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本編・第三部
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「忘れ物なかね?(ないよね?)」
「ないと思う~」
リビングに積みあがった洗濯物を畳みながら、カウンターキッチンから声をかけてきたお母さんに返事をする。畳んだ洗濯物の中から私の洋服類を選別して、スーツケースのなかに納めていく。
あっという間に、帰省最終日。薔薇祭りに行った翌日には、陶器市に行った。陶器市の通りを歩きながら、自宅にある食器類は白で統一してあるけれど、それは智のこだわりなのか、と訊ねると。
「いや?とりあえず全部同じ店で揃えたら全部真っ白な無地の食器になっただけ」
という、几帳面なのか大雑把なのかわからない返答が返ってきた。
(……ほんと。知らなかったな)
『彼女の実家に帰省』という、ある種のイベントのような今回の数日間で、智の知らなかった一面をたくさん知れた気がする。
少し嬉しくなりながら、ふい、と、視線を向けると、リビングに差し込む穏やかな光を浴びながら、智はムギくんのご機嫌を取っているようだった。
(猫が好き、とか……そういうのも)
私は洗濯物を畳む手を一旦止めて、智とムギくんをじっと見つめた。
ムギくんから距離を取った場所で、ねこじゃらしのような玩具を智が振っている。ムギくんの視線の先で揺れ動くその玩具に、ムギくんがふりふりとお尻を揺らして狙いを定めている。ムギくんがぱっと揺れ動く玩具に飛び掛かり、智がその玩具をすっと動かすと、ムギくんの前足は空を切った。
その様子に、ふっと智が小さく声を上げて笑う。ストン、と、フローリングに腰を下ろして、智が長い足を組んで胡座をかくと、ムギくんが智の胡座の中にするりと身体を滑らせた。
(遊んでるのか、遊ばれてるのか………)
果たしてどちらなのだろう。そう思うと、くすりと笑みが零れた。
リビングの大きな窓から差し込む穏やかな光に、智の艶のある黒髪がサラリときらめいている。
(……知らなかったなぁ…)
膝枕をして、髪を撫でている時、ダークブラウンの瞳がひどく優しく細められることとか。
あのサラリとした黒髪は柔らかそうに見えて、しっかりとしたコシがあることとか。
その膝枕をムギくんに取られると、猫相手に本気でヤキモチを妬くこととか。
知らなかったことを知っていく、一種の快感。
こういう時。『好き』という気持ちを再確認して。幸せだ、と……心から、そう思う。
「忘れ物あったら宅配便に入れとくけんね(入れておくからね)」
ぼんやりと智とムギくんを眺めていると、お母さんがリビングのローテーブルに私が好きな銘柄の緑茶が入った湯飲みを置いてくれる。ほわり、と、心地よい緑茶の香りが鼻腔をくすぐった。お母さんの優しい心配りに、顔が綻んでいく。
「……ありがとう」
差し出された湯飲みにそっと手を伸ばして、故郷の味を口にする。
深川係長の実家という窯元にも立ち寄った。透き通るような白い肌にほどこされた、一瞬で目の覚めるような紺色の染めつけが息を飲むほど美しくて。智と相談して大きな丸いお皿を購入した。来客があった時のお茶受け菓子の盛り付けに映えそうだ。
割れやすい陶磁器だから、それはこのまま持ち帰るのではなく、実家から宅配便で送ってもらうことにした。忘れ物があればお母さんがその荷物に同封してくれるのだ、と、お母さんの言葉で察する。
「智さん、ムギに気に入られとるねぇ。初日は知香にベッタリやったとにねぇ(ベッタリだったのにね)」
お母さんが智とムギくんを見つめながら、にこにことした穏やかな笑顔を浮かべた。
そう。実は、薔薇祭りから帰ってくる途中で、偶然立ち寄った雑貨屋さん。そこでねこじゃらしのような玩具を見つけたのだ。智がその玩具でムギくんの気を引いて以降、ムギくんは智にベッタリ。智も満更ではなさそうで、そういう一面を知れたことも収穫だったように思える。
その言葉に、膝の上のムギくんの背中を撫でていた手を止めて顔をあげて、智が苦笑したようにお母さんに視線を合わせた。
「あまり気に入られすぎると……なんだか帰りたくなくなりますね」
「あらぁ、そいはいかんね(それは困ったね)」
