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本編・第二部

119 声が、響いた。(上)

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「では、今後とも、よろしくお願いいたします」

 イタリアでの最後の交渉を終えて、浅田と共に小さくガッツポーズをする。どの会社とも、こちら側に僅かに有利な条件で締結できた。

 互いに安堵の顔を浮かべながら、最後に市街地をゆっくり回ろうと話し、浅田と共に石畳の街並みを歩いていく。

 初日はヤロウ3人で歩きたくもないと吐き捨てた浅田だったが、この一週間で、浅田とかなり打ち解けた。今は素直に観光に着いてくるということを考えると、こいつが俺に向ける信頼感の深さを実感した。同じ年齢ということ、互いに結婚前提の彼女の話題もあり、話が弾んだのも要因だったろう。俺は知香の素性や所属は伏せたが、浅田の彼女は学生時代からの付き合いらしかった。俺と絢子のように長い春にならぬよう、心の内で強く願った。

 こいつと、三井商社を栄えさせていきたい。今よりももっと、大きくしていきたい。そう思えるほど、浅田への信頼感が深くなった一週間だった。

 街並みを歩いていくと、あるマーケットが目についた。東洋の品物を専門に扱っている店。浅田がその店に並ぶ日本産の陶器を手に取り、ぽつりと口にした。

「あ~早く帰りてぇなぁ……」

 浅田が呟いた言葉に全力で同意した。もう、あと9時間もすれば日本へ向けて出発する。商談に集中して己の心に押し込めていた、知香の顔を見たいという恋しさが、爆発するように一気に募っていく。


 しばらく歩くと、東南アジア系の品物を扱っている店の軒下に浅田が立ち止まった。

「なぁ……邨上。これ持って帰れると思うか?」

 ニヤリ、と、浅田が笑った。その手には……に効く、マカやマムシが入った小瓶。浅田の笑い方にピンときて、思わず額に手を当てた。

「お前さぁ………」
「んだよ、邨上だって同じだろ?どーせ帰ったら一週間分させるんだろ」
「お前と一緒にすんな、バカ」

 軽口を叩き合い、心の底から笑い合った。その感覚に―――俺は、浅田が生涯の友となるだろうと、なんとなく予感した。








 ふらりふらりと街並みを歩き、日が次第に落ちて。ゆっくりと、空港に向かう。通訳に礼を告げ、ユーロから円に両替し、ラウンジで仮眠を取った。

 思いのほか寝入ってしまって、日付が変わる頃浅田に揺り起こされ、保安検査場を抜けて搭乗口前のサ-ビスコーナーで有線LANにPCを繋いだ。日記サービスにアクセスし、ログインして知香からの書き込みを確認する。

『智さんに似ている猫に遭遇したよ』

 俺に似ている猫。どんな顔をしている猫なのか。想像して、ぷっと笑い声が漏れた。

 昨日も黒川の接触は無かったらしい。それにほっと安堵のため息をついた。

 一週間、長かった。体感では1ヶ月近く離れているように感じた。それほどに……俺は、知香に溺れているのだ、と、実感する。

 ギシリ、と、椅子に深く座り込んで、天井のスピーカーを眺めた。

 脳裏に、知香の顔を浮かべる。特別に美人でも、可愛い訳でもない、それでも……俺にとっては、世界一……愛しい、顔。

 会えたら、どんな声をかけよう。何から話そう。

 あの焦げ茶色の瞳に、俺の姿が真っ直ぐに反射する様をこの目に焼き付けて。俺が揶揄う言葉を投げかけると、顔を真っ赤にして反応する知香の、愛おしい表情をこの目に焼き付けよう。

 知香の艶やかな髪を撫でて、やわらかい頬を撫でて、あの唇に口づけて、ゆっくりと……愛し合おう。そう、浅田が口にしたように……一週間分、たっぷりと。

 ふるり、と頭を振って、天井に向けていた視線を手元のPCに落とし、もうすぐ搭乗する、と、書き込もうとした瞬間。天井から搭乗開始の案内のアナウンスが流れ、慌ててPCを畳んだ。








