奇跡を呼ぶ旋律

桜水城

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 新しい服に身を包んだ私は、ミラに案内されるまま、水場とは反対側の突き当たりを目指して歩いた。そこに部屋はなく、代わりに階段があった。そのままその階段を上る。四階まで上がると、階段はそこで終わっていた。そして、四階は一つ部屋があるだけで、下の階よりも狭かった。屋根裏と言っても良いかもしれない。
「あたしと母さんの部屋さ。もっとも、あたしは女将の仕事があるからここで寝ることはほとんどないけどね」
 扉を開きながらミラは説明してくれた。部屋の中には寝台が二つあったが、一つは誰も寝ていなかった。もう一方には……。
「そこに寝ているのが母さんだよ。じゃあ、ディン。早速歌ってくれるかい?」
 歳を大分重ねたような白髪交じりの女性が安らかに眠っていた。ぱっと見る限り、肌の血色も良く、どこにも悪いところはないように思えた。しかし、ミラの話が嘘だとは思えない。
「ああ、勿論だ」
 私は天馬琴を抱え、歌う準備をした。ポロロンと爪弾くと、あれだけ雨を受けたにも関わらず、天馬琴はいつもの美しい音色を聞かせてくれた。私はひとつ咳払いをしてから天馬琴を弾き、歌い始めた。
 
  百合の乙女ビシアデステは歌いたもうた
  水のような音色で
  風のような旋律で
  薔薇の王子メルトレシアは探したもうた
  水のような音色を
  風のような旋律を
 
