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挿話
Don't need anything else. 〜 side 達樹
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豪華絢爛なホテルの正面玄関の脇で延々と鳴り続けている、パトカーと救急車のけたたましいサイレンの音。耳を劈くようなその音に、次第に雨の日に感じるような……頭部をぎゅうっと真綿で締め付けられるような痛みが誘発されていく。
(何が……)
光が沈まない街。大きな繁華街の近くに立地する、役員懇談会が行われているホテル。商談を終えてこの場に辿り着いた俺は、眼前に広がる非現実的な光景にビジネスバッグを斜めがけしたまま、呆然とその場に立ち竦んでいた。言葉なんて、ひとつも出てこなかった。
夜が深くなっていく中、数多の車両の上でくるくると回る回転灯が、禍々しいほどの赤い色を放っている。ホテルの正面玄関に停車しているそれらの手前には『Keep Out』と記載された黄色と黒のバリケードテープが張り巡らされ、そこを境界にして野次馬の人だかりが生まれていた。
目の前のホテルの中で。テレビで見るような大きな事件が……起きている。その事実に行き着いてぐにゃりと世界が歪んだ。じわじわと強くなる頭痛。その感覚に思わず眉根を寄せて額に右手を当てた。
(……誰かに…連絡取らねぇと…)
空いた手で背広のポケットを探ってスマホを探し出した。まずは……現状を把握しなければ。上司には社外に商談に出て途中参加すると報告をしていたし、この状況で俺の居場所を気にしているかもしれない。
ホテルの中でパトカーや救急隊が駆けつけるような何かが起こっていると言っても、その舞台が極東商社の役員懇談会であるとは限らないのだ。このホテルでは今夜、下の階で三井商社の納涼会も開かれる、という事は取引相手である浅田から聞いていた。その他にもいくつかの催しが開かれていたはず。
身近な人間が被害に巻き込まれていないことを願いながらポケットをまさぐる。突っ込んだ指先がスマホ特有の硬い感覚に触れた、その瞬間。
にわかに正面玄関が蠢いた。ガラガラとストレッチャーが運ばれていく音がする。顔を上げて野次馬の人だかりの合間から僅かに背伸びをする。水色と紺色の作業服に、ヘルメットを被った救急隊の人たちの……早口の会話。それらの会話は全く聞こえてこない。そうして。
ガラガラと勢いよく転がされていくストレッチャーの上に横たわった、とても見覚えのある明るい髪色が。俺の視界の端に……一瞬だけ、よぎった。
「…ッ……!!」
ひゅっと喉が鳴った。ざぁっと血液が下がっていく。口の中に唾液が溢れた。柄にもなく震えている手。あの髪色が視界に映っただけで、この出来事の舞台が―――極東商社の役員懇談会である、と。裏付けられてしまった。
(……な、んで…)
身体の奥から震えが込み上げてきている。カタカタと震える腕を動かして、指先に当たったスマホをポケットから引き抜いた。脳裏に浮かぶのは……俺が選んだ赤いドレスを身に纏い、自宅で試着していたときの、……真梨さんのはにかんだような表情。
(……お願いだ…)
ふらふらする身体を必死に支えながら野次馬の人だかりから抜け出した。ひどく震える指先でスマホを操作して、先ほどまで連絡を入れなければと考えていた自分の上司ではなく真っ先に真梨さんの連絡先を探し出す。
スマホのディスプレイが連絡帳画面から電話画面に切り替わる。それを確認して、喘ぐように呼吸をしながら左耳にスマホを当てた。
接続音が呼び出し音に変わる。その音に小さく安堵した。
(出てください……お願いだから……)
俺は無意識のうちに、いつも待ち合わせをする交差点を目指していた。もしかすると、彼女がそこにいるかもしれない、と……そんな莫迦げたことを考えながら、見えない何かに縋るように。
