俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

227 背を、向けた。(下)

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「世界の残酷さ、不条理さに打ちのめされたまま。哀しみや憎悪にまみれたまま、ただただ泣き暮らすことを望むのか?」

 どくん、どくん、と。心臓が、大きく鼓動を刻んでいるのを感じる。


 泣いていた。空っぽだ、と。何もかもを失って、空っぽだ、と。膝を抱えたまま、悔しくて、悔しくて。自分がひとりで可哀想で、痛くて、痛くて………泣いていた。
 こうして泣くしかできない自分は、偽物なんだと思った。

 だって、彼は本物だった。同族のはずの彼は、本物だった。誰かを愛して、誰かに愛されて。熱い想いを滾らせて生きている智くんは本物なんだ。
 蹲って、咽び泣いて、立ち止まって、だらだらと生きている俺は、偽物だ、と。

 だから―――俺は、空っぽで。ホントウの世界の俺は、涙なんか流せない。そう、思っていた、のに。


「それとも。立ち上がって―――残酷な世界と戦うか?」


 琥珀色の瞳が、強く、強く。『生きろ』と。俺に訴えてくる。

 永遠に続く暗闇の中で、蹲っていた俺の身体を。マスターが、俺の心の中に降りてきてくれて。黒く深い霧をかき分けて、蹲っている俺を引っ張って。大きく―――揺さぶった。


「マサ。世の中は残酷で無情だ。だが、そんな理不尽な世界の中で、他人の死を悲しむことが出来るお前は誰よりも優しい人間だ」

 俺の肩を掴んでいるマスターの手。

「そんな優しいお前は、どう生きる?何のために生きる?」

 温かく、大きな手が―――俺を、激しく。揺さぶっている。

「俺はブッティストだからな。クリスチャンのお前にこれを言うのもなんだが」

 肩にあった温もりは、いつの間にか、俺が呆然と胸の前に広げていた両手へと移っていた。

 俺が落とした涙で濡れた、冷えた両手。濡れて冷たい、ということも厭わず、痛いほどに握り締められる、俺の両手。


 俺を貫く―――琥珀色の瞳。
 俺に、『生きろ』と訴えてくる―――強い、瞳。


「神なんてこの世にいないと思ってしまったって良い。こんなにも優しく強いお前に、無慈悲で残酷な出来事ばかりを与えるような、そんな世界を創った神なんて必要ない。哀しみや絶望しか与えねぇ神を無理矢理信じることはしなくていい。俺はそう思う」

 いつしか、温もりというよりも熱さへと変わっていくマスターの両手の温度。

 何もかもを信じられなくなっていた、そのことすらも……『神を信じられない自分はダメな人間なのだ』と嫌悪していた自分自身を、これ以上ないほどに強く強く肯定されて。止まっていた涙がふたたびハラハラと落ちていく。

「お前がこうして悩んで苦しんでいることは、お前が向き合っている『生きること』に対する誠実さを示すものにほかならない。お前は、誠実で、優しくて、強い。誰がなんと言おうと、この事実は普遍だ。絶対に覆らない真実だ。……だから、あの時から10年近く立ち止まってしまっていることを恥じるな。もう自分を赦してやれ。そうして、誇れ。お前は、誰よりも強い。赦せないなら、その矛先をこの理不尽な世界に向けろ。自分自身に向けるな」

 ぎゅう、と。繋いだ両手を、強く握りしめられる。そうやって言葉をかけてくれるマスターの手は、声は、その瞳は。あたたかくて。そうして、優しくて、強くて。

「大切な答えはすぐには出せねぇ。焦らないことだ」

 俺は、マスターは、父親みたいな人だと思っていた。でも、違うような気もする。こうして自分を失ってしまっても、俺の周りに立ち込める靄を薙ぎ払ってくれて。俺が迷い込んだ、深い深い森の木々の、枝を折って…枝折り道標を付けてくれる。
 どうしたら立ち直れるのか、どうしたら元の道に戻れるのか。最適な方法をわかっている。

 マスターは、父親、ではなくて……同じ痛みを共有する、『兄』のような人、なのかもしれない。


 ―――でも、俺は。マスターと、決定的に違う部分がある。


「でもね、マスター……俺、間違ったんだ。ううん、違う、正しく行動したんだ。規律を守って、正しい行動をした。でも、違ったんだ。それは偽物の選択だった。だから俺は、あの子を失ったんだ」