智の声に、お母さんがくすくすと笑っている。帰りたくなくなる、というのには同意だ。人懐っこいムギくんが可愛すぎて、離れたくなくて。帰る気が失せてしまう気がする。
そこまでぼんやりと考えてリビングの壁掛け時計に視線を向けると、そろそろ実家を出ないと帰りの飛行機に間に合わなくなる時間が迫っていた。
「智、そろそろ出なきゃ」
私の声に、智も同じように壁掛け時計にチラリと視線を向けた。膝の上のムギくんの前足と胴に手を差し入れて、するりと身体を持ち上げ、ムギくんの顔をじっと見つめている。
「……ムギ。また来るからな」
名残惜しそうに智がムギくんに声をかけているのを横目に、慌てて途中だった洗濯物を畳む作業を再開して、パタパタと荷物を纏めあげる。
廊下のフローリングに傷を入れないようにスーツケースを身体の前に抱え上げていると、智が当たり前のようにするりと私の手からスーツケースを取り上げていった。
小さなことだけれど、その仕草に心底大事にされているということを改めて実感して、口元が緩んだ。
書斎で仕事の調べ物をしているお父さんに「そろそろ出るよ」と声をかけて、玄関に向かう。
「智さん。また帰ってきんしゃいね(帰っておいでね)」
「もちろんです。……お世話になりました」
お母さんがムギくんを胸に抱えて、智に声をかけている。智も穏やかに返事をしてぺこりと頭を下げた。
智はお母さんと接する時の雰囲気が、お父さんと接する時とそれとはなんとなく違う気がする。お母さんと接する時の智はやわらかくて、お父さんと接する時の智はしっかりしているように感じるのだ。
(…………幸子さんを亡くしているから、かなぁ)
『母親』という存在を、心の中で無意識に求めているのだろうか、と……思ってしまう。私は身近な人を亡くした経験がないから、本当の意味でそれを理解してあげられはしないけれども。
お母さんの胸に抱かれたムギくんの頭を撫でながら、「またね」と、声をかけていると、お父さんが老眼鏡を外しながら書斎から出てきた。
「あぁ、もうそんな時間か。また帰っておいでね、智さん」
お父さんもお母さんと同じセリフを口にした。やっぱり夫婦は似るのだろうか。両親の仲の良さを実感して、口元が綻ぶ。
「はい、また帰ってきます」
智のしっかりしたその声に、お父さんがすっと手を差し出した。ふたりが握手を交わしているのを眺めながら、玄関に腰を下ろしてスニーカーにつま先を差し入れた。
私たちの荷物を詰めたスーツケースや、お母さんが邨上家にと持たせてくれたお土産を持って、車に乗り込んだ。空港までの道は智が覚えているということで、帰りは智が運転してくれる。
助手席に乗り込んで、シートベルトを閉め窓を開けて、玄関先の両親に視線を向けた。
「またお盆に帰ってこれたら帰ってくるけん(帰ってくるね)」
私のその声に、お父さんもお母さんも、にこやかに手を振ってくれている。
大学進学と共に上京してひとり暮らしを始めて。あの頃はこうして帰省のたびにホームシックになっていた。そのたびに、「また帰れるんだし」と思って気持ちを切り替えていたけれど。
(……お父さんも、前に比べて白髪が増えてるし……)
あと、何回。こうやって健康な親と一緒に過ごせるんだろう。そう考えて、胸の奥がぎゅう、と……締め付けられるように痛くなる。穏やかに笑うお母さんも、目元の皺が増えている。去年の出来事で両親に揃って心労をかけていた、ということも、今回の帰省で改めて感じた。
申し訳なさと、切なさと、ありがたさと。色々な感情が込み上げて、目尻に熱いものが浮かぶのを押さえつける。ゆっくりと車が動き出すのを感じて、泣きそうな自分を叱咤して口角をあげ、必死に笑顔を貼り付けながら、離れていく両親の笑顔をこの目に焼きつけた。
県境を超えて、うねうねとした細い山道をひたすらに走っていく。実家を出てから、お互い一言も言葉を発しない。
「……泣きたいなら思いっきり泣けばいい。別れに慣れなくていいんだぞ。親と過ごす時間は限りがあるから」
「………え?」
ポツリ、と。それだけを口にして。智は前を向いたまま、ハンドルから一瞬だけ手を離して、私の太ももを、ぽんぽん、と。優しくたたいた。その手がすぐにハンドルに戻される。
智のその動作に。私の中に生まれた入り交じった感情を察してくれて、だから実家を出てから何も話さなかったのだ、と気がついて。その心遣いにも、堪えていた涙が誘われていく。
