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本編・第三部
198 降りてくるのを、待っていた。(上)
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ちらり、と。PCのディスプレイの右下に表示された時計を見遣ると、終業時刻があと30分後に迫っていた。
(……一服つけるか)
今日は出社直後から忙しかった。中川部長へ三井商社間との循環取引の証拠提出と報告、その後の指示で通関部への報告。それから先週出席したシンポジウムの報告書作成、その後の交流食事会で名刺交換した企業の中から、新規取引先になり得る企業のリストアップに、それらの企業の与信調査依頼等々。普段は昼食後の昼休みと終業時刻後に一服つけるのだけれど、今日はかなり忙しかったから、普段よりも一本増やしても許されるだろう。
くんっと軽く伸びをして、席を立つ。俺が腰かけていた椅子のキャスターがカラカラと音を立てた。
背広のポケットから黒と金の小箱、それからライターを手に取って、農産販売部のフロアから喫煙ルームに向かって足を踏み出した。
がちゃり、と音を立てて喫煙ルームに足を踏み入れる。俺以外は誰もいない。日本では健康増進法が施行されてから禁煙する人間が増えたらしい。あの愛煙家のマスターの店ですら吸えなくなった。コーヒーと煙草は切っても切れない関係なのに。
ふぅ、とため息をつきながら、喫煙ルームの奥の椅子に腰掛ける。黒と金の小箱から一本取り出し口に咥えて、ライターの横車を擦り火をつけた。
すぅ、と吸い込むと、トレジャラーの上品な味が肺に広がる。無駄な味やにおいが全くしない上に出る煙が少なく見た目もスマート。諜報機関に移籍して以降、この銘柄は俺のお気に入りだ。
「……」
煙草はコーヒーに似ている。コーヒーに焙煎の種類があり、多岐にわたる産地があるように、煙草もそう。使っている葉の種類やメンソールかそうじゃないか、着香があるかないか等々。
(………香典返しを渡しに行ってから…マスターに会いに行ってないねぇ……)
あれからの日々は忙殺されたと言っても過言じゃない。軍隊時代、キツい訓練もあったけれどもそれに相当するほどしんどかった。
新人を演じつつ中川部長から営業のイロハを学び、極東商社の各販売部に課せられた独自ルールを叩き込まれながら、シンポジウムで極東商社として発表する用の資料を作り、裏で証拠集めをする。我ながらよくこなしたと思う。
少しくらい……ご褒美があってもいいだろう。知香ちゃんの唇を奪うくらいは。あの日、意識を失った彼女を連れ帰って強引に自分のモノにしなかった俺にとっては、それは『些細なご褒美』のつもりだった。
「……」
午前中。打ち合わせルームで、彼女を囲い込んだ、あの瞬間。
真っ直ぐに俺を貫く、焦げ茶色の瞳に。以前とは違う、はっきりとした信頼に基づく光が宿っていた。以前は懐疑心、嫌悪、恐怖、拒絶しか感じられなかった、あの瞳に。
今日は―――俺に対する、信頼、しか。感じられなかった。
そして、彼女は『今の片桐さんは私が嫌がることをしない』と……口にした。
「……今の、俺」
その言葉で『些細なご褒美』に対する興が削がれたのは紛れもない事実。どうしてなのか、理由は全くわからないけれど。
「……はぁ…」
大きくため息をついて、煙草を持っていない右手で頭を掻く。
わからないことだらけだ。あの赤い唇が言った『愛すること』の意味も。知香ちゃんが放った、あの一言で興が削がれた理由も。
「ほ~んと……わっかんないね~ぇ…」
自分の感情が。知香ちゃんに、俺の本心を気が付かされたあの日から。満月を見上げながら……Maisieに小さく語り掛けた夜から。ひどく、乱れている。自分でも、自分の中に生まれた感情を測りかねている。
