あなたに溺れて

春宮ともみ

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 大人になったら、自動的に好きな人が現れて、その人と結ばれて、自然と結婚できて、絶対的に、幸せになれるものだと思っていた。そう根拠もなく信じていた。
 
 人間って、人生って、そういうものだと。思っていたのに。
 
 
 


 ◇ ◇ ◇




 
(……やらかした)
 
 さすがに、この状況は不味いだろう。自分の身体の上に重石のようにのしかかっている掛け布団を捲りながら、上半身を起こした。
 
 夢であって欲しかった。夢ではなかった。肌に直接シーツが当たる感覚で、昨晩の自分の過ちを心から悔いた。
 
 
 お互いに恋人に振られたばかりの間柄だとはいえ。
 
 ……取引先の、直接業務のやり取りをしている女性、と。ホテルで、朝を迎えてしまった。
 
 
 ふい、と。左隣で規則的な寝息を立てている、アーモンド色の髪を呆然と眺めた。
 
 
(……帰ってしまってもいいだろうか)
 
 
 もう三十路に差し掛かる男として、それは最低な判断だと思う。一瞬、自分の中の悪魔の囁きに心が傾いた。ふるりと頭を振って、その最低な思考を振り払う。
 
 互いに脱ぎ捨てた洋服が、ベッド脇に散らばっている。
 
 夏子にプロポーズをするために、格好つけるかのように……昨晩は新品のスーツを選んだ。そのスーツが、窓辺に置かれた椅子に投げつけたように引っかかって、くしゃりと皺が寄っている。それすらも、どうでもよかった。
 
 ひとまず、彼女がまだ眠っているのなら、身体を清めよう。彼女より先にシャワーを使うのは気が引けるけれども、状況的に仕方ないだろう。
 
 そう決意して、スプリングが効いたベッドからギシリと音を立てて抜け出す。
 
 パタリ、と、音を立てて浴室のドアを押し開いた。
 
 
 
 
 普段よりも熱い温度に設定し、コックを捻る。シャワーを浴びながら、なぜ、あの時……自分は彼女の手を引いて、このホテルへとしけこんだのか、悶々と考えていた。
 
 あの瞬間。俺のスーツの裾を、縋るように掴んだ琥珀色の瞳は。哀しみと、絶望と、怒りで……歪んでいた。
 
「……」
 
 俺は、彼女を。それ以上。
 
(……一人で泣かせたくは、なかったから……か……?)
 
 そう思った自分を、俺は何故か信じられなかった。
 
「……」
 
 自分自身が会社でも『鉄面皮』『氷の貴公子』など不名誉なあだ名を付けられていることは知っている。あまりにも感情が表に出ない、その上に他者に対して冷徹な応対を重ねるからだ。
 
 わけがわからない。夏子に振られたばかり……しかもプロポーズを断られた形とはいえ。こんなに簡単に、自分が他人の感情に引っ張られる人間だったとは。
 
 自分の気持ちを冷静に見ようと、ゆっくりと頭を回転させていく。
 
 いくら考えても。―――答えは、出なかった。
 
 ほう、と、ため息を小さく着いて、コックを閉めた。パタパタと、髪から水滴が落ちていく。
 
(どうすっか。大人同士、これっきりと……割り切るか)
 
 備え付けのタオルでガシガシと髪を拭きあげながら、洗面台の前でじっと自分の顔を睨み付けた。
 
 
 明らかに。これは、偽りの関係。
 傷の……舐め合いの、関係でしか。ないのだから。
 
 
 いい大人同士。これきりと割り切るか。それとも―――互いに傷ついたもの同士、寄り添うか。
 
(……割り切る、方向の方がいいだろう。どう考えても)
 
 こんな偽りの関係は、一度切りだったと割り切る方向の方がいいだろう。取引先同士でもある。互いに業務上の顔しか知らない。好意があるわけでもない。
 
 そう結論付け、ガチャリ、と、浴室から足を踏み出した瞬間。
 
 
 
 
 ほわ、と、キャプテンブラック特有の、チェリーの甘く苦い香りが、漂っていた。
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