 往路の13時間は一部眠ってしまったが、復路の12時間は、知香に会いたい気持ちでいっぱいで、眠ることなんて出来なかった。

「……邨上、寝なかったんだな」

 着陸体制に入ったアナウンスが流れ出し、浅田があくびをしながら隣の席から声をかけて来た。

「浅田こそ寝てねぇじゃん」
「帰ったら彼女の膝枕で寝るから今は無理にでも起きておきたかったの」
「あ、そ」

 くだらない話しだが、まるで学生時代のような楽しさを感じた。互いに顔を見合わせて、互いが作った目の下の隈に笑い合っていると、ガタン、と、機体が揺れて着陸したことを認識する。ぐい、と、身体を伸ばして。

「さ、帰るか」

 誰に伝えるでもなく、発した言葉を浅田が拾っていく。

「おう。別送した手土産のやつ、税関に申告しねぇとな」

 浅田の言葉に、ふと、日本を発つ当日の朝に、心配そうな顔で知香から忠告された光景を思い出す。





『お土産をイタリアから別便で送るなら、帰国したときに税関で別送品申告を忘れたらだめだよ? 申告忘れたら別便で日本に送ったお土産は通常の輸入貨物として扱われちゃって免税範囲が適用されなくなっちゃうから。通関処理を自分でやらなきゃいけなくなるし、通常課税になっちゃう。別送品申告は絶対に忘れないようにしてね?』
『わかったわかった。何回も聞いた。万が一そうなったら、知香に通関手続きしてもらうわ』

 俺の言葉に、ぷうっと頬を膨れさせて怒っている、と主張した知香の表情が脳裏に浮かんだ。

『もうっ! 私それは手伝わないからね! 智さんが自分でやればいい! 手伝うにしても料金請求するから!』

 ぎゅうと睨み上げてくる膨れっ面が途方もなく可愛くて。ついつい、意地悪をした。

『……ふーん。じゃ、それのお代は、俺から知香に捧げる一週間分のセックスってことでいいか?』

 俺の言葉に、知香がぴしりと固まる。

『なっ……!? なななっ、なんですぐそっちに繋げるの!? 智さんのっ、バカっ!!!』

 本当に、知香は…わかりやすい。顔があっという間に真っ赤になっていった、あの途方もなく愛おしい時間が、遥か昔のように思い出された。



(早く、会いてぇな……)



 俺たちを乗せた機体がゆっくりと駐機場に向かっていく様子を窓から眺めながら、心の内でそっと呟いた。




 空港に降り立ち、ようやくスマホが使えるようになった。電源を入れると、一週間分の通知が次々と入ってくる。その中に、知香の名前は無い。きっと知香は、一週間分の通知がバカバカ入ってくることを見越して、俺の負担にならないようにメッセージアプリにすら連絡を入れなかったのだろう。

 小さな心配りだが、それすらも愛おしい。メッセージアプリを立ち上げ、今、空港に着いたと送信する。今日は……期末慰労会に出席すると言っていた。すぐに既読がつかないところを見ると、今、後輩たちと会話を楽しんでいる頃かもしれない。

「……なんか、タイムワープした気分だよなぁ。俺たちがイタリアを発ったのは深夜1時なのに、12時間乗って日本に帰ってきたらもうその日の夜だぜ? 毎度のことだけど時差って不思議だわ~」

 俺の目の前を歩く浅田が納得がいかないという表情で俺を振り返った。

「確かになぁ…」

 その言葉に苦笑しながら返答する。ふたりで一緒に帰国手続きの列に並びながら、スマホから日記アプリにログインした。

 そこには、知香からの労いの言葉と、社内交際費の関係で二次会にも出席する旨が記載されてあった。

  
『二次会のお店の名前忘れちゃったんだけど、確か市街地の中だった。GPSアプリがあるから私がいる場所はわかるよね?近くまで来たら連絡してね』


 書き込まれた最後の一文に―――すっと、背筋が冷えた。


(……? なんだ、今の感覚…)


 自分でもよくわからない感覚。形容しがたいような、感覚。

(………)


 心臓が。いつもよりも大きく、鼓動を刻んでいる。


 ひとまず、知香の今の居場所を確認しよう。知香がいるその場所が空港からどれくらい時間がかかるかを逆算して、待ち合わせの時間を電話する。

 そうして。知香が居る場所を確認しようとGPSのアプリを立ち上げて―――呼吸が、止まる。










 GPSが……機能、していない。


 知香の、居場所が、わからない。










 スマホの電池切れだろうか。いや、充電はこまめにしろと伝えたはず。モバイルバッテリーを買った、と、日記アプリに書き込んであった日があった。ならば、スマホが電池切れでGPSが機能していない訳ではない、はず。


 そうして。片桐の母親が亡くなったと知ったあの日に、俺が何を見落としていたのか。


 ……ようやく、気がついた。


(……電磁…遮蔽シールドッ!)