こんなに自分の感情が乱されるなど、Maisieを失って以降経験がない。あれから俺の時は止まったままで、何があってもここまで感情が乱れることはなかった。
軍隊を辞して諜報機関に移籍し、任務に就いていてマフィア同士の抗争に巻き込まれた時も、なにひとつとして感情が動かなかったのに。
苛立つ自分を抑えようと、煙草をふたたび口に咥える。もう一度深く吸い込み紫煙を吐き出すと同時に、がちゃり、と音がして人が入ってくる。さぁっと風が吹き抜けて、ふっと。煙草の先端から立ち上る煙が揺らめいた。
「……あら。片桐さん」
にこり、と。柔和な笑みがそこにあった。マスターそっくりの琥珀色の瞳と視線が絡み合う。思わぬ人物と遭遇したことで思考が一瞬、停止した。
三井商社の。池野、加奈子。食用花の商談の際に名刺交換をした。あの名刺に記載された役職は、課長となっていたように記憶している。
トス、トスと。彼女のヒールの音がカーペットに吸収されていく。喫煙ルームの奥に座っている俺に近づいてくる様子を眺めながら、止まった思考を回転させていく。
マスターの店で彼女と遭遇した時。彼女は自分の事を『役員』と言っていた。そこから導き出される、ひとつの結論。
(………謝罪に来ていたのか)
黒川が企てた循環取引。極東商社を巻き込んだことは、正直に言って重罪だ。知香ちゃんにも告げたように、極東商社は上場企業。今回の一件は今年の3月期の決算修正にも関わってくる。影響が多大になれば非上場企業である三井商社を相手取って刑事告訴を起こす可能性も否めない。
それを防ぐには、一刻も早い謝罪が必要、と。三井商社の役員である彼女は判断したのだろう。さすがは幹部、賢い選択だ。
椅子に座ったままの俺の前まで歩いてきた彼女が俺の視線の少し先で深々と頭を下げた。ジャケットの袖から覗く腕時計の硝子面が喫煙ルームの柔らかな照明をキラリと反射したと同時に、彼女の髪がふわりと靡いていく。その様子をただただ無感動に眺めた。
「この度は弊社の黒川がご迷惑をおかけしました。片桐さんからの情報提供により早期に対処出来たこと、心より感謝致します。ありがとうございました」
彼女が頭を下げたまま言葉を紡ぐ。その声は僅かに震えているようだった。
三井商社の営業課全てを取り纏める彼女。彼女が吐き出した言葉や彼女の行動が背負うのは、三井商社の全て。
華奢なその身体にかかっている重圧を考えると―――神さえ滅んだ、この残酷な世界の全てを表現しているようで。
それらの全てを背負って生きてきた彼女の覚悟を踏み躙るつもりは、俺は欠片も持ち合わせていないから。口が裂けても、この身が滅んでも、彼女に同情するこの感情は決して表には出さないけれども。
左手に握っていた煙草を一度灰皿に置いて、するりと椅子から立ち上がる。
「顔を上げてください。私はそこまでされるようなことをしたつもりはありません。あくまでも、弊社の存続のためですので」
そう。俺は別に、三井商社のために行動を起こした訳じゃない。知香ちゃんにも告げたように、極東商社のためだ。
クビ同然で前の会社を辞めさせられて、母にかかる医療費を前に途方に暮れていた俺を拾った槻山取締役には、言葉で言い表せないほど感謝している。その従兄叔父に報いるために、極東商社のために全力を尽くし、そしてそれを利用して―――俺の人生をゼロから始める、と。そう決めたのだから。
「……お心配り、ありがとうございます」
彼女が俺の言葉を受けて、ゆっくりと頭を上げながら言葉を紡ぐ。低い位置にある琥珀色の瞳と、視線がかち合った。
きっと、俺の言葉を彼女は三井商社に向かっての配慮と取った。それを否定するのも今は面倒だ。勘違いさせておいても別に支障は無いだろうから、彼女の真剣な表情を和らげるように、へにゃり、と…いつものように笑ってみせた。
