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本編・第三部
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真っ暗で、息がうまくできなくて、苦しくて。深海の底のような……太陽の光すら届かないような、そんな深い闇の中を藻搔いていた。
途切れ途切れの意識の中、誰かが着替えさせてくれたり、汗ばんだ身体を拭いてくれたり、何度も氷枕を替えてくれたりするのがわかった。
熱くて熱くて堪らなく喉が渇いていて。自分でもよくわからない、表現しようのない苦しい感覚に小さく声を上げていると、誰かが口に冷たいものを流し込んでくれた。
ゆっくりと飲み下すと、妙に安心するような香りがそばにあるような気がした。でも、身体が鉛のように重たくて、閉じた瞼を開けることが出来なかった。
そのまま―――真っ黒で、どろどろとした深い眠りの中に落ちていった。
ゆっくりと、頬を撫でられて。ふっと意識が浮上する。でも、まだ身体が重たくて、目を開けることは出来なかった。頬を撫でる指先からは、愛おしむような、慈しむような、そんな感情が伝わってくる。
なんだかひどく嬉しかった。独りじゃない、とわかったから。独りで苦しんでいたら、きっと、もっと辛かっただろう。そう思うと、真っ黒でどろどろとした眠りではなく、今度は心地よい、ふわふわした眠りに落ちていった。
喉が渇くタイミングで、時折、口の中に冷たいものを繰り返し流し込まれる。冷たくて、熱い身体を内側から冷やしてくれるような、そんな感覚が心地よくて。
その感覚を、起きているのか眠っているのかわからない、曖昧な意識の中でぼうっと感じていると、今度は苦味を帯びた小さな何かを流し込まれた。
(な、んだ、ろ……)
何が何だかわからない。後頭部を押さえられて、唇を割られている。でも、恐怖感や危機感は感じない。それとは正反対の、安心するような感覚。
だから、流し込まれた何かを吐き出すなんてせず、ゆっくりと飲み下す。
「ごめん……ごめんな…」
ぼんやりと、声がする。悲痛な声で、繰り返し囁かれる言葉。
(だ、いじよ……ぶ……)
声を返そうとするのに、声が出なくて。次第に全身に力が入らなくなって―――浮上した意識を、飲み込まれてしまった。
ぱちり、と目を開くと、うっすらと太陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいる様子を視界の端で捉えた。
「………あ、れ…?」
声が少し掠れている。額に貼り付けられた何かが乾いて突っ張る感覚に、右手を動かして額に触れようと……する、のだけれど。
「……あ…」
私の右手は、誰かが握っていて動かせない。つぅ、と、視線を右側のカーテンから右下に向ける。
「………」
私の手を握ったままの、智。ベッドに上半身のみを預けて突っ伏した状態だ。規則的な寝息が耳に届く。
ゆっくりと、身体を起こす。また眩暈が起こるかもしれないなとぼんやり考えて、ハッと我に返った。
(そ、だ……私…)
田邉部長と水野課長に促されて、早退して。そのあとひどく熱が出て、苦しくてお手洗いに行ったら戻してしまって、洗面台に行って口をゆすいだ……ところまでは、記憶にある。
智が手を握ってくれている。ということは、智が帰宅して洗面台で倒れてしまった私を見つけて看病してくれていたのだろうと察する。
ベッドサイドの時計に視線を向けると、早朝5時。日付は7月8日に切り替わってしまっている。気がつけば一晩が経ってしまっていた。なんだかタイムワープしたように思えて唖然とする。
(……ってことは、半日近く……寝込んでた、の…?)