 ざぁっと自分の顔色が変わったのが分かった。

 勢いよく腕時計を確認する。一次会の開始時間から計算して、時間的に…今は、二次会の真っ最中。その二次会の場所が、おそらく……鉄筋コンクリートに囲まれた店。誰がその場所を選んだのか、容易に想像がついた。

 事を起こすなら、二次会の後半から終わりにかけてだろう。

 ギリギリと奥歯を噛み締める。今にもこの場から駆け出したい激情を堪えて、帰国手続きをする。

「……邨上? どうした?」

 俺の前に帰国手続きを終えた浅田が眉根を顰めて俺を振り返った。その声にすら八つ当たりしそうになる自分を必死に抑える。

「……浅田。俺の荷物、お前に任せていいか」

 知香を救い出すには。今は1秒も待っていられない。浅田と打ち解けたからこそ、浅田に頼める唯一の手段。

「あ? なんだって?」

 浅田が呆けたように俺の顔を見た。

「明日ちゃんとお前の家に取りに行く。ちゃんと事情話すから。……今だけは、借りを作らせてくれ」

 そう口にして、パスポートに帰国の証印が捺印された瞬間、職員から奪い取るようにパスポートを受け取って、ビジネスバッグを手に取りその場から駆け出す。

「おいっ、バカ、待て……!!」

 俺の彼女になんて説明すればいいんだ、という浅田の叫び声を無視して空港の出口に走った。








 タクシーを捕まえて、極東商社が入るオフィスビルの住所を口にする。一次会の開始時間と極東商社の終業時刻をから計算して、一次会の場所は徒歩で行ける距離のはず。二次会も、おそらく……その付近。

(ちくしょう……なんで、この可能性に気が付かなかった…)

 万が一、電波が届くかもしれない。繋がれ、と、願いを込めて、知香の携帯に何度も電話をかける。それでも……電波が届かない場所にあるか、電源が入っていないとのアナウンスが繰り返されるだけ。

 焦燥感だけがぐるぐると胸の中を渦巻く。はぁっとため息を吐いて、スマホを耳からおろす。

 ぞわり、ぞわりと、ヘーゼル色の瞳が俺の足元を這いずっている。あの悪夢が、現実になるかもしれないと考えるだけで、世界のすべてを燃やし尽くしたいほどの激情が押し寄せてくる。

 40分ほどタクシーに揺られて、いつもの交差点が見えてきた。財布を取り出し乱暴に精算する。環状線となっている高速に乗るようにドライバーに伝えたから、思いのほか高く付いた。が、知香を救い出せるなら安い金額だ。

 自動で開くドアの緩慢さがもどかしい。転がり出るようにタクシーから降りて、再度知香に電話をかける。それでも…それでも、左耳にあてたスピーカーからは、無情なアナウンスが、延々と流れるだけで。

「くそっ……」

 いつもの交差点。知香と、待ち合わせた交差点。

 知香と…幾度となく、巡り合った、この場所。俺がいつも、凭れかかって…知香を待った、電柱。その電柱に、手のひらを当てた。今は……ここにしか、縋れない。

「……知香っ…」

 どうしたらいい。何をしたらいい。悠長にここに立っている時間はない。

 じわり、と、掻き立てられるような感情が、胸の奥に滲む。視界が、滲む。

 周囲を見回して、深い呼吸をする。脳に酸素を必死で送りながら、電柱に当てた手のひらをぐっと握り締めた。

「…っ、くそったれっ…」

 握り締めた拳を振り上げる。ガンッと強い音がした。

 足が、動かない。

 今、動かなければ。本当に、今度こそ本当に―――俺はこの世界から色を失くす。







 なにが、知香を守り抜く、だ。全く守れてねぇじゃねぇか。知香とともにこの先の人生を生きていく、と、そう決めたのに、この体たらくはなんだ。






 己の無力さを、判断力の無さを、大事なことを見落としていた悔しさを、唇を噛み締めることで自らを罰した。抑えられない感情を額を電柱にぶつけて発散する。その勢いで、ブツリ、と、唇が避ける音がした。鉄の味が滲む。