「……さて。お兄さんの隣。お邪魔していいかしら?」
彼女が、こてん、と。小首を傾げながら俺に問いかけた。アーモンド色の髪が、ふたたびさらりと揺れる。
彼女は、今、この瞬間から。極東商社に居ながらもプライベートとして……マスターの店で接した時のように会話をするつもりだ、と察する。
彼女の意図を汲んで、先ほど交わしていたようなビジネス口調を軽く崩し「どうぞ」と彼女に返答する。ゆっくりと背後の椅子に腰掛け、灰皿に置いた煙草を手に取った。
この喫煙ルームは各部門のフロア外に設置してある。取引先の人間も出入り可能な喫煙ルームだ。彼女が俺の隣に座るのを拒む理由もない。
俺の返答を受けて、彼女はスーツのフレアスカートを抑えながらするりと俺の右隣に腰かけた。
「出来れば一本頂けないかしら?急いで出てきたから買ってくるのを忘れちゃったのよ」
アーモンド色の髪と同じ色のメイクが施された眉が、困ったように歪められた。その一言に、背広の内ポケットに手を差し入れて小箱を取り出し、その小箱を軽く振ってするりと一本を彼女に差し出した。彼女が飛び出た煙草を手に取り箱から引き出していくのを確認して、箱の裏に隠していたライターも差し出す。
琥珀色の瞳が驚いたように瞬いた。そして、柔和な笑みを浮かべながら赤い唇が「ありがとう」と小さく動いた。
「気が利くわね、お兄さん。あなた、モテるでしょ」
俺が差し出したライターを受け取り、戯けるように紡がれたその言葉に、苦笑しながら返答する。
「んん~。モテても一番振り向いて欲しい女が振り向いてくれなければ意味がないですからね~ぇ?」
「一瀬さんのこと?」
「っ…」
知香ちゃんのことを言い当てられて、一瞬、呼吸が止まる。
俺が知香ちゃんに想いを寄せている、ということが、彼女に伝わっているとは思っていなかった。だからこそ……三井商社に商談に赴いた際に。智くんしか気付かれないように、彼女の目の届かない場所でこっそりと口を動かしたのに。
(マスターが……喋ったのか?)
彼女はマスターの妹。そこから情報が流れた、と考えるのが妥当。だけれど、マスターはそういった顧客に関することは口にしないタイプだ。俺が知香ちゃんに初めて会った日、彼らが店内から去った後に。智くんのことを聞き出そうとしたものの、頑として情報を一切くれなかった。と、なると。
(あの時の……マスターと俺の会話から。察し、た?)
たったあれだけの情報で。彼女は俺たちの関係性を察した。
あの時の会話だけでは、俺と智くんがなぜ折り合いが悪いのかまではわからないだろうと踏んでいたのに。その理由までは、彼女はわかるはずもないだろう、と……高を括っていた、のに。
予想外の出来事が起こっている。その事実を飲み込むのに、しばらくの時間を要した。俺が差し出した煙草を赤い唇に咥えて、その先端に火を灯す様子が。フォーカスが合っていないカメラのようにぼやけた視界に、映っている。
彼女が火のついた煙草を大きく吸い込んで、驚いたように声をあげた。
「あら。この煙草、キック感が無くていいわね。上品な味がすっと入ってくる」
キック感。紫煙を吸ったときに喉に生じる刺激から得られる感覚。吸いごたえ、とも表現される。
日本製の煙草はキック感が強いものが多い。俺はそれが苦手で、日本に戻ってきてからもずっとこのトレジャラーだ。もっとも、俺と彼女が今吸っているのはトレジャラー・エグゼクティブ・ブラックと言って、廉価版のトレジャラー。本物は20本入りで3,000円を超す高価な煙草だけれども。
トレジャラーの黒い巻紙と対照的な赤い唇が、もう一度煙草に口付けられる。細く紫煙を吐き出しながら、その赤い唇から嬉しそうな言葉が転がってくる。
「5年振りに吸うからこれくらいがちょうどいいのよ。いつものキャプテンブラックを買ってこなくてある意味正解だったわ?」