「真梨、さ…」
いつものように、薄暗く人気の少ない交差点。そこには当たり前だが、誰もいなかった。
気がつけば……いつも彼女が凭れ掛かって俺を待ってくれている電柱の前まで、歩みを進めていた。手が震える。足が震える。無機質な呼び出し音だけが、延々と響く。スマホを持っていない右の手のひらを、ゆっくり開いた。
失いたくない。偽りの関係に終止符を打って、心が通じ合って。やっと手にした、俺の人生の光。大切なひと。愛している、ひと。護りたい、ひと。だから―――失いたく、ない。
(……真梨さん…)
無情にも思える呼び出し音だけが響いていく。込み上げてくる激情を表すように、開いた右手を握りその拳を振り上げる。ガンッと強い音がした。じわり、と、掻き立てられるような感情が、胸の奥に滲む。視界が滲んでいく。
生まれた涙が眦から零れ落ちていく瞬間、ププッとキャッチの音が入った。
こんな時に、誰……だろうか。その言葉が、分離した思考回路の端で浮かんだ。緩慢な動作でスマホを耳から外し、スマホの画面を確認する。そこには、俺の上司の名前が表示されていた。
「あ……」
さっきまで。この人に……連絡を入れなければ、と。そう思っていた。
今、この電話を取れば……あの場で起こった出来事の顛末が聞き出せるかもしれない。真梨さんの安否が確認できるかもしれない。もう真梨さんとの関係が社内の人間に露呈したって構わない、彼女が生きてさえいてくれれば。
そんな思いで、勢いよくディスプレイに表示された応答ボタンをタップした。
「な、にが起こっているんですか……!?」
俺の引き攣ったような声に、上司も焦ったように言葉を返していく。
『今、ホテルの近くか? 私たちも全容は把握出来ていないんだ。怪我人は一人だけ、通関部を狙った事件、という話しだ。今、通関部のメンバーが集められて警察に事情を聞かれている』
「……ひとり…だけ……」
耳に届いた単語を呆然と繰り返す。真っさらな思考回路の中で、怪我人は一人だけ、という単語がぐるぐると脳内を駆け回っていく。その言葉の意味を噛み砕いて、真梨さんは無事だと理解した。そうして、電話に出てくれない理由も。
全身から力が抜ける。思わずへなへなとその場に蹲った。気に食わない性格、そして絶対的に相容れない人間ではあるが、救急車に乗せられた片桐の安否、それから通関部を狙った事件ということの詳細も気になるところ。けれども、彼女が無事であるという確信を得られた安堵感から、はぁっと熱い吐息が己の口から零れ落ちた。ふたたび眦に涙が浮かんでいく。
『騒ぎを聞きつけたマスコミもこの辺りに集まり始めているだろう。お前は素知らぬ振りでこのまま帰宅するんだ。万が一マスコミに何かを聞かれても何も知らないと貫き通せ。これは上層部の意向でもあるから』
「……わ、かり…ました……」
上ずったような声色で飛ばされた指示に、その場にしゃがみ込んだまま掠れたような声で返答をする。確かに……上場企業である極東商社を舞台とした、警察や救急隊が出動するような大きな事件、マスコミが嗅ぎつけないわけがない。上層部から社員に向けて箝口令が敷かれるのも納得だ。
そんなことを考えながらもいくつか上司と会話を交わして通話を切り、手元のスマホを握り締めて額に当てた。
「よ、かった……」
考えていたよりも震えた声が響いた。全身も、今は違う意味で小刻みに震えている。
彼女は―――生きている。
さっきは……それだけで、十分だ、と。確かにそう思ったのに。
(会いたい……)
彼女が無事だと知ってしまえば、彼女を抱き締めたくて堪らなくなった。この腕の中で、幻影でない真梨さんを感じたい。そんな感情がじわじわと込み上げてくる。
今夜の役員懇談会が終わった後は、お互いに同期と二次会に行くかもしれないと話していた。だから待ち合わせはせずに、お互いに二次会が終わったら各々別の手段で俺の自宅に帰ることにしていた。……けれど。
