葉たち。それらを聞き取ろうと、じっと耳を澄ませた。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか」
「……はぁ」
衣服、鳥。脈絡がなくて、よくわからない。少し呆然としながら片桐さんの言葉を聞いた。
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」
「……」
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」
「…あ……」
そうして、ぽんぽん、と。頭を撫でてくれた。片桐さんの、大きな手。あたたかくて、心地よい。
「そう。明日のことを今悩んでも仕方ないんだよ。明日のことは明日のこと。今日のことは、今日のこと」
その言葉は、違和感なく、ストン、と。胸に落ちてきた。今、明日のことをうじうじ悩んでも、結局は解決できない、ということ。
ゆっくりと、顔を上げた。ヘーゼル色の瞳が、優しい光を宿して、私を見つめている。
……やっぱり。片桐さんって性根から悪い人ってわけじゃ、ないのかもしれない。
「ねぇ、知香ちゃん。そろそろ俺に鞍替えする気にならない?」
へにゃり、と。片桐さんが、笑った。
……前言撤回。やっぱり悪い人だ!
頭に置かれた手を振り払って、背の高い片桐さんをぎゅっと睨みあげ、少しばかり距離を取った。
「なりません!」
その途端、片桐さんが不機嫌そうに口を尖らせた。
「えぇ~? 今回の話しだってさ。丸永忠商社と三井商社は取引あるから、智くんに相談出来ることじゃな~いでしょ?」
「……それは、そうですが」
丸永忠商社と取引を開始するにあたって、経理部から信用調査会社の情報を取り寄せた。そこに、主要取引先として、三井商社の名前が記載されていた。
ひとりの社会人として。取引先同士である双方の情報を、流すことはできない。
だからこそ……独りに、なりたかった。智さんに話して、整理できることではなかったから。
「……こういう時に、取引先の人とお付き合いしてると、辛いんだよ? 俺に鞍替えしなよ」
いつもの飄々とした笑顔が私に向けられる。
「いやです」
「せっかく同僚としてアドバイスしてあげたのに、本当につれないなぁ。泣けてくるよ」
よよよ、と。片桐さんが、泣き真似のような仕草をみせる。……変なところで日本人っぽい仕草をするのは、きっとわざとなのだろう。
「片桐さんが泣くことなんてなさそうですけど」
「ん~。最近、知香ちゃんがグサッとくることを躊躇いなく言うようになったよね」
「どなたのお陰でしょうか」
いつものような言い合いが始まって。
いつの間にか、胸に残る重たいものが軽くなっていた。
それだけは……感謝しなければ。
「俺、大学にいるとき、世界中の国を旅した経験があるんだ。俺なら…知香ちゃんが抱えている夢、叶えてあげられるよ?」
こてん、と。片桐さんが、私を誘うように首を傾げた。
……私の、夢。池野さんのように、自分の好きなことを好きだと公言して、自分の行きたい場所に臆することなく飛び込んでいきたい。総合職に転換したのも、好きなことして、好きなように生きる、池野さんに憧れていた、から。
「ねぇ、知香ちゃん。総合職になった理由、そこに抱える夢。この前の歓迎会でちらっと聞いちゃったからさ? 俺だったら……俺だったら、世界中の色んなところに、伝手がある。色んなところに連れて行ってあげられるし、色んな景色を見せてあげられるよ?」
片桐さんの歓迎会の時に同じテーブルに座っていた1課の徳永さんから、総合職に転換した理由を聞かれて、それを話していたのを聞かれていた……ということだろう。
……いつか。いつかで、いいから。池野さんみたいに、世界を見てみたい。新部門を設立させて、世界中の色んな会社と取引をしていく、智さんと一緒に行けたら。……なお素敵だろうと。そう思っている。
だから、悪いけれど。……片桐さんの、出る幕じゃ、ない。
「……自分の行きたい場所に臆することなく、飛び込んでいきたい。そんな気持ちで総合職になりました。けれど。行きたいところへは、自分の足で、歩いていきます」
智さんとの初デートの時に立ち寄った本屋さんで偶然手にした世界の名言集。
―――どこに行くべきか決められるのは、自分だけなのです。
この言葉は、今でも私の宝物。どこに行くべきか、そこには、どうやって行くべきか。結局は……自分の足で、歩いていかなければならない、ということ。