5年振り。5年前に禁煙して、それ以来、初めて吸う、ということか。何の心境の変化があって、久しぶりに吸おうと思ったのか。それを訊ねようと口を開いた瞬間、赤い唇がふたたび俺に衝撃をもたらした。
「そうそう。おめでとう。お兄さん、『愛すること』を、ちゃんと思い出せたじゃない」
「は…?」
何を言われているのか。さっぱり、掴めない。ポカン、と口が開く。唖然としたままの俺に、柔和な笑みを浮かべた彼女が俺に視線を向けた。
「ほんと、男の人って悲しみに関しては欲張りよねぇ」
琥珀色の瞳が、俺を捕らえて―――離さない。
「彼女を愛しているからこそ。証拠を邨上に託した。そうでしょう?彼女を愛しているからこそ……お兄さんは、彼女が属する極東商社を護る、という選択をした」
そこまで紡いだ赤い唇が、ふたたび煙草に口付けた。ふぅ、と。紫煙が、細く、長く。吐き出されていく。
「悲しみを抱えすぎているのよ、お兄さんは」
ふっくらとした唇から放たれる、妖艶ともいえる彼女の声が。俺を真っ直ぐに、鋭く。尖った矢のように貫いていく。
「悲しみだけを手に持っていたら、両手がいっぱいに塞がって……夜が深まって青く深く染まっていく群青色の空が綺麗だ、とかいう小さな幸せですら掴めなくなるわよ?」
艶のある口紅に彩られた赤い唇の口角をあげて、楽しそうに微笑みながら彼女が立ち上がった。俺に向けられた、その、微笑みは。知香ちゃんが小林くんや真梨ちゃんに向けるような……いたずらっぽい、微笑みで。
思わず―――目を、奪われた。
「あなたはもう大丈夫よ。愛することを思い出せたのなら、前に進めるわ」
彼女が手に持った黒い煙草を、ぐりっと灰皿に押しつけていく。煙草の先端の熱い炎が、俺の視界から消えていく。
「今回、あなたは絶妙なタイミングで動いた。……もうそろそろ。昔の自分を赦してあげなさいね?」
その言葉を最後に。ふっと。赤く妖艶な唇がつり上がった。
トス、トス、と。ヒールの音をさせながら。ガチャリ、と、喫煙ルームの扉を、彼女が押し開いていく。
そうして、そのまま―――アーモンド色の髪が。
先ほど消えた、煙草の火のように。
俺の視界から、消え去っていった。
(……一服つけるか)
今日は出社直後から忙しかった。中川部長へ三井商社間との循環取引の証拠提出と報告、その後の指示で通関部への報告。それから先週出席したシンポジウムの報告書作成、その後の交流食事会で名刺交換した企業の中から、新規取引先になり得る企業のリストアップに、それらの企業の与信調査依頼等々。普段は昼食後の昼休みと終業時刻後に一服つけるのだけれど、今日はかなり忙しかったから、普段よりも一本増やしても許されるだろう。
くんっと軽く伸びをして、席を立つ。俺が腰かけていた椅子のキャスターがカラカラと音を立てた。
背広のポケットから黒と金の小箱、それからライターを手に取って、農産販売部のフロアから喫煙ルームに向かって足を踏み出した。
がちゃり、と音を立てて喫煙ルームに足を踏み入れる。俺以外は誰もいない。日本では健康増進法が施行されてから禁煙する人間が増えたらしい。あの愛煙家のマスターの店ですら吸えなくなった。コーヒーと煙草は切っても切れない関係なのに。
ふぅ、とため息をつきながら、喫煙ルームの奥の椅子に腰掛ける。黒と金の小箱から一本取り出し口に咥えて、ライターの横車を擦り火をつけた。
すぅ、と吸い込むと、トレジャラーの上品な味が肺に広がる。無駄な味やにおいが全くしない上に出る煙が少なく見た目もスマート。諜報機関に移籍して以降、この銘柄は俺のお気に入りだ。
「……」
煙草はコーヒーに似ている。コーヒーに焙煎の種類があり、多岐にわたる産地があるように、煙草もそう。使っている葉の種類やメンソールかそうじゃないか、着香があるかないか等々。
