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本編・第三部
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深い呼吸を何度も繰り返して息を整える。ぎゅう、と、私を抱き締めている智と鼓動が共鳴していた。ずるり、と、楔が抜けていく喪失感にため息が漏れて。
「……ほんと、知香って堕ちるの早いよな?やべぇくらい可愛いんだけど」
くっと喉の奥を鳴らして、智が面白そうに笑う。
智が、私をこんな淫らな身体にしたのに。低く、甘く囁かれればすぐに―――快楽に堕ちていくスイッチが入ってしまうように、智が仕組んだ癖に。
「っ、誰のせいだとっ…!!」
気力を振り絞って目の前のダークブラウンの瞳をじとっと睨みあげた。
「帰ったら即襲うだなんて、信じらんない。けだものっ」
思ったよりも掠れた声が出て、改めて自分の置かれた状況を理解し、おさまってきた身体の奥の熱が再度灯されたような気がした。ふるり、と頭を振ってその感覚を振り払う。
片桐さんの件があるとはいえ、まさか帰宅してすぐに雪崩れ込まされるなんて。本当にけだものもいいところだと思うのだけど!
目の前の智をじとっと睨みつけたままでいると、切れ長の瞳が心底愉しげにゆっくりと歪む。
「よくゆーよ。玄関でも啼いてトロットロにしてた癖に」
「~~~っ!」
その表情に、紡がれた言葉の恥ずかしさに、ぱちん、と智の胸を力の入らない手で軽く叩く。その様子に、智がふたたびくくくっと喉を鳴らした。
愉しそうな笑みを讃えたまま、慣れた手つきで白濁の溜まったゴムをパチリと結んで、服を整え始める。
私の身体はまだ、強烈な余韻があって。寄せては返す波に脳がくらくらしている。
智が揶揄うようにふっと笑う。
「知香、まだ立てねぇの?今日そこまで激しくしたつもりねぇけど?」
「……智の『激しくしてない』の基準がわかんない!」
目の前にある智の腕を軽く抓って抗議の視線を送る。ワイシャツ越しだからか、そこまでダメージが無いようで、智は涼しい顔のまま。悔しさが込み上げて再び抗議の声をあげようとした、その瞬間。
「夕食。作り置きして冷凍していた唐揚げでいいか?」
こてん、と、智が首を傾げて私に問いかける。少し遅めの帰宅、そしてこの状態で、いつもの手の込んだ料理を作ると相当遅くなってしまう。そう考えているのだろうなと察して、その問いかけにこくんと頷いた。
智が私に、汗ばんだ身体を清めるためのホットタオルを持ってきてくれる。そのまま、キッチンに立って調理を始めた。
ようやく身体が動かせるようになって、服を整え、リビングに足を運ぶ。
そうして、夕食を取りながらお互いに現状を報告し合っていった。
「一応、池野課長に相談した。今のところ証拠がないからどうしようもないということで止まっている」
ほう、と、小さくため息をつきながら、智が唐揚げを頬張っていく。私も口にしていたご飯を飲み込み、そっか、と、小さく吐息を吐き出した。
「……私も、水野課長に同じことを言われたの。特に通関って、先方の依頼があって請け負うことだから、正直なところ三井商社さんからキャンセルの依頼がなければ、私はその依頼に沿って動かざるを得ないの」
なんにせよ、証拠が全くない状態なのだ。三井商社としても、極東商社としても……今の段階で身動きが取れないのは、どちらも同じ。その事実を突きつけられ、ソファに沈み込んだままふたり揃って肩を落とした。
「だよなぁ……」
ただただ、目の前にある現実に打ちのめされる。逆恨みでしかないとわかっているのに、あんな人の思い通りにはさせないと決意したのに。黒川さんが何をしようとしているのかの糸口すら掴めなくて。
『………不正な取引。俺にはそれの検討すらつかん』
ふと、水野課長が頭を掻きながら呟いた言葉が、脳裏に蘇る。
私にも不正がどんな方法をもって行われるのかの知識はない。お味噌汁のお椀を持ったまま肩を落とした隣の智に、そっと問いかける。
「ね。不正な取引って、どういう取引が該当するの?」
私の問いかけに、智が一旦お椀とお箸をおいて、少し考え込んで。ゆっくりと口を開いた。
「……架空取引による横領、もしくは押し込み販売…それから循環取引による粉飾決算。この辺りじゃねぇかと思っているんだが」