もう一度ベッドに突っ伏したままの智に視線を向けると、よく見ると智は昨日の朝着ていった半袖のワイシャツと、私が智の誕生日にプレゼントした黒みをおびた深く艶やかな臙脂色のネクタイを身に着けたまま。帰宅してから着替えもせず、きっと夕食も取らずに、寝ずの看病をしてくれていたのだろう。
「……ごめん、ね…」
そっと、空いた左手で突っ伏したままの智の髪に触れると、智が小さく身動ぎをした。ふるり、と、瞼が震えて、焦点が合わないダークブラウンの瞳が私を見つめている。
「おはよう、智。ごめん、心配かけたね……」
私の声に、徐々に焦点が合ってくるダークブラウンの瞳。そうして、幾度かの瞬きをして、ガバリと智が飛び起きた。
「身体っ、大丈夫か!?」
焦ったような、それでいて寝起きの掠れたような声が響く。智が私の手を離して、私の両肩を強く掴んだ。
「え……あ、う、うん……」
思わぬ勢いで問いかけられた事にたじろぎながらこくこくと首を縦に振る。私の返答に、智がほっとしたように切れ長の瞳を和らげて、長く長く息を吐いた。
「まだ身体怠いか?熱っぽくないか?……水、飲む?それとも何か食べるか?」
身体を揺らされながら矢継ぎ早に繰り出される質問。その声に少しだけ困惑しつつ、「喉が渇いた」とだけ伝えると、ベッドサイドに置いていたグラスに清涼飲料水のボトルの中身を注いで、そっと差し出してくれる。それを受け取って、一気飲みするように傾けて飲み干した。
智が飲み干したグラスを私の手から持ち去りベッドサイドに置いて、そっとベッドに腰掛けた。ギシ、と、スプリングが軋む音が響いて消えていく。
「……肝が冷えた。俺が帰ってきたら洗面台で倒れてたんだ」
智は震える声で言葉を紡ぎながら、ゆっくりと。その大きな手が私の頬に触れる。それは真っ黒などろどろとした眠りの中でも感じていたあたたかい感触と、全く同じで。智がずっと、一晩中、自分のことを放り出して私を看病してくれていたのだ、と、改めて感じる。
「心配かけて、ごめん……」
しゅん、と縮こまりながら、頬に添えられた智の手をそっと握った。触れた指先に感じる智の手は少しだけ冷えているように感じたし、表情も疲労感が濃いように思えた。そりゃそうだろう、だってさっきまでベッドに突っ伏した状態だったのだから。
「んーん。俺が移したんだし。今日はまだベッドから出るなよ?」
智はそう口にして、曇った表情のまま私を見つめている。慣れない管理職業務もこなしてクタクタになって帰ってきて、その上で寝ずの看病をさせてしまったことにひどく罪悪感が込み上げてきた。
「ううん。智、先週は本当に辛そうだったし。ほら、風邪って移すと治るって言うじゃない?治らなかったら、後任の挨拶周りなんて行けなかったでしょ?……だから、私に移って智が早く治って良かったんだよ」
心配をかけたことは心から申し訳ないと思っているけれど、智は優しいから、私がダウンしてしまったことを自分の責任だ、と、その責任の刃の切っ先を自分に向けているのだ。それは私の本意ではないから、気にしないで、というように柔らかい笑みをこぼした。
私の言葉に、智は考え込むように眉を寄せて私をじっと見つめている。
「…ん……そう、だな………」
智はそれだけを口にして、そっと私の両肩から手を外した。そうして、私の頭を、ぽんぽん、と。優しくたたいていく。
「でも、知香が苦しそうにしてる姿を見ているだけでも、辛かった。『俺』はひとりで生きているわけじゃなくて、周りの人間あっての『俺』なんだと改めて気が付かされた。『俺』は『俺』だけの身体じゃねぇんだ、って……そう、思った」
智は私の頭に置いた手をゆっくりと動かして。私の髪をくしゃりと撫でた。ふうわりと、やわらかくて優しい笑みが目の前にあって。
「今、お粥作るから。もう少し寝てな」
そうして、ふたたび。ぽんぽん、と。優しくたたかれて、智はそっとベッドから立ち上がった。そのままリビングに向かう後ろ姿を、じっと眺める。