(………香典返しを渡しに行ってから…マスターに会いに行ってないねぇ……)
あれからの日々は忙殺されたと言っても過言じゃない。軍隊時代、キツい訓練もあったけれどもそれに相当するほどしんどかった。
新人を演じつつ中川部長から営業のイロハを学び、極東商社の各販売部に課せられた独自ルールを叩き込まれながら、シンポジウムで極東商社として発表する用の資料を作り、裏で証拠集めをする。我ながらよくこなしたと思う。
少しくらい……ご褒美があってもいいだろう。知香ちゃんの唇を奪うくらいは。あの日、意識を失った彼女を連れ帰って強引に自分のモノにしなかった俺にとっては、それは『些細なご褒美』のつもりだった。
「……」
午前中。打ち合わせルームで、彼女を囲い込んだ、あの瞬間。
真っ直ぐに俺を貫く、焦げ茶色の瞳に。以前とは違う、はっきりとした信頼に基づく光が宿っていた。以前は懐疑心、嫌悪、恐怖、拒絶しか感じられなかった、あの瞳に。
今日は―――俺に対する、信頼、しか。感じられなかった。
そして、彼女は『今の片桐さんは私が嫌がることをしない』と……口にした。
「……今の、俺」
その言葉で『些細なご褒美』に対する興が削がれたのは紛れもない事実。どうしてなのか、理由は全くわからないけれど。
「……はぁ…」
大きくため息をついて、煙草を持っていない右手で頭を掻く。
わからないことだらけだ。あの赤い唇が言った『愛すること』の意味も。知香ちゃんが放った、あの一言で興が削がれた理由も。
「ほ~んと……わっかんないね~ぇ…」
自分の感情が。知香ちゃんに、俺の本心を気が付かされたあの日から。満月を見上げながら……Maisieに小さく語り掛けた夜から。ひどく、乱れている。自分でも、自分の中に生まれた感情を測りかねている。
こんなに自分の感情が乱されるなど、Maisieを失って以降経験がない。あれから俺の時は止まったままで、何があってもここまで感情が乱れることはなかった。
軍隊を辞して諜報機関に移籍し、任務に就いていてマフィア同士の抗争に巻き込まれた時も、なにひとつとして感情が動かなかったのに。
苛立つ自分を抑えようと、煙草をふたたび口に咥える。もう一度深く吸い込み紫煙を吐き出すと同時に、がちゃり、と音がして人が入ってくる。さぁっと風が吹き抜けて、ふっと。煙草の先端から立ち上る煙が揺らめいた。
「……あら。片桐さん」
にこり、と。柔和な笑みがそこにあった。マスターそっくりの琥珀色の瞳と視線が絡み合う。思わぬ人物と遭遇したことで思考が一瞬、停止した。
三井商社の。池野、加奈子。食用花の商談の際に名刺交換をした。あの名刺に記載された役職は、課長となっていたように記憶している。
トス、トスと。彼女のヒールの音がカーペットに吸収されていく。喫煙ルームの奥に座っている俺に近づいてくる様子を眺めながら、止まった思考を回転させていく。
マスターの店で彼女と遭遇した時。彼女は自分の事を『役員』と言っていた。そこから導き出される、ひとつの結論。
(………謝罪に来ていたのか)
黒川が企てた循環取引。極東商社を巻き込んだことは、正直に言って重罪だ。知香ちゃんにも告げたように、極東商社は上場企業。今回の一件は今年の3月期の決算修正にも関わってくる。影響が多大になれば非上場企業である三井商社を相手取って刑事告訴を起こす可能性も否めない。
それを防ぐには、一刻も早い謝罪が必要、と。三井商社の役員である彼女は判断したのだろう。さすがは幹部、賢い選択だ。
椅子に座ったままの俺の前まで歩いてきた彼女が俺の視線の少し先で深々と頭を下げた。ジャケットの袖から覗く腕時計の硝子面が喫煙ルームの柔らかな照明をキラリと反射したと同時に、彼女の髪がふわりと靡いていく。その様子をただただ無感動に眺めた。