「横領……」
テレビでも企業の不適切会計や不祥事がニュースなどで時折取り上げられている。あまり自分の仕事に関係がないと思い込んでいたから、いつもそのニュースは右から左に流していくだけだった。けれど、ひとたび不正が発覚すると、企業にとって金銭的なダメージがあるだけではなく、社会的信用も失墜し、企業の存続が危ぶまれる事態になり得る、ということは知っている。
横領、というセンセーショナルな一言に、そうして自分が巻き込まれていることの大きさに。ぞっと背筋が冷え、ふるりと身震いする。
「あいつが冷凍ブロッコリーの取引を担当している得意先は多い。なにせ黒川も成績は出せてねぇがいっぱしの営業でな、なまじっか10年勤めてっから、小口の取引先は多いんだよな………」
はぁっ、と。肩を上下させながら、大きなため息を智がついて。テーブルの上の食器から視線を外さず、ガシガシと頭を搔いた。
「だから、あいつの取引先全てを片っ端から洗うしかねぇんだ。けど、俺は今、営業課のシステムを扱える権限は持ってねぇ。だから……営業課の浅田の協力を得ようと思ってる。あいつなら俺よりも動けるタイミングが多い」
ただ、と、智が声を尖らせ、食器を見つめているその視線が鋭くなる。
「浅田は畜産チームだからな。農産チームのシステムを盗み見る、っつぅことは出来ねぇ。……日中にどうにかして農産チームのブースの資料を探ってきてくれねぇかとは思っているんだ」
「……そっか…」
やはり、帰りの電車で浅田さんに言われた言葉たちが、思ったよりも智の心に刺さったのだろう。昨日、これまで智がひとりで抱え込んできたことを私に話してくれて、ふたりで協力して動いているように。
今度は―――浅田さんの協力を得ようと、智は考えている。
(……成長、したんだなぁ、智も)
智は私よりも5つ年上だ。社会経験も私よりも豊富で。だから、人としても営業マンとしても完璧なのだと思い込んでいた。
だけど、そんな智も完璧じゃなくて、昔の私みたいに誰かに頼るということが苦手だったのだ、と気がついた。
その事実に、心がこそばゆい感覚があって。小さく吐息を吐き出した。
「……新部門が軌道に乗れば、俺は三井商社の上場も夢じゃねぇと思ってんだ。だから、今ここで不正な取引を暴いて…膿を出してしまわないといけねぇ」
まるで自分に言い聞かせるように。硝子天板のテーブルに並んだ食器を見つめたまま、智は小さく呟いた。その言葉に、この件にかける智の決意の強さを実感して、ぎゅ、と、手のひらを握りしめる。
「それから、すまん。ひとつだけ、この件で知香に言わなかったことがある」
智がそう口にして、真剣な表情で私に視線を合わせた。切れ長の瞳に、真っ直ぐに貫かれる。
「……月曜日。誰もいなくなるまで待って証拠探しができたのは、池野課長を騙してオフィスビルの鍵を預かったからなんだ。証拠が揃ってから池野課長に報告しようと思っていたから……あの時は池野課長に嘘をついた」
智が嘘をついてそんなことをしていた、という事実に驚いた。証拠を集めるためとはいえ、虚偽の理由で会社の鍵を預かる、ということは決して褒められたものではない。
ダークブラウンの瞳が、私の瞳を捉えて…その瞳が、僅かに濡れていて。声を震わせながら、智が口を開いた。
「……池野課長を出し抜く形で鍵を預かったこと、それは役員から俺に対しての信用問題に直結する。だからこの件で俺にも処分が下る。減給2ヶ月と、今年度の賞与の成績査定への影響。すまない」
「今年度……!?」
一気に言い終えた智は、私に深々と頭を下げた。薄い唇から告げられた処分の内容に、ひゅっと息を飲む。
今年度、ということは。夏も、冬も。どちらからも、ということだろう。それはかなり厳しい処分なのではないか。
「……俺がひとりで突っ走ったせいで、家計的な面で知香に負担をかけるような結果になってしまった。知香を巻き込んだ挙句、こういった形でも迷惑をかける。本当に……すまない」
智が頭を下げたまま、強張ったような声色で謝罪の言葉を紡いでいく。その悲痛な声色に、胸が締め付けられる思いだった。
「……智」