私の言葉に、ヘーゼル色の瞳が驚きに彩られ、大きく見開かれていく。
「……んん~。参ったな」
困ったように、へにゃりと。片桐さんが、笑った。
「……思ってたより…知香ちゃんって、芯が強いよねぇ……うん。ちょっと別の口説き方、考えるよ」
ひらり、と。彼の右手が上げられる。「じゃあね?」と。言葉を残し……片桐さんは、夜の帳に消えていった。
今日何度目のため息か、もうわからなかった。
総合職に転換して、初めて。大きなミスをやらかした。
小林くんが落としてきてくれた、丸永忠商社の通関に係る書類のミスに気が付いた時には、税関が閉まっている時間で。明日にならなければ、対処できないミスだった。
水野課長代理に、こってり絞られた。田邉部長にも、珍しく苦言を呈された。それで、こんな遅くになってしまった。
「初歩的なミス過ぎて笑いすら出てこない……」
とぼとぼと、背中を丸めながら更衣室を後にして、タイムカードを打刻してエレベーターに乗り込んだ。残業になったから、智さんに迎えに来てもらおうと思ったけれど。
……少し独りになりたかった。
ふたたび大きなため息をついて、小さく独り言ちる。
「………今日は定時で上がって、チョコ買いに行って帰る予定だったのになぁ……」
今日は2月13日。バレンタイン、前日。
料理が得意な智さんもちろん製菓も得意で。そんな智さんに手作りなんてあげられるわけもなく。近くのデパートに立ち寄って帰ることにしていたのに。デパートさえも閉まっている時間だった。
ちょっと飲み物を買って考えを纏めてから智さんに連絡しよう。そう考え、ぼんやりとオフィスビルの出入口にある自動販売機に佇んでいた。
「……や~っぱり、ここに居たね。知香ちゃん」
「…………片桐、さん」
飄々とした雰囲気をその身に纏わせながら、彼はへにゃりと笑った。
「だから俺言ったでしょ? 仕事抱え込みすぎたらダメだよって。2月に入る前も言ったよねぇ?」
「……すみません」
そういえば、この前……ホットレモンのペットボトルを差し入れされつつ、そんなことを言われていたような気がする。けれど、仕事を抱え込みすぎている、という自覚はなかったし、彼の言葉を素直に受け止める気には到底なれなかった。それ故に、なんとなく聞き逃してしまっていた。
「………知香ちゃん。知香ちゃんを口説いている俺の言葉は、信じられないかもしれないけどね? これから言うことは、通関部の同僚として話すことだ。いい?」
「……」
ヘーゼル色の瞳が真剣味を帯びて私を鋭く貫いていく。そして、彼の声が、一気に低くなった。
「君は仕事を抱え過ぎだ。独りで仕事をしているつもりか? それはあまりにも傲慢というものだ」
「っ……!」
鋭い指摘に身体が、固まる。そんな私の様子に、片桐さんの声が少し和らいだ。
「君は無意識のうちに仕事を抱え込んでいるんだ。きっと、水野課長代理か田邉部長にも言われただろう? 抱え込みが初歩的なミスに繋がった。……わかる?」
……当たり、だ。田邉部長にも、同じことを言われた。気まずくなって、ふっと目を逸らす。
「……抱え込んでいるつもりは、無かったのですが…」
「……うん。多分、そうだろうね。なんで、無意識に仕事を抱え込んでるか。自分でわかる?」
何故、無意識に仕事を抱え込んでいるか。今の私には……全く検討もつかなかった。無言のままでいると、片桐さんは静かに言葉を続けていく。
「小林くんが、成長してるから、だよ」
「……え?」
小林くん。目覚しい営業成績を叩き出していて……その様子があまりにも鬼気迫る勢いで。心配になっていた。
「小林くんが成長しているところをまざまざと見せつけられている。小林くんの負担にならないように、出来ることは知香ちゃんがやってあげたい。そして……確かに総合職になったのは知香ちゃんが後だ。だけど、通関部の先輩として、小林くんに負けたくない。それが……知香ちゃんの、深層心理」
「……負けたく、ない……」
……心配、という気持ちから……小林くんに負担をかけたくない、という気持ちは、確かに持っていた。けれど、負けたくない、という気持ちは……全く、自覚がなかった。
「それが、知香ちゃんが無意識に仕事を抱え込んでいる要因」
「……」
総合職になったから、今まで以上に頑張らなきゃ。そう考えていたのは確かだ。私はまだ、小林くんみたいに新規顧客を取得できていない。それが、少し悔しいと思っていた。その気持ちが……無意識に仕事を抱え込ませて、いたのか。