(……事情聴取…なら、きっと……遅くなる……よな…)
今は……彼女に、会いたい。そう考えて、握り締めたままだったスマホのディスプレイの電話画面をメッセージアプリに切り替え、この場所で待っているということを書き込んだ。
「……」
どれくらいの時間が過ぎただろう。ふい、と頭上に視線を向けると、高層ビルの隙間からは深い群青色に染まった夜空が見え隠れしていた。夜も……かなり更けてきている。
腕を動かして、身体の横に落としたままの手に握り締めているスマホを、胸の前に持ってきた。電源ボタンを押して明るくしたディスプレイに表示された時刻は、あの時刻から2時間ほど過ぎているということを俺に教えてくれている。
はぁっとため息をついて、ガシガシと頭を掻いた。真梨さんから返信さえあれば、もう少し……この胸の奥に生まれた、騒ついた感情が落ち着くだろうか。
そんなことをぼうっと考えながら、スマホのロックを解除してメッセージアプリを開くと。あの時に送っていたメッセージに―――既読が付いていた。
「っ!」
弾かれたように顔が上がった。この交差点からホテルまではそう遠くない。一気に鼓動が早くなる。周囲を見回し……視界に捉えた赤い色を認識して、自分を落ち着けるように深く息を吸い込んだ。手のひらから力が抜けて、滑り落ちていったスマホがアスファルトに落ちる乾いた音がした。
「真、梨…さんっ……」
今にも泣きそうな声が自分から上がったことが、情けなかった。そんな俺を真っ直ぐに見つめている、いつもは勝気な瞳が……ひどく湿っている。
目の周りが泣き腫らしたように真っ赤だ。彼女の瞳を彩るブラックのアイライナーも、よれて滲んでしまっている。
「……っ」
言葉なんて、要らなかった。アスファルトを思いっきり蹴った。僅かばかり秋の冷たさを孕んだ風が、頬に当たる。
足が縺れる。全速力で走る。喉に痰が絡んでひゅうひゅうと音を立てている。けれど、それらはひとつも気にならなかった。
走りながら、彼女に向かって真っ直ぐに手を伸ばす。目の前の彼女も、俺に向かって華奢な手を伸ばしていた。その手を握り締め、彼女の身体を勢いよく引き寄せる。そうして。
ぎゅう、と。愛しているひとの存在を確かめるように。大切なひとが、生きていることを確かめるように。
乱れたスーツの中に、真梨さんの身体を納めた。
半年前。この交差点で、偽りの関係に終止符を打った時。あの時にも感じた、真梨さん自身の……甘い香りが鼻腔をくすぐっていく。その香りだけで、腕の中の彼女の姿が幻などではない、と、そう信じられるような気がした。
背の低い真梨さんは俺の胸に顔を埋めたまま、身体を震わせていた。
「あの人が……刺されて…先輩と、邨上さんが……一緒に病院に、」
「そんなの、どうでもいいです」
震えた声で紡がれていく真梨さんの言葉を遮るように、勢いよく言葉を被せた。今の俺にとっては、そんな情報、どうでもよかった。
彼女さえそばにいてくれれば。俺は、それだけでいいのだから。
「……良かった…」
深いため息を吐き出しながら、手のひらを彼女の髪に差し込んだ。上司との会話で、彼女が無事、ということはわかってはいることだった。理解もしているつもりだった。
けれど。実際に真梨さんが無事だということをこの目で確かめることが出来ると、喩えようのない感情が……温石のような心地よい何かが、胸の中にじわりと広がっていく。
しばらくの間。お互いの存在を確かめ合うように、抱き締め合っていた。その間、ずっと。真梨さんは俺の胸の中で肩を震わせていた。嗚咽を噛み殺しているように見える彼女の感情が落ち着くように、華奢な背中を何度も何度も撫でた。
「……お手洗いに行ってる時に…『逃げろ』、って大声が聞こえて…」
涙が落ち着いた真梨さんがぽつぽつと掠れたような声で言葉を紡いでいく。それらの言葉を、俺はただただゆっくりと聞いていた。