 引き攣れるようなその痛みを堪えながら、琥珀色の瞳を見つめて嗚咽混じりの声を上げる。

 俺は、正しく行動した。それでも、ダメだった。だから、この手から取り上げられる正しさならば、いっそ、と、間違いを選び取る道化を演じることを選択した。


 偽物の選択を重ねていく俺は。マスターと、決定的に違う。


 感情のままにハラハラと流れていく俺の涙を、マスターの熱い指先が拭っていく。

「お前がどんな選択をしてもそれは間違いじゃない。……物事に偽物の選択なんてないんだ。俺はそう思ってるよ、マサ」

 俺に言い聞かせるように。ゆっくりと、言葉を紡いで。顔の輪郭を、マスターが慈しむようになぞっていく。

「その子はお前がそうして『間違った』と悔やむことを望んでいると思うか?違うだろう?お前がその子のことを大事に思うように、その子はお前の人生も大事に思っていたはずだ」

 マスターの手が俺の顔から離れて。俺の頭を、ぽんぽん、と。優しくたたいていく。

「その子も、俺と同じように考えていると思うぜ?……お前が選んだ選択に正しいも間違いも、本物も偽物もあるもんか。そんなもん、結局は後からついてくるんだ。お前が死ぬ時に初めてわかること。そうだろう?」

 マスターは俺の頭に置いた手をゆっくりと動かして。俺の髪をくしゃりと撫でた。そうして、その手が離れて、マスターが腰掛けていた椅子から立ち上がる。

「間違ってもいい。遠回りしたっていい。間違った選択だと他人に嗤われても、お前が正しいと選んだことが正しいと胸を張れ。そうして、お前が生命尽きるその瞬間に、遠回りさせられたが幸せな人生だったと笑えれば、それでいいじゃねぇか」

 トン、トン、と。マスターが履いているスニーカーの軽やかな音が、木目張りの床に響いていく。マスターが店の入り口に向かい手を伸ばして、ブラウンの扉にかけてある黒板調のパネルを『closed』から『open』に戻した。

「誰かがお前の悪口を叩こうものなら、俺がぶん殴りに行ってやる」

 笑うような、困ったような。そんな声色で俺に言葉をかけながら、店の奥に足を運んでふたたびカウンターの内側に戻っていく。

「失ったものばかりに気を取られていると、今、持っている幸福を疎かにしてしまうぞ。例えば……」

 沁み入るような眼差しでこちらを見ながら。さっき、マスターがカウンターに置いてくれたコーヒーカップを持ち上げて、目尻を下げて穏やかに。

 ―――あの人と同じように。悪戯っぽい笑みを浮かべて、楽しそうな声で言葉を続けた。


「このコーヒーが美味い、とか、な?」












 パタン、と小さな音を立てて扉が閉まる。ふぅ、とため息をついて、最寄り駅へ向かって踵を返した。

 歩きながら、そっと。自分の胸に手を当てる。

「……」

 さぁっと。梅雨の狭間の晴れ間を吹き抜ける、さらりとした風が火照った身体に吹きつけた。


 俺は今まで。自分の弱い部分を認められず、蹲って嘆くだけだった。何もかも失った、何もかも奪われた。
 ……タイミングの悪い、最低な人生だ、と。


 人知れず藻掻き苦しんでいるだけの。
 独り、蹲って咽び泣いているだけの―――俺、だった。


「あはは……莫迦、だなぁ…」


 乾いた笑いが、アスファルトに響く。梅雨の狭間の太陽が俺を照らしていた。顔をあげると、俺の前髪が薄く透けて。視界に……キラキラと。ゆらゆらと、揺らめいている。

「……眩しい、なぁ…」

 目に飛び込んでくる太陽の光に、小さく呟きながら。ゆっくりと、目を細める。


(……Maisieと知香ちゃんは、月みたいだけど。あの人は…太陽みたいな、ひと、だ)


 黄金色に輝いて。いつだってやわらかく光を注いでくれる、あのふたりはきっと……月、だ。
 でも。今日のように穏やかな時もあれば、真夏の陽射しのように俺を突き刺すような光を放つ時もある、そんな両面を持つ彼女は―――きっと。太陽、だ。