「通関部は、みんなで仕事回してるんだよ? 知香ちゃんがそれは1番わかってると思う。小林くんのことを思うならこそ、小林くんに回すのがいいんだ。仕事って、経験して覚えるのが1番の近道だから」
「……はい」
正論だ。ぐうの音も出ない。仕事は、経験して、記録して覚えていく。その経験の機会を……私が、小林くんと片桐さんから奪っていた。同僚として、有るまじき行為だ。喩えそれが、無意識だったとしても。
「小林くんが手が離せなさそうなら、俺に回したりしたらいいんだよ? ……それに気づけたら、もう知香ちゃんは大丈夫」
へにゃり、と。片桐さんが笑みを浮かべた。
「……でも、明日にならないと、ミスの対応が出来ないことは、別問題ですよね」
そう。ミスは、ミスだ。どんな理由があろうと。挽回できるのは、明日だ。だけど、本当に挽回できるのか。わからない。せっかく、小林くんが捕まえてきた、顧客。私のミスひとつで……また、翻意させてしまうかも。
「……知香ちゃんって、ブッティスト?」
唐突に、全く脈絡のないことを片桐さんに訊ねられる。この質問にどういう意図があるのか、と、困惑しながら返答する。
「え? ……ええと、特には。無宗教ですが」
「…………日本人って、不思議だよね~ぇ? 結婚する時は教会で神に誓って、死んだらお寺に行く。クリスマスもイースターやハロウィンもお祝いするのに、神社に初詣にも行くでしょ?」
まるで、節操がないよね、と言われているようで、居た堪れなくなった。思わずぺこりと頭を下げる。
「……すみません」
「いやいや、別に謝ることじゃないよ? でも、そういうミックスした考え方が出来るってことはさ、日本人ってみんな根本は神道なんじゃないかと思うんだよね、俺」
「……神道」
「そう。神道って、八百万の神の考え方だからね。俺、大学は宗教学専攻だったから神道も勉強したんだ」
八百万の神。そう言われれば、イエス様だって神様のひとりと認識して、違和感なく受け入れられる。まぁ、イエス・キリストは正確には神ではないけれど、近いものとして捉えるなら、確かに大半の日本人には八百万の神の考え方が土台にあるからこそ、他の宗教のイベントを楽しむことができるのだろう。明日のバレンタインだって、もとはキリスト教の習慣だから。
「……確かにそうですね」
私の肯定の言葉に「そうでしょ?」と小さく呟いた片桐さんが少し考え込んで、軽いウインクをしながら彼が私に向き直った。
「まぁ、俺は当たり前だけどクリスチャンなんだ。だから、ちょっとだけキリスト教のアドバイス」
「……アドバイス?」
「そう。マタイによる福音書6章25節から34節に書かれていること」
「ふく、いんしょ……」
私の復唱に「そう」、と片桐さんが頷いた。
「俺は、この考え方に助けられたことがあるから、もう暗唱できるんだ。ちょっと長くなるけど、いい?」
「……はい」
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」
「……」
耳馴染みのない言葉たち。それらを聞き取ろうと、じっと耳を澄ませた。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか」
「……はぁ」
衣服、鳥。脈絡がなくて、よくわからない。少し呆然としながら片桐さんの言葉を聞いた。
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」
「……」
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」
「…あ……」
そうして、ぽんぽん、と。頭を撫でてくれた。片桐さんの、大きな手。あたたかくて、心地よい。
「そう。明日のことを今悩んでも仕方ないんだよ。明日のことは明日のこと。今日のことは、今日のこと」
その言葉は、違和感なく、ストン、と。胸に落ちてきた。今、明日のことをうじうじ悩んでも、結局は解決できない、ということ。
ゆっくりと、顔を上げた。ヘーゼル色の瞳が、優しい光を宿して、私を見つめている。
……やっぱり。片桐さんって性根から悪い人ってわけじゃ、ないのかもしれない。
「ねぇ、知香ちゃん。そろそろ俺に鞍替えする気にならない?」
へにゃり、と。片桐さんが、笑った。
……前言撤回。やっぱり悪い人だ!
