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泣かせたい俺と泣き虫な君【3】

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「あーもう! 絶対に嫌がらせだろ……」

 俺は朝イチで大学まで来ていた。本来、この時間の授業は取っていないのだが、どうしても提出し忘れていた課題を出さねばならず、渋々といった具合で早起きした。
 そもそも、課題の提出を忘れていた自分が悪いのだが、それにしたって、伸ばしてくれた提出期限が朝までは酷すぎる。教授は一日中いるはずなので、完全に嫌がらせだ。
 変わり者の教授の授業なんて取らなければ良かったと、自分を棚に上げながら愚痴る。
 すぐに帰ってバイトまで家で寝よう。そう心に決めると、女の子から来ている大量のLINEを無視して足早に校門へ向かう。
 と、人影がこちらに近付いて来るのが見えた。遠目からだと女の子だと言うことしか分からないが、もしかしたら近くで顔を見ても誰だか思い出せないかもしれない。そうなると、ちょっと厄介だなと、気付かないフリをして背中を向けて歩みを早くした。が、名前を呼ばれてしまった。

「伊場くん!」

 俺のセフレはみんな俺のことを名前で呼ぶ。連絡先を交換しただけの女の子たちもなぜかすぐ勝手に名前で呼んでくる。
 苗字で呼ばれることが少ない俺は、思わず立ち止まってしまった。

「ああ、良かった伊場くんがいて……!」

 何故か全力疾走で俺の近くまでやって来た女の子は息を切らしながら、俺の顔を見た。その顔には見覚えがあった。

「なんで、俺の名前……?」
「あ、ごめんね、勝手に呼んで! 伊場くん、有名人だからみんな名前くらいは知ってるよ」

 それはどう言った意味の『有名人』なのか、突っ込んで聞くのは躊躇われた。

「凛乃介でいいから」

 なんとなく、苗字で呼ばれるのに違和感があった俺は、そう言った。

「あ、えーと、分かった! そんなことより!」

 初めて俺自身のことを、そんなことと一蹴された。され慣れていない女の子からの対応にショックを受ける。

「直生くんが、具合悪そうで……!」

 は?

 感じていたショックは吹き飛び、言葉の意味を探った。

「え、どういうこと?」

 怖がらせないようにあくまで優しく、けれど内心はパニックになっていた。

「ベンチに座ってわたしと話してたんだけど、急に具合悪そうにし始めて……! とりあえず医務室に運んで先生に診てもらった方が良いかなって思って……!」

 俺は最後まで聞かずにベンチの方へ走り出した。ベンチに座っている直生は確かに青白い顔で苦しそうな表情をしていた。
 小学生の頃、直生は時々、貧血を起こしては保健室へ運ばれていた。大きくなってからは頻度は極端に減ったが、その時の症状に似ている気がする。
 俺はすぐに抱き起こすと、医務室へと直生を運んだ。後から追いかけるようにあの女の子が走って来た。
 ベッドに寝かせて先生に事情を話す。詳しい経緯は女の子が説明してくれた。
 とりあえず、様子を見ることになり、成り行きで、ベッドの横に椅子を並べて女の子と隣り合って座ることになった。

「そう言えば、名前……」

 俺はこの女の子の顔は知っていた。でも名前は知らないことに気付き、世間話程度に話を振った。

「あ、そう言えば名乗ってなかったよね。崎坂凛っていいます。直生くんとはこの前の飲み会で知り合ったんだよ」

 それは知ってる。
 顔を見た瞬間、楽しそうに喋っていた二人を思い出したから。

「そうなんだ。凛って俺の名前にちょっと似てるね」

 直生に近付いて欲しくない。
 そう思うと、口から滑るように、口説き文句が出てきた。些細な共通点を見つけて話を広げれば、大概の女の子は食い付いてくる。経験上、これで自分に好意を持たない女の子はいなかった。

「あ、確かにそうだね……!」

 凛は肯定だけして、すぐに黙った。この後、いつもならすぐに続くはずの俺に関しての質問はいつまで経ってもされず、凛は心配そうに直生を眺めていた。
 胸の中のもやもやが大きくなる。

「凛、あのさ、」

 最終手段で名前を呼ぶ。俺に名前を呼ばれて無視できた女はいないなんて、自負しているのは気持ち悪いかもしれないが、事実だからしょうがない。

「あの、」

 凛は申し訳なさそうに、しかし、はっきりと意志を持って俺を見た。

「直生くん、うるさいと起きちゃうかもしれないから……」

 正論過ぎる正論に、言葉を失った。
 今一番重要なのは直生の容体で、俺の気持ちなんかどうでもいい。
 自分の情けなさに穴があったら入りたい気持ちになる。ずっと誰よりも大切に思っていたはずなのに、知り合ったばかりの女の子に指摘されるまで自分の過ちに気付けなかった。
 俺は居た堪れなくなって席を立った。

「ちょっと、席外すね」
「あ、うん」

 小声でそれだけ言うと、逃げるように医務室から出た。



 直生が座っていたベンチに腰掛け、無意味に空を見上げる。
 外は少し風が吹いていて、色々なことを考えて熱を持った頭を冷やすのに丁度良かった。
 あのまま医務室に居続けるのが苦痛だった。
 当たり前のことを指摘されてしまった恥ずかしさよりも、直生のことを考えていなかった自分に愕然とした。
 最近の自分はどうもおかしい。色々なことが上手くいかない。

「あ~~~~~~~~~~~~」

 全てが嫌になる。
 全部壊して、何もかもを失ってしまいたいような衝動に駆られる。

 ………………いくらなんでも感傷的過ぎるな。

 よくない考えを振り払うように頭を振る。
 直生と俺の関係はさておき、今は直生の具合を心配することに集中しようと立ち上がる。
 気持ちを切り替えて、小走りで医務室の前まで来ると、直生の小さな声が聞こえた。

「り、ん──」

 俺の名前を呼んだのかと思ったが、どうやら違うようだ。
 慌てて建物の影に隠れ様子を窺うと、ボロボロと涙を流している直生の手を凛が両手で握っていた。
 俺がいつもやっているように、優しい動作で手を握り返すと、直生は安心したのか僅かに微笑んだ。
 そして、涙を流すのを止めると、そのまま寝息を立て始めた。

 心に穴が開いたのが分かった。
 信じたくない現実に、周りの音が聞こえなくなる。

 俺じゃなくてもよかった。

 その事実だけが強く心にこびりつく。
 俺じゃないとダメなんだと、強く思い込んでいただけなんだと、安心したような直生の寝顔がそう言っている。
 足元がすうっと冷え出す。激しい動きをしたわけではないのに動悸がすごい。
 俺は放心しながら、二人に近づいて行った。

「あ、凛乃介くん」
「あの、俺、用思い出したから、もう帰るわ」
「え、あ、うん。分かった……」

 辛うじて声は震えなかった。
 若干、凛は不思議そうな顔をしていたが、呼び止められることはなかった。
 一歩足を踏み出すたび、ガンガンと頭が痛くなる。その痛みに紛れてあの光景も消えてくれればいいのにと願うが、そう思えば思うほど強く色付く。
 唯一の直生との繋がりが断たれてしまった。
 もう俺は直生にとって必要のない人間なのだと、自覚しては唇をキツく噛んだ。
 どうやって家まで帰ったかは覚えていない。
 傷心という、他人から見たら笑ってしまうような理由で、俺はその日、初めてバイトを休んだ。
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