伝えられた状況を噛み砕いていけば、彼女はその場には立ち合っていないようだった。けれども、ひどく……ひどく緊迫した状況だった、という事だけは、痛いほど伝わってきた。
「……そんな時に…独りにして、すみませんでした」
豊かな真梨さんの髪に顔を埋めて、ぎゅう、と、ふたたび彼女の身体を抱き締めた。先ほど電話をした男性である上司も、あの状況にひどく取り乱していたのだ。頼れる一瀬さんや後輩が近くにおらず、どれだけ怖かっただろうか。仕事の都合、そして不測の事態だったとはいえ、彼女を独りきりにし、孤独に強い恐怖と向き合わせてしまった後悔だけが胸をじくじくと苛んでいく。
「ううん……」
俺の胸に縋り付いたままの彼女が、ふるふると頭を振った。その動作に合わせて、後頭部で纏められた彼女の髪がゆっくりと揺らめいていく。
「……こんな時に、すみません。……真梨さん。向こうの家、引き払いません?」
「………………ぇ?」
少しばかり間抜けな声が胸元から響いた。意味がわからない、というような声とともに、彼女が顔を上げた。
ずっと……考えていた事だった。隔週の休日には互いの家に泊まりに行っているが、どちらかが引き払ってどちらかに身を寄せることが出来れば、と。
孤独に強い恐怖と向き合っていた彼女を、今は一瞬でもひとりにしたくないという想いと―――彼女を、独り占めしたい、という。そんな、少しばかりの……身勝手な、欲。
「ずっと考えていたんです。いい機会だと思うので」
「……」
いつもは勝気な瞳が、思いっきり動揺したように揺れ動いている。きっと、こんな百面相のような表情は、慕っている一瀬さんにも見せない。彼女のこんな表情は、俺だけが見れる特別な表情だ。
こんな出来事があったからこそ。この腕の中の真梨さんが、ひどく大切だ、と。
彼女がそばにいてくれる、それ自体が幸せなのだ、と。改めて、そう思うのだ。
「……今日は、色々ありましたし。ゆっくり考えてくださっていいので」
呆けたように俺を見上げている真梨さんに向けている目を細め、ふっと小さく笑みをこぼしながら。腕の中の大切な人の……愛おしい人の額に―――小さく、キスを落とした。
(何が……)
光が沈まない街。大きな繁華街の近くに立地する、役員懇談会が行われているホテル。商談を終えてこの場に辿り着いた俺は、眼前に広がる非現実的な光景にビジネスバッグを斜めがけしたまま、呆然とその場に立ち竦んでいた。言葉なんて、ひとつも出てこなかった。
夜が深くなっていく中、数多の車両の上でくるくると回る回転灯が、禍々しいほどの赤い色を放っている。ホテルの正面玄関に停車しているそれらの手前には『Keep Out』と記載された黄色と黒のバリケードテープが張り巡らされ、そこを境界にして野次馬の人だかりが生まれていた。
目の前のホテルの中で。テレビで見るような大きな事件が……起きている。その事実に行き着いてぐにゃりと世界が歪んだ。じわじわと強くなる頭痛。その感覚に思わず眉根を寄せて額に右手を当てた。
(……誰かに…連絡取らねぇと…)
空いた手で背広のポケットを探ってスマホを探し出した。まずは……現状を把握しなければ。上司には社外に商談に出て途中参加すると報告をしていたし、この状況で俺の居場所を気にしているかもしれない。
ホテルの中でパトカーや救急隊が駆けつけるような何かが起こっていると言っても、その舞台が極東商社の役員懇談会であるとは限らないのだ。このホテルでは今夜、下の階で三井商社の納涼会も開かれる、という事は取引相手である浅田から聞いていた。その他にもいくつかの催しが開かれていたはず。
身近な人間が被害に巻き込まれていないことを願いながらポケットをまさぐる。突っ込んだ指先がスマホ特有の硬い感覚に触れた、その瞬間。