 物事には、正しいも間違いも、本物も偽物もない。
 マスターが、ついさっき。肯定してくれた。

 だから、俺が―――知香ちゃんを好きだったことも、本当で。
 俺が―――池野さん彼女に惹かれていることも、本当で。


 ふっと。視線を落とすと、足元にはまるであつらえたように。小さな小石が、カツン、と。靴の爪先に触れた。

「だいたい、しょうがないんだよ。だって……俺も彼女も、おんなじなんだから」

 幼い子どもがむくれるように。わざと拗ねたような声をあげながら、爪先に触れている小石を軽く蹴飛ばした。


 そう。俺とあの人は、同じ傷を負っている者同士、だった。


 だから、俺が彼女に惹かれてしまうのは当たり前のことだった。それを否定する材料を躍起になって集めていた。けれど、そんなの初めから無理に決まっていた。その結論に辿り着いてしまえば、彼女の一挙手一投足に動揺し狼狽していた自分自身が、ひどく滑稽に思えた。

 俺は、知香ちゃんが好きだった。理由なんて、知らない。Maisieに似ているからかもしれない。そうじゃないのかもしれない。

 知香ちゃんが欲しいと思っていた。残酷なこの世界で、知香ちゃんを手に入れる。知香ちゃんの愛を手に入れる。それ以外の楽しみなんて何もないと思っていた。


 けれど、楽しいんだ。楽しかったんだ。


 彼女と話していた、あの時間だけは。


 あの、赤い唇を見つめていた時間、だけは。

 全てを見透かしてなお、心臓を掴まれるような会話ばかりだったけれど……彼女と話していた、あの時間は。

 知香ちゃんと話している時よりも。知香ちゃんを手に入れたいと渇望していた時よりも。


 この上なく。楽しかった、んだ。


「認めてしまえば……思ってたより、カンタンだったね~ぇ…」


 ただただ、去来する感情のままに。ぽろぽろと言葉が零れ落ちていく。

 悩んでいた自分は、やっぱり莫迦だった。
 答えは、こんなにもカンタンだったのに。

 俺は、彼女が好きだった。

(……だった。なのかなぁ…)

 違う。今でもきっと、好きなんだ。ずっとずっと、この先も。辛くても、苦しくても。彼女の悪戯っぽいあの笑顔を思い出せば、荒んだ心が潤う。根拠は無いけれど、そう思う。


 手を伸ばしても、届かない。それは、月も太陽も一緒。Maisieも、知香ちゃんも、彼女も。俺は、それらを手に入れることは、決してできない。


 愛したものは、全部全部。俺は失うから。それは俺がこの世界に生まれ落ちた時から決まっていること。
 小林くんがいずれは九十銀行の頭取として生きるという、そんな宿命を背負っていることと同じように。
 俺がこの世界に産み落とされた時から定められていた……ただひとつの、宿命。



 ―――――だった、ら。



『マサ。お前はどう生きる。何のために生きる?』


 マスターは。俺に何のために生きるのか、と。問いかけてくれた。

(俺は……何の、ために……生きるのだろう)

 考えたこともなかった。ただただ、立ち止まって漫然と日々を過ごしているだけだったから。


『世界の残酷さ、不条理さに打ちのめされたまま。哀しみや憎悪にまみれたまま、ただただ泣き暮らすことを望むのか?…………それとも。立ち上がって―――残酷な世界と戦うか?』


 マスターの声が、俺の身体の中で反響して、響いている。

 反響した声に返答するように。俺は口角を上げて、いつものへにゃりとした人懐っこい笑みではなく、心からの笑みを浮かべた。


「答え。もう……決まってるよ、マスター」


 そう。答えはもう、決まっている。


 戦う。彼女から大切な存在彼らの両親を奪い取った、この残酷な世界に、抗ってやる。
 もう二度と、彼女から。大切な存在知香ちゃんや智くんを奪わせない。


 空っぽだった。大切な人たちを失って、俺は空っぽになったんだと思っていた。だから俺は泣けないんだと思っていた。

 でも、俺は空っぽなんかじゃなかった。
 初めから壊れてもいなかったんだ。

 この心が。熱くて、痛くて、切なくて、それでいて、苦しい、痛い、と叫んで、涙を流すことができる、この心が。俺の中に、ちゃんとあるから。

 俺は、空っぽなんかじゃ、ない。偽物じゃない。壊れてもない。
 熱く滾るこの心があるから。俺は、智くんと同じ―――本物なんだ。


「ん~……俺は、こうなるべくして。アレに喧嘩を売った、ってことかなぁ」


 こうなることは、ある意味決められていたことだったのかもしれない。俺があの時に黒川の恨みを買うことは、あの人を護るために。俺がこの世界に抗うために、必要な材料だったんだ。