頭に置かれた手を振り払って、背の高い片桐さんをぎゅっと睨みあげ、少しばかり距離を取った。
「なりません!」
その途端、片桐さんが不機嫌そうに口を尖らせた。
「えぇ~? 今回の話しだってさ。丸永忠商社と三井商社は取引あるから、智くんに相談出来ることじゃな~いでしょ?」
「……それは、そうですが」
丸永忠商社と取引を開始するにあたって、経理部から信用調査会社の情報を取り寄せた。そこに、主要取引先として、三井商社の名前が記載されていた。
ひとりの社会人として。取引先同士である双方の情報を、流すことはできない。
だからこそ……独りに、なりたかった。智さんに話して、整理できることではなかったから。
「……こういう時に、取引先の人とお付き合いしてると、辛いんだよ? 俺に鞍替えしなよ」
いつもの飄々とした笑顔が私に向けられる。
「いやです」
「せっかく同僚としてアドバイスしてあげたのに、本当につれないなぁ。泣けてくるよ」
よよよ、と。片桐さんが、泣き真似のような仕草をみせる。……変なところで日本人っぽい仕草をするのは、きっとわざとなのだろう。
「片桐さんが泣くことなんてなさそうですけど」
「ん~。最近、知香ちゃんがグサッとくることを躊躇いなく言うようになったよね」
「どなたのお陰でしょうか」
いつものような言い合いが始まって。
いつの間にか、胸に残る重たいものが軽くなっていた。
それだけは……感謝しなければ。
「俺、大学にいるとき、世界中の国を旅した経験があるんだ。俺なら…知香ちゃんが抱えている夢、叶えてあげられるよ?」
こてん、と。片桐さんが、私を誘うように首を傾げた。
……私の、夢。池野さんのように、自分の好きなことを好きだと公言して、自分の行きたい場所に臆することなく飛び込んでいきたい。総合職に転換したのも、好きなことして、好きなように生きる、池野さんに憧れていた、から。
「ねぇ、知香ちゃん。総合職になった理由、そこに抱える夢。この前の歓迎会でちらっと聞いちゃったからさ? 俺だったら……俺だったら、世界中の色んなところに、伝手がある。色んなところに連れて行ってあげられるし、色んな景色を見せてあげられるよ?」
片桐さんの歓迎会の時に同じテーブルに座っていた1課の徳永さんから、総合職に転換した理由を聞かれて、それを話していたのを聞かれていた……ということだろう。
……いつか。いつかで、いいから。池野さんみたいに、世界を見てみたい。新部門を設立させて、世界中の色んな会社と取引をしていく、智さんと一緒に行けたら。……なお素敵だろうと。そう思っている。
だから、悪いけれど。……片桐さんの、出る幕じゃ、ない。
「……自分の行きたい場所に臆することなく、飛び込んでいきたい。そんな気持ちで総合職になりました。けれど。行きたいところへは、自分の足で、歩いていきます」
智さんとの初デートの時に立ち寄った本屋さんで偶然手にした世界の名言集。
―――どこに行くべきか決められるのは、自分だけなのです。
この言葉は、今でも私の宝物。どこに行くべきか、そこには、どうやって行くべきか。結局は……自分の足で、歩いていかなければならない、ということ。
私の言葉に、ヘーゼル色の瞳が驚きに彩られ、大きく見開かれていく。
「……んん~。参ったな」
困ったように、へにゃりと。片桐さんが、笑った。
「……思ってたより…知香ちゃんって、芯が強いよねぇ……うん。ちょっと別の口説き方、考えるよ」
ひらり、と。彼の右手が上げられる。「じゃあね?」と。言葉を残し……片桐さんは、夜の帳に消えていった。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
あなたに溺れて
春宮ともみ
恋愛
俺たちの始まりは傷の舐めあいだった。
プロポーズ直前の恋人に別れを告げられた男と、女。
どちらからとなく惹かれあい、傷を舐めあうように時間を共にした。
…………はずだったのに、いつの間にか搦めとられて身動きが出来なくなっていた。
---
「愛と快楽に溺れて」に登場する、水野課長代理と池野課長のお話し。
◎バッドエンド。胸が締め付けられるような切ないシーンが多めになります。
◎タイトル番号の横にサブタイトルがあるものは他キャラ目線のお話しです。
◎作中に出てくる企業、情報、登場人物が持つ知識等は創作上のフィクションです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
フッてくれてありがとう
nanahi
恋愛
【25th Anniversary CUP】にて、最終ランキング3位に入りました。投票してくださった皆様、読んでくださった皆様、ありがとうございました!
「子どもができたんだ」
ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。
「誰の」
私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。
でも私は知っている。
大学生時代の元カノだ。
「じゃあ。元気で」
彼からは謝罪の一言さえなかった。
下を向き、私はひたすら涙を流した。
それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。
過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。