顔をあげて、と。そう伝わるように、智の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ。私、年末から年明けにかけて、残業が多くて…手取りが少し多かったから、共同貯金に多めに入れるって話したでしょ?足りない分はそこから崩せばいいし、生活できないくらい減給されるわけじゃないだろうから。本当、そこは気にしなくていいよ」
私の言葉を受けて、ゆっくりと、智が顔を元の位置に戻す。ダークブラウンの瞳が、ふるふると揺れ動いているのをじっと見つめる。
「私、どっちが稼いだからどっちのお金、とか思ってないもん。お互いに補っていこうって話したでしょ?だから、今回は私が智を補ってあげる番」
そう言葉を紡いで、ふわり、と、笑みを浮かべたあと。
「でも。嘘つくのは、やっぱりダメだよ。私に対しての嘘じゃなくても。そこは怒ってる」
そう口にして、わざとらしく、ぷぅ、と頬を膨らませた。その仕草で私が本当に気にしていない、ということが伝わればいいと願いながら、ぎゅう、と。ダークブラウンの瞳を睨み上げる。
そんな私の表情に、ふっと智が顔を綻ばせた。
「……ん。ありがとう、な」
智のその表情に、私はまたわざとらしく口の先を尖らせて、「わかればよろしい」と頷いた。
そうして、お互いに視線が交わって。顔を見合わせてくすくすと笑いあった。
いつまでも『ごめん』と謝られるよりは『ありがとう』と言われる方が、お互いに心に引っかかるものが消えて円滑に回ると思う。起こったことは仕方ない。ここからどう挽回して対処するかを考えればいいだけ。
そう考えて、私はまた目の前の食器に向き合った。そうして、重い口を開いた。
「……片桐さん。商談で、来てたの?」
片桐さんのことを聞くのは、智の不安な気持ちを掘り起こすようで気が引ける。不安だったからこそ、帰宅してすぐ身体を繋げて、互いの気持ちを確認したかったのだろう。けれど、知らないフリは、したくなかった。
「ん。あいつ、俺が出てくるって踏んでたんだろうな、さして驚いてもなかった。………で」
智が唐揚げをお箸で摘みながら、低く、唸るような声をあげた。
「……マカロン、美味かったか…だとさ」
「っ」
告げられた内容に、小さく息を飲む。
やはり。あの香典返しは、確信犯だったのだ。それを裏付けるように、水野課長に確認した話を私も唐揚げを摘みながら口にする。
「水野課長に聞いてみた。受け取ったのはイギリスのブランドの紅茶だったって。お母様の遺骨をお父様のお墓の隣に埋葬したいって事でイギリスに帰ってた時に買ってきた…って言われてたみたいよ」
「……」
私の言葉に無言のまま、智がぎりっと左手で拳を握った。
片桐さんは、私から手を引くと2度も智に宣言した。1度目はあの夜。2度目は、桜の木の下で。
それなのに香典返しを使ってまで智に宣戦布告をする理由は、なんなのだろうか。
(……なんの、心境の変化があったんだろう…)
私を見ていた、ヘーゼル色の瞳。今の私には、何も、わからない。
「……とにかく、再三になるが、GPSだけはずっと起動しておいてくれ。俺がノルウェーに行っている間も、何かあった時のために記録取れるように」
「うん……」
そうして。智が、握った拳を解いて、私の髪をふわりと撫でた。
「……大丈夫だ。絶対に」
そう、ちいさく呟いて。私に向けられたダークブラウンの瞳がふるりと揺れた。
智が吐きだしたその言葉は。
智自身にも言い聞かせているようにも感じたのは、気のせいでもなんでもないのだ、と。
そんな、気がした。
「……ほんと、知香って堕ちるの早いよな?やべぇくらい可愛いんだけど」
くっと喉の奥を鳴らして、智が面白そうに笑う。
智が、私をこんな淫らな身体にしたのに。低く、甘く囁かれればすぐに―――快楽に堕ちていくスイッチが入ってしまうように、智が仕組んだ癖に。
「っ、誰のせいだとっ…!!」
気力を振り絞って目の前のダークブラウンの瞳をじとっと睨みあげた。
「帰ったら即襲うだなんて、信じらんない。けだものっ」
思ったよりも掠れた声が出て、改めて自分の置かれた状況を理解し、おさまってきた身体の奥の熱が再度灯されたような気がした。ふるり、と頭を振ってその感覚を振り払う。
片桐さんの件があるとはいえ、まさか帰宅してすぐに雪崩れ込まされるなんて。本当にけだものもいいところだと思うのだけど!