きっと、昨日も目を回すほど忙しかっただろうに。帰ってきて高熱を出している私の姿にどれだけ驚かせただろう。その上、自分のことを全て放り出して私の看病に時間を使ってくれた。
(……早く、治さなきゃ…)
智がこんなに私のために時間を使ってくれている。それに報いるために出来ることはただひとつ。一刻も早く風邪を治さなければ。そう心に決めて、智がキッチンで料理している姿を横目に、掛け布団を頭までずり上げる。
掛け布団の暖かさと、カーテンから差し込む陽の光の暖かさと、智が乾燥しないようにと大鍋に沸かしてくれているお湯の熱気に、眠りの世界に誘われていく。
「知香。お粥。食えるか?」
いつの間にか、うとうとしていた。智が、横になっている私の肩を優しく揺すっている。
ふわり、と香る……炊き立てのご飯と、ほうじ茶の上品な香り。朱色の汁椀を乗せたお盆がベッドサイドに置かれると、私のお腹がぐぅっと大きく鳴った。
「うっ……」
恥ずかしさで顔を赤くすると、智はぷっと笑って、整えられた眉を下げた。
「食欲が出てきたって事は、治ってきてる証拠だ。今まで全く腹減ったっつう欲求がなかったみたいだったし?」
「あ……」
言われてみれば、さっきまで空腹感はまるで感じていなかった。呆けたような私の表情に、智がゆっくりと私の上半身を起こしてくれる。
「茶粥にした。茶粥は普通の粥よりさらっと仕上がって食欲無くても食えるから。でも、普通の粥でも良かったかもしれねぇな……」
くすくす、と。智が苦笑したように笑いながら、ベッドに腰掛けた。その言葉から、作ってくれたのはほうじ茶で炊いたお粥なのだと察する。
「う、うん……ありがと」
お腹の虫が鳴ったことの恥ずかしさもあるけれど、そんな細かいことまで気を遣ってお粥を準備してくれたということに、なんとなく胸の奥がこそばゆくなる。
ベッドに腰掛けた目の前の智を見遣ると、朝起きた時はワイシャツとスラックスのままだったけれど、お粥を作っている間にシャワーを浴びて着替えてきたらしい。仄かに香る石鹸の香りと、いつもの部屋着を身に纏っている。
智はベッドサイドに置いたお盆に手を伸ばし、汁椀と木匙を手に取った。そうして一匙掬い、ふうふうと息を吹きかけて、そっと私の口元に持ってきた。
「ううん、大丈夫、一人で食べられる」
目の前の木匙を手に取ろうと腕を伸ばすけれど、智は一歩も譲らない。じっと、私を見つめたまま、無言の攻防が続く。
「そ、そこまでしなくても……っ」
恥ずかしさのあまり、耳まで真っ赤にして抵抗の言葉を口にする。この赤さの原因は熱ではないことは明らかだ。
「いーから、ほら」
その真剣な表情と声色に根負けし渋々口を開けると、食べやすいように口の中にゆっくりと入れてくれた。口の中に広がるほうじ茶の香ばしい香りが食欲を唆る。程よく炊かれた白米がホロホロと口の中で溶けていくようだった。
「………おいしい」
「ん、よかった」
私の一言に、智は満足げに微笑んで、ふたたび汁椀からお粥を掬っていく。
その後もずっと、智が食べさせてくれた。ふたりだけの空間だとわかっているけれど、それでもとても恥ずかしかった。お粥を完食しても吐き気は襲ってこない。随分と回復したことを実感する。
「はい、薬」
私が智がベッドサイドに置いていた袋から、朝飲む用の薬を取り出してくれる。それを素直に受け取って、水が入ったグラスを手に取って飲み干した。
「今日はちゃんと寝てるんだぞ?通関士の勉強もあるだろうけど、今日は禁止。いいな?」
食器を洗い終えた智が、これまた真剣な表情をして私を諭しに来た。先週、私が智に向かって口にした言葉とほぼ同等のその言葉に、思わず苦笑いが漏れ出ていく。
智を安心させるようにふたたび布団に潜り込むと、PCデスクに置きっぱなしの智のスマホが鳴った。
「すまん、ちょっと出てくる」
智はそう口にして、スマホをするりと手に取ってベランダに出た。
