16 / 50
第7章 すれ違う心
すれ違う心Ⅰ
しおりを挟む
ただの夢ではない。現実に起きたことだ。消えかけていた記憶まで掘り起こすなんて、私は何をしたいのだろう。
瞼を開けると、カーテンの閉じられた薄暗がりの部屋が視界に映った。頭がぼんやりする。まだ眠っていたい。
「二度寝しよー……」
包まっていた布団を抱きかかえ、夢の世界へと逃避した。
次に目を覚ましたのは昼食の直前だった。瞼を開ける前に、オニオンやコンソメの良い香りが鼻を刺激する。
「ご飯……?」
呟きながら上半身を起こした。
「やっと起きられましたね」
テーブルの傍ではセリスが苦笑いをしている。グラタンにオニオンスープ、海藻サラダにサーロインステーキ――今日も美味しいものが食べられそうだ。食事のことを考えていたせいか、腹が雷のような音を立てた。慣れとは恐ろしいもので、セリスを前にしても恥ずかしいとは思わない。
「美味しそう」
「『美味しそう』ではなく、美味しいのです」
確約された味に、思わず笑ってしまった。
着替えもせずに食卓へ座り、充実した食事を一望する。見ているだけで涎が溢れてきそうだ。
食事に取り掛かろうとした時、不意に昨日出会ったあの冷めた顔が思い返された。
「セリス、黒髪で緑の目の令嬢って知ってる?」
「黒髪で緑の目……髪はウェーブがかかっていらっしゃいましたか?」
「うん」
この口振りから、誰か見当がついたのだろう。頷くと、セリスは浮かない表情で口を開いた。
「恐らく、イザベラ嬢でしょう。ヴァレンツ公爵令嬢……国王陛下に王太子殿下とは釣り合わないと突き放された方です」
「やっぱり……」
冷たく突き刺さった瞳は、私への拒絶の表れだろう。あまり関わりたくないな、と頭の中で離れない視線を振り払う。
「何かトラブルでも?」
「ううん。睨まれただけ」
「そうでしたか。お気になさらない方が良いですよ」
「うん、分かってる」
鼻で溜め息を吐き、自分の髪を撫でてみる。
いけない、食事の最中だったのだ。料理が冷めてしまう。ナイフとフォークを手に取り、食事に取りかかる。海藻サラダはコリコリとした触感が楽しいし、サーロインステーキはナイフを入れる度に肉汁が溢れ出す。グラタンにはぎっしりとカニの身が詰まっており、濃厚なホワイトソースと合わさって充足感がある。
食材たちに感謝をしながら、故郷にいる家族に思いを馳せた。
* * *
午前中は睡眠に費やしてしまった分、午後は思い切り読書をしよう。重たい図書室の扉を開き、少しだけカビの混ざった匂いに浸る。今日はどの本を読もうか。小説コーナーへ赴き、重厚な背表紙をなぞる。
これにしよう。手に取ったのは『悪魔の囁き』という本だ。神を信じていなければ、天使や悪魔の存在も否定することになる。しかし、これは空想の話だ。気にする必要もないだろう。ゆっくりと地べたに腰を下ろし、膝の上で本を広げた。
『神なんていない』――意外な一行目に、すぐさま心を奪われた。筆者は私と同じ感覚の持ち主なのかもしれない。そして、リュシアンとも。
もしかすると、リュシアンもこの本を手に取ったかもしれない。そう考えるだけで胸は高鳴り、手先は震える。
本への没入感を高めるため、文字に指を這わせる。そんな時だった。
「エレナ」
思いもしない声に顔を上げる。そこには不満げに私を見下ろすオーレリアの姿があった。
「オーレリア殿下、ご機嫌麗しゅう」
慌てて立ち上がり、軽く膝を折る。本が鈍い音を立てて床に落下した。
「挨拶は良いのです。それより」
オーレリアは一歩詰め寄り、腰に両手を当てる。
「どうやってお兄様をそそのかしたのです?」
「あの、それはどういう――」
「どうもこうもありません!」
そそのかしたつもりはないし、リュシアンに想われているとも思えない。軽く首を振ってみせたけれど、オーレリアの表情は歪んだままだ。
「お兄様の妃には、公爵令嬢……イザベラになってもらわないと納得出来ません! 何故、貴女が……どうして!」
こう爆発されてしまっては、宥めることも出来ない。どうして良いのか分からずにドレスを両手で握り締める。
「オーレリア殿下、お言葉ですが、ここは図書室ですから……」
そう言うだけで精一杯だった。
オーレリアの顔から赤みが引いていく。周囲を見回すと、ぐっと口を結んだ。
「図書室にいるなんて、卑怯ですね」
卑怯の意味が分からない。私はただ、趣味の時間を過ごしていただけなのに。苦笑いをしてみせると、オーレリアは豪快に鼻で息を吐く。
「私は認めませんから」
それだけ吐き捨てると踵を返し、ヒールの音を響かせながら去っていった。
自分の言いたいことだけを述べ、怒りを露わにするなんて。私としては訳が分からないし、理不尽だ。
これからリュシアンとの仲を深めようとしていたのに、前途多難なようだ。まあ、選考会の説明でオーレリアに威圧されていたから、分かりきっていたことなのだけれど。
溜め息を吐き、えんじの本を拾い上げる。
「ごめんね」
まるで泣いている子供にするように表紙をそっと撫で、優しく抱き締めた。
瞼を開けると、カーテンの閉じられた薄暗がりの部屋が視界に映った。頭がぼんやりする。まだ眠っていたい。
「二度寝しよー……」
包まっていた布団を抱きかかえ、夢の世界へと逃避した。
次に目を覚ましたのは昼食の直前だった。瞼を開ける前に、オニオンやコンソメの良い香りが鼻を刺激する。
「ご飯……?」
呟きながら上半身を起こした。
「やっと起きられましたね」