目の前の智をじとっと睨みつけたままでいると、切れ長の瞳が心底愉しげにゆっくりと歪む。
「よくゆーよ。玄関でも啼いてトロットロにしてた癖に」
「~~~っ!」
その表情に、紡がれた言葉の恥ずかしさに、ぱちん、と智の胸を力の入らない手で軽く叩く。その様子に、智がふたたびくくくっと喉を鳴らした。
愉しそうな笑みを讃えたまま、慣れた手つきで白濁の溜まったゴムをパチリと結んで、服を整え始める。
私の身体はまだ、強烈な余韻があって。寄せては返す波に脳がくらくらしている。
智が揶揄うようにふっと笑う。
「知香、まだ立てねぇの?今日そこまで激しくしたつもりねぇけど?」
「……智の『激しくしてない』の基準がわかんない!」
目の前にある智の腕を軽く抓って抗議の視線を送る。ワイシャツ越しだからか、そこまでダメージが無いようで、智は涼しい顔のまま。悔しさが込み上げて再び抗議の声をあげようとした、その瞬間。
「夕食。作り置きして冷凍していた唐揚げでいいか?」
こてん、と、智が首を傾げて私に問いかける。少し遅めの帰宅、そしてこの状態で、いつもの手の込んだ料理を作ると相当遅くなってしまう。そう考えているのだろうなと察して、その問いかけにこくんと頷いた。
智が私に、汗ばんだ身体を清めるためのホットタオルを持ってきてくれる。そのまま、キッチンに立って調理を始めた。
ようやく身体が動かせるようになって、服を整え、リビングに足を運ぶ。
そうして、夕食を取りながらお互いに現状を報告し合っていった。
「一応、池野課長に相談した。今のところ証拠がないからどうしようもないということで止まっている」
ほう、と、小さくため息をつきながら、智が唐揚げを頬張っていく。私も口にしていたご飯を飲み込み、そっか、と、小さく吐息を吐き出した。
「……私も、水野課長に同じことを言われたの。特に通関って、先方の依頼があって請け負うことだから、正直なところ三井商社さんからキャンセルの依頼がなければ、私はその依頼に沿って動かざるを得ないの」
なんにせよ、証拠が全くない状態なのだ。三井商社としても、極東商社としても……今の段階で身動きが取れないのは、どちらも同じ。その事実を突きつけられ、ソファに沈み込んだままふたり揃って肩を落とした。
「だよなぁ……」
ただただ、目の前にある現実に打ちのめされる。逆恨みでしかないとわかっているのに、あんな人の思い通りにはさせないと決意したのに。黒川さんが何をしようとしているのかの糸口すら掴めなくて。
『………不正な取引。俺にはそれの検討すらつかん』
ふと、水野課長が頭を掻きながら呟いた言葉が、脳裏に蘇る。
私にも不正がどんな方法をもって行われるのかの知識はない。お味噌汁のお椀を持ったまま肩を落とした隣の智に、そっと問いかける。
「ね。不正な取引って、どういう取引が該当するの?」
私の問いかけに、智が一旦お椀とお箸をおいて、少し考え込んで。ゆっくりと口を開いた。
「……架空取引による横領、もしくは押し込み販売…それから循環取引による粉飾決算。この辺りじゃねぇかと思っているんだが」
「横領……」
テレビでも企業の不適切会計や不祥事がニュースなどで時折取り上げられている。あまり自分の仕事に関係がないと思い込んでいたから、いつもそのニュースは右から左に流していくだけだった。けれど、ひとたび不正が発覚すると、企業にとって金銭的なダメージがあるだけではなく、社会的信用も失墜し、企業の存続が危ぶまれる事態になり得る、ということは知っている。
横領、というセンセーショナルな一言に、そうして自分が巻き込まれていることの大きさに。ぞっと背筋が冷え、ふるりと身震いする。