スマホを耳と肩に挟んで手慣れた様子で煙草に火を灯す。そのまま煙草を咥えて、左手でスマホを持って長く長く煙を吐いていた。息を吐き出したときの、遠くを見る目が色っぽくて。手に持った煙草から細く煙を燻らせているその横顔に、相変わらず胸が高鳴ってしまう。
仕事の電話だろうか。でも、仕事の電話だったら、いつもは愛用の手帳を持ってベランダに出るはずなのに。スマホだけを手に持ってベランダに出たその姿に少しだけ違和感を抱いたけれど。
(既定路線、の商談……とか、なの、かな……)
ベランダに続く窓から見える、時折智が楽しそうに笑う横顔を見つめながら。意識が深いところまで、すうっと落ちていった。
途切れ途切れの意識の中、誰かが着替えさせてくれたり、汗ばんだ身体を拭いてくれたり、何度も氷枕を替えてくれたりするのがわかった。
熱くて熱くて堪らなく喉が渇いていて。自分でもよくわからない、表現しようのない苦しい感覚に小さく声を上げていると、誰かが口に冷たいものを流し込んでくれた。
ゆっくりと飲み下すと、妙に安心するような香りがそばにあるような気がした。でも、身体が鉛のように重たくて、閉じた瞼を開けることが出来なかった。
そのまま―――真っ黒で、どろどろとした深い眠りの中に落ちていった。
ゆっくりと、頬を撫でられて。ふっと意識が浮上する。でも、まだ身体が重たくて、目を開けることは出来なかった。頬を撫でる指先からは、愛おしむような、慈しむような、そんな感情が伝わってくる。
なんだかひどく嬉しかった。独りじゃない、とわかったから。独りで苦しんでいたら、きっと、もっと辛かっただろう。そう思うと、真っ黒でどろどろとした眠りではなく、今度は心地よい、ふわふわした眠りに落ちていった。
喉が渇くタイミングで、時折、口の中に冷たいものを繰り返し流し込まれる。冷たくて、熱い身体を内側から冷やしてくれるような、そんな感覚が心地よくて。
その感覚を、起きているのか眠っているのかわからない、曖昧な意識の中でぼうっと感じていると、今度は苦味を帯びた小さな何かを流し込まれた。
(な、んだ、ろ……)
何が何だかわからない。後頭部を押さえられて、唇を割られている。でも、恐怖感や危機感は感じない。それとは正反対の、安心するような感覚。
だから、流し込まれた何かを吐き出すなんてせず、ゆっくりと飲み下す。
「ごめん……ごめんな…」
ぼんやりと、声がする。悲痛な声で、繰り返し囁かれる言葉。
(だ、いじよ……ぶ……)
声を返そうとするのに、声が出なくて。次第に全身に力が入らなくなって―――浮上した意識を、飲み込まれてしまった。
ぱちり、と目を開くと、うっすらと太陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいる様子を視界の端で捉えた。
「………あ、れ…?」
声が少し掠れている。額に貼り付けられた何かが乾いて突っ張る感覚に、右手を動かして額に触れようと……する、のだけれど。
「……あ…」
私の右手は、誰かが握っていて動かせない。つぅ、と、視線を右側のカーテンから右下に向ける。
「………」
私の手を握ったままの、智。ベッドに上半身のみを預けて突っ伏した状態だ。規則的な寝息が耳に届く。
ゆっくりと、身体を起こす。また眩暈が起こるかもしれないなとぼんやり考えて、ハッと我に返った。
(そ、だ……私…)
田邉部長と水野課長に促されて、早退して。そのあとひどく熱が出て、苦しくてお手洗いに行ったら戻してしまって、洗面台に行って口をゆすいだ……ところまでは、記憶にある。
智が手を握ってくれている。ということは、智が帰宅して洗面台で倒れてしまった私を見つけて看病してくれていたのだろうと察する。
ベッドサイドの時計に視線を向けると、早朝5時。日付は7月8日に切り替わってしまっている。気がつけば一晩が経ってしまっていた。なんだかタイムワープしたように思えて唖然とする。
(……ってことは、半日近く……寝込んでた、の…?)