 そう思うだけで、この胸の中にあった痛みが急速に消えていくように感じた。

 ふい、と。空に視線を向ける。明るい太陽の光に紛れているけれど、太陽の西側にあるはずの『月』に向かって、困ったように眉を下げながら声をかけた。
 

「ごめ~んね、知香ちゃん。俺は……君のためには死ねないや」


 知香ちゃんを愛している、と思っていた。だから最愛だったMaisieにさよならを告げた。知香ちゃんを愛しているから。

 でも、違った。

 Maisieを死なせた罪を……彼女の生まれ変わりのように思っている、知香ちゃんを護ることで。俺は、その罪を贖おうとしていた。

 それは、知香ちゃんのため―――ひいては、Maisieのため、だった。


 けれど、もう。それは出来ない。

 誰かのため、ではなく。



(俺は、俺のために。この生命を懸ける)



 俺は―――俺のために。彼女が大切に思っているモノに、生命を懸ける。



 やるべきことは決まった。格好悪い痩せ我慢だとしても、みっともない虚勢だと嗤われても、俺は立ち上がらないといけない。

 俺が、俺として生きるために。



「死ぬなら。彼女のために」



 もう二度と。彼女が大切なヒトを失わずに生きていけるように。



 道化を演じ続けるこの選択が、間違っていてもいい。
 間違っていると、誰かに嗤われてもいい。


 俺の想いは届かなくていい。
 彼女を手に入れられなくていい。


 遠回りしたけど、彼女の大切なものを護りきれた、と。俺が死ぬときにそう思えれば、それでいい。



 俺は。この、残酷な世界を赦さないために、生きる。
 彼女からこれ以上、大切なモノを奪わせないために。俺は、生きる。


 俺を憎むアレの矛先は、俺の大切な人であると誤認している、知香ちゃんあの子
 あの子は、彼女の大切な人だ。彼女があの子を迎えにきていた時、彼女はあの子のことを家族のような、妹のような、そんな慈愛に満ちた視線で見つめていた。

 だから。これまで通り。あの子を護る。
 道化を演じ続けて、あの子を護る。

 彼女の大切な存在を、もう二度と。
 この世界から奪わせやしない。



(……黒川がどう動くか。これまでのように、受動的に待つだけじゃ―――全部を、護り切れない)


 アレがどう動くのか。これまでの経験と身に着けた技術と、それから伝手を全て使って。アレの動きを探る。

 死なば諸共、という覚悟で。アレはあの事件を引き起こした。
 ならばきっと、それと同等の事を仕掛けてくるはずだ。


 この選択は、自己犠牲じゃない。自己犠牲なんて、誰にも言わせない。


 これは、俺からすべてを奪った神に対する反逆。俺からすべてを奪った、不条理で、理不尽な世界を―――赦さない、ためなのだから。


 黒川の件を片付けたら。俺に出来る範囲で、何かを興そう。きっと彼女もタンザニアでそんなことをしている気がする。
 根拠はないけれど。遺児を手助けする何か。彼女は彼らがなにも失わなくて済む世界を作り上げようとしているような気がする。
 直接的には、彼女の手助けはできないだろう。でも、小さくても、俺に出来ることが―――きっと、あるはず。


 俺は俺のために、生命を燃やし尽くす。この身を焼き尽くして、俺の前に真っ直ぐに伸びるこの道を立ち上がって歩いて行くべき時が来たんだ。


 俺は、大切な人を奪っていった、理不尽で残酷なこの世界を、赦さない。
 だから。


(……黒川を…潰してみせる)


 そう、心に決めて。
 キラキラと降り注ぐ、明るい陽射しに。

 ゆっくりと。背を、向けた。
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