親と過ごす時間は限りがある。『母親』を亡くしている智のその言葉には、ひどく説得力があって。
「………ん」
助手席の窓から後ろに飛んでいく景色を眺めながら。両親の優しさや故郷への想いを、重力に逆らわずにはらはらと落ちていく雫を。ただただ、静かに見送った。
智がゆっくりと、サンセット通りの脇の駐車場に車を停車させる。
「夕焼けが綺麗だったから」
智が苦笑しながらシートベルトを外した。泣いた私を励まそうとしてくれているのだろうな、と、察する。こぼれた涙を鞄から取り出したハンカチでぬぐいながら、私もシートベルトを外して車から降りた。
「わ……」
眼前に広がるのは。視界を遮るもののない、両眼一杯の空。
岸壁に設置されたガードレールに身体を預けつつ、智と横並びになって、故郷の夕焼けを眺める。
昼の青が茜色に変わっていく。その狭間には、絵具を垂らして筆を横滑りさせたかのような綺麗なグラデーション。もうしばらくして太陽が海に落ちれば、夜の群青が現れるはずだ。
「……きれい」
何度見ても、昼と夜の間を象徴するようなこの光景は美しいと感じる。向こうで毎日見ている、高層ビルの間に落ちていく太陽も綺麗だけれど。
海の水平線も、朱く染まって。朱い海に、落ちて融けていってしまうような……そんな太陽が見れるのは、地元ならではの景色だ。
(……しあわせ)
こんな綺麗な景色が見れるのは、幸せだと感じる。毎日見ているはずの、ただの夕焼けなのに。どうしてかはわからないけれど。
智が、私の肩をぎゅっと引き寄せる。智の肩に、頬かぴったりと密着した状態になる。
「……しあわせだなぁ」
ぽつり、と。智がそう呟いた。
同じことを考えていた。それがなんだかくすぐったくて、しあわせで、嬉しい。
ただ、夕焼けを。一緒に見ている、という、日常の些細な出来事なのに。どうしてこうも、しあわせに感じてしまうのだろう。
ふわり、と。春と夏の間の風が、吹き付けた。
智がそばにいてくれるだけで。苦しくて哀しくて、暗い場所にひとり蹲っていても。こうして鮮やかな光が降るように感じる。
このまま、ずっと優しい日々が。ゆるやかで、穏やかな日々が。ずっとずっと、続いていくと、信じられるような気がする。
そっと。肩に回された智の大きな手に触れて。きゅ、と。大好きな人の手を、握りしめた。
「ないと思う~」
リビングに積みあがった洗濯物を畳みながら、カウンターキッチンから声をかけてきたお母さんに返事をする。畳んだ洗濯物の中から私の洋服類を選別して、スーツケースのなかに納めていく。
あっという間に、帰省最終日。薔薇祭りに行った翌日には、陶器市に行った。陶器市の通りを歩きながら、自宅にある食器類は白で統一してあるけれど、それは智のこだわりなのか、と訊ねると。
「いや?とりあえず全部同じ店で揃えたら全部真っ白な無地の食器になっただけ」
という、几帳面なのか大雑把なのかわからない返答が返ってきた。
(……ほんと。知らなかったな)
『彼女の実家に帰省』という、ある種のイベントのような今回の数日間で、智の知らなかった一面をたくさん知れた気がする。
少し嬉しくなりながら、ふい、と、視線を向けると、リビングに差し込む穏やかな光を浴びながら、智はムギくんのご機嫌を取っているようだった。
(猫が好き、とか……そういうのも)
私は洗濯物を畳む手を一旦止めて、智とムギくんをじっと見つめた。
ムギくんから距離を取った場所で、ねこじゃらしのような玩具を智が振っている。ムギくんの視線の先で揺れ動くその玩具に、ムギくんがふりふりとお尻を揺らして狙いを定めている。ムギくんがぱっと揺れ動く玩具に飛び掛かり、智がその玩具をすっと動かすと、ムギくんの前足は空を切った。
その様子に、ふっと智が小さく声を上げて笑う。ストン、と、フローリングに腰を下ろして、智が長い足を組んで胡座をかくと、ムギくんが智の胡座の中にするりと身体を滑らせた。
(遊んでるのか、遊ばれてるのか………)
果たしてどちらなのだろう。そう思うと、くすりと笑みが零れた。
リビングの大きな窓から差し込む穏やかな光に、智の艶のある黒髪がサラリときらめいている。
(……知らなかったなぁ…)
膝枕をして、髪を撫でている時、ダークブラウンの瞳がひどく優しく細められることとか。
あのサラリとした黒髪は柔らかそうに見えて、しっかりとしたコシがあることとか。
その膝枕をムギくんに取られると、猫相手に本気でヤキモチを妬くこととか。