もう一度ベッドに突っ伏したままの智に視線を向けると、よく見ると智は昨日の朝着ていった半袖のワイシャツと、私が智の誕生日にプレゼントした黒みをおびた深く艶やかな臙脂色のネクタイを身に着けたまま。帰宅してから着替えもせず、きっと夕食も取らずに、寝ずの看病をしてくれていたのだろう。
「……ごめん、ね…」
そっと、空いた左手で突っ伏したままの智の髪に触れると、智が小さく身動ぎをした。ふるり、と、瞼が震えて、焦点が合わないダークブラウンの瞳が私を見つめている。
「おはよう、智。ごめん、心配かけたね……」
私の声に、徐々に焦点が合ってくるダークブラウンの瞳。そうして、幾度かの瞬きをして、ガバリと智が飛び起きた。
「身体っ、大丈夫か!?」
焦ったような、それでいて寝起きの掠れたような声が響く。智が私の手を離して、私の両肩を強く掴んだ。
「え……あ、う、うん……」
思わぬ勢いで問いかけられた事にたじろぎながらこくこくと首を縦に振る。私の返答に、智がほっとしたように切れ長の瞳を和らげて、長く長く息を吐いた。
「まだ身体怠いか?熱っぽくないか?……水、飲む?それとも何か食べるか?」
身体を揺らされながら矢継ぎ早に繰り出される質問。その声に少しだけ困惑しつつ、「喉が渇いた」とだけ伝えると、ベッドサイドに置いていたグラスに清涼飲料水のボトルの中身を注いで、そっと差し出してくれる。それを受け取って、一気飲みするように傾けて飲み干した。
智が飲み干したグラスを私の手から持ち去りベッドサイドに置いて、そっとベッドに腰掛けた。ギシ、と、スプリングが軋む音が響いて消えていく。
「……肝が冷えた。俺が帰ってきたら洗面台で倒れてたんだ」
智は震える声で言葉を紡ぎながら、ゆっくりと。その大きな手が私の頬に触れる。それは真っ黒などろどろとした眠りの中でも感じていたあたたかい感触と、全く同じで。智がずっと、一晩中、自分のことを放り出して私を看病してくれていたのだ、と、改めて感じる。
「心配かけて、ごめん……」
しゅん、と縮こまりながら、頬に添えられた智の手をそっと握った。触れた指先に感じる智の手は少しだけ冷えているように感じたし、表情も疲労感が濃いように思えた。そりゃそうだろう、だってさっきまでベッドに突っ伏した状態だったのだから。
「んーん。俺が移したんだし。今日はまだベッドから出るなよ?」
智はそう口にして、曇った表情のまま私を見つめている。慣れない管理職業務もこなしてクタクタになって帰ってきて、その上で寝ずの看病をさせてしまったことにひどく罪悪感が込み上げてきた。
「ううん。智、先週は本当に辛そうだったし。ほら、風邪って移すと治るって言うじゃない?治らなかったら、後任の挨拶周りなんて行けなかったでしょ?……だから、私に移って智が早く治って良かったんだよ」
心配をかけたことは心から申し訳ないと思っているけれど、智は優しいから、私がダウンしてしまったことを自分の責任だ、と、その責任の刃の切っ先を自分に向けているのだ。それは私の本意ではないから、気にしないで、というように柔らかい笑みをこぼした。
私の言葉に、智は考え込むように眉を寄せて私をじっと見つめている。
「…ん……そう、だな………」
智はそれだけを口にして、そっと私の両肩から手を外した。そうして、私の頭を、ぽんぽん、と。優しくたたいていく。
「でも、知香が苦しそうにしてる姿を見ているだけでも、辛かった。『俺』はひとりで生きているわけじゃなくて、周りの人間あっての『俺』なんだと改めて気が付かされた。『俺』は『俺』だけの身体じゃねぇんだ、って……そう、思った」
智は私の頭に置いた手をゆっくりと動かして。私の髪をくしゃりと撫でた。ふうわりと、やわらかくて優しい笑みが目の前にあって。
「今、お粥作るから。もう少し寝てな」
そうして、ふたたび。ぽんぽん、と。優しくたたかれて、智はそっとベッドから立ち上がった。そのままリビングに向かう後ろ姿を、じっと眺める。