「あいつが冷凍ブロッコリーの取引を担当している得意先は多い。なにせ黒川も成績は出せてねぇがいっぱしの営業でな、なまじっか10年勤めてっから、小口の取引先は多いんだよな………」
はぁっ、と。肩を上下させながら、大きなため息を智がついて。テーブルの上の食器から視線を外さず、ガシガシと頭を搔いた。
「だから、あいつの取引先全てを片っ端から洗うしかねぇんだ。けど、俺は今、営業課のシステムを扱える権限は持ってねぇ。だから……営業課の浅田の協力を得ようと思ってる。あいつなら俺よりも動けるタイミングが多い」
ただ、と、智が声を尖らせ、食器を見つめているその視線が鋭くなる。
「浅田は畜産チームだからな。農産チームのシステムを盗み見る、っつぅことは出来ねぇ。……日中にどうにかして農産チームのブースの資料を探ってきてくれねぇかとは思っているんだ」
「……そっか…」
やはり、帰りの電車で浅田さんに言われた言葉たちが、思ったよりも智の心に刺さったのだろう。昨日、これまで智がひとりで抱え込んできたことを私に話してくれて、ふたりで協力して動いているように。
今度は―――浅田さんの協力を得ようと、智は考えている。
(……成長、したんだなぁ、智も)
智は私よりも5つ年上だ。社会経験も私よりも豊富で。だから、人としても営業マンとしても完璧なのだと思い込んでいた。
だけど、そんな智も完璧じゃなくて、昔の私みたいに誰かに頼るということが苦手だったのだ、と気がついた。
その事実に、心がこそばゆい感覚があって。小さく吐息を吐き出した。
「……新部門が軌道に乗れば、俺は三井商社の上場も夢じゃねぇと思ってんだ。だから、今ここで不正な取引を暴いて…膿を出してしまわないといけねぇ」
まるで自分に言い聞かせるように。硝子天板のテーブルに並んだ食器を見つめたまま、智は小さく呟いた。その言葉に、この件にかける智の決意の強さを実感して、ぎゅ、と、手のひらを握りしめる。
「それから、すまん。ひとつだけ、この件で知香に言わなかったことがある」
智がそう口にして、真剣な表情で私に視線を合わせた。切れ長の瞳に、真っ直ぐに貫かれる。
「……月曜日。誰もいなくなるまで待って証拠探しができたのは、池野課長を騙してオフィスビルの鍵を預かったからなんだ。証拠が揃ってから池野課長に報告しようと思っていたから……あの時は池野課長に嘘をついた」
智が嘘をついてそんなことをしていた、という事実に驚いた。証拠を集めるためとはいえ、虚偽の理由で会社の鍵を預かる、ということは決して褒められたものではない。
ダークブラウンの瞳が、私の瞳を捉えて…その瞳が、僅かに濡れていて。声を震わせながら、智が口を開いた。
「……池野課長を出し抜く形で鍵を預かったこと、それは役員から俺に対しての信用問題に直結する。だからこの件で俺にも処分が下る。減給2ヶ月と、今年度の賞与の成績査定への影響。すまない」
「今年度……!?」
一気に言い終えた智は、私に深々と頭を下げた。薄い唇から告げられた処分の内容に、ひゅっと息を飲む。
今年度、ということは。夏も、冬も。どちらからも、ということだろう。それはかなり厳しい処分なのではないか。
「……俺がひとりで突っ走ったせいで、家計的な面で知香に負担をかけるような結果になってしまった。知香を巻き込んだ挙句、こういった形でも迷惑をかける。本当に……すまない」
智が頭を下げたまま、強張ったような声色で謝罪の言葉を紡いでいく。その悲痛な声色に、胸が締め付けられる思いだった。
「……智」