「この度は弊社の黒川がご迷惑をおかけしました。片桐さんからの情報提供により早期に対処出来たこと、心より感謝致します。ありがとうございました」
彼女が頭を下げたまま言葉を紡ぐ。その声は僅かに震えているようだった。
三井商社の営業課全てを取り纏める彼女。彼女が吐き出した言葉や彼女の行動が背負うのは、三井商社の全て。
華奢なその身体にかかっている重圧を考えると―――神さえ滅んだ、この残酷な世界の全てを表現しているようで。
それらの全てを背負って生きてきた彼女の覚悟を踏み躙るつもりは、俺は欠片も持ち合わせていないから。口が裂けても、この身が滅んでも、彼女に同情するこの感情は決して表には出さないけれども。
左手に握っていた煙草を一度灰皿に置いて、するりと椅子から立ち上がる。
「顔を上げてください。私はそこまでされるようなことをしたつもりはありません。あくまでも、弊社の存続のためですので」
そう。俺は別に、三井商社のために行動を起こした訳じゃない。知香ちゃんにも告げたように、極東商社のためだ。
クビ同然で前の会社を辞めさせられて、母にかかる医療費を前に途方に暮れていた俺を拾った槻山取締役には、言葉で言い表せないほど感謝している。その従兄叔父に報いるために、極東商社のために全力を尽くし、そしてそれを利用して―――俺の人生をゼロから始める、と。そう決めたのだから。
「……お心配り、ありがとうございます」
彼女が俺の言葉を受けて、ゆっくりと頭を上げながら言葉を紡ぐ。低い位置にある琥珀色の瞳と、視線がかち合った。
きっと、俺の言葉を彼女は三井商社に向かっての配慮と取った。それを否定するのも今は面倒だ。勘違いさせておいても別に支障は無いだろうから、彼女の真剣な表情を和らげるように、へにゃり、と…いつものように笑ってみせた。
「……さて。お兄さんの隣。お邪魔していいかしら?」
彼女が、こてん、と。小首を傾げながら俺に問いかけた。アーモンド色の髪が、ふたたびさらりと揺れる。
彼女は、今、この瞬間から。極東商社に居ながらもプライベートとして……マスターの店で接した時のように会話をするつもりだ、と察する。
彼女の意図を汲んで、先ほど交わしていたようなビジネス口調を軽く崩し「どうぞ」と彼女に返答する。ゆっくりと背後の椅子に腰掛け、灰皿に置いた煙草を手に取った。
この喫煙ルームは各部門のフロア外に設置してある。取引先の人間も出入り可能な喫煙ルームだ。彼女が俺の隣に座るのを拒む理由もない。
俺の返答を受けて、彼女はスーツのフレアスカートを抑えながらするりと俺の右隣に腰かけた。
「出来れば一本頂けないかしら?急いで出てきたから買ってくるのを忘れちゃったのよ」
アーモンド色の髪と同じ色のメイクが施された眉が、困ったように歪められた。その一言に、背広の内ポケットに手を差し入れて小箱を取り出し、その小箱を軽く振ってするりと一本を彼女に差し出した。彼女が飛び出た煙草を手に取り箱から引き出していくのを確認して、箱の裏に隠していたライターも差し出す。
琥珀色の瞳が驚いたように瞬いた。そして、柔和な笑みを浮かべながら赤い唇が「ありがとう」と小さく動いた。
「気が利くわね、お兄さん。あなた、モテるでしょ」
俺が差し出したライターを受け取り、戯けるように紡がれたその言葉に、苦笑しながら返答する。
「んん~。モテても一番振り向いて欲しい女が振り向いてくれなければ意味がないですからね~ぇ?」
「一瀬さんのこと?」
「っ…」
知香ちゃんのことを言い当てられて、一瞬、呼吸が止まる。
俺が知香ちゃんに想いを寄せている、ということが、彼女に伝わっているとは思っていなかった。だからこそ……三井商社に商談に赴いた際に。智くんしか気付かれないように、彼女の目の届かない場所でこっそりと口を動かしたのに。
(マスターが……喋ったのか?)