にわかに正面玄関が蠢いた。ガラガラとストレッチャーが運ばれていく音がする。顔を上げて野次馬の人だかりの合間から僅かに背伸びをする。水色と紺色の作業服に、ヘルメットを被った救急隊の人たちの……早口の会話。それらの会話は全く聞こえてこない。そうして。
ガラガラと勢いよく転がされていくストレッチャーの上に横たわった、とても見覚えのある明るい髪色が。俺の視界の端に……一瞬だけ、よぎった。
「…ッ……!!」
ひゅっと喉が鳴った。ざぁっと血液が下がっていく。口の中に唾液が溢れた。柄にもなく震えている手。あの髪色が視界に映っただけで、この出来事の舞台が―――極東商社の役員懇談会である、と。裏付けられてしまった。
(……な、んで…)
身体の奥から震えが込み上げてきている。カタカタと震える腕を動かして、指先に当たったスマホをポケットから引き抜いた。脳裏に浮かぶのは……俺が選んだ赤いドレスを身に纏い、自宅で試着していたときの、……真梨さんのはにかんだような表情。
(……お願いだ…)
ふらふらする身体を必死に支えながら野次馬の人だかりから抜け出した。ひどく震える指先でスマホを操作して、先ほどまで連絡を入れなければと考えていた自分の上司ではなく真っ先に真梨さんの連絡先を探し出す。
スマホのディスプレイが連絡帳画面から電話画面に切り替わる。それを確認して、喘ぐように呼吸をしながら左耳にスマホを当てた。
接続音が呼び出し音に変わる。その音に小さく安堵した。
(出てください……お願いだから……)
俺は無意識のうちに、いつも待ち合わせをする交差点を目指していた。もしかすると、彼女がそこにいるかもしれない、と……そんな莫迦げたことを考えながら、見えない何かに縋るように。
「真梨、さ…」
いつものように、薄暗く人気の少ない交差点。そこには当たり前だが、誰もいなかった。
気がつけば……いつも彼女が凭れ掛かって俺を待ってくれている電柱の前まで、歩みを進めていた。手が震える。足が震える。無機質な呼び出し音だけが、延々と響く。スマホを持っていない右の手のひらを、ゆっくり開いた。
失いたくない。偽りの関係に終止符を打って、心が通じ合って。やっと手にした、俺の人生の光。大切なひと。愛している、ひと。護りたい、ひと。だから―――失いたく、ない。
(……真梨さん…)
無情にも思える呼び出し音だけが響いていく。込み上げてくる激情を表すように、開いた右手を握りその拳を振り上げる。ガンッと強い音がした。じわり、と、掻き立てられるような感情が、胸の奥に滲む。視界が滲んでいく。
生まれた涙が眦から零れ落ちていく瞬間、ププッとキャッチの音が入った。
こんな時に、誰……だろうか。その言葉が、分離した思考回路の端で浮かんだ。緩慢な動作でスマホを耳から外し、スマホの画面を確認する。そこには、俺の上司の名前が表示されていた。
「あ……」
さっきまで。この人に……連絡を入れなければ、と。そう思っていた。
今、この電話を取れば……あの場で起こった出来事の顛末が聞き出せるかもしれない。真梨さんの安否が確認できるかもしれない。もう真梨さんとの関係が社内の人間に露呈したって構わない、彼女が生きてさえいてくれれば。
そんな思いで、勢いよくディスプレイに表示された応答ボタンをタップした。
「な、にが起こっているんですか……!?」
俺の引き攣ったような声に、上司も焦ったように言葉を返していく。
『今、ホテルの近くか? 私たちも全容は把握出来ていないんだ。怪我人は一人だけ、通関部を狙った事件、という話しだ。今、通関部のメンバーが集められて警察に事情を聞かれている』
「……ひとり…だけ……」
耳に届いた単語を呆然と繰り返す。真っさらな思考回路の中で、怪我人は一人だけ、という単語がぐるぐると脳内を駆け回っていく。その言葉の意味を噛み砕いて、真梨さんは無事だと理解した。そうして、電話に出てくれない理由も。
