俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

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 私の伝票を手にして遠くなる、小林くんの黒いショールカラーカーディガンを羽織った後ろ姿。赤い振袖を身に纏っている三木ちゃんの隣に並ぶ彼の黒い背中は、一瞬。和装の黒い紋付袴を身に着けているように見えて、思わず目を瞬かせた。

「さしずめ、のつもりだろうな、あれは」

 くすくす、と。智が楽しそうに笑いながら、ふたたびテーブルに頬杖をついた。小林くんを呼び止めようと立ち上がった事で膝の上から滑り落ちていった鞄をそっと拾い、すとん、と。再度椅子に腰を下ろして、テーブルの上のコーヒーカップに視線を向ける。

 さっき、私を振り返った小林くんは。『内緒ですよ』と。そう言わんばかりの目をしていた。だから……智が『口止め料』と表現したように。私が注文した分のコーヒー代金を小林くんが払うことで、そう見なしてほしい、と。小林くんから私への『言外のお願い』なのだろう。

(まさに……目は口ほどに物を言う、だなぁ……)

 私自身も―――凌牙と付き合って社内恋愛をしていたとき。好意的な視線もあれば、史上最速で課長代理に昇進した社員と付き合っている、ということに対するやっかみの視線もあった。だからこそ、徳永さんや南里くんのことを無暗矢鱈に口にはしていないし、小林くんと三木ちゃんに関してもそのつもりだ。彼らのことを、あの時の片桐さんのように面白おかしく吹聴だなんて、絶対にしない。

 可愛い後輩たちが幸せでありますように、と……小さく心の中で呟いて。ふっと疑問な点が湧き出てくる。

「智……いつから気付いてたの?というより、あんなに笑わなくったって……」

 むぅ、と。口の先を尖らせながら、じとっとした目線を意識して。左側にあるダークブラウンの瞳を見つめた。

 小林くんも。智には勘付かれていると思っていた、と口にしていた。通関部に所属しているならまだしも、畜産販売部に異動し三井商社畜産チームと取引をしている小林くんと、新部門を担当している智は、片桐さんと違って業務上の接点はないはず。なのに、どうして智が勘付けたのだろう。

 それに。あのお花見歓迎会の時に、三木ちゃんに対してカマをかけた、と。智は先ほどの場面で小林くんに向かってそう告げていた。あの時期には既に勘付いていた、ということだ。全く意味がわからない。

 あと。私の反応に対して逐一あんなに笑わなくてもよかったと思う。納得がいかなくて思わず眉間に皺が寄る。

「ん?三木が新入社員に言い寄られてる時に片桐が割って入ったっつう話しがあったろ?俺はあれで気付いた」

 智が切れ長の瞳を細めながら、ニヤニヤと。片肘をついたまま、意地の悪い笑みを私に向けている。

「……ん、んん?」

 どうしてここで南里くんと片桐さんの名前が出てくるのだろう。智から紡がれた言葉たちの繋がりが噛み砕けず、頭上にはてなマークが乱立していく。


 せっかく、小林くんが口にした言葉や彼らのこれまでの言動について、その全容が理解できたのに。またもや新たなパズルのピースが私の手のひらに投げ込まれて。
 投げ込まれたパズルのピースたちは私の理解できる範疇を超えているピースばかりだ。この人たちは私をどれだけ混乱の沼に突き落とせば気が済むのだろう。


 二の句が告げないでいると、智がテーブルについた肘を外してやわらかく笑いながら、ぽんぽん、と。私の頭を撫でていく。

「まぁ、この件についてはこれ以上俺が喋るのは野暮ってもんだ。詳しい事情は三木にでも聞くといい」

 苦笑したような声色で紡がれていく智の低く甘い声。その動作に思いっきりはぐらかされているように感じて、ふたたび、むぅ、と。口の先が尖っていく。

 智はどうということのない雰囲気のまま、私の頭を撫でていた右手を私の前に置いてあるコーヒーカップに手を伸ばし、飲んでいいかと視線だけで問いかけてくる。その仕草に、こくんと首を縦に振るけれど。

「新しく注文する?」

 智が手を伸ばしたコーヒーは、随分と冷めてしまっているものだ。それでも喉を滑り落ちていったコーヒーには強いコクがあって美味しくはあったけれども、香りアロマは完全に飛んでしまっていた。せっかく口にするのだから、新たに注文して淹れたての美味しいコーヒーを飲んで貰いたい。そう考えてテーブルの上に立てかけてあるメニュー表に手を伸ばすと、智が小さく首を振った。

「いや、いい。暗くなる前に行きたいところがあるから」

「……?」

 智が白いコーヒーカップに口をつけながら、小さく呟いた。告げられた言葉の主旨が掴めず、数度目を瞬かせる。

 冷めたコーヒーを飲み下した薄い唇から、ほぅ、と。小さく吐かれた吐息が、煌びやかなカフェの喧騒に紛れていく。

「………やっぱり、ここのホテル。マスターの店から仕入れてんだな」

 手に持ったカップの中のコーヒーをじっと見つめながら、智がポツリと呟いた。

 やっぱり、というのは。きっと、浅田さんの披露宴の最後に出されたコーヒーを口して、そうではないかと疑問に思っていた、ということなのだろう。智は舌が鋭敏なのだと改めて気がつかされる。