彼女はマスターの妹。そこから情報が流れた、と考えるのが妥当。だけれど、マスターはそういった顧客に関することは口にしないタイプだ。俺が知香ちゃんに初めて会った日、彼らが店内から去った後に。智くんのことを聞き出そうとしたものの、頑として情報を一切くれなかった。と、なると。
(あの時の……マスターと俺の会話から。察し、た?)
たったあれだけの情報で。彼女は俺たちの関係性を察した。
あの時の会話だけでは、俺と智くんがなぜ折り合いが悪いのかまではわからないだろうと踏んでいたのに。その理由までは、彼女はわかるはずもないだろう、と……高を括っていた、のに。
予想外の出来事が起こっている。その事実を飲み込むのに、しばらくの時間を要した。俺が差し出した煙草を赤い唇に咥えて、その先端に火を灯す様子が。フォーカスが合っていないカメラのようにぼやけた視界に、映っている。
彼女が火のついた煙草を大きく吸い込んで、驚いたように声をあげた。
「あら。この煙草、キック感が無くていいわね。上品な味がすっと入ってくる」
キック感。紫煙を吸ったときに喉に生じる刺激から得られる感覚。吸いごたえ、とも表現される。
日本製の煙草はキック感が強いものが多い。俺はそれが苦手で、日本に戻ってきてからもずっとこのトレジャラーだ。もっとも、俺と彼女が今吸っているのはトレジャラー・エグゼクティブ・ブラックと言って、廉価版のトレジャラー。本物は20本入りで3,000円を超す高価な煙草だけれども。
トレジャラーの黒い巻紙と対照的な赤い唇が、もう一度煙草に口付けられる。細く紫煙を吐き出しながら、その赤い唇から嬉しそうな言葉が転がってくる。
「5年振りに吸うからこれくらいがちょうどいいのよ。いつものキャプテンブラックを買ってこなくてある意味正解だったわ?」
5年振り。5年前に禁煙して、それ以来、初めて吸う、ということか。何の心境の変化があって、久しぶりに吸おうと思ったのか。それを訊ねようと口を開いた瞬間、赤い唇がふたたび俺に衝撃をもたらした。
「そうそう。おめでとう。お兄さん、『愛すること』を、ちゃんと思い出せたじゃない」
「は…?」
何を言われているのか。さっぱり、掴めない。ポカン、と口が開く。唖然としたままの俺に、柔和な笑みを浮かべた彼女が俺に視線を向けた。
「ほんと、男の人って悲しみに関しては欲張りよねぇ」
琥珀色の瞳が、俺を捕らえて―――離さない。
「彼女を愛しているからこそ。証拠を邨上に託した。そうでしょう?彼女を愛しているからこそ……お兄さんは、彼女が属する極東商社を護る、という選択をした」
そこまで紡いだ赤い唇が、ふたたび煙草に口付けた。ふぅ、と。紫煙が、細く、長く。吐き出されていく。
「悲しみを抱えすぎているのよ、お兄さんは」
ふっくらとした唇から放たれる、妖艶ともいえる彼女の声が。俺を真っ直ぐに、鋭く。尖った矢のように貫いていく。
「悲しみだけを手に持っていたら、両手がいっぱいに塞がって……夜が深まって青く深く染まっていく群青色の空が綺麗だ、とかいう小さな幸せですら掴めなくなるわよ?」
艶のある口紅に彩られた赤い唇の口角をあげて、楽しそうに微笑みながら彼女が立ち上がった。俺に向けられた、その、微笑みは。知香ちゃんが小林くんや真梨ちゃんに向けるような……いたずらっぽい、微笑みで。
思わず―――目を、奪われた。
「あなたはもう大丈夫よ。愛することを思い出せたのなら、前に進めるわ」
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「今回、あなたは絶妙なタイミングで動いた。……もうそろそろ。昔の自分を赦してあげなさいね?」
その言葉を最後に。ふっと。赤く妖艶な唇がつり上がった。
トス、トス、と。ヒールの音をさせながら。ガチャリ、と、喫煙ルームの扉を、彼女が押し開いていく。
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先ほど消えた、煙草の火のように。
俺の視界から、消え去っていった。
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念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
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車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
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