全身から力が抜ける。思わずへなへなとその場に蹲った。気に食わない性格、そして絶対的に相容れない人間ではあるが、救急車に乗せられた片桐の安否、それから通関部を狙った事件ということの詳細も気になるところ。けれども、彼女が無事であるという確信を得られた安堵感から、はぁっと熱い吐息が己の口から零れ落ちた。ふたたび眦に涙が浮かんでいく。
『騒ぎを聞きつけたマスコミもこの辺りに集まり始めているだろう。お前は素知らぬ振りでこのまま帰宅するんだ。万が一マスコミに何かを聞かれても何も知らないと貫き通せ。これは上層部の意向でもあるから』
「……わ、かり…ました……」
上ずったような声色で飛ばされた指示に、その場にしゃがみ込んだまま掠れたような声で返答をする。確かに……上場企業である極東商社を舞台とした、警察や救急隊が出動するような大きな事件、マスコミが嗅ぎつけないわけがない。上層部から社員に向けて箝口令が敷かれるのも納得だ。
そんなことを考えながらもいくつか上司と会話を交わして通話を切り、手元のスマホを握り締めて額に当てた。
「よ、かった……」
考えていたよりも震えた声が響いた。全身も、今は違う意味で小刻みに震えている。
彼女は―――生きている。
さっきは……それだけで、十分だ、と。確かにそう思ったのに。
(会いたい……)
彼女が無事だと知ってしまえば、彼女を抱き締めたくて堪らなくなった。この腕の中で、幻影でない真梨さんを感じたい。そんな感情がじわじわと込み上げてくる。
今夜の役員懇談会が終わった後は、お互いに同期と二次会に行くかもしれないと話していた。だから待ち合わせはせずに、お互いに二次会が終わったら各々別の手段で俺の自宅に帰ることにしていた。……けれど。
(……事情聴取…なら、きっと……遅くなる……よな…)
今は……彼女に、会いたい。そう考えて、握り締めたままだったスマホのディスプレイの電話画面をメッセージアプリに切り替え、この場所で待っているということを書き込んだ。
「……」
どれくらいの時間が過ぎただろう。ふい、と頭上に視線を向けると、高層ビルの隙間からは深い群青色に染まった夜空が見え隠れしていた。夜も……かなり更けてきている。
腕を動かして、身体の横に落としたままの手に握り締めているスマホを、胸の前に持ってきた。電源ボタンを押して明るくしたディスプレイに表示された時刻は、あの時刻から2時間ほど過ぎているということを俺に教えてくれている。
はぁっとため息をついて、ガシガシと頭を掻いた。真梨さんから返信さえあれば、もう少し……この胸の奥に生まれた、騒ついた感情が落ち着くだろうか。
そんなことをぼうっと考えながら、スマホのロックを解除してメッセージアプリを開くと。あの時に送っていたメッセージに―――既読が付いていた。
「っ!」
弾かれたように顔が上がった。この交差点からホテルまではそう遠くない。一気に鼓動が早くなる。周囲を見回し……視界に捉えた赤い色を認識して、自分を落ち着けるように深く息を吸い込んだ。手のひらから力が抜けて、滑り落ちていったスマホがアスファルトに落ちる乾いた音がした。
「真、梨…さんっ……」
今にも泣きそうな声が自分から上がったことが、情けなかった。そんな俺を真っ直ぐに見つめている、いつもは勝気な瞳が……ひどく湿っている。
目の周りが泣き腫らしたように真っ赤だ。彼女の瞳を彩るブラックのアイライナーも、よれて滲んでしまっている。
「……っ」
言葉なんて、要らなかった。アスファルトを思いっきり蹴った。僅かばかり秋の冷たさを孕んだ風が、頬に当たる。
足が縺れる。全速力で走る。喉に痰が絡んでひゅうひゅうと音を立てている。けれど、それらはひとつも気にならなかった。
走りながら、彼女に向かって真っ直ぐに手を伸ばす。目の前の彼女も、俺に向かって華奢な手を伸ばしていた。その手を握り締め、彼女の身体を勢いよく引き寄せる。そうして。
ぎゅう、と。愛しているひとの存在を確かめるように。大切なひとが、生きていることを確かめるように。