「……ふたりのことに気付いてたのなら、私に言ってくれてたってよかったじゃない」

 智がじっと考え込んでいる様子を眺めながら、半ば拗ねるように声を上げる。なんだか、私だけ蚊帳の外にされていた気分だ。もう蚊帳の外にはしない、と、あのすれ違いをした日に智は言ってくれたのに。

「あの時も言ったろ?これは知香が自分で気付かないと意味がねぇんだ。俺がやつらの関係を知香に伝えるのは筋違いってもんだ」

 むすくれた私を宥めるように、智が困ったように眉を下げた。その仕草に、なんとなくの罪悪感が胸の中に膨らんでいく。


 そもそも。私が鈍いからこの件に気が付けなかった、ということは理解している。それらを智に責任転嫁している、ということも。けれど、やっぱり納得がいかないような、そんな気がする。


 不満気に顔を顰めていると、智がするりと席を立った。私が腰を下ろしている背もたれに引っかけていた青い傘を手に取って、ふうわりと優しく笑った。

「ほら。そろそろ帰ろう。今日、雨降ってて寒いし。暗くなる前に行かねぇと、雨に濡れてふたり揃って風邪引いちまうぞ?」

 そうして、するり、と。大きな手のひらが私に伸ばされる。

 さっき、智は『行きたいところがある』と口にしていた。その行きたいところ、に心当たりはないけれど、確かに今日は梅雨らしくシトシトと雨が降っている。まるで、桜を美しく見せるためにずうっと太陽が出ずっぱっていた春が終わりを告げ、青々とした新緑を芽吹かせるため、乾いた大地を潤すように……静かに。

 智が口にしたように、その雨に打たれてふたり揃って風邪でも引いてしまえば笑えもしない。

 高い位置にあるダークブラウンの瞳をじっと見上げながら。自分の手のひらを、目の前に伸ばされた愛しい人の手に、ゆっくりと重ねた。









 智はあのカフェで、冷めたコーヒーを飲みながら『行きたいところがある』と口にしたけれど。その『行きたいところ』についてはどんなに訊ねても教えてくれなかった。手を繋いだ智に連れられるままに電車に乗って、不規則に揺れる車内の中でも何度となく聞いてみたけれど。

「着いてからのお楽しみ」

 ダークブラウンの瞳にやわらかい光を宿してふわりと笑いながら、それしか答えてくれず。





 降り立った場所は、それぞれの会社の最寄り駅。休日にこんな場所まで出てきてどうしたのだろう、と訝しんでいると、智が楽しそうに笑いながら出口に誘う。繋いだ手を引っ張られて向かうのは、三井商社が入るオフィスビルに近い3番出口ではなく、極東商社が入るオフィスビルに近い1番出口。

 この最寄り駅の周辺はオフィスビルがたくさん建てられているからか、平日は足早に行きかう人並みが津波のようで。溢れていく人の間に飲み込まれてしまいそうになるけれど、今日は日曜日。いつもよりもひどく静かだ。

 私の履いているヒールの音が、智が履いている革靴の音が。休日の閑散とした駅の出入り口の階段に響いていく。

 地上に出て、パタン、と。先週、智に持ってきてと指定された大きめの青い傘を開く。するり、と。智がその傘の取っ手を攫って行き、私を誘うように小首を傾げた。その仕草で、智の意図を察するけれど。

(……は、ずかしいんだってばっ…)

 覚悟はしてきたけれど、さすがに相合傘は恥ずかしい。いつもふたりで外出するときは手を繋いで歩いているけれど、それよりも至近距離になるから。息を吸うのも、吐くのも。逸る鼓動すらも、智の耳に届いてしまいそう。だからこそ、こうやって誘われても躊躇ってしまう。傘で周りの世界からシャットアウトされた気分になるだろうし、外出先だというのに一気にふたりだけの世界になる。想像するだけでも恥ずかしい。じんわりと耳まで赤くなっていくのを自覚した。

「知香さ~ん?僕、今日が誕生日なんですが?」

 智の声のトーンが変わる。それだけで、びくりと身体が跳ねる。私がその声に弱いとわかっていてやっているあたり、やっぱり智はいつだって意地悪だ。

 火照った顔のまま、高い位置にある切れ長の瞳を半泣きで睨みつける。案の定、私を揶揄うような、愉しげに細められた瞳がそこにあって。

 誕生日プレゼントに相合傘をして欲しい、と、そう願われて。そのうえで、行きたいところがある、だなんて。一体何を企んでいるのだろう。


 智の思惑はさっぱり読めない。けれど―――愛おしい人が、この世に生まれてきてくれた日。
 ……辛いことがあっても、苦しいことがあっても。世界に色を失くして、心が宇宙の彼方まで散り散りに消えてしまいそうになっても。
 生きることを諦めずに…私と出会ってくれて、ありがとう……という。感謝の気持ちは、伝えたい。