顔をあげて、と。そう伝わるように、智の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ。私、年末から年明けにかけて、残業が多くて…手取りが少し多かったから、共同貯金に多めに入れるって話したでしょ?足りない分はそこから崩せばいいし、生活できないくらい減給されるわけじゃないだろうから。本当、そこは気にしなくていいよ」
私の言葉を受けて、ゆっくりと、智が顔を元の位置に戻す。ダークブラウンの瞳が、ふるふると揺れ動いているのをじっと見つめる。
「私、どっちが稼いだからどっちのお金、とか思ってないもん。お互いに補っていこうって話したでしょ?だから、今回は私が智を補ってあげる番」
そう言葉を紡いで、ふわり、と、笑みを浮かべたあと。
「でも。嘘つくのは、やっぱりダメだよ。私に対しての嘘じゃなくても。そこは怒ってる」
そう口にして、わざとらしく、ぷぅ、と頬を膨らませた。その仕草で私が本当に気にしていない、ということが伝わればいいと願いながら、ぎゅう、と。ダークブラウンの瞳を睨み上げる。
そんな私の表情に、ふっと智が顔を綻ばせた。
「……ん。ありがとう、な」
智のその表情に、私はまたわざとらしく口の先を尖らせて、「わかればよろしい」と頷いた。
そうして、お互いに視線が交わって。顔を見合わせてくすくすと笑いあった。
いつまでも『ごめん』と謝られるよりは『ありがとう』と言われる方が、お互いに心に引っかかるものが消えて円滑に回ると思う。起こったことは仕方ない。ここからどう挽回して対処するかを考えればいいだけ。
そう考えて、私はまた目の前の食器に向き合った。そうして、重い口を開いた。
「……片桐さん。商談で、来てたの?」
片桐さんのことを聞くのは、智の不安な気持ちを掘り起こすようで気が引ける。不安だったからこそ、帰宅してすぐ身体を繋げて、互いの気持ちを確認したかったのだろう。けれど、知らないフリは、したくなかった。
「ん。あいつ、俺が出てくるって踏んでたんだろうな、さして驚いてもなかった。………で」
智が唐揚げをお箸で摘みながら、低く、唸るような声をあげた。
「……マカロン、美味かったか…だとさ」
「っ」
告げられた内容に、小さく息を飲む。
やはり。あの香典返しは、確信犯だったのだ。それを裏付けるように、水野課長に確認した話を私も唐揚げを摘みながら口にする。
「水野課長に聞いてみた。受け取ったのはイギリスのブランドの紅茶だったって。お母様の遺骨をお父様のお墓の隣に埋葬したいって事でイギリスに帰ってた時に買ってきた…って言われてたみたいよ」
「……」
私の言葉に無言のまま、智がぎりっと左手で拳を握った。
片桐さんは、私から手を引くと2度も智に宣言した。1度目はあの夜。2度目は、桜の木の下で。
それなのに香典返しを使ってまで智に宣戦布告をする理由は、なんなのだろうか。
(……なんの、心境の変化があったんだろう…)
私を見ていた、ヘーゼル色の瞳。今の私には、何も、わからない。
「……とにかく、再三になるが、GPSだけはずっと起動しておいてくれ。俺がノルウェーに行っている間も、何かあった時のために記録取れるように」
「うん……」
そうして。智が、握った拳を解いて、私の髪をふわりと撫でた。
「……大丈夫だ。絶対に」
そう、ちいさく呟いて。私に向けられたダークブラウンの瞳がふるりと揺れた。
智が吐きだしたその言葉は。
智自身にも言い聞かせているようにも感じたのは、気のせいでもなんでもないのだ、と。
そんな、気がした。
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