乱れたスーツの中に、真梨さんの身体を納めた。
半年前。この交差点で、偽りの関係に終止符を打った時。あの時にも感じた、真梨さん自身の……甘い香りが鼻腔をくすぐっていく。その香りだけで、腕の中の彼女の姿が幻などではない、と、そう信じられるような気がした。
背の低い真梨さんは俺の胸に顔を埋めたまま、身体を震わせていた。
「あの人が……刺されて…先輩と、邨上さんが……一緒に病院に、」
「そんなの、どうでもいいです」
震えた声で紡がれていく真梨さんの言葉を遮るように、勢いよく言葉を被せた。今の俺にとっては、そんな情報、どうでもよかった。
彼女さえそばにいてくれれば。俺は、それだけでいいのだから。
「……良かった…」
深いため息を吐き出しながら、手のひらを彼女の髪に差し込んだ。上司との会話で、彼女が無事、ということはわかってはいることだった。理解もしているつもりだった。
けれど。実際に真梨さんが無事だということをこの目で確かめることが出来ると、喩えようのない感情が……温石のような心地よい何かが、胸の中にじわりと広がっていく。
しばらくの間。お互いの存在を確かめ合うように、抱き締め合っていた。その間、ずっと。真梨さんは俺の胸の中で肩を震わせていた。嗚咽を噛み殺しているように見える彼女の感情が落ち着くように、華奢な背中を何度も何度も撫でた。
「……お手洗いに行ってる時に…『逃げろ』、って大声が聞こえて…」
涙が落ち着いた真梨さんがぽつぽつと掠れたような声で言葉を紡いでいく。それらの言葉を、俺はただただゆっくりと聞いていた。
伝えられた状況を噛み砕いていけば、彼女はその場には立ち合っていないようだった。けれども、ひどく……ひどく緊迫した状況だった、という事だけは、痛いほど伝わってきた。
「……そんな時に…独りにして、すみませんでした」
豊かな真梨さんの髪に顔を埋めて、ぎゅう、と、ふたたび彼女の身体を抱き締めた。先ほど電話をした男性である上司も、あの状況にひどく取り乱していたのだ。頼れる一瀬さんや後輩が近くにおらず、どれだけ怖かっただろうか。仕事の都合、そして不測の事態だったとはいえ、彼女を独りきりにし、孤独に強い恐怖と向き合わせてしまった後悔だけが胸をじくじくと苛んでいく。
「ううん……」
俺の胸に縋り付いたままの彼女が、ふるふると頭を振った。その動作に合わせて、後頭部で纏められた彼女の髪がゆっくりと揺らめいていく。
「……こんな時に、すみません。……真梨さん。向こうの家、引き払いません?」
「………………ぇ?」
少しばかり間抜けな声が胸元から響いた。意味がわからない、というような声とともに、彼女が顔を上げた。
ずっと……考えていた事だった。隔週の休日には互いの家に泊まりに行っているが、どちらかが引き払ってどちらかに身を寄せることが出来れば、と。
孤独に強い恐怖と向き合っていた彼女を、今は一瞬でもひとりにしたくないという想いと―――彼女を、独り占めしたい、という。そんな、少しばかりの……身勝手な、欲。
「ずっと考えていたんです。いい機会だと思うので」
「……」
いつもは勝気な瞳が、思いっきり動揺したように揺れ動いている。きっと、こんな百面相のような表情は、慕っている一瀬さんにも見せない。彼女のこんな表情は、俺だけが見れる特別な表情だ。
こんな出来事があったからこそ。この腕の中の真梨さんが、ひどく大切だ、と。
彼女がそばにいてくれる、それ自体が幸せなのだ、と。改めて、そう思うのだ。
「……今日は、色々ありましたし。ゆっくり考えてくださっていいので」
呆けたように俺を見上げている真梨さんに向けている目を細め、ふっと小さく笑みをこぼしながら。腕の中の大切な人の……愛おしい人の額に―――小さく、キスを落とした。
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