 おずおずと。恥ずかしさを堪えて、智が左手で差し出している傘の下に身体を滑らせる。満足そうに智が笑って、ゆっくりと。ふたりで歩き出す。

 パラパラと。軽い雨音がいつもよりも大きな傘に当たっている。6月に入って梅雨になり、夏に向かっていくと同時に随分と陽が長くなってきた。夕暮れを過ぎ、月が昇る前の薄暗い時間帯。

 道路を行きかう車のヘッドライトが、濡れた路面に反射してキラキラと輝いている。その輝きは、冬に見られるはずのイルミネーションのようで。季節外れのようなその幻影に小さくため息をついた。

「……ねぇ、どこに行くの?そろそろ教えてくれたって…」

 私たちが足を進めるたびに、足元に落ちている雨溜まりがやわらかく雑多な音を立てていく。どこに行くのか、智の思惑はどこにあるのか。だんだん不安になってきて、そっと隣の智を見上げた。

「もうすぐ着くから、じきにわかるぞ」

 くすくす、と。智が楽しそうな笑顔を浮かべている。その表情を眺めつつ不意に視線を滑らせると、智の右肩が傘からはみ出て濡れていることを視認した。私が濡れないように、私の方に傘を寄せてくれているのだ、と気が付く。右肩にかけている引き出物の紙袋も濡れてしまっている。「もう少しそっちにいいよ」と、傘の持ち手を握っている智の左手に手を添えた、その瞬間。

 ピタリ、と。智が足を止めた。智の左手に手を重ねたまま、私も思わず足を止める。


 立ち止まった場所は、何の変哲もない交差点。強いていえば―――年始に。片桐さんの歓迎会兼新年会をしたお店の近くの、交差点。


「知香」

 智が囁くような小さな声で、私の名前を呼んだ。その声に顔をあげると、ダークブラウンの瞳が小さく揺れ動いていた。きっと、ここが智の『行きたい場所』なのだろう。

「……この、交差点。俺にとって……いや、俺たちにとって、哀しい思い出がある場所だ」

 ぽつり、と。智が小さく呟いていく。その言葉で、智の真意を悟って。大きく目を見開いた。


 この場所は。お互いに相手の気持ちを決めつけ……すれ違いをして、お互いを傷付けることになってしまった、あの出来事の―――きっかけとなった、交差点。


 あの日。片桐さんに揺さぶられて。智に蚊帳の外にされている、と感じて。私に関わることなのに、大切な情報を知らされていない、関与できない。それに勝手に腹を立てて、迎えに来てくれた智を突き放そうとして。それらは私を傷つけまいとしていた智の気遣いだったのに。
 対して、智は。私が蚊帳の外にされていることを怒って、智に幻滅し、小林くんか片桐さんを選んだと思い込んでいて。
 今思えば、お互いに少し冷静になれればよかったのに、と居た堪れなくなる。


 ぼんやりと思考を過去に飛ばしていると、ぽつり、と。智がふたたび、小さく口を動かした。

「ずっと……考えて、いた。知香から欲しい、誕生日プレゼント。哀しい記憶を、上書きして欲しい」

 薄い唇から紡がれた、小さな言葉願い。それは、ひどく淋しい色をしていて。

 ほんの一押しすれば泣いてしまいそうな。何かを堪えているような、何かを我慢しているような。苦しそうなダークブラウンの瞳が、私をじっと……見つめて、いた。

「……」

 あれから、いろんなことがあった。たくさんの出来事を、ふたりで手を取り合って、乗り越えてきた。この哀しい思い出を、上書きすることで。きっと―――これからも。ふたりで、ずっと。どんな困難も、乗り越えていける。そんな気がする。

 智が支えてくれている、傘。その傘の持ち手に手を添えたまま、ゆっくりと。青いそれを、道路側に傾けた。私たちの影が隠れていく。

 鍛えられた胸に手を当てて少しだけ背伸びをし、智の唇に軽く触れた。


 今朝、おはようのキスをした以来の、智の唇は。温かくて、やわらかくて、少しだけアルコールの匂いがして。でも―――涙が出るくらい、幸せで。


 少し名残惜しさも感じるけれど。傘で隠しているとはいえ、いつまでもこんな往来で唇をあわせているわけにもいかない。

 ゆっくりと。背伸びした足を、戻していく。


「……誕生日、おめでとう。これからも、ずっと……ふたりで。お祝いしていこうね」


 優しい光を宿したダークブラウンの瞳を見つめながら。小さくて大きな願いを口にした。


「……智の、こと。好いとっけん…ね……」


 智の耳に。私の、最も美しい声が。

 耳だけでなくて、智の記憶の奥底にも届きますように、という―――願いを込めて。
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