きっと、昨日も目を回すほど忙しかっただろうに。帰ってきて高熱を出している私の姿にどれだけ驚かせただろう。その上、自分のことを全て放り出して私の看病に時間を使ってくれた。
(……早く、治さなきゃ…)
智がこんなに私のために時間を使ってくれている。それに報いるために出来ることはただひとつ。一刻も早く風邪を治さなければ。そう心に決めて、智がキッチンで料理している姿を横目に、掛け布団を頭までずり上げる。
掛け布団の暖かさと、カーテンから差し込む陽の光の暖かさと、智が乾燥しないようにと大鍋に沸かしてくれているお湯の熱気に、眠りの世界に誘われていく。
「知香。お粥。食えるか?」
いつの間にか、うとうとしていた。智が、横になっている私の肩を優しく揺すっている。
ふわり、と香る……炊き立てのご飯と、ほうじ茶の上品な香り。朱色の汁椀を乗せたお盆がベッドサイドに置かれると、私のお腹がぐぅっと大きく鳴った。
「うっ……」
恥ずかしさで顔を赤くすると、智はぷっと笑って、整えられた眉を下げた。
「食欲が出てきたって事は、治ってきてる証拠だ。今まで全く腹減ったっつう欲求がなかったみたいだったし?」
「あ……」
言われてみれば、さっきまで空腹感はまるで感じていなかった。呆けたような私の表情に、智がゆっくりと私の上半身を起こしてくれる。
「茶粥にした。茶粥は普通の粥よりさらっと仕上がって食欲無くても食えるから。でも、普通の粥でも良かったかもしれねぇな……」
くすくす、と。智が苦笑したように笑いながら、ベッドに腰掛けた。その言葉から、作ってくれたのはほうじ茶で炊いたお粥なのだと察する。
「う、うん……ありがと」
お腹の虫が鳴ったことの恥ずかしさもあるけれど、そんな細かいことまで気を遣ってお粥を準備してくれたということに、なんとなく胸の奥がこそばゆくなる。
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智はベッドサイドに置いたお盆に手を伸ばし、汁椀と木匙を手に取った。そうして一匙掬い、ふうふうと息を吹きかけて、そっと私の口元に持ってきた。
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恥ずかしさのあまり、耳まで真っ赤にして抵抗の言葉を口にする。この赤さの原因は熱ではないことは明らかだ。
「いーから、ほら」
その真剣な表情と声色に根負けし渋々口を開けると、食べやすいように口の中にゆっくりと入れてくれた。口の中に広がるほうじ茶の香ばしい香りが食欲を唆る。程よく炊かれた白米がホロホロと口の中で溶けていくようだった。
「………おいしい」
「ん、よかった」
私の一言に、智は満足げに微笑んで、ふたたび汁椀からお粥を掬っていく。
その後もずっと、智が食べさせてくれた。ふたりだけの空間だとわかっているけれど、それでもとても恥ずかしかった。お粥を完食しても吐き気は襲ってこない。随分と回復したことを実感する。
「はい、薬」
私が智がベッドサイドに置いていた袋から、朝飲む用の薬を取り出してくれる。それを素直に受け取って、水が入ったグラスを手に取って飲み干した。
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「すまん、ちょっと出てくる」
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仕事の電話だろうか。でも、仕事の電話だったら、いつもは愛用の手帳を持ってベランダに出るはずなのに。スマホだけを手に持ってベランダに出たその姿に少しだけ違和感を抱いたけれど。
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