知らなかったことを知っていく、一種の快感。
こういう時。『好き』という気持ちを再確認して。幸せだ、と……心から、そう思う。
「忘れ物あったら宅配便に入れとくけんね(入れておくからね)」
ぼんやりと智とムギくんを眺めていると、お母さんがリビングのローテーブルに私が好きな銘柄の緑茶が入った湯飲みを置いてくれる。ほわり、と、心地よい緑茶の香りが鼻腔をくすぐった。お母さんの優しい心配りに、顔が綻んでいく。
「……ありがとう」
差し出された湯飲みにそっと手を伸ばして、故郷の味を口にする。
深川係長の実家という窯元にも立ち寄った。透き通るような白い肌にほどこされた、一瞬で目の覚めるような紺色の染めつけが息を飲むほど美しくて。智と相談して大きな丸いお皿を購入した。来客があった時のお茶受け菓子の盛り付けに映えそうだ。
割れやすい陶磁器だから、それはこのまま持ち帰るのではなく、実家から宅配便で送ってもらうことにした。忘れ物があればお母さんがその荷物に同封してくれるのだ、と、お母さんの言葉で察する。
「智さん、ムギに気に入られとるねぇ。初日は知香にベッタリやったとにねぇ(ベッタリだったのにね)」
お母さんが智とムギくんを見つめながら、にこにことした穏やかな笑顔を浮かべた。
そう。実は、薔薇祭りから帰ってくる途中で、偶然立ち寄った雑貨屋さん。そこでねこじゃらしのような玩具を見つけたのだ。智がその玩具でムギくんの気を引いて以降、ムギくんは智にベッタリ。智も満更ではなさそうで、そういう一面を知れたことも収穫だったように思える。
その言葉に、膝の上のムギくんの背中を撫でていた手を止めて顔をあげて、智が苦笑したようにお母さんに視線を合わせた。
「あまり気に入られすぎると……なんだか帰りたくなくなりますね」
「あらぁ、そいはいかんね(それは困ったね)」
智の声に、お母さんがくすくすと笑っている。帰りたくなくなる、というのには同意だ。人懐っこいムギくんが可愛すぎて、離れたくなくて。帰る気が失せてしまう気がする。
そこまでぼんやりと考えてリビングの壁掛け時計に視線を向けると、そろそろ実家を出ないと帰りの飛行機に間に合わなくなる時間が迫っていた。
「智、そろそろ出なきゃ」
私の声に、智も同じように壁掛け時計にチラリと視線を向けた。膝の上のムギくんの前足と胴に手を差し入れて、するりと身体を持ち上げ、ムギくんの顔をじっと見つめている。
「……ムギ。また来るからな」
名残惜しそうに智がムギくんに声をかけているのを横目に、慌てて途中だった洗濯物を畳む作業を再開して、パタパタと荷物を纏めあげる。
廊下のフローリングに傷を入れないようにスーツケースを身体の前に抱え上げていると、智が当たり前のようにするりと私の手からスーツケースを取り上げていった。
小さなことだけれど、その仕草に心底大事にされているということを改めて実感して、口元が緩んだ。
書斎で仕事の調べ物をしているお父さんに「そろそろ出るよ」と声をかけて、玄関に向かう。
「智さん。また帰ってきんしゃいね(帰っておいでね)」
「もちろんです。……お世話になりました」
お母さんがムギくんを胸に抱えて、智に声をかけている。智も穏やかに返事をしてぺこりと頭を下げた。
智はお母さんと接する時の雰囲気が、お父さんと接する時とそれとはなんとなく違う気がする。お母さんと接する時の智はやわらかくて、お父さんと接する時の智はしっかりしているように感じるのだ。
(…………幸子さんを亡くしているから、かなぁ)
『母親』という存在を、心の中で無意識に求めているのだろうか、と……思ってしまう。私は身近な人を亡くした経験がないから、本当の意味でそれを理解してあげられはしないけれども。
お母さんの胸に抱かれたムギくんの頭を撫でながら、「またね」と、声をかけていると、お父さんが老眼鏡を外しながら書斎から出てきた。
「あぁ、もうそんな時間か。また帰っておいでね、智さん」
お父さんもお母さんと同じセリフを口にした。やっぱり夫婦は似るのだろうか。両親の仲の良さを実感して、口元が綻ぶ。
「はい、また帰ってきます」
智のしっかりしたその声に、お父さんがすっと手を差し出した。ふたりが握手を交わしているのを眺めながら、玄関に腰を下ろしてスニーカーにつま先を差し入れた。