テーブルの傍ではセリスが苦笑いをしている。グラタンにオニオンスープ、海藻サラダにサーロインステーキ――今日も美味しいものが食べられそうだ。食事のことを考えていたせいか、腹が雷のような音を立てた。慣れとは恐ろしいもので、セリスを前にしても恥ずかしいとは思わない。
「美味しそう」
「『美味しそう』ではなく、美味しいのです」
確約された味に、思わず笑ってしまった。
着替えもせずに食卓へ座り、充実した食事を一望する。見ているだけで涎が溢れてきそうだ。
食事に取り掛かろうとした時、不意に昨日出会ったあの冷めた顔が思い返された。
「セリス、黒髪で緑の目の令嬢って知ってる?」
「黒髪で緑の目……髪はウェーブがかかっていらっしゃいましたか?」
「うん」
この口振りから、誰か見当がついたのだろう。頷くと、セリスは浮かない表情で口を開いた。
「恐らく、イザベラ嬢でしょう。ヴァレンツ公爵令嬢……国王陛下に王太子殿下とは釣り合わないと突き放された方です」
「やっぱり……」
冷たく突き刺さった瞳は、私への拒絶の表れだろう。あまり関わりたくないな、と頭の中で離れない視線を振り払う。
「何かトラブルでも?」
「ううん。睨まれただけ」
「そうでしたか。お気になさらない方が良いですよ」
「うん、分かってる」
鼻で溜め息を吐き、自分の髪を撫でてみる。
いけない、食事の最中だったのだ。料理が冷めてしまう。ナイフとフォークを手に取り、食事に取りかかる。海藻サラダはコリコリとした触感が楽しいし、サーロインステーキはナイフを入れる度に肉汁が溢れ出す。グラタンにはぎっしりとカニの身が詰まっており、濃厚なホワイトソースと合わさって充足感がある。
食材たちに感謝をしながら、故郷にいる家族に思いを馳せた。
* * *
午前中は睡眠に費やしてしまった分、午後は思い切り読書をしよう。重たい図書室の扉を開き、少しだけカビの混ざった匂いに浸る。今日はどの本を読もうか。小説コーナーへ赴き、重厚な背表紙をなぞる。
これにしよう。手に取ったのは『悪魔の囁き』という本だ。神を信じていなければ、天使や悪魔の存在も否定することになる。しかし、これは空想の話だ。気にする必要もないだろう。ゆっくりと地べたに腰を下ろし、膝の上で本を広げた。
『神なんていない』――意外な一行目に、すぐさま心を奪われた。筆者は私と同じ感覚の持ち主なのかもしれない。そして、リュシアンとも。
もしかすると、リュシアンもこの本を手に取ったかもしれない。そう考えるだけで胸は高鳴り、手先は震える。
本への没入感を高めるため、文字に指を這わせる。そんな時だった。
「エレナ」
思いもしない声に顔を上げる。そこには不満げに私を見下ろすオーレリアの姿があった。
「オーレリア殿下、ご機嫌麗しゅう」
慌てて立ち上がり、軽く膝を折る。本が鈍い音を立てて床に落下した。
「挨拶は良いのです。それより」
オーレリアは一歩詰め寄り、腰に両手を当てる。
「どうやってお兄様をそそのかしたのです?」
「あの、それはどういう――」
「どうもこうもありません!」
そそのかしたつもりはないし、リュシアンに想われているとも思えない。軽く首を振ってみせたけれど、オーレリアの表情は歪んだままだ。
「お兄様の妃には、公爵令嬢……イザベラになってもらわないと納得出来ません! 何故、貴女が……どうして!」
こう爆発されてしまっては、宥めることも出来ない。どうして良いのか分からずにドレスを両手で握り締める。
「オーレリア殿下、お言葉ですが、ここは図書室ですから……」
そう言うだけで精一杯だった。
オーレリアの顔から赤みが引いていく。周囲を見回すと、ぐっと口を結んだ。
「図書室にいるなんて、卑怯ですね」
卑怯の意味が分からない。私はただ、趣味の時間を過ごしていただけなのに。苦笑いをしてみせると、オーレリアは豪快に鼻で息を吐く。
「私は認めませんから」
それだけ吐き捨てると踵を返し、ヒールの音を響かせながら去っていった。
自分の言いたいことだけを述べ、怒りを露わにするなんて。私としては訳が分からないし、理不尽だ。
これからリュシアンとの仲を深めようとしていたのに、前途多難なようだ。まあ、選考会の説明でオーレリアに威圧されていたから、分かりきっていたことなのだけれど。
溜め息を吐き、えんじの本を拾い上げる。
「ごめんね」
まるで泣いている子供にするように表紙をそっと撫で、優しく抱き締めた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
月夜に散る白百合は、君を想う
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。
彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。
しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。
一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。
家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。
しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。
偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる