俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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外伝/I'll be with you in the spring.

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 マスターと従兄叔父に証人欄に署名をしてもらった翌日。カナさんを出し抜く形で一人行動をして目的を果たしたのち、カナさんと合流して都内に位置する在日イギリス大使館に足を運んだ。これは国際結婚に必要な『婚姻要件具備証明書』を発行してもらうため。書類名は難解なそれだけれども、俺がイギリスの法に則って結婚できる状況にあることを宣誓し、職員の面前で署名をするだけ、という……なんとも呆気ない手続きだった。

 受け取った証明書。これから届け出る婚姻届には、これを日本語訳した書面を添えなければならないらしい。俺もカナさんもマルチリンガルだから、訳したものを書面に起こす作業は一晩で難なく終えた。けれども、俺たちの翻訳に不備があれば婚姻届は受け付けて貰えない。その後にもビザ関係でやることは山積み。タンザニアに戻る日まであまり猶予もないし、一旦、松本さん弁護士に翻訳に不備がないかどうかを確認してもらおうという結論に至り、アポを取って事務所に顔を出すと。

「すみません、お待たせして」

 慌てたような松本さんが、バタバタと音を立てて俺たちが案内された応接スペースに駆け込んできた。綺麗に纏められたグレイヘアが乱れていることから、相当な速度で走ってきたのだと察せられる。彼女はカナさんよりもいくつか歳上の女性弁護士だけれども、馬が合ったこともあり、公私共にずっとお世話になっているらしい。

「そんなに急がなくて良かったのに」

 ソファに腰かけて文字通り寛いでいたカナさんが居住まいを正しながら、アーモンド色の髪と同じ色のメイクが施された眉を困ったように歪めていく。タンザニアではほとんど素っぴんで過ごしているけれど、こちらでは久しぶりに綺麗にメイクをしているカナさんは、やっぱりはっと息を飲むほどの美貌の持ち主、だと思う。ぱっと見で40代だとは誰も思わないだろうし、実年齢を口にしても信じてもらえないだろう。惚れた欲目もあるのかもしれないけれども、俺はそう思ってしまう。

 そんなことをぼうっと考えていると、目の前の松本さんが手に持ったハンカチで皺が入った目尻からこめかみにかけて滲んだ汗を拭い、少しばかり逡巡したような表情を見せた。そうして、ローテーブルを挟んだカナさんの正面のソファにゆっくりと腰かけていく。

「これをお話しするのは……本当はルール違反かもしれないのですが。まぁ、である片桐さんもおられますし」

 松本さんは手に持ったハンカチをするりとテーブルに置いた。彼女の真意が掴めず、思わず俺とカナさんは顔を見合わせる。

「さっきまで邨上さんがみえられていたんです」
「……は?」

 驚きで素っ頓狂な声が自分の喉から漏れ出ていく。どうしてここで智くんの名前が出てくるのか、さっぱり理解ができない。混乱した俺を置き去りにしたまま、目の前の松本さんは肩を上下させながら呼吸を整えているようだった。

「三井商社として黒川被告を相手取り、不正事件の件で刑事告訴をなさる運びとなりました。それを顧問弁護士としてお引き受けした次第で。思っていたよりも打ち合わせが長引いてしまい、おふたりとのお約束の時間から遅くなりました。申し訳なかったです」

 目の前の彼女は一気に謝罪の言葉を口にしソファに腰掛けたまま、深々と頭を下げた。我に返ったカナさんが上ずったように「気にしないで」と声をかけていく。松本さんはその声に淡々と言葉を続けながら俺たちがテーブルに広げていた書類に手を伸ばし、それに視線を落としていった。

「先日、初公判でしたでしょう? 黒川被告の弁護人が私である可能性を考慮されていた、と。邨上さんも有給を取って傍聴に出向かれたそうですよ。で、その場で弁護人が私ではないことを確認されてのご依頼とのことでした。この件に関してこちらに話をする時期を見計らっていらしたようですね。前社長の三井さんとは長いお付き合いでしたからねぇ」

 書類に一通り目を通した松本さんは、「うん、完璧です」と小さく呟いた。とんとん、と、資料を纏める音が響いていく。


 黒川は、三井商社の創業者である……前社長の、私生児。三井商社の黎明期からそこに所属していたカナさんが松本さんと長い付き合いがある、ということは、必然的に松本さんは前社長とも長い付き合いだったということだ。


(……なるほどねぇ…)

 その結論に行き着いて、智くんの考えをなんとなく読み取ることが出来た。思わずするりと腕を組む。

 彼女が前社長に頼まれて黒川の弁護人を引き受けていた場合、三井商社として刑事告訴する依頼をしたところで頭からその依頼を拒否される可能性があった。それを考慮していた、ということだろう。さらに言えば、知香ちゃんに示談を受けさせなかったのも不正事件のことで刑事告訴するという目論見が絡んでいたのかもしれない。

 告訴や告発は……捜査の端緒を開くこと。つまりはきっかけの一種だ。告訴を受けた捜査機関は犯罪の疑いがあると思われる場合、捜査を開始することが出来る。もっとも、全ての告訴において捜査する義務を負うものではないが、上手くいけば黒川は不正事件による横領で再逮捕される可能性が出てくる。それは黒川の刑期を長くさせることとほぼ同意義ニアイコール

 あの事件において下手に示談を成立させてしまえば、この刑事告訴による再逮捕も難しくなったかもしれないのだ。まぁ、何事も知香ちゃん第一の智くんのことだから、もちろん知香ちゃん自身が示談成立それを望めばそちらを優先していたではあろうけれども。

「……あの子、一瀬さんとの結婚式の準備もして、きっと新婚旅行の準備とかもしているのでしょうに、その上で刑事告訴の手続きも? 近いうちに倒れるんじゃない?」

 すっと足を組み、憂いたような声色でカナさんが小さく呟くと、目の前の松本さんが面を食らったような表情を浮かべて目を丸くさせ、呆れたようにため息をついた。丁寧だった口調があっという間に崩れていく。

「加奈子がそれ言うの?」
「えぇ?」

 松本さんの問いに、俺が聞いたこともないような素っ頓狂な声がカナさんから上がる。ふたりの会話の行間を読み、俺は腑に落ちるものがあって思わず苦笑いを浮かべた。


 カナさんは自分の身体のことにはひどく無頓着で、いつだって無謀なスケジュールを組み立てていく。俺が制止しなければ倒れるのでは、と思うくらいに。それは昔から変わらない彼女の『癖』のようなものなのだ、と、何となくの確信を抱いた。


 ふふふ、と。松本さんが堪えきれない、と言わんばかりに口元を押さえ、俺とカナさんを交互に見遣った。

「これからは片桐さんがストッパーになってくれるでしょうし、私も安心だわ。加奈子は自分のやりたいことに関しては貪欲で、文字通りペガサスなんだもの」

 そうして、するり、と。上下左右の向きが整えられた書類が俺たちの眼前に差し出される。腕を伸ばしてその書類を受け取りながら、苦笑いを浮かべつつ小さくぺこりと頭を下げた。

「ストッパー役、頑張ります」
「ええ。お願いしますね、片桐さん」

 揶揄うような松本さんの笑みを視認したであろうカナさんは、少しだけバツが悪そうな表情を浮かべ、それでいて僅かばかりむすっとしたように小鼻を膨らませている。松本さんの言葉が……図星、ということだろう。

 そんなカナさんの様子を眺めて、俺と松本さんは顔を見合わせくすりと小さく笑いあった。そうして松本さんは小さく肩を竦め、崩した口調を丁寧なそれに戻してにこやかな笑みをカナさんに向ける。

「邨上さんのあの仕事ぶりはきっと上司であった池野さんに似たのでしょうね。あの方がいらっしゃる限り、三井商社は安泰でしょう」

 その言葉を聞き届けたカナさんは、不満げな表情をふっと崩して、次の瞬間には。

「……私も、そう思うわ?」

 にこり、と。満足気に、こてん、と。首を傾げながら、小さく笑みを浮かべた。









 松本さんの事務所を辞して、ゆっくりと近くの市役所に足を運んだ。柄にもなく緊張しつつ婚姻届を窓口に出すと、俺のパスポートや出生証明書、その他諸々の書類を添えたというのに、思いのほかあっさりと受理されて。国際結婚だからカナさんの苗字が自動的に『片桐』に変わるわけではなく、変更する場合は別途手続きをしなければならないのだけれども、そちらの手続きも呆気ないほどさらりと完了した。

「あれだけ書類を集めたのに、なんだかあっさりすぎないかしら。拍子抜けしちゃったわねぇ」

 市役所の出入り口に向かってコツコツとピンヒールの音をさせながら、カナさんが困ったように吐息を零す。その声色につられるように俺も苦笑いを浮かべながら足を動かしていく。

「呆気なくて、なんだか不思議だね……」

 生活拠点であるタンザニアを発ち、イギリスや日本で必要書類を集めて懸命に準備してきた事が、こうも一瞬で終わってしまった。嬉しい日であるはずなのに、寂しいという感情も……あるような、ないような。

 ふたりで横並びになって歩みを進めると、無機質な音がして自動ドアが開いた。目の前に広がるのは……ここ数日で見慣れた高層ビルが並び立つ、いつもの風景だけれど。


 そこには、やわらかな陽射しがまるで俺たちを祝福しているかのように降り注いでいた。頭上を見上げると、晴れやかな青空。深まった春を象徴するぽっかりとした白い雲が、穏やかな風に合わせてゆっくりと流れていっている。


「綺麗ねぇ」

 俺の視線の先を辿ったのか、気が付けば真横のカナさんも空を見上げていた。同じ景色を、同じ場所から、同じ立ち位置で。……同じ『苗字』になった彼女と、この景色を見ている。じわり、と身体の奥から熱くなった。込み上げるようなその感覚に、目元と口元が緩んでいく。

 小さな幸福を噛み締めるように、そっと。小さく囁いた。

「カナさん。ちょ~っと……遠回りして行こう?」
「えぇ?」

 真横の彼女は、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべていた。琥珀色の瞳を丸くさせ、眉を歪めて。困惑したように俺を見上げている。

「ちょっと、これから行くところいっぱいあるのよ?」

 咎めるような、そんな口調。カナさんの苗字が変わったのだから、これからビザ関係の手続きを進めるために松本さんの事務所にとんぼ返りしなければならない。その他にもやることは山積みで。カナさんの主張も最もだけれども、思わず、ふっと笑みが溢れた。


 いつもは俺が彼女ペガサスに振り回されている、のに。今日はなんだか、俺がカナさんを振り回しているような。そんな気がする。


「『たまには、遠回りもいい』って。この前カナさんが言ってたからさ?」

 ちょうどひと月前。俺の誕生日の日に。カナさんは唐突に「遠回りしよう」と言い出して、あの丘に連れて行ってくれた。深まっていく群青色の景色を、見せてくれた。


 だから―――俺も。遠回りして、カナさんに見せたい景色があるんだ。


 俺の意図を測りかねているような、そんなカナさんの不思議そうな表情に笑いをこらえることなんか出来なくて。

「ちょっとだけ遠回りして……松本さんのところ、行こう?」

 肩を竦めつつ、彼女からいつも向けられるような悪戯っぽい微笑みを意識して顔に浮かべ、ゆっくりとカナさんに手を伸ばす。

「……もう」

 整えられた眉が八の字に下がり、少しだけ不服そうに頬を膨らませて。伸ばされた俺の手を取って、「困ったわね」と笑みを向けてくる彼女は―――困っているようには、見えなかった。
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