私たちの荷物を詰めたスーツケースや、お母さんが邨上家にと持たせてくれたお土産を持って、車に乗り込んだ。空港までの道は智が覚えているということで、帰りは智が運転してくれる。
助手席に乗り込んで、シートベルトを閉め窓を開けて、玄関先の両親に視線を向けた。
「またお盆に帰ってこれたら帰ってくるけん(帰ってくるね)」
私のその声に、お父さんもお母さんも、にこやかに手を振ってくれている。
大学進学と共に上京してひとり暮らしを始めて。あの頃はこうして帰省のたびにホームシックになっていた。そのたびに、「また帰れるんだし」と思って気持ちを切り替えていたけれど。
(……お父さんも、前に比べて白髪が増えてるし……)
あと、何回。こうやって健康な親と一緒に過ごせるんだろう。そう考えて、胸の奥がぎゅう、と……締め付けられるように痛くなる。穏やかに笑うお母さんも、目元の皺が増えている。去年の出来事で両親に揃って心労をかけていた、ということも、今回の帰省で改めて感じた。
申し訳なさと、切なさと、ありがたさと。色々な感情が込み上げて、目尻に熱いものが浮かぶのを押さえつける。ゆっくりと車が動き出すのを感じて、泣きそうな自分を叱咤して口角をあげ、必死に笑顔を貼り付けながら、離れていく両親の笑顔をこの目に焼きつけた。
県境を超えて、うねうねとした細い山道をひたすらに走っていく。実家を出てから、お互い一言も言葉を発しない。
「……泣きたいなら思いっきり泣けばいい。別れに慣れなくていいんだぞ。親と過ごす時間は限りがあるから」
「………え?」
ポツリ、と。それだけを口にして。智は前を向いたまま、ハンドルから一瞬だけ手を離して、私の太ももを、ぽんぽん、と。優しくたたいた。その手がすぐにハンドルに戻される。
智のその動作に。私の中に生まれた入り交じった感情を察してくれて、だから実家を出てから何も話さなかったのだ、と気がついて。その心遣いにも、堪えていた涙が誘われていく。
親と過ごす時間は限りがある。『母親』を亡くしている智のその言葉には、ひどく説得力があって。
「………ん」
助手席の窓から後ろに飛んでいく景色を眺めながら。両親の優しさや故郷への想いを、重力に逆らわずにはらはらと落ちていく雫を。ただただ、静かに見送った。
智がゆっくりと、サンセット通りの脇の駐車場に車を停車させる。
「夕焼けが綺麗だったから」
智が苦笑しながらシートベルトを外した。泣いた私を励まそうとしてくれているのだろうな、と、察する。こぼれた涙を鞄から取り出したハンカチでぬぐいながら、私もシートベルトを外して車から降りた。
「わ……」
眼前に広がるのは。視界を遮るもののない、両眼一杯の空。
岸壁に設置されたガードレールに身体を預けつつ、智と横並びになって、故郷の夕焼けを眺める。
昼の青が茜色に変わっていく。その狭間には、絵具を垂らして筆を横滑りさせたかのような綺麗なグラデーション。もうしばらくして太陽が海に落ちれば、夜の群青が現れるはずだ。
「……きれい」
何度見ても、昼と夜の間を象徴するようなこの光景は美しいと感じる。向こうで毎日見ている、高層ビルの間に落ちていく太陽も綺麗だけれど。
海の水平線も、朱く染まって。朱い海に、落ちて融けていってしまうような……そんな太陽が見れるのは、地元ならではの景色だ。
(……しあわせ)
こんな綺麗な景色が見れるのは、幸せだと感じる。毎日見ているはずの、ただの夕焼けなのに。どうしてかはわからないけれど。
智が、私の肩をぎゅっと引き寄せる。智の肩に、頬かぴったりと密着した状態になる。
「……しあわせだなぁ」
ぽつり、と。智がそう呟いた。
同じことを考えていた。それがなんだかくすぐったくて、しあわせで、嬉しい。
ただ、夕焼けを。一緒に見ている、という、日常の些細な出来事なのに。どうしてこうも、しあわせに感じてしまうのだろう。
ふわり、と。春と夏の間の風が、吹き付けた。
智がそばにいてくれるだけで。苦しくて哀しくて、暗い場所にひとり蹲っていても。こうして鮮やかな光が降るように感じる。
このまま、ずっと優しい日々が。ゆるやかで、穏やかな日々が。ずっとずっと、続いていくと、信じられるような気がする。
そっと。肩に回された智の大きな手に触れて。きゅ、と。大好きな人の手を、握りしめた。
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