 ビシアデステとメルトレシアの恋物語が好きだというミラの母親のために、私は叙事詩の前半をすっ飛ばして、その部分から歌い始めた。ミラも文句は言わない。むしろ、私の歌に聞き入っているように見えた。
 風邪をひいた自分が上手く歌えるか私は少し心配していたが、いらぬ心配だったようだ。昨日の山羊の乳と今日の昼食と夕食は私の身体に十分な栄養を与えていた。
 美しい恋物語は、セインテの王子メルトレシアが森に狩りに出かけた際に百合の乙女ビシアデステと出会うという場面から始まる。美しい声で歌うビシアデステに王子メルトレシアは一目で恋に落ちる。だが、ビシアデステはただの村の娘であり、王子とは身分がかけ離れている。また、ビシアデステには幼い頃からの許婚がいて、王子は涙ながらに彼女を諦めざるを得ない。そういう悲恋の物語なのだが、昔から女性に人気のある歌で、ミラの母親が大好きだというのも頷けた。
 しかし、それは恋物語の最終章を歌い始めたときに突然起こった。ビーンと何か嫌な音を指先で感じた私は、弾いていた天馬琴に目を落とした。そして、私は絶望した。何ということだ。一番重要な弦がぷっつりと切れてしまっている。
「どうしたんだい?」
 天馬琴を床に置き、歌うのをやめた私にミラが声をかけた。
「あ……ああ……弦が……弦が切れてしまったんだ……」
 私は片方の手のひらで両目を包んで嘆いた。どうしよう。この天馬琴は特別な琴だ。そんじょそこらに売っている弦では代用が利かない。いや、代わりにならないこともないのだが、音色の品質は著しく落ちる。
「どこかで買って直すわけにはいかないのかい? あとちょっとで最後じゃないか。もっと聞かせておくれよ」
「こんな真夜中にやっている楽器屋なんかないだろう? それにこの天馬琴は特別で……」
 私がこの天馬琴について話をしようとしたそのときだった。
「母さん!?」
 ミラの尋常でないほどに驚いた声を聞き、私は寝台の上のその人を見た。起き上がった様子はなかったが、その両方の目がぱっちりと開いていた。年月を経てきた瞳は、ミラと同じ琥珀色をしている。確かに私はその人にミラの面影を見た。
「誰が目を覚まさないって? こんなにも簡単に目覚めたじゃないか。歌を聞いてうるさくて目を覚ましたんだろ?」
 私の口からは自分でも思いもよらぬほど意地悪な言葉が出てきていた。そのため、ミラにきつい目で睨まれたが、私は気付かなかったふりをした。
「母さん……。ああ……やっぱり吟遊詩人の歌を聞きたかったんだね……。ごめんね……今日まで連れて来られなくて……」
 ミラの瞳から涙がこぼれ落ちる。しかし、目を覚ましたミラの母親は慰めの言葉をかけなかった。いや、かけられなかったのだ。
「母さん? 話せないの?」
 ミラの涙が止まってしまった。ミラの母親は言葉を発することができない様子だった。口をぱくぱくさせはするのだが、声が出ない。
「そんな……。やっと母さんの目覚めた姿が見られたのに……。なんてひどい……」
 私はミラの肩にそっと手を置いた。すると、ミラは迷わず私の胸に飛び込んできた。
「母さんは本当は『呪い』にかけられて病気になってしまったんだ!」
 泣き叫ぶミラに、私は何と声をかけてやれば良いのかわからない。ただ、胸にすがりつくミラの肩を優しく抱いてやることしか私にはできなかった。
 ミラの母親は私とミラの顔を代わる代わる見た。その視線の鋭さから、私は警戒されていることを十分に感じた。当然だろう。初めて見る顔なのだから。
「許せない、本当に許せないよ! 口に出すのも嫌だよ、あんな男があたしの父親だなんて!」
 ミラは嘆き続けるが、私はわけがわからない。いったいこの親子に何があったというのだろう。私は抱いていた肩を離し、ミラと距離をおいた。そして、少し屈んでミラの顔を覗き込む。彼女は交互に両目から流れる涙を指で拭っていた。私の視線にミラは自嘲気味に笑う。
「ごめんね。突然こんな風に泣かれたって困っちゃうよね」
「いや、それは良いんだが……『呪い』って何だ?」
 ミラの涙は静かに引いていく。ひとしきり泣いて気が済んだのだろう。もしかしたら、母親の前で気丈に振舞っているだけなのかもしれないが。
「一年前にあいつ……あたしの父親が母さんにかけていったんだよ。あたしの見ていないところでね」
 その説明だけでは私には不十分だった。謎が多過ぎるのだ。ひょっとするとミラが喋るたびに疑問は増えていくのではないだろうか。ミラの父親とはいったい何者だろう。どうしてミラは父親を嫌っているような様子なのだろう。そして、かけられたという呪いとはいったいどんな呪いだというのだろう。
「呪いを解く方法はないのか?」
 脳裏に浮かぶ様々な疑問の中から、私が実際に口にしたのはそんな問いだった。ミラは私を見ると、一瞬驚いたような表情を見せ、そして口の端だけでそれを笑った。
「あるんならとっくにしてるさ」
 それはそうだ。しかし、私の演奏と歌で目が覚めたというのなら……。もしかしたら私がどうにかできるのではないだろうか。そんなひょっこり湧いた浅はかな考えを私は打ち消すことができなかった。
「でもね、ひとつだけ手がかりがあるんだ。世界のどこかにあるっていう幻の楽器を操る吟遊詩人の歌なら、どんな呪いだって解けるんだって話を、前にこの宿に来たお客さんに聞いたんだ」
 ミラの瞳が輝いたように見えたのは気のせいだろうか。今の彼女の瞳には暗い影が落ちている。
「まあ、単なる噂話かもしれないけどね。そんな不確かなものに賭けることなんてできないよ」
 私にはあながちその話が嘘だとも思えなかった。旅の途中で何度か私と同じ吟遊詩人と話をしたことがあるが、歌や楽器の演奏で呪いや魔法が解けたという話は色んな地方で自慢げにされた。真偽のほどは定かではないが、嘘であるなら何人もの吟遊詩人が語るはずがないと、私は信じている。
「やってみなければわからないだろう? その幻の楽器とやらはどんな楽器なんだ?」
 ミラはさっきと同じ驚きの表情で私を見た。そして、私の足元にある天馬琴に目を落とす。そしてまた私を見る。
「まさか……いや、そんな……。そんな都合良く幻が現実になるわけないじゃないか……」
 ミラは頭をぶんぶん振っている。そのまぶたはかたく閉じられていて、現実から目を背けているように私には思えた。
「この楽器は特別だよ。大商人シュブラースカが作らせたと聞いている。これは世界に二つとない天馬琴だ」
「そんな貴重品をあんたみたいな貧しそうな吟遊詩人が持っているわけ……」
「こう見えても育ちは良いんでね。うちにあったものを持ってきたんだ。うちが壊される間際、必死で探してやっとこれだけ持って来られたんだ」
「そうかい。でもね、信じられるわけがないよ。さあ、もうあたしをからかうのはよしとくれよ」
 ミラの母親は心配げに私とミラのやり取りを眺めている。何かを口にしようとするのだが、その口から言葉は出て来ない。
「さて。じゃああたしはまだ残っている仕事を片付けに行くよ。てことで、あんたはもう休んで良いよ」
 ありがたい指示だが、私は素直に受け取ることができなかった。
「もし私の天馬琴が奇跡を起こすことができるのなら……」
 私が諦め切れずに言いかけた言葉を、さえぎったのは泣きそうな声だった。
「ディン……。お願い……」
 まるで女のような声だった。いや、確かにミラは女なのだが、それまでの気丈な姿がどこにも見出せない、哀れで非力な女の弱さを見せていた。
「一人にして頂戴」
 そんな品の良い言葉遣いができる女とは思わなかった。
 私は彼女の顔を見ないようにして、その部屋を静かに出た。
 背中にか細い声で「ごめんね、母さん……」と言う声が聞こえた。
 ミラの母親の表情は確認できなかったが、おそらくミラを責めるようなことはしていないだろう。そう思いたかった。

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