「……なにを、したらいい…」

 声が震える。その瞬間、手に持ったスマホが震えた。知香かもしれない、と、勢いよく画面を確認する。

「……」

 画面には、未登録の番号が表示されていた。
 瞬間的に。この未登録の番号は、片桐だと感じた。

『奪っちゃうね?』

 あの悪夢で聞いた、片桐の声が耳元で響いた気がした。

「……っ、」

 出るべきか。出ないべきか。長く長く、スマホが震えている。出たところで、奪った、と、挑発されるだけ。それでも……それでも。




「奪われたなら……奪い返してやる…」




 ずっと前に。2度目の宣戦布告の時にも。仔犬にも、言った。だから。






 ―――その勝負。受けて、立ってやる。







『私も、……智さんのこと。愛してる』






 俺が嘘をついたあの日に、知香が震える声で紡いだ言葉が、脳裏に響いた。










 震える手で、震える指で、応答ボタンをタップする。強張った声で、はい、と声を上げた瞬間。

『催眠暗示だっ……!!』

 仔犬の声が、スピーカーから大きく響いた。

「な……」
『催眠暗示であんたへ向ける感情を挿げ替えるつもりだ、片桐は! あんた、今どこにいる!?』


 俺が見落としていた、もうひとつの事。
 ……知香は、他人の感情に引っ張られやすい。


『あいつは母親の死で弱ってるフリをして一瀬さんの感情を引っ張って、あんたが一瀬さんに使った心理学のことを突きつけて混乱させた!』

(親の死をも利用したのか……!!)

 流石にそこまではしないだろうと考えていた。相手も赤い血が流れる人間だから。……考えが、甘かった。


 母親が死んだ時にカウンセリング……所謂、認知行動療法を受けたが、俺自身はあまり他人の感情に左右されない。故に、俺には認知行動療法のひとつである催眠療法は効かないと判断された。催眠療法の本も買ったが、結局はろくに読みもしていなかった。


 あの日に、俺が、もうひとつ見落としていたこと。それは―――心理学を応用した催眠暗示、という手法が、この世界に存在する、ということ。


 つっかえながら紡がれる仔犬の説明に耳を傾けると、俺が付き合う前に使った心理学的手法の名称や仕組みを『洗脳』『カルト』などのセンセーショナルな言葉を交えて驚きと混乱を絶え間なく与え、知香の思考回路を停止させて暗示を叩き込む気だ、と伝えられた。

 湧き上がる怒りを抑えきれなかった。瞼の裏が真っ赤に染まって、全身がゆっくり冷えていくのを感じる。

 知香と出会った夜。知香を手に入れると決めたあの夜から、知香と接する時に、会話に心理学の応用を織り交ぜた。まるで、俺が取引先と商談をする時の再現のように。それを知香に暴露もした。が……詳しい論理などは、伝えなかった。逃げられないように仕組んだ、としか、伝えなかった。論理やそれの効能などの詳しい説明をしなかったこと、それが、知香の混乱をより深めることになってしまった。

「……暗示で覆せるものなら、やってみろ……くそったれが!」

 自分でも驚くほど。低く鋭い声が出た。

 電話口から聞こえる仔犬の指示に従って路地を走る。足が縺れる。全速力で走る。息が出来なくなっていく。

 赤いネクタイがジャケットからはみ出て揺らめいている。ワイシャツも、乱れまくって。

 革靴が痛い。足の甲が、土ふまずが、擦れている。心臓が、破裂しそうなほど跳ねている。喉に痰が絡んでひゅうひゅうと音を立てている。



 それでも、足を止めたら終わりだと知っているから。



「くそったれっ…!!」

 声を上げながら、走った。


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